朝のブエナ村は、澄みきった青空の下で、静かに目を覚ましていた。
窓から吹き込む風が、草原を渡ってきた青草の香りを運んでくる。遠くでは、狩りへ向かう村人たちの話し声が聞こえ、庭では小鳥が囀っていた。木々の葉が、さらさらと揺れる音。
家の中には、焼きたてのパンの香ばしい匂いと、温められたミルクの甘い香りが漂っている。
そんな穏やかな朝を迎えたこの日は、ロールズとクレアにとって、特別な日だった。
「今日で一歳か……」
ロールズは、感慨深そうに呟いた。
その視線の先では、アンナとシルフィが並んで床に座り、不思議そうに父親を見上げている。
「ええ」
クレアは、優しく微笑んだ。
「本当に、あっという間だったわ」
生まれた時には、あんなに小さかった二人。
特にアンナは、誕生した瞬間には息をしていないと思われ、誰もが最悪の結末を覚悟した。あの、凍りついたような数秒間を、ロールズもクレアも忘れたことはない。
あの日から、一年。
今では二人とも元気いっぱいに歩き回り、笑い、泣き、毎日を賑やかにしている。
それだけで、十分、幸せだった。
ロールズたちの家は、決して裕福ではない。狩人と村の雑用で暮らす、ごく普通の家庭だ。豪華な料理も、高価な贈り物も用意できない。何より、この世界で節目とされる五歳の誕生日でもない。
それでも今日は、娘たちにとって初めての誕生日だ。
できる限りのお祝いをしてあげたい。
そんな二人の気持ちは、村人たちにも伝わっていた。
「ロールズ、おめでとう!」
「娘さんたち、一歳だろ?」
「これ、お祝いのお裾分けだ」
近所の農家からは、採れたばかりの野菜。狩人仲間からは、酒。子どもたちのためにと、搾りたてのミルクまで届けられた。
「蜂蜜も持っていきな」
「ナッツも刻めば食べられるよ」
そんな心遣いまで、添えられる。
ロールズは、何度も頭を下げた。
「みんな……ありがとう」
裕福ではない。
けれど、この村には、確かな温かさがあった。
◇
夜。
暖炉には火が灯り、家族四人だけの、小さな誕生日会が始まった。
窓の外はもうすっかり暗く、代わりに星々が瞬いている。部屋の中は暖炉の光で橙色に染まり、薪の爆ぜる音が時折、静かなリズムを刻んでいた。
「じゃあ、まずはプレゼントだ」
ロールズが、嬉しそうに木箱を持ってくる。
中に入っていたのは、小さな積み木だった。一つ一つ木を削り、丁寧に磨き上げた手作りの玩具。角はすべて丸められ、赤子が口に入れても怪我をしないよう、細心の注意が払われている。
「仕事の合間に、少しずつな」
ロールズが、照れくさそうに頭を掻いた。
「不格好だが……勘弁してくれ」
クレアも、布袋を差し出した。
「これは、お母さんから」
中には、お揃いの毛糸の帽子が入っていた。栗色の髪によく似合う帽子と、緑色の髪によく似合う帽子。一針一針、娘たちのことを思いながら編んだものだった。
「あうー!」
シルフィは目を輝かせると、すぐに積み木へ手を伸ばした。そしてアンナの袖を引っ張る。
「あい!」
(遊ぼうってか)
アンナも、少し興味があった。角の丸められた木の感触。均一に整えられた表面。不器用ながらも、丁寧な仕事だった。
しかし――
「だめよ」
クレアが、優しく笑う。
「ご飯を食べてからね」
「あぅ……」
しょんぼりするシルフィ。
それを見たロールズが、苦笑した。
「少しくらい、いいじゃないか」
「ほら、せっかく気に入ってくれたんだし……」
だが。
クレアが、じっと見つめる。
「…………」
「…………」
ロールズは、ゆっくりと視線を逸らした。
「……やっぱり、ご飯にしよう」
即座の前言撤回である。
アンナは、心の中で呟いた。
(親父……)
(勝てねぇんだな)
その光景に、アンナの口元が、ほんの少しだけ緩む。
◇
夕食は、いつもよりずっと豪華だった。
温かなミルク粥に、蜂蜜を少し。そこへ刻んだナッツも加えてある。湯気の向こうに、蜂蜜のとろりとした甘い匂いが漂っていた。
一口、食べる。
(……うまい)
蜂蜜の優しい甘さ。ミルクのまろやかさ。ナッツの香ばしい風味。
前世では、考えもしなかった素朴な味だった。けれど、不思議と心が温かくなる。
隣では、
「あむっ♪」
シルフィが、夢中になって食べていた。頬いっぱいに粥をつけながら、一心不乱に口へ運んでいる。時折、匙を落としては「あっ」という顔をし、また拾って口へ運ぶ。
その様子を見て、家族みんなが笑った。
◇
食後。
久しぶりに酒を飲んだロールズは、すっかり上機嫌だった。
「いやぁ!」
杯を掲げる。
「うちの娘は本当に可愛い!」
クレアが、苦笑する。
「また始まったわ」
「健康で!」
「元気で!」
「器量もいい!」
ロールズは、止まらない。
「将来は、村中の男どころか、街の男まで放っとかないぞ!」
勢いよく立ち上がる。
「だがな!」
拳まで、握りしめた。
「そんな馬の骨には、絶対やらん!」
「お父さん」
クレアは呆れたように笑いながら、シルフィの口元についた粥を布で優しく拭いた。
「そんな先の話まで、しなくていいの」
「いやいや!」
酒の勢いは、止まらない。
「アンナなんてな!」
ロールズは、アンナを見る。
「確かに、目つきは鋭い!」
アンナの眉が、ぴくりと動く。
「でもな!」
ロールズは、力強く続けた。
「そういうのが好きな男だって、絶対いる!」
「だから、気を付けるんだぞ!」
「ロールズ」
クレアの声が、少し低くなる。
「もういい加減にしなさい」
「飲み過ぎよ」
「いやぁ、ははは」
ロールズは頭を掻きながら、おどけてみせた。
「でもさ」
にやりと笑う。
「クレアは、笑うとシルフィでな」
シルフィを見る。
「怒ると、アンナなんだよなぁ」
今度は、アンナを見る。
「やっぱり、母娘だな!」
一瞬。
部屋が、静まり返った。
そして――
クレアが、吹き出した。
「もうっ!」
ロールズも、笑う。
シルフィは何がおかしいのか分からないまま、
「えへへ~♪」
と笑っている。
「あなたね……」
クレアは笑いながら、頬を少し赤らめた。
「でも、そう言われるのは……嬉しいものね」
「だろ?」
ロールズは、得意げに胸を張った。
アンナは――
堪えようとした。
だが、無理だった。
我が子の成長に浮かれ、ハメを外す父がおかしかった。母に似てると言われ、嬉しかった。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「……あは」
声にならない笑いが、漏れた。
それは次第に大きくなり、とうとう止まらなくなる。
涙が滲むほど、笑った。
前世では、こんなふうに笑ったことが、あっただろうか。
誰かの些細な失態を笑う。誰かの照れ隠しを笑う。誰かの幸せそうな顔を見て、つられて笑う。
家族と食卓を囲み、くだらない話で笑い合う。
ただ、それだけのこと。
それなのに。
こんなにも、幸せだった。
知らなかった。
こんな温かさが、この世界にあることを。
ロールズが、笑う。
クレアも、笑う。
シルフィも、笑う。
そして、アンナも――笑った。
暖炉の火が静かに揺れる中、小さな家には、家族四人の笑い声が、いつまでも響いていた。
豪華な料理もない。高価な贈り物もない。
けれど、それは確かに、家族四人にとって大切な誕生日だった。
そしてアンナにとっては――
前世を含めても、誰よりも温かく、誰よりも幸せな。
人生で初めて、本当の意味で祝われた誕生日だった。
窓の外では、月がひっそりと家族の団らんを見下ろしている。
その光は、決して眩しくはない。
けれど、どんな宝石よりも、確かにこの家を優しく照らしていた。
◇
夜は、静かだった。
誕生日のお祝いを終えた家には、暖炉の熾火だけが赤く揺れ、窓の外では虫の音が絶え間なく響いている。
ロールズは酒の余韻を残したまま穏やかな寝息を立て、クレアも娘たちの傍らで静かに眠っていた。シルフィは小さな身体を丸め、安心しきった表情で眠っている。
そしてアンナもまた、ゆっくりと意識を夢へ沈めていった。
◇
夢を見た。
誕生日の続きだった。
昼間のような穏やかな陽射し。庭先には大きな机が何台も並び、料理や果物が山のように積まれている。
今日は家族だけではなく、村中がお祝いに来てくれたらしい。
「すげぇな」
思わず、口から言葉が漏れる。
夢だからだろう。今のアンナは、普通に言葉を話せていた。
しかし。
「……いや」
周囲を見回す。
「多すぎるだろ」
人。人。人。
家には当然入り切らず、祝いの席は外へ広がっている。それでも、足りない。庭も、道も、丘も、人で埋め尽くされていた。
「この村に、こんな人数いるわけねぇ」
老人もいた。若者もいた。子どももいた。赤ん坊を抱いた母親。杖をついた老人。恋人同士。家族連れ。
男も女も関係なく、誰もがこちらを見ていた。
(一族総出で来たのか?)
そう思った時だった。
背中を、軽く押される。
振り返ると、ロールズが笑っていた。
「今日は、お前が主役だ」
「ちゃんと挨拶してこい」
「俺か?」
アンナは、首を傾げる。
「シルフィはいいのか?」
「いいから、行ってこい」
背中をぽんと叩かれる。
アンナは、肩を竦めた。
「まあ、いいか」
前へ出る。人々の視線が集まる。
(祝いに来た割には……)
妙だった。
誰も笑っていない。誰も楽しそうではない。酒も料理もある。祝いの席のはずなのに。空気だけが、冷たい。陰気だった。
(……まあ)
(この中には、親父やお袋の知り合いもいるんだ)
(無碍にはできねぇ)
アンナは、近くに立つ男へ声を掛けた。
「あんた、親父の知り合いか?」
男は、少し笑った。
「親父さんじゃない」
「……あんたの、知り合いだ」
「俺?」
アンナは、眉を寄せる。
「悪いが、覚えがねぇ」
「そうか」
男は、寂しそうに笑った。
「顔じゃ、分からないか」
そう言って、自分の耳を見せた。
いや――耳があるはずの場所を。
そこには、何もなかった。耳は根元から、抉り取られていた。
「……」
アンナは、言葉を失う。
男は、静かに笑う。
「そんなに、俺の耳は」
「弟さんに、似ていたのか?」
その瞬間、記憶が蘇る。
街道。すれ違った。「弟に似た耳だ」と笑いながら、そいつの耳を引き千切り、殺した。
(……あ)
一歩、後ずさる。
すると、今度は隣の女が袖をまくる。
腕がなかった。
「腕が」
老人は、足を見せた。膝から先が、なかった。
「足が」
若い男は、眼帯を外す。
「目が」
女は、鼻を。別の男は、口を。また別の者は、首の傷跡を見せる。
「鼻が」
「口が」
「頸が」
「眉毛が」
次々に。延々と。奪われた場所を、見せてくる。
誰一人、責めない。怒鳴らない。泣かない。
ただ静かに、事実だけを語る。
老人が、一人の少年の肩へ手を置いた。
「この子は」
「兄思いの、本当にいい子だったんです」
少年は、何も言わない。ただ、アンナを見つめていた。
身体に番号札を付けた夫婦が、前へ出る。その腕には、小さな子ども。
「お願いです」
「この子だけは、助けてください」
その子供にも、「番号札」は付いていた。
アンナは、首を振る。
「知らねぇ」
「知らねぇんだ」
本当に。一人一人の顔など、覚えていなかった。
だが――分かる。
全員、俺が殺した。
理由もなく。気分が悪ければ殺し。気分が良ければ殺し。暇だから殺し。通り道だから殺し。
笑いながら。怒鳴りながら。あるいは、何も考えず。
気づけば、殺していた。
だから――今も。
(……殺す)
アンナの瞳から、光が消える。
(理由はある)
(親父がいる)
(お袋がいる)
(シルフィがいる)
(お前たちがいたら)
(全部バレる)
(俺が何をしたか)
(俺がどんな人間だったか)
(だから)
(全員殺す)
次の瞬間。
足元には、血溜まりが広がっていた。死体。死体。死体。辺り一面。積み重なる亡骸。
その中央に立つ、自分。
◇
そして。
目の前には、一人だけ。
鉄仮面をつけた男。
男は、血の海の中で笑った。
「相変わらずだな」
「安心したぜ」
そう言うと、顎で前を示す。
「あれを見ろ」
視線を向ける。
そこには、ロールズがいた。クレアがいた。シルフィがいた。
三人は、笑っている。幸せそうに食卓を囲み、笑い合っている。誕生日の夜。さっきまで見ていた景色。
鉄仮面の男が、囁く。
「そろそろ」
「いいんじゃねぇか?」
アンナは、黙っている。
「村中の連中に、番号付けてよぉ」
「総当たりの対抗戦だ」
まるで、祭りの予定でも話すような軽い口調だった。
「楽しそうじゃねぇか」
男は、笑った。
その声には、何の澱みもない。まるで、明日の天気でも語るような、あっけらかんとした明るさ。
その笑顔には――相手の苦しみを想像するという感覚そのものが、欠けているようだった。
「なあ、聞いてるか?」
男は、アンナの顔を覗き込む。
その仕草は、ひどく親しげだった。旧知の友に世間話を振るような、何気なさ。
「せっかくの誕生日だ、派手にやろうぜ。今度は数を欲張ってみるのもいい」
くつくつと、喉の奥で笑う。
「一人ずつ潰すのも味があるが……たまには一気に、ってのも悪くねぇ」
アンナは、答えない。
答える言葉が、見つからない。
目の前の男は、狂っているようには見えなかった。
だからこそ、恐ろしかった。
激昂もせず、悪意を誇示するでもなく、ただ――日常の延長線上で、当たり前のように命の数を語っている。
その平然とした声色が、耳の奥にこびりついて離れない。
「あの時は、驚いたぜ」
クレアを見ながら、男は呟く。
「『わたしが死んだら、この子は生きていけない』とか言ってよ」
「赤ん坊の首、締めるんだぜ」
「最高に、笑えたよな」
「母は強し、ってやつだ」
「今回は、あの女に賭けるかな」
軽い、軽すぎる口ぶり。
まるで、馬でも選ぶような口調で、クレアの名前が語られる。
(……やめろ)
アンナの喉の奥で、声にならない叫びが渦を巻く。
(それ以上、言うな)
だが、声は出ない。
出せない。
身体が、動かない。
自分の中の何かが、その言葉を否定しきれずにいる。分かってしまうからだ。目の前の男が語っていることの、その一つ一つに、確かな実感が伴ってしまうことが。
会話を返さないアンナに、男は困ったように頭を掻こうとした。
しかし――鉄仮面に、手が当たる。
「ああ」
「そうだった」
ゆっくりと、鉄仮面を外す。
現れた顔は――
醜く歪み、傲慢で、残忍で。
見慣れた顔だった。
男は、笑う。
「これで、わかるか?」
「俺の名前を」
「言ってみろ」
その顔は。
俺だった。
◇
アンナは、飛び起きた。
「っ!」
叫びそうになる。吐きそうになる。
だが、両手で口を押さえた。声は漏らさない。嗚咽も、吐き気も、必死に飲み込む。
(……見られるな)
(絶対に)
(親父にも)
(お袋にも)
(シルフィにも)
(今の俺を、見せるな)
肩が、震える。呼吸が、乱れる。
もし知られたら。自分が何者だったのか。何をしたのか。どれほど醜い人間だったのか。
家族は、どんな顔をするのだろう。
軽蔑するのか。恐れるのか。泣くのか。
そして。
(……俺は)
(家族に、何をする)
夢の中の自分は、迷わず殺そうとした。
家族を守るためではない。自分の罪を隠すために。
――その事実が、何より恐ろしかった。
先ほどの男の声が、まだ耳に残っている。
あの軽さ。あの明るさ。
人の命を、天気の話のように語っていた、あの声。
(……あれは)
(俺だ)
(俺の、本当の声だ)
アンナは、誰にも気づかれないよう、そっと家族へ背を向ける。
暗闇の中で、小さな身体を震わせ続けた。
――過去に、怯え。
――未来に、怯え。
まだ一歳になったばかりの少女には、あまりにも重すぎる罪だった。
その小さな背中を。
眠っているはずのシルフィだけが、悲しそうな瞳で、じっと見つめていた。