ルーデウス・グレイラットは、善人である。
彼の前世での行動には、多少問題があった。それは認めよう。だが結果として、彼は自分と無関係な他人を救うために、命を落としている。その者たちがその後どうなったのかは、分からない。
だが、それは関係ないのだ。
救おうと行動した、その事実にこそ意味がある。
故に――ルーデウス・グレイラットは、善人である。
そして今も、彼は無関係な他人を助けようとしていた。
そこに、多少の打算や勘違いがあったとしても。
◇
その日、ルーデウスは一人で、村の道を歩いていた。
これまでの行動範囲は、ほとんど家の中だけだった。だが、魔術を覚え、ロキシーの熱心な指導のおかげで、ようやく外を歩く自信もついてきた。
ならばまずは、村の地理くらいは覚えておこう。
そう思い立ち、夏の眩しい日差しの中、一人で歩き出したのである。
数日前に降った雨のせいだろう。踏みしめる小道のところどころには、まだぬかるみが残っていた。乾ききらない土の匂いに、青々とした草の匂いが混じる。木々の合間からは、蝉の声が絶え間なく降り注いでいた。遠くでは、鶏の鳴き声。
(悪くない。いい散歩日和だ)
ルーデウスは、満足げに小さく頷く。
――そこで、彼は目撃した。
バスケットを持った、緑髪の少年が。柄の悪そうな男たちに囲まれながら、歩いているのを。
「……モヒカンだ」
思わず、呟く。
少年を取り囲むように歩く男たちは、揃いも揃って、いわゆるモヒカン刈りという髪型をしていた。前世の不良漫画でしか見たことのない、あの姿である。
(だけど、肩パッドしてない)
(野生の……モヒカンだ!)
一瞬、場違いな感心をしてしまう。
だが、すぐに思い直す。
(いや、それどころじゃない)
男たちは、少年へ親し気に話しかけながら歩いている。鹿せんべいを少しでも多く食べようと、観光客にむらがる鹿のようだ。
しかし、ルーデウスは知っている。
前世で嫌というほど見てきた光景だ。一見、無害な鹿のふりをしながらも、奴らの目は笑っていないし、凶暴だ。少しでもこちらが油断すると、根こそぎ鹿せんべいを奪っていくのだ。
(鹿に囲まれた奴をかばったら、次の日からは、俺が囲まれてたよ。周りの奴らは見てるだけだった。サザエさん、歌いながらな)
(その時、思ったね。
男たちの一人が、少年の持つバスケットへ、無遠慮に手を伸ばす。
(――ほらな)
ルーデウスは、少年から目を逸らし、きた道を引き返そうとする。頑張れよ、少年。と後ろ手に手を振って。
声が聞こえた気がした。
「
気付いた時には、ルーデウス・グレイラットは、走り出していた。
少年を助けるために。それしか、頭になかった。
ロキシー以来、二度目の、運命の輪が回りはじめた。
◇
走りながら、道端に残っていた水溜りへ目をやる。数日前の雨が残していった、あのぬかるみだ。
無詠唱。この世界へ来て、彼が独学と実践の中で磨き上げた、数少ない武器の一つ。水を含んだ土を魔術で一気に練り上げ、瞬時に握り拳ほどの塊へと圧縮する。
狙うは、一番体格の良いモヒカン――便宜上、モヒカンAとしよう――の後頭部。
ぼしゅっ。
軽い音とともに、泥玉が命中した。
「うわっ、なんだ!?」
盛大に怯むモヒカンA。
(よし、次だ!)
ルーデウスは、目だけで残りの標的を追う。
「
モヒカンAが、悲鳴に近い声で叫んだ。
その一言に呼応するように、他のモヒカン二人が、ルーデウスと緑髪の少年の間へ割り込もうと、勢いよく飛び出してくる。
「遅い!」
ルーデウスが言い終える、その前には。
モヒカンB、Cの顔面には、すでに泥玉が炸裂していた。
「ぶぼっ!?」
「な、なにがぁ!?」
視界を奪われ、慌てふためくモヒカンたち。
それでも、彼らはルーデウスの前へ立ちふさがろうとする。
だが――そこに、ルーデウスはいない。
父パウロに叩き込まれた足捌き。重心を最小限しか動かさず、相手の視界の外側へ滑り込むように回り込む。前世の記憶にある「フットワーク」という言葉が、頭の片隅をよぎった。
気付けば、ルーデウスはすでに少年の横に立っていた。
「えっ?」
驚く少年の手を、そのまま掴む。
慌てたモヒカンの一人が、ルーデウスを捕まえようと手を伸ばす。しかしその足元は、いつの間にか泥濘へと変わっていた。地面に染み込んでいた雨水を、魔術で一気に呼び戻したのだ。
「うおっ!?」
ずぶり、と足が沈む。
これもまた、ルーデウスの魔術だった。
「て、てめぇ……!」
「姐さんを離せぇぇぇ!」
モヒカンたちが、口々に何かを喚いている。
だが、それを丁寧に聞いてやる義理は、ルーデウスにはなかった。
「逃げるんだよォォォーーーッ」
少年の手を引き、その場を全力で駆け出す。
◇
夏の生ぬるい風が、汗ばんだ頬を撫でていく。
背後からは、モヒカンたちの怒声――というより、悲鳴に近い声が、次第に遠ざかっていった。
「あ、あの……!」
手を引かれながら、少年が声を上げる。
「し、心配しなくていい!」
ルーデウスは、前を向いたまま叫んだ。
「もう大丈夫だ、俺が助けてやったからな!」
その口ぶりには、隠しきれない誇らしさが滲んでいた。
――前世で、こんな風に誰かを助けたことなど、一度もなかった。
心の奥に、ずっとくすぶっていた後悔。自分と無関係な誰かのために動いた、あの最期の瞬間。その続きを、今なら生きられる。そんな高揚感が、胸の中で膨らんでいく。
少年――シルフィは、困惑した顔のまま、手を引かれるがままになっていた。
(……え。なに。これ、どういう状況?)
(僕、こんなに勢いよく手を引かれたの、初めてかも)
内心では、混乱の極みにあった。
たしかに、あのモヒカンたちには少し困っていた。
村の子どもたちは皆、アンナのことを「ボス」と呼び、恐れながらも慕っている。だが、あの目付きの鋭いボスに気軽に話しかけられる子どもは、そう多くない。
だからこそ、他の子どもたちがアンナに叱られそうになったり、気圧されて縮こまったりするたび、いつも間に入って庇ってくれるのがシルフィだった。
その気安さと面倒見の良さゆえに、子どもたちからは「姐さん」と呼ばれ、妙に慕われる立場になってしまった。
悪い気はしない。むしろ、有り難いとさえ思う。
けれど。
(僕は、ただ普通の友達が欲しいだけなんだけどな……)
「姐さん、荷物持ちますよ!」
「姐さん、今日も可愛いっす!」
「姐さんのためなら、モヒカンにだってなります!」
――正直、少し、いや、かなり重い。
慕われるのが嫌なわけではない。だが、対等な「友達」というより、まるで従者か護衛のような距離感になってしまうのは、シルフィにとって少しだけ寂しいことだった。
そんな折。
まったく事情を知らない、初対面の少年が現れ、当然のように「やってやった!」という顔で、自分の手を引いて走っている。
(……もしかして)
シルフィの胸の奥に、小さな期待が芽生えた。
(この子となら――)
(普通の、友達になれるかも)
そう思うと、不思議と、悪い気はしなかった。
◇
しばらく走り、村の外れにある大樹の丘の上で、ようやく二人は足を止めた。
肩で息をしながら、ルーデウスは満足げに胸を張る。
「ふぅ……。もう大丈夫だ」
振り返り、少年へ笑いかける。
「怖かっただろ? もう安心してくれ」
少年――シルフィは、ぽかんとした顔で、そのルーデウスを見つめていた。
やがて、小さく口を開く。
「……あの」
「ん?」
「あの、えっと」
言葉を選ぶように、視線を彷徨わせる。
(どこから、説明すればいいんだろう)
(実はあれ、苛められてたわけじゃなくて……)
だが。
目の前の少年の、あまりにも清々しい笑顔を見ていると。
(……まあ、いっか)
なんとなく、その説明を後回しにしたい気持ちになった。
「……ありがとう」
結局、シルフィはそう答えるに留めた。
その返事に、ルーデウスは満足げに何度も頷く。
「気にするな! 困ってる人がいたら助ける。当然のことだ」
胸を張るその姿に、シルフィは思わず、くすりと笑った。
(……あ、名前)
(そういえば、まだ名乗ってなかった)
「そういや、名前を聞いてなかったな」
ルーデウスが、思い出したように言う。
「俺は、ルーデウス。よろしくな」
(……向こうはちゃんと名乗ってくれた)
(僕も、ちゃんと名乗らなきゃ)
そう思うと、急に鼓動が速くなった。
友達になりたい。
その気持ちが強すぎたせいか、いざ口を開こうとすると、喉の奥が締め付けられるように強張った。
「……シル、フィ……エ……」
尻すぼみに、声が小さくなっていく。
最後のあたりは、自分でもよく聞き取れないほどの、掠れた呟きになってしまった。
「シルフ、か」
ルーデウスが、小さく繰り返す。
聞き取れたのは、その部分だけだったらしい。
(……あ)
訂正しようと、口を開きかける。
だが。
「いい名前だな」
ルーデウスは、にっと笑った。
「なんだか、風の精霊みたいだ」
その一言に。
シルフィの頬が、かっと熱くなる。
(……)
(べつに、訂正しなくても、いいか)
なんとなく、そのままにしておきたい気分になった。
「う、うん」
小さく、頷く。
「よし。じゃあ、シルフって呼ぶな」
「……うん」
「あ、そうだ」
ルーデウスは、ぽんと手を叩いた。
「俺のことも、ルディって呼んでいいぞ。友達には、皆そう呼ばせてる」
「……ルディ」
口の中で、その響きを転がしてみる。
(……友達)
(ルディが、僕のことを、そう呼んでくれた)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
愛称で呼び合う。それはまるで、本当に仲の良い友達同士のような響きだった。
(……なんか)
(これ、いいな)
シルフィの内心は、これまでにないくらい、浮き立っていた。
「よろしくな」
差し出された小さな手を、シルフィはそっと握り返す。
夏の日差しの下、二つの小さな影が並ぶ。
その光景は、まだ何も知らない、たった一つの出会いに過ぎなかった。
しかし――この出会いが、後にどれほど大きな波紋を、この村に呼ぶことになるのか。
このときの二人は、まだ知る由もなかった。
◇
ふと。
シルフィは、自分の腕にぶら下がったままのバスケットへ目を落とした。
(……あ)
すっかり忘れていた。
これは、森の見張り櫓にいる父――ロールズへ届けるはずの、昼食だった。
魔物が森から出てこないかを見張るため、今日はロールズが交代で櫓に詰めている。その合間に、腹を空かせないようにと、母から言いつかって届けに出た帰り道――いや、行きの道中だった。
(……のんびりしてる場合じゃなかった)
だが。
ちらりと、隣のルーデウスを見る。
満足げに笑う、その横顔。
(……まあ)
(少しくらい、いいか)
不思議と、急ぐ気持ちにはならなかった。
◇
一方、その頃。
泥だらけになったモヒカンたちは、村の広場へ向かって、必死に走っていた。
「た、大変だ……!」
「姐さんが……!」
「姐さんが、攫われたァァァ!」
先頭を走るモヒカンAが、息も絶え絶えに叫ぶ。
「ボスに、報告だ……!」
「急げ、急げェェェ!」
三人のモヒカンたちは、転げるように広場を駆け抜けていく。
その先に待つのは――彼らが誰よりも恐れ、そして誰よりも慕う、あの「ボス」だった。
◇
アンナを見つけたモヒカンの報告は、あまりにも端的だった。
「姐さんが、拐われた」
肩で息をしながら、要点だけを吐き出す。
襲われた場所。連れ去られた方向。相手の外見的特徴。そして――魔法を使う、ということ。
余計な言葉は、一つもなかった。
戦場において、無駄な修飾など、時に人の命を奪う。それを、この村の子どもたちは、いつの間にかアンナから叩き込まれていた。
アンナが、その報告を聞きおえた、瞬間。
ドン!
大地が、爆発したかと思うほどの音が、辺りへ響き渡った。
砂埃が、舞い上がる。
音が収まった時には――そこに、アンナの姿は、なかった。
残されていたのは、地面に深々と刻まれた、踏み込みの跡だけ。
モヒカンたちは、一瞬。
アンナの姿が、忽然と消えたことに、ぽかんとする。
だが、その驚きは、すぐに、安堵へと変わった。
(……これで)
(姐さんは、助かる)
誰からともなく、そう確信していた。
彼らのボスが、動いた。
それはすなわち――もう、何も心配することはない、ということと、同義だった。
◇
一方。
そんな騒ぎなど知る由もなく。
ルーデウスとシルフィは、夏の陽射しの下を、楽しげに歩いていた。
お使いの途中――弁当を届ける道中である。
けれど、二人とも、そんなことはすっかり忘れかけていた。
会話が、楽しくて仕方ない。
「それで、それで!」
ルーデウスが、身を乗り出す。
「その時、ロキシー先生が――」
「あはは、それは、災難だったね」
道端の草を蹴りながら、シルフィが笑う。
何気ない話題。他愛もない、日常の一コマ。
それだけのことが、二人にとっては、これ以上ないほど嬉しかった。
――お互いにとって、初めてできた「友達」だったからだ。
ルーデウスは、特に、この状況に浮かれていた。
(……友達だ)
(イマジナリーじゃない、友達ができた)
前世を含めても、こんな風に、対等な立場で気楽に話せる相手など、いなかった気がする。
(これで、もし二人組を作れとか言われても)
(ぼっちになる心配はねぇ)
内心、こっそりとガッツポーズを決める。
さらに。
(……それに)
ちらりと、隣を歩くシルフィを見る。
整った顔立ち。柔らかそうな緑の髪。美少女といっても憚らない。正直、かなり整った容姿をしている。
(こいつと仲良くしてりゃ)
(お零れに与って、俺にも彼女できたりしねぇかな)
(……助けて、良かったぜ)
打算まみれの笑みが、口元へ浮かぶ。
◇
そんな中。
シルフィが、ふと、思い出したように口を開いた。
「そういえば、僕――」
「双子の姉が、いるんだ」
「――え」
ルーデウスの動きが、ぴたりと止まる。
「そこ、詳しく!」
食い気味に、詰め寄った。
「わ、わっ!?」
その勢いに、シルフィが思わず後ずさる。
「な、なに、急に」
「いいから! 詳しく!」
目を、爛々と輝かせるルーデウス。
シルフィは、少し驚きながらも、苦笑しながら語り始めた。
「えっと……姉さんは、アンナっていって」
「目元がキリッとした、美人でさ」
「すごく優しくて――僕、大好きなんだ」
その言葉を聞いた瞬間。
ルーデウスの脳内で、何かが盛大に弾けた。
(……美人)
(優しい)
(大好き)
三拍子、揃った。
(お近づきに……なりたい)
気付けば、頭の中では、まだ見ぬ「アンナ」との、輝かしい未来予想図が展開され始めていた。
見知らぬ美女と目が合う。互いに惹かれ合う。二人並んで、夕暮れの丘に腰掛ける――。
(アンナさん……俺と、お付き合いしてください……)
(わたしで、いいの……?)
「倍プッシュだ!」
一人、恍惚とした表情を浮かべるルーデウス。
◇
「……あ」
その時。
シルフィが、小さく声を上げた。
「ん? どうした?」
妄想の海から、ルーデウスが引き戻される。
「な、なんでもない」
シルフィは、なぜか少し申し訳なさそうに、小さく笑った。
「……そっか」
ルーデウスは、特に気にする様子もなく、再び歩き出す。
だが。
その一瞬。
ほんの一瞬だけ、ルーデウスの肌に、妙な感覚が走った。
(……あれ?)
隣を歩く「シルフ」の気配が、ほんの僅かに、重なって感じられた。
まるで、一人分だったはずの足音が、一瞬だけ、二人分に聞こえたような。
(……気のせいか)
すぐに、その違和感は消えてしまう。
ルーデウスは、深く考えることもなく、再び友人との会話に意識を戻した。