冬の気配を色濃くまとった風が、ブエナ村を静かに吹き抜けていく。
アンナは、家の窓から庭を眺めていた。
「アンナ」
ロールズが手招きをする。
(……なんだ?)
外へ出ると、ロールズは「ちょっと付き合え」と笑った。アンナは内心で頷く。
(薪運びか?)
そう思っていた。だが。
「よし」
ぽすっ。
頭に、柔らかな感触が乗る。誕生日にクレアから贈られた、毛糸の帽子だった。さらに――ふわり。肩へ、何かが掛けられる。ロールズの、狩人用コートである。
当然、一歳児の身体には大きすぎた。裾は地面につきそうになり、袖など完全に手が隠れてしまっている。
(……でけぇ。というか、歩けねぇ)
アンナはもぞもぞと身じろぎする。
「ここなら安全だからな」
そう言って、ロールズは庭の端、薪割り場から少し離れた切り株へ、アンナを座らせた。頭には帽子。身体にはぶかぶかのコート。まるで、毛布に包まれた荷物である。
(……なんなんだ。本当に、薪運びじゃねぇのか?)
ロールズは何も言わない。斧を持つと、薪割り台の前へ立った。そして――
カーン。
乾いた音が、冬空へ響く。木片が、左右へ飛び散る。再び、薪を置く。
カーン。
一定のリズム。黙々と、斧を振るい続けるロールズ。アンナは、じっと見つめていた。
(……話が、あるんじゃねぇのか。薪割りながら、考えてんのか?)
ロールズは、昔から考え事をすると身体を動かす癖がある。狩りでも、薪割りでも、畑仕事でも。身体を動かしているうちに頭の中が整理されるのだと、以前クレアが笑っていた。
(なるほどな。じゃあ、待つか)
アンナは、静かにロールズを眺め続けた。
やがて、何本目になるか分からない薪を割り終えると、ロールズは斧を壁へ立て掛けた。肩で息をしながら、ゆっくり歩いてくる。冬だというのに、身体からは白い湯気が立ち上っていた。額には汗。頬も赤く火照っている。隣へ腰を下ろすと、大きく息を吐いた。
「ふぅ……」
手拭いを取り出し、汗を拭く。
「薪割りしてれば、話がまとまるかと思ったんだけどな。全然、まとまんなかった」
苦笑いを浮かべる。
(おい)
アンナは心の中で思わず突っ込んだ。真剣に待っていた分、少しだけ肩透かしを食らう。ロールズはそんな娘の心など知る由もなく、小さく笑った。
「まあ、それでも話すよ」
手拭いを膝へ置く。優しい目で、アンナを見つめた。
「アンナは、まだ一歳だ。だから、喋れないかもしれない。でも、聞いてほしい」
その声は、どこか照れくさそうだった。
「愚痴っぽくなったら、ごめんな」
頭を掻いて、笑う。
「父さんさ、最近、ずっと考えてたんだ」
アンナは、黙ってロールズを見る。
「母さんも、俺も、アンナやシルフィが元気ないと、すごく心配になる。逆にな」
少し、間を置く。
「二人が笑ってるだけで、なんでもできる気がするんだ」
その言葉には、飾り気がなかった。だからこそ、真っ直ぐだった。
ロールズは、大きな手を持ち上げる。親指と人差し指で、丸を作る。
「例えば、これが『うん』」
今度は、腕を交差させる。
「こっちは『いや』。まだ喋れなくても、こういうので、教えてくれてもいい」
アンナは、その大きな手を見つめた。ロールズなりに、考えたのだろう。娘と話す方法を。言葉がなくても、気持ちを伝え合う方法を。不格好で、拙い。けれど、それはロールズが一晩かけて捻り出した、精一杯の答えだった。
ロールズは、少し照れたように笑う。
「……まあ」
再び、手拭いで顔を拭く。ごし、ごし、と少し乱暴に。
「何が言いたいかっていうとな」
顔を隠したまま。少しだけ、声がくぐもった。
「家族なんだから、どんなことでも、相談してやってこうぜ」
その言葉を聞いた瞬間。手拭いの向こうから聞こえる父の声が――少しだけ、震えているような気がした。薪割りで、息が上がっているからだろうか。それとも――違う理由なのか。
ロールズは、しばらく何も言わず、顔を拭き続けていた。やがて、手拭いを下ろす。そこには、いつもの笑顔があった。
「俺達はさ」
照れくさそうに笑いながら、言う。
「家族だ。俺と、母さんと、アンナ、シルフィ。四人で頑張れば、大抵のことは、何とかなる」
冬の空を見上げる。
「だから」
再び、アンナへ視線を戻した。その笑顔は、どこまでも優しかった。
「大丈夫だ」
短い言葉だった。けれど、その一言には、狩人として生きてきた男の覚悟と、父親として娘を信じる想いが、静かに込められていた。
アンナは、何も返せなかった。
言いたいことは、山ほどある。自分が何者だったのか。何をしてきたのか。それを知ったら、この人は今と同じ顔で笑っていられるのか。
――言えるはずがなかった。
だからただ、俯く。小さな手を、ぎゅっと握る。
その時だった。胸の奥で、何かが、少しだけ揺れた。
握った手を、ゆっくりと開く。震える指先で――親指と、人差し指を近づける。
不格好な、丸。
たった今、教わったばかりの、拙い「うん」。
「……」
ロールズが、目を見開いた。
言葉ではない。声でもない。それでも、確かに。娘が、応えてくれた。
「……アンナ」
込み上げるものを堪えるように、ロールズは一度だけ唇を結んだ。そして、大きな手のひらで、アンナの小さな頭をそっと撫でる。
「……そうか。そうか、そうか」
繰り返す声は、やはり、少しだけ震えていた。
冬の澄んだ空の下。言葉にならない想いだけが、確かに、父と娘の間を通い合っていた。
◇
その夜、アンナは夢を見た。
悪夢ではなかった。それは、ジャギとして生きていた頃の記憶。北斗神拳伝承者候補として、まだリュウケンの下で拳を学んでいた頃の夢だった。
修練場には、夕陽が差し込んでいた。赤く染まった土の上に、一人の青年が膝をついている。ジャギだった。肩で荒く息をし、拳からは血が滴っている。
今日も、ラオウには届かなかった。トキには、敵わない。ケンシロウは、日に日に成長していく。焦りだけが募る。拳を握るたび、心は少しずつ軋んでいた。
「……くそ。どうすりゃ、勝てる。どうすりゃ、運命を変えられる……」
唇を噛み締める。その呟きを、聞いていた男がいた。リュウケン。北斗神拳、第六十三代伝承者。そして――四兄弟を、我が子のように育ててきた義父だった。
リュウケンは、ゆっくりとジャギの隣へ腰を下ろす。しばらく、何も言わない。夕暮れの風だけが、二人の間を吹き抜けていく。
「……ジャギ。お前は最近、笑わなくなったな」
その一言に、ジャギは眉をひそめた。
「笑って強くなれんなら、笑ってやるよ。俺が欲しいのは、力だ。誰にも負けねぇ、力だ」
リュウケンは、静かに目を閉じた。その返事は、予想していた。だからこそ、胸が痛んだ。
(この子は、いつから、これほど自分を追い詰めるようになった)
師として。そして、父として。リュウケンは迷っていた。このままでは、この子の心は折れる。いや――折れるだけなら、まだいい。憎しみに、飲まれてしまう。そんな未来が、見えてしまっていた。
だから――リュウケンは、決断する。
「ジャギ。今日、お前に一つの技を見せよう」
ゆっくりと立ち上がる。腰を落とす。両腕を前へ突き出し、人差し指と中指を揃える。静かだった。殺気もない。怒りもない。ただ、水面のように澄み切った闘気だけが、身体を包んでいく。
次の瞬間。リュウケンの姿が、揺らいだ。幾重にも重なる拳。無数の残像。疾風のような連突が、空間を埋め尽くす。そして――すべてが、止まった。目の前の巨岩だけが、無数の突き跡を刻まれて、静かに崩れ落ちた。
ジャギは、目を見開く。
「……なんだ、その拳は」
「北斗羅漢撃」
その名だけで、ジャギの胸は高鳴った。
「教えてくれ! 俺にも、その力を!」
リュウケンは、しばらく黙っていた。やがて、静かに語る。
「この技は、憎しみ、恨み、妬み、嫉み、その全ての雑念を取り払った者にしか、極めることのできぬ奥義。真の意味で習得できれば、運命すらも、変えられるかもしれない」
その言葉に、ジャギの瞳が輝く。
「もっとも、北斗二千年の歴史で、この拳を真に完成させた者は、おらぬ。ワシもまだ、その途上にあるが、辿り着くことが問題ではない。それを、目指すことが大事なのだ」
ジャギは、口元を歪めた。
「だったら、半端でも構わねぇ。強けりゃいい。勝てりゃいい。そのためなら、何でもやる」
その言葉を聞いた瞬間、リュウケンは、胸の奥が締め付けられる思いだった。
違う。そうではない。この拳は、勝つためだけの拳ではない。人が人であるための拳なのだ。この子を――憎しみから救うための、拳なのだ。そう、伝えたかった。伝えなければならなかった。なのに。
目の前にいるのは、伝承者候補。四人の中から一人しか選べない宿命を、背負わせてしまった子。師としての責務が――父として抱き締めたい想いを、押し留めてしまう。結局、リュウケンが教えたのは、構えだった。呼吸だった。身体の運びだった。技の型だけだった。
一番、伝えなければならない――「心」は。最後まで、伝えることができなかった。
「……すまぬ」
その言葉は、ジャギには届かなかった。いや――声にすら、ならなかった。修練場を去っていくジャギの背中を見送りながら、リュウケンは静かに目を閉じる。その瞳には――伝承者を育てる師の眼差しではなく。一人の息子を救えなかった、父親の悲しみだけが、宿っていた。
その悲しげな眼差しが、夢の中のアンナの胸へ、深く焼き付く。
あの時。リュウケンは、奥義を教えたかったのではない。ジャギを、救いたかったのだ。北斗羅漢撃とは――ただ敵を倒す技ではない。憎しみに囚われた一人の息子を、人の道へ引き戻すための、願いそのものだった。だが、その願いは届かなかった。型だけが伝わり、心だけが伝わらなかった。それが――リュウケンが生涯抱き続けた、父としての後悔だった。
そこで、夢は静かに途切れた。
◇
アンナは、ゆっくりと目を開けた。
(……夢)
悪夢ではなかった。血も、悲鳴も、鉄仮面の男もいなかった。見たのは、リュウケンだった。師としてではない。一人の父として、自分を救おうとしていた男。そして――北斗羅漢撃。
憎しみ、恨み、妬み、嫉み――あらゆる雑念を取り払った者だけが極められるとされる奥義。その本質は、敵を倒すことではなかった。人として在り続けるための道。それを、歩み続けること。
『辿り着くことが、問題ではない。それを、目指すことが大事なのだ』
夢の中で聞いた、その言葉が、静かに胸へ残っていた。
(……目指してみるか)
ぽつりと、心の中で呟く。
(完成なんざ、出来なくてもいい。前世の俺は、型だけ覚えて満足してた。だったら今度は、その先を歩いてみる)
そう、思えた。それだけだった。
胸の奥の恐怖が消えたわけではない。前世の自分への嫌悪も。家族を傷つけるかもしれないという恐れも。何一つ、消えてはいない。それでも――昨日より、一歩だけ前を向けた気がした。
隣では、シルフィが眠っていた。いつもなら、寝返りを打ちながら、無意識にアンナへくっついてくる妹。だが、今は違う。ほんの少しだけ。本当に、指先一つ分ほど。距離が、空いていた。それだけのことなのに、アンナには、胸が締め付けられるほど遠く感じた。
(……俺のせいだ)
悪夢を見た日から、自分は笑わなくなった。シルフィを見ても、両親を見ても、笑えなかった。そんな姉を見て、シルフィも笑わなくなった。一歳になったばかりの子供が、理由も分からず姉の変化だけを感じ取り、小さな心を曇らせてしまった。
(馬鹿だな、俺。怖がらせたかった訳じゃねぇのによ)
そっと、手を伸ばしかける。シルフィの頭を撫でようとして――途中で、止めた。もし。前世の俺が、本当に俺の中にいるなら。そんな考えが、まだ離れなかった。伸ばしかけた手を、ゆっくりと引っ込める。
◇
居間へ行くと、クレアが朝食の支度をしていた。
「あら、おはよう。アンナ」
柔らかな笑顔。いつもと変わらない声。けれど、その笑顔の奥には、ほんの少しだけ心配が滲んでいた。アンナは、小さく頷く。
「……あ」
それだけ。笑えない。笑おうと思っても、ぎこちなくなる。クレアは、一瞬だけ寂しそうな目をした。しかし、すぐに、いつもの優しい笑みに戻る。
「もう少しで、ご飯できるからね」
何も聞かない。何も責めない。ただ、いつも通り接してくれる。その優しさが――今のアンナには、少し痛かった。
とて。とて。
小さな足音が、近付いてくる。振り返ると、寝起きのシルフィが立っていた。緑色の髪は寝癖で跳ね、小さな目が、じっとアンナを見つめている。
「あぅ……」
いつものように、歩いてくる。アンナの前まで、来る。そして――抱きつこうとして。ぴたり、と止まった。
アンナも、思わず手を伸ばしかける。抱きしめようとして――止まる。二人の間には、ほんの少しの空間しかない。けれど、その距離は、以前よりずっと遠かった。
その様子を見ていたクレアは、静かに視線を伏せる。少し前まで、何も考えず笑い合っていた双子。今は互いを想うからこそ、一歩踏み出せない。その姿が、母親には何より切なかった。
◇
朝食を終えると、ロールズは狩人の装備を整え始めた。革鎧を締め、背中に弓を背負う。腰には、狩猟用のナイフ。
「今日は、森の見回りも兼ねてくる」
クレアが頷く。
「最近、魔物の足跡も見つかったって聞いたものね」
「ああ。森の奥は、油断できない」
アンナは、その会話を黙って聞いていた。
(……守るための力)
昨日までなら、その言葉すら恐ろしく感じていただろう。今は、少しだけ違う。
出掛け際。ロールズは、しゃがみ込み、アンナと目線を合わせた。
「アンナ」
大きな手が、小さな頭をそっと撫でる。
「昨日も言ったけどな、焦らなくていい」
アンナは、父を見上げる。ロールズは、照れくさそうに笑った。
「父さんも、母さんも、待ってる。アンナが、また笑う日を」
それだけ言って、立ち上がる。
「行ってくる」
家を出ていく父の背中は、昨日より少しだけ、大きく見えた。
◇
しばらくして。アンナは、一人、庭へ出た。
霜を踏むたび、しゃりっと乾いた音が鳴る。冷たい空気が、肺を満たす。静かに、腰を落とす。両手を前へ。人差し指と中指を揃える。北斗羅漢撃の構え。放たない。ただ、構える。
闘気を巡らせる。魔力も巡らせる。闘気は肉体を巡り、魔力は全身を静かに満たしていく。異なる二つの力。それでも不思議と反発しない。まるで一本の川へ流れ込む支流のように、身体の中で共存していた。
そして――心を静める。
(雑念を捨てる。何も考えるな)
……。
…………。
(空気椅子してるみたいだな)
雑念。
(そもそも北斗二千年で誰もできなかった奥義って、なんだ?)
雑念。
(「こんな技あったら格好いいよなぁ」ってノリでいってんじゃねぇよな……)
雑念。
「……」
アンナは、ゆっくり目を開けた。
(駄目だこりゃ)
思わず、心の中で苦笑する。修行の道は、思っていたより遠いらしい。だが、不思議と、それが嫌ではなかった。
その時だった。家の扉が、ほんの少しだけ開いていることに気付いた。隙間から、緑色の髪が覗いている。シルフィだった。じっと、こちらを見ている。心配そうに。不安そうに。でも、目を逸らさずに。
アンナは、小さく息を吐いた。そして――ほんの少しだけ。本当に、ほんの少しだけ。口元を、緩めた。悪党らしく。照れ隠しに。
ぺろり、と舌を出す。
その瞬間。シルフィの目が、ぱっと丸くなった。次の瞬間には、扉を押し開け、とてとてと庭へ駆け出していた。
まだ、二人の距離は元には戻っていない。けれど。その小さな足音は、確かに――昨日よりも近く聞こえた。
アンナは、ゆっくりと両腕を広げる。
妹が、その胸へ飛び込んでくるまで、あと少し。
その「あと少し」が――今は何より、愛おしかった。