穏やかな朝だった。
ロールズは弓を背負い、狩人用の外套を羽織って森へ向かう。
「今日は森の奥まで行ってくる。魔物の痕跡があれば、戻りが遅くなるかもしれん」
「気を付けてね。最近はホーンラビットだけじゃなく、森狼も見かけるって聞いたわ」
クレアが心配そうに送り出す。
「大丈夫さ」
ロールズは笑い、家を後にした。
◇
シルフィは昼食を食べ終え、クレアに抱かれて眠っていた。栗色の髪を揺らすアンナは、その様子をじっと見つめる。
(今なら、親父はいない。シルフィも昼寝。お袋も、しばらく手は離せねぇ。ちょうどいい)
音もなく、玄関を抜ける。北斗神拳は暗殺拳。歩法と気配の消し方は、生まれ変わっても魂が覚えている。コツは、気配を完全に消すのではなく、他の気配に紛れ込ませることだ。
庭先へ出ると、冬の日差しが静かに肩へ降り注いだ。アンナは家の影へ入る。ここなら家の中からも見えず、道からも死角になる。小さな身体で腕を組み、考え込んだ。
(北斗羅漢撃)
夢で見た、リュウケン。あの悲しい目。そして、最後の言葉。
――辿り着くことが、問題ではない。
――それを、目指すことが大事だ。
胸の奥で、その言葉が何度も反響する。
(なら、考えてみるか。真の羅漢撃ってやつを)
アンナは地面へ小枝で文字を書く。一。二。三。四。
(まず、一つ。北斗二千年の歴史で、完成者はいない。なら、何故奥義として存在する?)
型がある。呼吸法もある。伝授法もある。つまり――完全な与太話ではない。
(可能性、その一。完成した奴は、いた。だが、歴史に名を残さなかった)
なくはない。北斗は暗殺拳。英雄として語られる必要など、ない。
(二。精神修練そのものが、目的)
技を完成させるためではなく、心を磨くための修行。それなら、リュウケンの態度も理解できる。
(三。北斗神拳じゃなく、他流派に完成者がいた)
北斗神拳は数え切れない拳法を
そして――アンナは、四つ目を書いた。
(四。頭のおかしい奴が『俺の考えた最強奥義』とか言い出した説)
……
しばらく、黙る。
(頼む。四だけは、やめてくれ)
空を見上げ、小さくため息を吐いた。
◇
ふと、一つの拳法を思い出す。
(……羅漢。そういや、もう一つあったな)
羅漢仁王拳。前世。拳王となったラオウが、拳法家狩りをしていた頃。巨大な男が、捕らえられた。デビルリバース。あまりにも巨大で、カサンドラには収容できず、別施設へ送られた怪物。その伝承拳が――羅漢仁王拳。
ラオウは、奥義書を一瞥しただけで興味を失った。
「くだらん」
そう言って、捨て置いた。だから――ジャギは、こっそり盗み読んだ。
(北斗羅漢撃。羅漢仁王拳。名前だけなのか。何か、繋がりがあるのか)
北斗神拳は、戦いの中で進化してきた拳。敵の技を見て、奪い、吸収し、己のものへ変えてきた。
(なら、比べてみる価値はある)
アンナは静かに構える。右掌を開き、内側へ捻り込むように前へ。左拳を、頬の横へ。仁王像を思わせる威容。――ただし、一歳児でなければ。
(しまらねぇな)
自分でも、少しだけ思う。だが、集中する。闘気を巡らせる。さらに、魔力。二つの力を、重ねる。
本来、この世界では、魔法は詠唱か魔法陣で発動される。しかし、アンナは詠唱も魔法陣も知らなかった。少し余裕がある家には、魔法を覚える為の魔術教本がある。しかし、アンナの家にはそれはなく、両親の知る魔法は、仲間に教えてもらった生活魔法だった。
ならどうする。
奥義。風殺金剛拳。
「――ッ!」
小さな身体から、放たれた一撃。見えない風の塊が、一直線に飛ぶ。
ドォンッ!!
少し離れた薪の束が、粉々に砕け散った。木片が、冬空へ舞い上がる。
静寂。
アンナは腕を下ろした。
(威力は、十分。闘気だけじゃねぇ。魔力を混ぜることで、圧縮率が上がる)
少し、考える。
(……構え。高速の連撃と、空気を圧縮する手の動き。気を一気に収束させる。似てる。完全に別物だが、何か、繋がりはありそうだ)
その時だった。
「ふぇぇぇぇぇぇぇん!」
家の中から、泣き声。シルフィだった。続いて。
「アンナ!? シルフィ!?」
クレアの、慌てた声。庭に響いた轟音で目を覚ましたシルフィが、隣にいるはずのアンナがいないことに気付き、不安で泣き出したのだ。
「アンナ!? どこ!?」
クレアの声が震える。アンナは目を丸くした。
(しまった。考え事に、夢中になり過ぎた。お袋、完全にパニックじゃねぇか)
急いで駆け出す。一歳児らしく、とてとてと。家へ飛び込むと、涙目になったシルフィがアンナを見つけた瞬間、ぱっと表情を輝かせた。
「あんな!」
小さな両腕を広げて、飛びついてくる。
「……あぅ」
アンナは自然に受け止める。シルフィは、安心したように胸へ顔を埋めた。クレアは大きく息を吐き、その場へしゃがみ込む。
「もう……心配したんだから」
そう言って、アンナの頭を優しく撫でる。怒ることよりも、無事だったことへの安堵が勝っていた。アンナは小さく舌を出した。
「……てへ」
その仕草に、クレアは苦笑し、シルフィもつられて笑った。穏やかな笑い声が、部屋に広がる。
――そこで。クレアの笑顔が、ぴたりと止まった。
「……え?」
さっき、聞こえた言葉。胸の中で、何度も反芻する。
「あんな……?」
ゆっくりと、シルフィへ視線を向ける。
「シルフィ……今……アンナって……言ったの?」
シルフィは、きょとんとした顔でクレアを見つめる。アンナも、目を丸くしていた。
(……そういや、今、普通に名前呼んだよな……)
さっきはクレアを安心させることばかり考えていて、まるで意識していなかった。今になってようやく、その事実が胸に飛び込んでくる。
(シルフィが……喋った)
驚きで、思考が止まる。クレアは、震える両手でシルフィの肩にそっと触れた。
「シルフィ……もう一回……お願い」
シルフィは首をかしげる。何を言えばいいのか、分からないらしい。クレアは、期待に胸を膨らませながら、自分の胸を指差した。
「お・か・あ・さ・ん」
ゆっくり。一音ずつ。
「おかあさん」
シルフィは、じっとクレアの口元を見る。そして、真似をするように、小さく口を開いた。
「……おか……」
クレアが、ごくりと息を呑む。
「……あしゃん」
一瞬の、静寂。次の瞬間。
「い、言えたぁっ!」
クレアは思わず両拳を握り締め、小さくガッツポーズをした。
「やったぁ! ロールズにも、早く教えてあげなくちゃ!」
満面の笑み。目尻には、涙まで浮かんでいる。嬉しそうに笑うクレアを見て、シルフィも何が嬉しいのか分からないまま、にこにこと笑った。その光景を見つめながら、アンナは静かに息を吐く。
(……よかった)
ただ、それだけだった。シルフィが、笑っている。お袋が、笑っている。その笑顔を見ているだけで、不思議と胸の奥に張りついていた冷たい何かが、ほんの少しだけ溶けていく気がした。
◇
ロールズは、背中の弓を担ぎなおしながら、大きく息を吐いた。
「ふぅ……」
今日は、森の見回り当番だった。冷たい風に吹かれながら森を歩き続けた疲れは、正直、かなりのものだった。だが。
(まあ、家に帰れば全部吹き飛ぶ)
ロールズは自然と笑みを浮かべる。少し前まで、家には重たい空気が流れていた。アンナは笑わず、それにつられるようにシルフィも笑わなくなり、クレアも毎日心配そうな顔をしていた。あの空気は、父親として本当に辛かった。だが、今は違う。また、四人で笑えるようになった。派手な出来事なんてない。豪華な暮らしでもない。それでも。
(これが、幸せなんだろうな)
ロールズは家の扉の前に立ち、いつものように声を掛けた。
「ただいま」
扉を開く。すると。
「おかえり!」
クレアが笑顔で迎えた。その横には、アンナ。そして、シルフィ。二人とも、とてとてと小さな足で玄関まで来ている。家族総出の、お出迎えだった。その光景を見た瞬間、ロールズは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
(……ああ。帰ってきた。俺の帰る場所に)
自然と、笑みがこぼれる。
「みんな揃って、どうした?」
クレアは、どこかいたずらっぽく笑った。
「あなた、驚かないでね」
「ん? なんだ?」
ロールズは首をかしげる。クレアは、嬉しさを隠しきれない笑顔で言った。
「今日ね、シルフィが、初めてしゃべったの」
ロールズが目を瞬かせる。クレアは続けた。
「最初に呼んだのは――アンナ。それからね、お母さんって、呼んでくれたの」
沈黙。一秒。二秒。三秒。ロールズの思考が、止まる。
「…………」
そして。
がくん。
膝から、崩れ落ちた。
「あなた!?」
クレアが慌てる。ロールズは、床へ両手をついたまま動かない。頭の中では、二つの感情が激しくぶつかり合っていた。
(シルフィが……しゃべった……!)
嬉しい。嬉しくて、たまらない。でも。
(その場に……俺が、いなかった……)
その事実が、胸へ突き刺さる。
「う……うぅぅ……」
肩が震える。そして。
「あんまりだ…HEEEEYYYY」
号泣した。アンナもシルフィも、ぽかんと見ている。ロールズは涙をぼろぼろ流しながら、床を叩いた。
「なんで俺はァァァ! 今日に限ってェェェ、見回り番を代わっちまったんだァァァ!」
悲痛な叫びが、家中に響く。
本来、今日の見回り当番は、ロールズではなかった。見回り仲間のパウロが、
「悪い、ちょっと用事があってさ」
と頼み込んできたので、人の良いロールズが快く交代したのだ。それが、まさか。娘の初めての言葉の日になるとは。
「シルフィがァァァ! 初めてェェェ!」
クレアは、額に手を当てながら、深く長いため息をついた。
「もう……大袈裟なんだから」
呆れた声。だが、その口元は、隠しきれずに緩んでいる。床に突っ伏し、地団駄まで踏み始める父親。アンナは、その様子を横目に、内心で呟いた。
(……親父。そこまで落ち込むか)
流石に少し可哀想になってきた。
クレアは、そっとシルフィを抱き寄せる。耳元で、小さく囁いた。
「シルフィ、今度は、お父さんって言ってごらん?」
シルフィは、ロールズを見る。まだ、涙でぐしゃぐしゃの父親を。そして。
「……お、と……しゃん」
舌足らずな声。けれど、確かに。
「お父さん」
だった。
ロールズの動きが、ぴたりと止まる。ゆっくりと、顔を上げる。
「…………」
一瞬後。
「シルフィぃぃぃ!」
勢いよく立ち上がると、シルフィを優しく抱き上げた。
「ありがとうぉぉ!」
満面の笑み。涙は、まだ止まらない。だが今度は、嬉し涙だった。そのままロールズの視線が、アンナへ向く。期待。ものすごく、期待している。クレアも、ちらりとアンナを見る。そして、小さく目配せした。
(お願い)
そんな視線だった。アンナは、誰にも気付かれないよう、小さくため息をつく。
(……しょうがねぇな)
照れくさい。だが――親父は、今日一日頑張ってきた。それくらいなら。小さく、口を開く。
「……おとう、さん」
少し、たどたどしい声。けれど、ロールズには十分だった。
「アンナもぉぉぉぉ!」
再び、感涙。その場で、泣き笑いになる。クレアは、手をぱちぱち叩きながら、どこか棒読み気味に言った。
「わぁー、アンナも、しゃべったー」
ロールズは、涙を拭きながら何度もうなずく。
「うん! うん! 今日は、最高の日だ!」
その様子を見ていたアンナは、少しだけ頬を赤くした。
(……)
昼間。シルフィが「アンナ」としゃべった後、思わず。
「シルフィ」
と、名前を呼んでしまった。
「……アンナも、しゃべった!」
期待の目でアンナを見る、クレア。しかたないと、アンナは覚悟する。
「お袋」
「違うでしょ? お母さん」
と、何度も訂正され。結局。
「……お、お母さん」
と、言い直す羽目になった。その一部始終を思い出し、アンナは内心で頭を抱える。
すると、クレアが、アンナへそっとウインクした。
(秘密ね)
その優しい笑顔に、アンナも苦笑するしかなかった。
窓の外では、冬の夜空に、一番星が輝き始めている。暖かな家の中には、四人の笑い声がいつまでも響いていた。
この日また一つ、忘れられない家族の記念日が増えたのだった。