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翌朝、第一高校へ向かう通学路を歩きながら、睦月綾人は昨夜から何度目になるか分からない溜息を吐いた。
「……平穏な高校生活って、どこに売ってるんだろうね」
隣を歩いていた柴田美月が困ったように笑う。
「少なくとも、睦月君が言うと説得力がないような気がします」
「柴田さんまでそんなこと言うの?」
「す、すみません。だって……」
昨日までなら、美月もこんな冗談を返す余裕はなかっただろう。だが昨夜、綾人のセーフハウスで英霊やサーヴァント、八人のマスターによる聖杯戦争について説明を受け、さらに呪腕のハサンとも直接言葉を交わしたことで、少なくとも「自分が何に巻き込まれているのか分からない」という恐怖は薄れていた。
もちろん、危険そのものが消えたわけではない。だから今日も綾人は美月の護衛を兼ねて登校している。
周囲には一般人しか見えないが、少し離れた建物の上から呪腕のハサンが二人を追っていた。気配遮断を使用したアサシンの存在を普通の人間が察知することは困難だ。
問題は、その『普通』に美月が含まれないことだった。
美月がふと上を見た。
『……主殿』
呪腕から念話が届く。
『どうしたの?』
『美月殿が、また此方をご覧になりました』
綾人は思わず上を見そうになり、寸前で耐えた。
『呪腕さん、気配遮断してるよね?』
『無論』
『……相性って残酷だな』
短い沈黙の後、呪腕から何とも言えない声音が返ってきた。
『修練不足ではないと信じたいところです』
『俺は信じてるよ』
「睦月君?」
「ううん。何でもない」
美月は少し不思議そうにしたものの、それ以上は尋ねなかった。昨日の百貌による接触以降、怪しい気配は確認されていない。だが綾人はそれを「第三陣営が諦めた」とは考えていなかった。
むしろ逆だ。
一度こちらの防衛能力を把握した以上、同じ方法を繰り返す可能性は低い。次に動くなら、別の手を使う。
そう考えていた時だった。左手に僅かな熱を感じた。
「……?」
令呪ではない。その奥にある自分の身体に埋め込まれた擬似聖杯から、一瞬だけ魔力が揺れた。
直後、綾人の携帯端末へ見覚えのない形式の通知が表示された。
《監督役より第一陣営マスターへ通達》
綾人は足が止まりかける。
「睦月君?」
「……いや、大丈夫」
美月を不安にさせないよう歩き続けながら、綾人は表示を開いた。そこに記されていた内容を読み進めるにつれて、表情から少しずつ軽さが消えていった。
《第三陣営による非参加者・柴田美月への意図的接触を確認》
《当該行為を聖杯戦争運営規定に抵触する可能性のある行為として認定》
《第三陣営マスターへ正式警告を実施》
《同種行為が再確認された場合、保有令呪二十四画のうち八画を強制没収する》
綾人は歩きながら目を細めた。
――やっぱり見ていたのか。
昨夜、第三陣営から追撃がなかった理由がこれで分かった。しかし安心よりも先に、別の疑問が生まれる。
監督役は百貌の行動を把握していただけじゃない。第三陣営へ警告を送り、令呪を没収出来ると明言している。
令呪は各マスターへ与えられたサーヴァントへの絶対命令権であり、今回の聖杯戦争では一人二十四画。それを外部から強制的に奪えるということは、監督役が単なる審判役ではないことを意味していた。
『主殿。いかがなされましたか?』
『さっき監督役から連絡が来た。昨日の件で第三陣営に警告したらしい』
『ほう』
『次に同じことをすれば、令呪を八画没収するってさ』
呪腕からの返答が僅かに遅れた。
『……八画、ですか』
『大きいよね』
『一騎につき三画。それを八画となれば、軽視出来る処分ではありますまい』
『問題はそこじゃない』
綾人は画面を閉じた。
『監督役は令呪をどうやって奪う?』
今度こそ呪腕は答えなかった。と言うより、答えられないのだ。
聖杯戦争を管理している。それだけなら理解できる。だが、令呪そのものへ干渉できるとなれば話は変わる。
監督役は、何処までこの聖杯戦争のシステムに繋がっている?
その疑問は、学校へ到着するまで綾人の頭から離れなかった。
◇
教室へ入ると、昨日までとは少し違う空気が待っていた。
「おはよう、綾人君」
雫だった。
「おはよう」
返事をしてから、綾人は一拍遅れて気づく。昨日までは「睦月君」だった。二年前のことを明かした後から彼女の中で何か変わったらしい。
「お、おはよう、綾人君」
ほのかも続く。
「おはよう、ほのか」
「……っ」
何故かほのかが僅かに固まった。その反応を見て綾人は少し申し訳ない表情をする。
「ごめん。名前で呼ぶのは駄目だったかな?」
「そ、そんな事ないよ!」
少し離れたところで雫がじっと親友を見ていたが、何も言わなかった。
「おはようございます、綾人さん」
今度は深雪が挨拶して来た。しかも、彼女も綾人を名前で呼んだ。
「おはよう、司波さーー」
「…………」
「み、深雪」
「はい」
いつもの様に苗字で呼ぼうとしたら無言の圧力を感じたので急遽名前で呼んだ。それを聞いた深雪は満足そうな笑みを見せる。
深雪はいつも通り優雅に微笑んだが、昨日正式に生徒会へ加入することが決まったためか、どこか気持ちが引き締まっているようにも見える。
そして達也は風紀委員会に加入。綾人自身は何故か生徒会長と風紀委員長の双方から勧誘され、最終的に両方の協力要員枠に収まった。
「睦月君!」
「ん?」
教室の反対側から声が飛んできた。エリカだった。
「昨日、渡辺先輩と模擬戦したって本当!?」
「えぇ。情報回るの早くない?」
「で、勝ったって?」
「誰から聞いたのさ」
「秘密」
(達也辺りかな)
楽しそうな顔をしている。その隣ではレオまで興味津々だった。
「しかも圧勝だったって話じゃねえか」
「だから、話が広まる速度おかしくない?」
「風紀委員長に勝った一年生なんて、そりゃ話題になるだろ」
「俺は静かに暮らしたいんだけど」
エリカが呆れたような顔をする。
「昨日あんな戦い方しておいて?」
「成り行きだったんだけど」
「じゃあ今度は私とやりなさい」
「何でそうなるのかな」
「前から言ってるでしょ。あんたの剣、ちゃんと見てみたいって」
「昨日使ったの格闘だけど」
「だから剣も見たいの」
「要求が増えてない?」
美月が小さく笑った。昨夜までの緊張が少し抜けている。それを確認し、綾人も僅かに安心した。
「そういえば綾人」
達也が口を開く。
「昨日のCADについて聞きたい」
「達也まで?」
「中条先輩ほどではない」
「あの人と比較するのは反則じゃない?」
昨日の中条あずさを思い出す。『玩具箱』が綾人自身の設計し製造したオリジナルCADであり、九つの形態を持つと知った瞬間の彼女の興奮は凄まじかった。
結局、時間の都合もあって全形態を見せることはなかったが、その代わり「今度詳しく見せて」という約束を半ば強制的に取り付けられている。
「変形出来る形態は全てで九種類だったか」
「そうだよ」
綾人は左手首のブレスレットへ触れた。普段の『玩具箱』はこの状態だ。
「第一形態が両手剣。第二形態が双剣だけど二本を連結すれば双刃剣としても使える。第三形態が槍、第四形態が盾、昨日使った籠手・具足が第五形態」
達也は静かに聞いている。
「第六形態が銃。第七形態が三節棍で、そっちも固定すれば長棍としても使える。第八形態が大鎌。最後の第九形態が弓だよ」
「用途ごとにCADそのものを変形させるのか」
「そうなるね。双刃剣と長棍は別形態じゃなく、それぞれ第二と第七形態の派生機構だけど」
「九種類の異なる戦闘距離に、一つのハードウェアで対応する設計……」
達也の視線が玩具箱へ向く。その目が明らかに技術者のものへ変わった。
綾人は嫌な予感がした。
「達也」
「何だ」
「中条先輩みたいにならないでね」
「安心しろ」
即答だった。
「分解までは要求しない」
「『までは』って何?」
深雪が口元へ手を添えて笑う。
その時、予鈴が鳴った。
「続きは後だ」
「続くんだね……」
綾人は肩を落としながら自分の席へ向かった。
平穏な学校生活。やはりどこか遠いところにあるらしい。
◇
昼休み。
綾人が校舎屋上へ上がると、そこにはすでに一人の少女が待っていた。第一高校の制服ではない、都内では有名な私立学校の女子制服だった。
その正体は、水原陽奈。
八人いるマスターの一人であり、現在のところ綾人が最もまともに話し合える相手だった。
「こんにちは、陽奈さん」
「『こんにちは』じゃないよ。学校に他校の女子を呼び出すって結構大胆だと思うんだけど」
「別に変な意味じゃないですよ。念の為に人払いと気配遮断の結界張ってますし」
「分かってる」
陽奈は苦笑した。その周囲にサーヴァントの姿は見えない。しかし綾人には近くにいるのを感じていた。
それは此方も同じで、綾人の影には呪腕のハサンが潜み、少し離れた位置にはメルトリリスが霊体化して控えている。
「監督役から連絡来た?」
綾人が尋ねると、陽奈の表情が変わった。
「来ました」
やはり、他マスターにも通知が届いていた様だ。
「第三陣営の件?」
「詳しい内容までは書かれてなかった。ただ、非参加者を意図的に巻き込んだ陣営へ警告を行ったことと、違反を繰り返した場合は令呪の強制没収があるって」
「俺にはもう少し具体的に来ました」
綾人は昨夜の出来事を、機密に触れない範囲で説明した。
美月が百貌のハサンに追跡されたこと。彼女の眼がサーヴァントを認識できるため、能力を調べようとしたらしいこと。呪腕が百貌を迎撃し、自分も介入したこと。
そして監督役が第三陣営へ正式警告を行ったこと。
話を聞き終えた陽奈は、眉を寄せた。
「……その子、聖杯戦争とは関係ないんだよね?」
「少なくともマスターじゃないですし、本人の意思で参加したわけでもないです」
「だったら狙うのは駄目でしょ」
陽奈の答えは早かった。綾人は小さく頷く。
「陽奈さんならそう言うと思ってました」
「何それ」
「いや。確認ですよ」
「私だって願いはあるよ」
陽奈は屋上のフェンスへ背を預けた。
「だから聖杯をどうでもいいと思ってるわけじゃない。でも、関係ない人を巻き込んでまで欲しいとは思ってない」
風が彼女の髪を揺らす。
「それより気になるのは監督役の方かな」
「やっぱり?」
「令呪を没収出来るって、かなりおかしいよね」
陽奈も同じところへ辿り着いていた。
「私達の令呪って、擬似聖杯と繋がってるんでしょ?」
「おそらくそうですね」
「なら監督役が令呪へ直接干渉出来るって事は……」
「擬似聖杯にも干渉出来る可能性がある」
二人の声が重なった。
沈黙する中、綾人は腕を組む。
「まだ仮説ですけど」
「でも考えておいた方がいいと思う」
「同感です」
陽奈は少し考え込んだ後、綾人を見る。
「ねえ、綾人君」
「はい」
「私達、もう少し情報共有しない?」
綾人はすぐには答えなかった。
現在、彼女とは別に敵対しない。それがこれまで二人の間で交わされていた最低限の約束だった。
しかし情報共有となれば一段階違う。互いの陣営へ踏み込むことになる。
「同盟を組みたいって事ですか?」
「そこまでは言わない」
陽奈も慎重だった。
「サーヴァントの真名とか宝具とか、そういう情報まで交換する必要はないと思う。もう知られてる子もいるけどね」
「エルキドゥとか」
「王様が盛大に暴れてくれたからね」
「それは謝ります」
「綾人君が謝るところ?」
二人とも少し笑った。
「監督役についての情報。それから他のマスターが一般人を巻き込みそうな時。あとは……聖杯戦争そのものについて変なことが分かった場合」
陽奈の提案は合理的だった。綾人にとっても利益が大きい。
「良いですよ」
「即答するの?」
「陽奈さんなら信用出来る範囲だと思ってますから」
陽奈が一瞬目を丸くする。
「……そう言う事、普通に言っちゃうんだ」
「何がです?」
「何でもない」
陽奈は少しだけ顔を逸らした。
『本当にそういうところよ、貴方』
メルトから念話が届く。
(何がさ)
『もう黙ってなさい』
また怒られてしまった。しかし、綾人には怒られた理由は分からない。
「じゃあ決まりね」
陽奈が手を差し出した。綾人もその手を握る。
正式な同盟ではない。互いのサーヴァントや擬似聖杯を預けるほどの信頼関係でもない。
ただし。八つの陣営の中で初めて、二人のマスターが明確な情報協力関係を築いた瞬間だった。
『主殿』
その時、身を潜んでいた呪腕が声を出す。それを聞いた綾人の表情が瞬時に変わる。
(どうした?)
『……視線を感じます』
綾人は表情を動かさないまま、陽奈の手を自然に離した。
『百貌?』
『否』
返答は即座だった。
『百貌の者どもとは気配の質が違います。それに、距離が遠い』
『どのくらい?』
『正確な位置の特定には至りませぬ。相当に距離を取っております』
綾人の目が僅かに細くなった。アサシンである呪腕が、存在には気づいても正確な場所を割り出せない。ならば相手は下手な監視者ではない。
「綾人君?」
陽奈が小さく尋ねる。
「自然にしてて下さい」
その一言だけで、陽奈も状況を察した。彼女は表情を変えず、先ほどまでと同じようにフェンスへ背を預ける。
『誰かいるの?』
『はい』
声は出さず、唇だけを僅かに動かす。その直後、陽奈の側からも念話が飛んでいた。
(エルキドゥ。何か感じる?)
『うん。いるね』
エルキドゥからの返事は直ぐに来て、陽奈の瞳が僅かに細くなる。
『かなり遠い。此方に敵意を向けてはいないけど、見られている』
『場所は?』
『探せると思う。でも、探した事を向こうにも気づかれるかもしれない』
陽奈は追跡を命じなかった。同時に綾人も同じ結論へ至る。
「追わない方が良いですね」
「私もそう思う」
二人は小声で確認した。監視している者が第三陣営とは限らない。こちらに気づかせて反応を測っている可能性もある。
そして何より、綾人と陽奈が今この場所で一緒にいる以上、下手に動けば互いの戦力配置まで相手へ教えることになる。
だが二人は知らなかった。
その判断そのものが、既に監視者によって観察されていることを。
◇
第一高校からかなり離れた高層建築物。
その屋上に、一人の男がいた。
学校から肉眼でその姿を確認することなど到底できない距離。
それにもかかわらず、男の視線は正確に第一高校の屋上へ向けられていた。
鍛え抜かれた肉体。落ち着いた眼差し。
そこに焦りも、敵意も無かった。
その正体は、これまで身を潜んでいた第四陣営に所属するその八騎の一角。
アーチャーのサーヴァント、『ケイローン』である。
「……気づきましたか」
ケイローンは静かに呟いた。
弓を構えてはいない。矢も番えていない。あくまで今回の目的は狙撃ではなく偵察。第四陣営のマスターから与えられた指示も、第一陣営および第二陣営と思われるマスターの情報収集だった。
ケイローンは視力だけに頼っているわけではない。アーチャーとしての卓越した索敵能力、地形把握、魔力感知、そして何より、神代において数多の英雄を育てた賢者としての観察眼。
それらを総動員し、遠距離から二人を見ていた。
「第一陣営のマスター、睦月綾人。そして第二陣営、水原陽奈……」
すでに名前は調査済みだった。しかし資料で人物を知る事と、実際の行動を見ることはまるで違う。
ケイローンが見ていたのは、単に二人が会話しているという事実だけではない。
立ち位置。互いの距離。表情。警戒の方向。
そして、姿こそ完全には捉えられないものの、それぞれの周辺に存在するサーヴァントの気配。
「第一陣営には、アサシンと思われる護衛が一騎……それともう一騎、性質の異なる霊基も近い」
呪腕のハサンとメルトリリス。ケイローンはその二騎の真名までは分からない。だが二騎が綾人を守っていることは読み取れる。
一方の陽奈。
こちらにも複数の気配がある。その中で特に警戒すべきものを、ケイローンは敏感に感じ取っていた。
「……これは」
ほんの僅かに目を細める。
自然そのものと溶け合うような異質な気配は、通常の英霊とはどこか違う。だが今は無理に正体を探らない。
相手の真名を推測する材料が足りない段階で結論を急ぐのは、教師としても戦士としても悪手だった。
ケイローンは再び綾人へ意識を戻した。先ほどから、綾人の様子が変化している。
露骨ではない。此方を探す為に首を巡らせることもなければ、屋上から身を隠すこともしない。
しかし僅かな重心の変化。視線の動き。そして陽奈との会話の切り替わり。
ケイローンは理解した。
「私の存在を察知したのは、彼自身ではなく護衛のサーヴァントでしょうか」
興味深い。
こちらは十分な距離を取り、敵意も殺気も向けていない。それでも察知された。アサシンがいるなら説明はつく。
だが、その後の対応がさらに興味深かった。
追ってこない。索敵範囲を無理に広げる様子もない。
「追跡しない……」
ケイローンの口元に、ごく僅かな笑みが浮かんだ。
「良い判断です」
存在に気づいたからといって、即座に追う。それは勇敢ではあるが、必ずしも賢明ではない。監視者の目的が分からない以上、追跡先に罠がある可能性を考慮するべきだ。
さらに現在、綾人と陽奈は互いの存在を一か所へ集めている。戦力を動かせば、監視者へ手札を晒すことにもなる。
綾人はそこまで考えたのだろう。
「戦闘能力だけではない様ですね、睦月綾人」
第四陣営が得ていた情報には、前日の第一高校での模擬戦についても含まれていた。
魔法科第一高校の一年生で一科生。極めて高度な近接戦闘能力を持ち、現代魔法にも精通している。さらに独自開発した可変式CADを保有。
だがケイローンが重視したのは、そうした表面的な能力だけではない。
危険を察知した時、何を優先するか。未知の敵を前にした時、どのような判断を下すか。共にいる相手へどこまで情報を伝えるか。
英雄を育ててきた彼にとって、人間の本質はそういう瞬間にこそ現れる。
「そして水原陽奈。彼女もまた、無謀ではない」
綾人だけではない。陽奈も、こちらの存在を知った後に即座の索敵や攻撃を命じなかった。
少なくとも二人とも、感情任せに戦闘を始めるタイプではない。
そして先ほど交わされた握手。内容までは聞き取れない。だが会談の雰囲気から敵対関係でないことは明白だった。
「第一陣営と第二陣営は、少なくとも現時点では友好的関係……正式な同盟かどうかまでは判断できませんが」
そこまで分析したところで、ケイローンは静かに後退した。
これ以上留まる必要はない。既に相手はこちらの存在を察知している。欲を出して観察を続ければ、今度こそ追跡される可能性が高くなる。
何より――。
「優れた偵察とは、得られる情報の限界を見極めることでもあります」
誰に聞かせるでもなくそう呟き、ケイローンは踵を返した。
◇
『……離れました』
屋上で呪腕の報告を受けたを聞いた綾人は小さく息を吐いた。
「追える?」
『可能性はあります。しかし相手も相当な手練れかと。追跡を察知される公算が高いでしょう』
「なら追わなくて良いよ」
即答する綾人に陽奈も頷く。
「私も同意。向こうが戦うつもりなら、もっと違う方法があった筈」
「遠距離から見てただけ……か」
綾人は屋上から街を見渡す。
何処にいたのか、それすら分からない。だが、妙な感覚が残っている。
百貌に見られていた時とは違う。あの時は能力を探られている不快感があった。
今回はもっと静かだった。
まるで――。
「観察されてたって言うより、試されてた感じだな」
綾人が呟きに陽奈が振り返る。
「試された?」
「何となくですけど。俺達が気づいた後どう動くかまで見られてた気がします」
「……嫌な相手ね」
「敵意がない分、余計に」
綾人は苦笑する。
『敵意がなかったからといって、味方とは限らないわよ』
メルトの声が届いた。
(分かってる)
『なら良いわ』
メルトはそれ以上言わなかった。陽奈もそろそろ自分の学校に戻らなければならない。
「じゃあ、今日は此処までだね」
「はい。さっき決めた情報共有は予定通りでお願いします」
「勿論」
陽奈は屋上の出口へ向かい、途中で振り返った。
「綾人君も気をつけてね」
「陽奈さんも」
扉が閉まる。綾人は一人残り、もう一度遠くの街並みを見つめた。
第一陣営。第二陣営。百貌のハサンを擁する第三陣営。
そして今、自分たちを監視していた新たな勢力。
まだ綾人は知らない。あの視線の主が第四陣営のアーチャーであることを。その真名が、自分のサーヴァントの一騎であるアキレウスの師匠であり、ギリシャ神話に名を刻む大賢者で名高いケイローンである事を。
◇
その頃。
既に第一高校から離れたケイローンは、第四陣営のマスターへ念話を繋いでいた。
『アーチャー。どうだった?』
「第一陣営と第二陣営のマスターが接触していることを確認しました」
ケイローンは余計な推測を混ぜず、観察した事実から順に報告する。
「敵対している様子はありません。会談中に握手も確認しました。何らかの協力関係を築いた可能性があります。ただし、現時点で正式な同盟と断定する材料はありません」
『第一陣営の睦月綾人は?』
「警戒すべき相手でしょう」
ケイローンは淡々と答えた。
それは強さへの恐怖ではなく、戦場における評価だった。
「私の監視には途中で気づきました。正確には、彼の周囲にいたサーヴァントが察知したものと思われます。しかし、気づいた後も無闇に此方を探そうとはしなかった。追跡も行っていません」
『臆病だからじゃなく?』
「寧ろ逆でしょう」
ケイローンは迷わない。
「未知の監視者を前に、情報不足の状態で不用意に動かない。自分だけでなく同行者の安全と、手札を晒す危険まで考慮した判断に見えました」
少し間を置く。
「加えて、彼の周辺には最低でも二騎のサーヴァントの気配がありました。一騎はアサシンと思われます。もう一騎については現時点では不明です」
『第二陣営は?』
「水原陽奈も慎重です。彼女の周辺にもサーヴァントがいます。その中に……少々特殊な霊基を感じました」
『特殊?』
「はい。ただし、今の情報だけで真名を推測するべきではないでしょう」
ケイローンはそこで報告を切った。推測と事実を混同しない。それが彼のやり方だった。
『分かった。戻ってきて』
「承知しました、マスター」
念話が切れる。
ケイローンは足を止め、一度だけ第一高校のある方角を振り返った。
「睦月綾人……」
幼少の頃から魔法師を相手とする実戦へ身を置いていた少年。
高度な魔法。極めて高い近接戦闘。独自のCAD。複数の英霊。そして、未知の相手を前にしても焦らない判断力。
戦士として興味深い。同時に、教師としても少しばかり興味を惹かれる少年だった。
「いずれ直接話してみたいものですね」
それが戦場で叶うのか。戦場以外で叶うのか。今はまだ分からない。
ケイローンは再び歩き出した。
綾人と陽奈は、第四陣営の存在を知らない。第四陣営もまた、二人の全てを知ったわけではない。
だがこの日。互いにまだ名乗り合うことすらなく、第四の陣営は確かに第一と第二を認識した。
極東大聖杯戦争。八人のマスターと六十四騎のサーヴァント。
表向きは何事もなく授業が続く第一高校の外側で、八つの陣営は少しずつ互いの存在へ手を伸ばし始めていた。
今回登場した新サーヴァントは第四陣営のアーチャー『ケイローン』でした。
アキレウス、出番ですよ。
もしケイローン先生とアキレウスの対決する場合、最終的には多分パンクラチオンの応酬になるのかもしれませんね。
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