初夏の陽射しが、ブエナ村を優しく包んでいた。
窓から吹き込む風は若葉の匂いを運び、庭先では小鳥たちが楽しげにさえずっている。木造の家の床には柔らかな日差しが広がり、部屋の中には穏やかな時間が流れていた。
アンナとシルフィが生まれて、およそ七か月。
二人とも寝返りやハイハイはお手の物になり、部屋の中を元気いっぱいに動き回るようになっていた。
そして今日。
アンナには、確信があった。
(……今日ならいける)
毎日欠かさなかった鍛錬。闘気を巡らせ、魔力を制御し、未熟な肉体を少しずつ鍛え上げてきた。
生後七か月。赤子としては、十分すぎるほど鍛えた。
(機は熟した)
小さな拳を、ぎゅっと握る。
俺には目的がある。自由に歩き、この世界を知ること。強くなること。守るべきものを守れるだけの力を得ること。
その第一歩が――立つことだった。
アンナのあまりに尋常ではない真剣な表情に、ロールズとクレアは、自然と手を止める。
「……あなた」
「ああ」
ロールズは娘を見つめたまま頷く。
「今日は何か違う」
クレアも微笑む。
「ええ……いつも以上に目つきが……」
一瞬、言葉を飲み込み、
「真剣ね」
危うく「悪い」と言いそうになった。
その様子を、緑色の髪を揺らしたシルフィも、不思議そうな顔で見つめている。
「たぁ?」
アンナは、深く息を吸った。
(行くぞ)
床へ両手をつき、ゆっくりと腰を浮かせる。闘気が全身を巡る。魔力が筋肉を補助する。足へ力を込める。身体が持ち上がる。
あと少し。あと少しで――
ぽてん。
見事に、尻餅をついた。
「…………」
静かな沈黙が、部屋を包む。
(くそっ……)
(これだけ鍛えても、まだ駄目か……)
悔しさで、唇を噛む。
その姿を見たロールズが、優しく手を叩いた。
「大丈夫だ、アンナ」
クレアもしゃがみ込み、柔らかな笑顔を向ける。
「焦らなくてもいいのよ」
「きゃっ♪」
シルフィまで、意味も分からず手をぱちぱち叩いている。
(慰めはいらねぇ……)
前世で外道と呼ばれた男がいま、家族総出で慰められている。
涙目でみた窓の外。
青空。流れる白い雲。その雲がゆっくりと風に押され、形を変えながら流れていく。
まるで天が、
「継続濃厚」
そう告げているようだった。
さらに、
「アウ〜♪」
(心の叫び、来た!)
アンナの瞳に、再び闘志が宿る。
アンナはゆっくりと息を吸った。
北斗神拳奥義――
転龍呼吸法。
特殊な呼吸法によって、人が本能的に掛けている肉体の制限を外し、本来持つ力を限界まで引き出す秘奥義。本来なら、熟練の拳士だけが扱える危険な技。
それを、生後七か月の赤子が使おうとしていた。
(おおおおおおっ!!)
もちろん赤子なので、
「おー! あー!」
くらいしか声にはならない。
だが、その気迫だけは、紛れもなく本物だった。
闘気が、爆発的に巡る。魔力が、全身を支える。足へ力を込める。
ぐっ――
すっ。
アンナは、立った。
両足で。自分の力だけで。しっかりと床を踏みしめて。
確かに、大地へ立っていた。
「……!」
ロールズが、目を見開く。
「アンナが……!」
クレアは、両手で口を覆った。
「立った……!」
次の瞬間、二人の目には涙が浮かんでいた。
「アンナが立った!」
「すごいわ!」
夫婦は思わず抱き合って喜ぶ。
アンナは、胸を張る。
(当然だ)
(俺を誰だと思ってやがる)
精一杯のドヤ顔で、両手を広げたポーズをキメる。
その姿は、なぜか宇宙の帝王を幻視させた。
転龍呼吸法まで使って挑んだ、人類最速記録級の二足歩行――のつもりだった。
その時だった。
「えへへ♪」
足元から、小さな笑い声が聞こえた。
シルフィが、ハイハイで近寄っていた。
アンナは「何だ?」という顔で見下ろす。
するとシルフィは、当たり前のようにアンナの服を掴んだ。
「たー!」
ぎゅっ。
さらに、身体へ抱きつく。
(お、おい)
アンナが困惑する間にも、シルフィはアンナの身体を支えにして、よいしょ、よいしょと膝を伸ばしていく。
そして――
すくっ。
アンナに掴まったまま、シルフィも立ち上がった。
「……!」
一瞬、部屋の時間が止まる。
「シ、シルフィも立った!?」
ロールズが叫ぶ。
「ええぇっ!?」
クレアは、嬉しそうに涙を浮かべた。
「二人とも、本当にすごい子たち……!」
シルフィは嬉しそうに笑いながら、アンナへ身体を預けている。
「えへへ~♪」
完全に、アンナを支柱扱いだった。
(…………)
(俺は命懸けで立ったんだが……)
転龍呼吸法まで使い、人生初の二足歩行を成し遂げた。その感動の余韻に浸る暇もなく――妹は自分を支えにして、あっさり掴まり立ちを成功させていた。
秘奥義、要らなかったかもしれない。
(……ふぅ)
アンナは、小さく息を吐く。
自分へ寄りかかり、嬉しそうに笑うシルフィを見る。その無邪気な笑顔に、毒気を抜かれた。
(ほらよっ)
そっと身体を動かし、シルフィが倒れないよう、自然に支えてやる。
その様子を見ていたロールズとクレアは顔を見合わせ、優しく微笑んだ。
「仲のいい姉妹だな」
「ええ」
クレアは、静かに頷く。
「これからも、ずっと一緒に育っていくのね」
初夏の陽光が、二人の小さな姉妹を優しく照らす。
その光景は、何気ない日常の一場面だった。
けれどロールズとクレアにとっては、一生忘れることのない、かけがえのない思い出となるのだった。
if、覇権を賭けた戦い
足元から、小さな笑い声が聞こえた。
「えへへ♪」
シルフィが、ハイハイで近寄っていた。
アンナは、シルフィの目を見て――理解した。
その瞳に宿る、決意を。
(……来るか)
アンナにつかまり、立ち上がろうとしているのだろう。
(いいだろう。やってみせろ)
「あう」
シルフィが、小さく頷く。
まるで、対局前の一礼のように。
姉として。さらには、先に立ち上がった者として。
(胸を貸してやる)
アンナは、上から目線で腕を広げた。
――勝負の刻は、来た。
スッ。
シルフィの右手が、静かに伸びる。
その手が掴んだのは――アンナのオムツの、左側だった。
(ほう)
アンナの口元が、僅かに緩む。
(流石は我が妹。獅子の子よ)
(俺でなければ、その一手で全てを持っていかれていたわ)
危なげなく見えて、実は際どい一手である。腹の服ではなく、重心の要となるオムツの端。そこを最初から狙う辺り、只者ではない。
しかし――
いつの間にか、アンナの左手が。シルフィの右手を支えるように、自然と添えられていた。
(さあ、次はどうする?)
アンナは、挑発するように軽く笑う。
対するシルフィの表情に、変化はない。ただ、静かに次の手を組み立てている。
そして――二手目。
シルフィの左手が、伸びた。
掴んだのは――アンナのオムツ、右側。
「――!?」
これには、アンナも完全に読み違えた。
せいぜい腹回りの服だろう。そう油断していたアンナは、焦る。一手、対応が遅れる。腰が、引ける。
(待て、それは……)
これは、シルフィの深謀遠慮による策ではない。単純に、腕がそこまでしか伸びなかっただけである。
だが、結果として――
まさに、別領域からの刃!
リーチ、偶機待ち!!
人は、理は避けられても偶然までは避けられない。それが、勝負の恐ろしさだった。
◇
腰が引け、力の入らないアンナ。立ち上がれず、宙に浮いたままのシルフィ。
このままでは――ワン、サウザンド、ウォーズ。
永遠にも似た拮抗状態。互いに決め手を欠いたまま、時間だけが過ぎていく。
すると、シルフィが自身の身体を揺らし始めた。
(……まさか)
反動を使い、無理やり立ち上がるつもりだ。
さらなる荷重が、アンナのオムツを襲う。
ぎしり。
布の悲鳴が聞こえた気がした。
(このままでは……)
最悪の未来を予想するアンナの脳裏に、義兄であるトキの幻影が、穏やかに語りかけてくる。
――もういいだろう。楽になれ。
(すっこんでろ、アミバ!)
アンナの心のツッコミに、アミバはニヤリと笑うと、なぜか声援を送り始めた。
(まくのうち! まくのうち!)
その声援を受け、シルフィが加速する。
まるで、無限を描くが如く。ぐるり、ぐるり、と身体を揺らし続けるその姿は、リングの中央で足を止めないボクサーそのものだった。
(まくのうち! まくのうち! まくのうち! まくのうち!)
(まくのうち! まくのうち! まくのうち! まくのうち!)
脳内の観客席が、いつの間にか満員になっている。
ギリッ、と歯を食いしばるアンナ。
(舐めるなよ……! このアンナ、姉として一日の長があるわ!)
そう気合いを入れてはみたものの――双子なので、そんなものは、実は存在しない。
だが、そんな些細な事実に構っている余裕は、もはやなかった。
◇
アンナ、起死回生。
本日二度目の――転龍呼吸法。
「……お、あぁーッ!」
冴えない掛け声とともに、その反動が全身を貫く。
闘気と魔力が、逆流するように吹き荒れる。
その反動によって、シルフィの身体がふわりと持ち上がり――ぽすん、と。
アンナの胸に、ちょうど収まった。
「……!」
一瞬の静寂。
すぐに、両親から歓声が上がる。
「シルフィも立った!」
「ああ! 二人とも、なんて子たちなの……!」
感極まったロールズとクレアが、抱き合って喜んでいる。
アンナは、腕の中のシルフィへ目で語りかけた。
(みごとだ、妹よ)
満面の笑顔で、シルフィが答える。
「えへへ~♪」
――そこには。
感涙にむせぶ両親と、無邪気に笑うシルフィ。
そして。
先ほどの死闘――もとい、二度目の転龍呼吸法の反動によって、オムツが盛大に吹き飛び。
尻丸出しのまま、堂々と直立するアンナの姿があった。
「……」
(俺は勝ったのか?)
北斗の修羅、生後七か月にして、史上最も締まらない勝ち名乗りを上げる。