十月に一歳の誕生日を迎えたアンナとシルフィも、十一月を迎える頃には、まだおぼつかないながらも、自分の足で歩けるようになっていた。
転んでは笑い、立ち上がっては、また転ぶ。
本来なら――そんな毎日のはずだった。
◇
あの悪夢を見た日から。
アンナは、鍛錬をやめた。
毎日欠かさず続けていた日課を、ある朝を境に、ぴたりとやめてしまった。
目覚めると同時に、闘気を身体へ巡らせることもない。呼吸を整え、少しずつ魔力を練り上げることもない。眠る前に気配を消し、自らの感覚を研ぎ澄ませることもない。
何一つ――しなくなった。
理由は、ただ一つ。
怖くなったのだ。
そもそも、アンナが鍛錬を始めた理由は単純だった。
転生したから。家族ができたから。
ロールズは、不器用だが優しい父だった。狩りから帰れば、泥だらけの手でアンナたちを高々と抱き上げ、優しく笑う。
クレアは、穏やかな母だった。眠れない夜は優しく背を撫で、小さな怪我一つにも心配そうに眉を寄せる。
そして、妹のシルフィ。
生まれた時から何故かアンナへ寄り添い、小さな手を伸ばしては無邪気に笑う存在。
誰も、何も求めなかった。
ただ、アンナがそこにいるだけで、愛してくれた。
そんなものを――ジャギだった自分が、手に入れていいはずがない。
最初は、浮かれた。前世では一度も知らなかった温もりに。笑い声に。家族というものに。
だが、その幸福は、長く続かなかった。
胸の奥で、もう一人の自分が囁き始めたのだ。
(……都合が良すぎる)
アンナは、自分が何者なのか知っている。前世で何をしてきたのか知っている。どれだけ多くの人間を殺してきたのか、知っている。
だからこそ、怖かった。
(これは……罰なんじゃねぇのか)
幸せを与えられ、安心させられ、心から笑えるようになった、その瞬間。
全てを、奪われる。
アンナは、知っている。日常というものが、どれほど脆いものかを。
平和に暮らしていた村へ踏み込み、何の罪もない人々を蹂躙し、泣き叫ぶ子どもも、命乞いをする老人も、怯える女も――笑いながら殺してきた。
それが、前世のジャギだった。
だから、思った。
(今度は、俺の番なんだ)
(帳尻を合わせるために)
(俺が幸せを感じた、その時)
(前世の俺みたいな奴が現れて)
(全部、めちゃくちゃにする)
そういう罰なのだと。
だから、鍛えた。闘気を磨き、魔力を鍛え、強くなることだけを考えた。誰にも奪わせないために。誰よりも強くなれば、きっと守れる。そう信じていた。
だが――あの悪夢が、その考えを打ち砕いた。
夢の中で見たのは、殺した者たちだけではない。最後に現れたのは、もう一人の自分だった。
鉄仮面を外し、醜く笑う男。
ジャギ。
あいつは、笑って言った。
『違う』
『幸せを壊すのは、他人じゃねぇ』
『お前だ』
その言葉は、刃だった。
鍛錬を積み、闘気を磨き、魔力を高めるたび。自分は、前世のジャギへ近付いているのではないか。
力を求めること自体が――ジャギそのものではないのか。
やがて、家族へ牙を向けるのは。前世のように、笑いながら人を殺すのは。
他の誰でもない、自分なのではないか。
その恐怖が、アンナから拳を奪った。
だから、鍛錬をやめた。
もう、強くならない。強くならなければ、ジャギにもならない。
そう、信じたかった。
しかし――悪夢は、終わらなかった。
夜になるたび、あいつは現れる。血溜まりの中で、鉄仮面を手に持ち、楽しそうに笑う。
『まだ、分からねぇのか』
『力が原因じゃねぇ』
『お前が生まれたこと、それ自体が原因なんだよ』
『お前がいる限り』
『何度だって、壊す』
『次は、親父か?』
『お袋か?』
『それとも――シルフィか?』
夢から覚めても、その声だけは、耳から離れなかった。
◇
シルフィも、笑わなくなった。
以前なら、シルフィへ向かって舌をぺろりと出せば、
「あぅ!」
と、嬉しそうに笑っていた。変な顔をすれば笑い転げ、一緒に歩けば手を繋いで喜んでいた。
そんな妹が、笑わなくなった。
アンナの顔を見つめ、心配そうに眉を下げるだけ。
まだ一歳の幼子には、理由など分からない。それでも、姉の心が曇っていることだけは、確かに感じ取っていた。
姉が、笑わない。
だから――妹も、笑えなかった。
それは、ロールズもクレアも同じだった。
喧嘩をしたわけではない。怪我をしたわけでもない。病気でもない。
それなのに、少し前まで家中へ響いていた娘たちの笑い声が、いつの間にか消えてしまった。
ロールズは薪を割る手を止め、窓越しに二人の娘を見つめる。積み上げたばかりの薪の上に、白い息だけが小さく上っていた。
クレアは洗濯物を畳みながら、小さくため息をついた。
「……最近、あの子たち」
言葉を、続けられない。
ロールズも、静かに頷くだけだった。
「喧嘩なんて、してないはずなんだけどな」
「ええ……」
二人とも、理由は分からない。
けれど、いつも寄り添って歩いていた娘たちの背中が、どこか寂しそうに見えて仕方がなかった。
◇
ロールズとクレアにとって、アンナとシルフィは、初めて授かった子どもだった。しかも、双子。
苦労は二倍。しかし、喜びは、それ以上だった。
子育てとは、毎日が試行錯誤だった。
ロールズは、男兄弟だけで育った。妹というものを知らない。ましてや幼い女の子が何を考え、何を感じるのかなど、分かるはずもなかった。
クレアは、一人っ子だった。兄弟姉妹と育った経験がなく、双子を育てるなど、想像したこともない。
二人とも、親になったのは初めてだった。
失敗して、悩んで、またやり直す。そんな毎日の繰り返しだった。
さらに、頼れる親戚も、このブエナ村にはいない。だから困ったことがあれば、近所で子どもを育てたことのある夫婦へ話を聞きに行き、時には村一番の年長者である産婆のエルナ婆さんを訪ねた。
何十人、何百人という赤子を取り上げてきた彼女は、村の誰よりも子育てを知っている。
アンナたちもまた、エルナ婆さんの手でこの世へ生まれてきた。
だから今回も。
「エルナ婆さんに、相談してみよう」
そう、決めたのだった。
◇
翌日。
狩りのない午前中を見計らい、ロールズは村の外れに建つ小さな家を訪ねた。
家の周りには乾燥させた薬草が吊るされ、鼻をくすぐる独特の香りが漂っている。窓辺には、色とりどりの薬瓶。庭では、黒猫が日向ぼっこをしていた。
「エルナ婆さん、いるかい?」
声を掛けると、
「勝手に入りな」
しわがれた声が、返ってくる。
扉を開けると、暖炉の前で薬草を選り分けていた老婆が顔を上げた。深い皺だらけの顔。しかし、その瞳だけは、若者にも負けないほど鋭い。
「なんだい、ロールズ」
「今日は狩りは休みかい」
「ええ」
ロールズは、頭を掻きながら笑う。
「ちょっと、相談があって」
「相談?」
「アンナとシルフィのことなんだけど……」
ロールズは、ここ数日の出来事をゆっくりと話した。
急に笑わなくなったこと。二人とも熱などはないこと。喧嘩をした様子もないこと。それなのに、家の空気まで静かになってしまったこと。
話し終える頃には、ロールズの表情も曇っていた。
「親として、何かしてやれることがあるなら、したいんだ」
「だけど、理由が分からなくて……」
エルナ婆さんは、黙って最後まで聞いていた。
やがて、薬草を机へ置くと、短く答えた。
「だったら」
「アンナに、聞けばいい」
「……え?」
ロールズは、目を丸くした。
「いや、婆さん」
「アンナは、まだ一歳になったばかりだよ?」
「言葉だって、まだちゃんと喋れない」
「聞いたって、分からないじゃないか」
エルナ婆さんは、鼻で笑った。
「ありゃあ、年の割には頭のいい子だ」
「こっちの言ってることぐらい、ちゃんと分かっとる」
「話せなくても、反応はあるさ」
ロールズは、首を傾げる。
「そんな、ものかな」
「そんな、もんだよ」
婆さんは、ふっと目を細めた。
「なんたって」
「あの子は、あたしの抱き方が気に入らないって、睨みつけるぐらいだからね」
ロールズは、思わず吹き出しそうになった。
あの日。アンナは生まれても、泣かなかった。シルフィが泣き叫び、その声に応えるようにアンナが目を開けた。
そして――驚いたエルナ婆さんが抱き上げた瞬間。あまりにも鋭い目付きに、思わず手が滑りそうになった。
今では、笑い話だ。母子ともに無事だったからこそ笑える思い出話であり、この村の鉄板ネタでもある。
ぎろり。
エルナ婆さんの鋭い視線が、ロールズを射抜いた。
その迫力は、森で熊と鉢合わせた時より、恐ろしかった。
「……」
ロールズの笑顔が、固まる。
思い出話にしていたはずの当人が、今、目の前で真顔になっている。それだけで、冗談では済まされない空気になった。
ロールズは、背筋を伸ばした。
「……すみません」
深々と、頭を下げる。
エルナ婆さんは、ふんと鼻を鳴らした。
「分かればいい」
そう言うと、湯気の立つ薬草茶を一口飲み、窓の外へ目を向ける。
「子どもってのはね」
「喋れなくても、ちゃんと心はある」
「大人が勝手に『まだ子どもだから分からない』と、思い込んでるだけさ」
その言葉は、ロールズの胸へ、静かに落ちていった。
アンナは、まだ一歳。だから、何も分からない。
どこかで、そう決めつけていた自分がいた。
しかし――もし、本当に。
あの子なりに、何かを抱えているのだとしたら。
父親である自分は。ちゃんと、その声なき声へ、耳を傾けなければならない。
ロールズは、静かに拳を握り締めた。
窓の外には、色づいた木の葉が一枚、風に乗ってゆっくりと舞い落ちていく。
それはまるで、まだ言葉にならない小さな娘の心が、ようやく誰かに気付かれようとしている――そんな瞬間を告げているようだった。