早朝から昼過ぎまでの、森の魔物見張り番。その役目を終え、パウロは櫓を降りた。
ちょうど入れ替わりに、次の番の男が姿を見せる。
「お疲れ様です、パウロさん」
穏やかな口調。丁寧な、物腰の柔らかい喋り方だった。家では砕けた口をきくと噂に聞くが、こうして見る限り、その気配は微塵も感じさせない。
「おう、お疲れさん。異常はなしだ」
「ええ、聞いています。今日も、静かなものでしょう」
後番は櫓を見上げながら、柔らかく笑った。
「では、あとは私が」
「頼んだぞ」
軽く手を上げ、パウロはその場を後にする。
夏の日差しが、木々の合間から白く差し込んでいた。蝉の声がうるさいくらいに響いている。いつもと変わらない、平和な森だ。
――そのはずだった。
◇
帰り道を数歩進んだところで、パウロの足がふと止まった。
(……何か、引っかかるな)
理由は、自分でも分からない。だが、冒険者として何年も修羅場をくぐってきた勘が、小さく警鐘を鳴らしていた。
「悪ぃ、ちょっと森の中、軽く見てから帰るわ」
後番へそう声を掛けると、パウロは踵を返し、森の中へと足を踏み入れた。
木漏れ日の下、しばらく歩く。特に、異常はない。
(気のせいか)
そう思い、帰ろうとした、その時だった。
――静かすぎる。
パウロは足を止める。囀る鳥の声がない。虫の声も聞こえない。いや――いないわけではないのだ。いる。だが、動かない。息を潜めている。何かに、見つからないように。
つう、とパウロの頬を一筋の汗が伝った。
(……こいつは、ヤバい)
長年の勘が、はっきりと告げていた。引き返せ。元冒険者としての経験が、そう叫んでいる。
だが同時に、もう一つの声もあった。
――ここで見逃せば、村に何か悪いことが起きるんじゃないか。
見張り番としての、使命感だった。
(俺の当番は、さっき終わっただろうが)
自嘲するように心の中で呟く。引き返そうとした、その脳裏に、ふと家で待つ妻と息子の顔が浮かんだ。ゼニス。そして、ルーデウス。
(……ちっ)
パウロは小さく舌打ちをする。そして――歩き出した。森の、さらに奥へ。
◇
慎重に足音を殺しながら進む。木々の隙間から差し込む光が、地面にまだらな模様を描いていた。
やがて、開けた場所へ出た。パウロは思わず息を呑む。
そこかしこに、魔物の死骸が転がっていた。大半は、小動物が変化した類の魔物だ。身体があり得ない方向へ捻じ曲がっている。あるいは、内側から弾けたように無残な姿になっていた。
そして――その中に、一頭。明らかに、格の違う魔物がいた。熊型の魔物。パウロは目を細める。
(……コイツはまだ)
その血生臭い光景の、ちょうど中央。小さな人影が、しゃがみ込んでいた。
(……子ども?)
遠目にも、幼い体格だと分かる。だが、距離はまだ遠い。木々に紛れ、その姿は半分ほどしか見えなかった。
その幼子は、倒れた魔物の一体――兎のような姿をした死骸の傍らに屈み込み、その身体のあちこちへ、小さな指先で触れている。
とん。とん、とん。
まるで、何かを確かめるように。決まった箇所を、順番に押しているようだった。
(……何を、してる)
パウロの脳裏に、一瞬、良くない想像がよぎる。
(まさか――喰ってるんじゃ)
飢えた獣が獲物を貪る姿を、幾度となく見てきた。だが、この動きはそれとは明らかに違う。もっと静かで、緻密な仕草だった。
(……いや、分からん)
ただ、一つだけ確かなことがある。もし、あれが本当にただの子どもなら――こんな場所に、一人でいさせるわけにはいかない。
パウロは、まだ遠い距離のまま声を張った。
「嬢ちゃん。こんなところで、何やってるんだ?」
◇
返事はあった。だが、その声には、こちらへ意識を向けている様子がまるでない。
「ちょっと、確認したい事があった」
死骸をいじる指先は、止まらなかった。
(……確認?)
聞き慣れない返答に、パウロは眉を寄せる。だが、それ以上に気になったのは、その声のあまりの落ち着きだった。こんな死屍累々とした場所で、一人。普通の子どもなら、泣き喚いていてもおかしくない。
パウロは、慎重に、しかし着実に距離を詰めていった。草を踏む音を極力抑えながら。
「親はどうした?」
問いかけながら、さらに一歩。
「あー。今は、居ない」
生返事。その声には、パウロへの警戒も興味も感じられなかった。意識のほとんどが、目の前の死骸へ注がれている。
(……なんだ、この子は)
得体の知れなさが、じわりと胸の奥に広がっていく。
そして、パウロの足がある一線を越えた。必殺の間合い。剣士として幾度となく体に叩き込んできた距離感が、静かに告げる。
(――今なら、殺せる。早く、抜け)
長年鍛え上げた勘が、悲鳴のように急かしてくる。だが、パウロはその衝動を辛うじて押し留めた。まだ――確信が持てない。
震える声を抑え、パウロは尋ねた。
「それは、嬢ちゃんがやったのかい」
その瞬間、指先の動きが止まった。ゆっくりと、幼子が顔を上げる。木漏れ日の下、その顔が初めてはっきりと見えた。
歳の頃は、三つか四つ。うちのルーデウスと、そう変わらない。
だが、その目を見た瞬間、パウロの全身が総毛立った。
「――そうだよ」
あっさりとした返事。その声色は、まぎれもなく幼い子どものものだった。だが、その奥に覗く瞳だけが――何百人もの命を、それこそ息をするように奪ってきた者だけが持つ、あの色を宿していた。
パウロは、これまでの人生で何度もそういう目を見てきた。修羅場を潜り抜けた老練の傭兵。名うての暗殺者。あるいは、狂気に堕ちた元冒険者。だが、これはそれらのどれとも違う。もっと深い。もっと、底が知れない。
(――この目は、駄目だ)
理屈ではなかった。長年の勘が、確信に変わる。
(コイツは――ここで、殺す。もし、今、逃したら、俺以外に手に負える者はいない)
その考えが脳裏を貫いた瞬間、パウロの身体はすでに動いていた。剣を抜き放つ。
かつて習った剣神流の型ではない。もっと荒々しく、獣じみた踏み込み。滅多に使うことのない、もう一つの流派――北神流の間合い。躊躇いはなかった。振りかぶった刃が、まっすぐに幼子へ向かって振り下ろされる。
◇
振り下ろされた刃が、幼子の頭上へ迫る。殺す。そう決めたはずだった。
だが――刃が届くその刹那、パウロの脳裏に、たった一瞬。
(……息子と同じ年のガキを、俺は今から斬るのか)
その雑念が割り込んだ。たったそれだけの迷い。だが、剣士にとって、それは致命的な隙だった。剣筋が、僅かに――本当に僅かに、ブレた。
幼子の身体が、地を這うように沈む。まるで最初からそうすると決めていたかのように、淀みなく。パウロの足元を、低く、鋭く、転がり抜ける。刃は、幼子のいたはずの空間を虚しく切り裂いた。
その擦れ違いざま、小さな指先が――ほんの一瞬、パウロの足首へ掠めるように触れた。
とん。
あまりにも軽いその感触。パウロは、それに気付く余裕すらなかった。
「――いきなり、何しやがる!」
転がった勢いのまま、幼子が跳ね起きる。年端もいかない子どもの声とは思えぬ、地の底から響くような怒気だった。
パウロは己に向かって舌打ちをした。
(……なまったか、俺も。ガキが生まれて、腑抜けたか)
自嘲する暇すら惜しい。頭を振り、雑念を叩き出す。
「次は――外さねぇ!」
獣のような咆哮とともに、追撃の剣を放つ。これが最初から本気の一撃だったなら。躊躇いなど欠片もない一太刀だったなら。今ごろ、幼子は死んでいただろう。
しかし。
――剣筋は、再び逸れた。
「なっ……!?」
パウロは自分の目を疑った。狙いは確かだった。迷いもなかったはずだ。なのに、剣は幼子のいた場所から微妙に外れた軌道を描いている。まるで、己の右腕が己の意志を無視したかのように。
(――なぜだ)
理由が分からない。だが、その僅かな違和感をじっくりと検分している暇は、与えられなかった。
◇
隙。その一瞬の綻びを、幼子は見逃さなかった。
とん。
軽い、本当に軽い感触が、パウロの胸元へ触れる。撫でるような、優しい仕草だった。まるで、猫が挨拶をするような。
「……あんたが、優しくて助かったぜ」
そう言って、幼子は笑った。
その笑みを見た瞬間、パウロの背筋をこれまでにない悪寒が駆け抜けた。三日月のように吊り上がった口元。だが、それ以上に、あの底知れない両の瞳。生まれてこの方、味わったことのない類の恐怖が、腹の底から突き上げてくる。
(……悪魔か。コイツは、悪魔なのか)
パウロには、そう見えて仕方がなかった。
身体が動かない。片膝をついた姿勢のまま、パウロはどれだけ力を込めても、指先一つ動かせなかった。
(……何をされた)
覚えているのは、あの一撃を外した後、軽く胸元に触れられた、あの感触だけだ。それだけで、これほどまでに。冷や汗が止まらない。
そんなパウロへ、幼子――いや、この目の前の何かは、あっけらかんと語りかけてきた。
「なんか、誤解があるみたいだし、話し合おうや」
(……話し合い?)
パウロは内心で首を傾げる。こいつに、そんな人並みの心があるとでも言うのか。
「取り敢えず、喋れるようにしてやる。魔法は使うなよ」
短く忠告される。そして、首筋へ指先が触れた。
とん。
それだけで――喉の奥が、嘘のように軽くなる。
「……食うのか、俺を」
震える声で、パウロは問うた。後悔はある。村を守れなかった。家族を、守れなかった。それでも――俺は、負けたのだ。ならば、後に続く者たちへ、何か一つでも託さねばならない。万が一、生き延びた時のために。情報は、少しでも多い方がいい。そんな切実な覚悟のもとに、パウロは会話を試みていた。
対する幼子は、心底呆れたような声を出した。
「食わねーし、殺さねーよ」
「……え、ほんとに?」
パウロは思わず問い返す。
「そうやって期待させといて、『残念、本当は食べちゃいます!』とか、言うんだろ」
「どういう目で、俺を見てんだよ」
幼子がむっとした顔をする。
「そういう目つきじゃねぇか、お前」
パウロがそう返した瞬間、幼子の表情が――ほんの少しだけ、曇った。
(……あ)
しまった、と思う。とはいえ、この状況で謝るのも変な話ではあるのだが。パウロは慌てて言い直した。
「ご、ごめん。味のある目してるよ、お前。……そういうの、好きな奴もどっかにいるよ」
さらに、幼子は目に見えて落ち込んだ様子を見せた。
(……なんで、俺はこんな状況で気を遣ってるんだ)
自分でも、よく分からなくなってくる。
◇
――冗談は、さておき。
うん。今の一連のやり取りは、場を和ませるための軽口だった。そういうことにしておこう。もっとも、場の空気は依然として冷え切ったままだったが。
パウロは気を取り直し、本題を切り出す。
「お前は、何だ。目的は」
幼子はあっけらかんと答えた。
「俺か? 俺はただの、村娘だよ。魔物が、どんなもんか知りたくて、見に来たんだ」
(……ただの、村娘)
パウロは思わず鼻で笑いそうになる。――お前みたいな目つきの悪い村娘がいるか! 思わず言い返しかけて、そこでふと、あることを思い出した。見張り番仲間たちと酒を酌み交わした時の、たわいもない与太話。ロールズの娘とエルナ婆さんの話だ。
(……まさか)
パウロは探るように問いかける。
「お前、名前は」
「人に聞くなら、まずそっちが名乗るのが筋だろ?」
「……パウロだ」
「親父のダチかよ」
幼子は少し驚くが、アンナと素直に答えた。
「親父とお袋は?」
「ロールズと、クレア」
(……当たってる)
「家族は、それだけか?」
「妹がいる」
そう言った瞬間、幼子――アンナの表情がふっと緩んだ。
「めちゃくちゃ、可愛いぜ」
心底、幸せそうに。優しい目をして。
(……間違いねぇ)
パウロは確信する。こいつは――ロールズんとこの、アンナだ。
あの親馬鹿の娘自慢は、酒の席で耳にタコができるほど聞かされている。『アンナは目つきが鋭いが、そこがいい。間違いなく、美人になる』『シルフィは、癒し系の美人だぞ』。そう笑いながら語るロールズの顔を、はっきりと思い出せる。
パウロは、深く長いため息をついた。
(……鋭いってレベルの目じゃ、ねぇだろ)
◇
だが、それでも気を緩めるわけにはいかなかった。
「お前、本当は何しに来たんだ」
「魔物が、どんなもんか色々知りたくてよ。親父について、来たんだ」
アンナは事も無げに答える。
(……そういえば)
パウロは思い出す。今日の後番――つまり、次の見張り番は、ロールズだった。
(親父の目を盗んで、こっそり森の奥まで来た、ってわけか)
「もう、いいだろ」
アンナはそう言うと、軽くパウロの肩へ触れた。
とん。
強張っていた身体が、ようやく自由を取り戻す。
「……」
なんてガキだ。呆れ半分、感心半分で、パウロは小さく息を吐いた。それでも、忠告だけはしておくべきだろう。
「……力試しかもしれねぇが、ほどほどにしとけ。なんかあったら、親父が泣くぞ」
アンナは、その言葉を半分も聞いていないようだった。視線は既に別の場所――倒れていたはずの、熊の魔物へ向いている。
パウロは続けて言おうとした。
「それに――」
言いかけて、振り返る。
「こいつは、まだ生きて――」
気絶から目覚めたのか、熊の魔物がゆっくりと立ち上がっていた。パウロが咄嗟に剣を構え直す。
だが。
「もう死んでるよ」
アンナがぽつりと言った。
その言葉とほぼ同時。
ボッ。
熊の魔物の頭と腹が、内側から弾けた。
「……」
パウロは、しばし言葉を失う。
アンナは独り言のように呟いた。
「生きてるなら、殺せるか。問題は……アンデッドだな」
何を言っているのか、パウロには半分も理解できなかった。やがて、アンナはくるりと踵を返す。
「じゃあな、おっさん」
小さな背中が、森の奥へと遠ざかっていく。その足取りには、一切の躊躇いがなかった。
◇
しばらくその場に立ち尽くしていたパウロは、ようやく剣を鞘へ収めた。
「……はぁ」
大きく息を吐く。冷や汗が、今更のように背中を伝った。
(うちのルーデウスといい、最近のガキは、一体どうなってやがるんだ……)
木漏れ日の下、蝉の声だけが、変わらず森に響いていた。
ストックなくなったんで、少し書き溜めます。シルバーウィークなんて有りません。