剣道部と剣術部の乱闘が完全に鎮圧された後も、第一高校の放課後はしばらく落ち着きを取り戻さなかった。
幸いにも大きな負傷者は出ていない。剣術部員の何人かが魔法を使用しようとしたものの、そのすべてを達也が発動前に無効化し、綾人もケイローンから受けた指摘を取り入れた体術によって相手を必要以上に傷つけず制圧したため、事態の規模に反して人的被害は軽微で済んでいた。しかし、それで「何もなかった」ということにはできない。部活動勧誘期間中、それも多くの新入生が見ている前で剣道部と剣術部が集団で衝突し、一部とはいえ魔法まで使用されかけたのだ。
風紀委員会は現場にいた双方の部員を分け、それぞれから事情を聴取した。騒動の中心となった壬生紗耶香と桐原武明についても別々に話を聞くことになり、現場を直接見ていた綾人と達也も当然、報告を求められた。
そして約一時間後。
「……なるほどね」
生徒会室の机を挟み、七草真由美が困ったように頬へ手を当てていた。その隣には風紀委員長の渡辺摩利。そしてもう一人、部活連会頭を務める十文字克人が腕を組んで立っている。
向かい側には綾人と達也。
綾人は一通りの説明を終え、微妙な居心地の悪さを感じながら三人を眺めていた。
(圧が凄いな)
生徒会長。風紀委員長。部活連会頭。第一高校の生徒自治組織における主要人物が揃っている。
別に怒られているわけではない。それどころか自分たちは乱闘を止めた側なのだが、この三人を前に並べられると、何となく職員室へ呼び出された気分になる。
「確認する」
克人が低く落ち着いた声で言った。
「発端は壬生と桐原の衝突。その後、剣道部と剣術部双方の部員が興奮し、集団での乱闘へ発展した。間違いないか?」
「はい」
「間違いありません」
達也が答え、綾人も頷いた。
「俺が着いた時には、もう止めに入らないと危ない状態でした。渡辺先輩の制止も最初はほとんど聞こえてなかったと思います」
摩利が腕を組む。
「まったく……毎年この時期は多少荒れるが、今年は度が過ぎている」
「勧誘で乱闘って、元気が有り余ってますね」
「睦月」
「はい」
「茶化すな」
「すみません」
真由美が小さく笑った。
「でも綾人君がそう言いたくなる気持ちも分かるわ。新入生を勧誘するための期間なのに、目の前で上級生同士が乱闘していたら逆効果でしょうし」
「俺が新入生だったら、その二つの部活は候補から外しますね」
「お前も新入生だろう」
摩利の指摘に、綾人は一瞬黙った。
「……そうですね」
「忘れるな」
「最近色々ありすぎて」
それは冗談のようでいて、半分以上本音だった。入学してからまだ大して時間も経っていないというのに、聖杯戦争が始まり、六十四騎ものサーヴァントが現れ、陽奈と接触し、ギルガメッシュとエルキドゥの戦闘が起こり、美月が第三陣営に狙われ、第四陣営のアーチャーであるケイローンと接触した。
その合間に生徒会や風紀委員会へ顔を出し、昔助けた雫やほのか、真由美とも再会している。まだ高校生活が始まったばかりとは、自分でも時々信じられなくなる。
勿論、その事情を此処で話すことは出来ない。
克人が達也を見る。
「魔法を使用しようとした剣術部員が複数いたと聞いている」
「はい」
「実際に魔法は発動したのか?」
「いいえ」
達也の返答は簡潔だった。
「全員、発動前に無力化しました」
一瞬、室内が静かになる。克人の目が僅かに細くし、真由美も達也を見る。摩利だけは現場を直接見ていたため驚きは少なかったが、それでも改めて聞けば異常な話である。
複数の魔法師が混乱の中で別々に魔法を発動しようとしている。それを一人で次々と無効化したのだ。
「どのように?」
克人が尋ねると、達也は僅かな間を置く。
「構築される魔法式へ干渉し、成立を阻害しました」
嘘ではない。しかしすべてを説明しているわけでもない。
克人は数秒、達也を見つめた。
「そうか」
それだけだった。無理に追及しない。綾人はその態度を横目で見ながら、十文字克人という人物への評価を少し上げた。聞くべき事と、今は聞く必要がないことを分けている。
「それで、睦月」
今度は摩利が綾人を見る。
「はい」
「お前は魔法を使用していないな?」
「はい。今回の件では使ってません」
「CADも?」
「出してません。全部素手です」
克人の視線が綾人へ移る。
「剣術部員を複数、素手で?」
「はい」
「怪我をさせずにか」
「軽い打撲くらいはあるかもしれませんけど、なるべく投げる時も受け身を取れるようにしました。関節も壊すところまでは極めてません」
「……壊すところまで?」
真由美が引っ掛かった。
「あ」
綾人は口を閉じる。摩利が額を押さえた。
「お前は時々、さらっと物騒なことを言うな」
「やろうと思えば、という意味です」
「それを物騒だと言っている」
「気をつけます」
真由美は苦笑していたが、その瞳は綾人を静かに観察していた。
二年前。非合法な魔法研究組織へ単独で侵入し、自分たちを救出した少年。当時十四歳だったはずの彼が、武装した魔法師たちを相手にしていた。今日の話を聞けば、その時の綾人がどうやって敵を制圧していたのか、その一端くらいは想像できる。
「渡辺」
克人が摩利を見る。
「睦月の動きは実際に確認したのか?」
「ああ」
摩利は即答した。
「以前、私自身が模擬戦で戦った時より洗練されていた」
「ほう」
「短期間で何をしたのかは知らないがな」
視線が綾人へ向く。
「何でしょう?」
「何も言っていない」
「目が聞いてますよ」
「では聞こう。何をした?」
「良い先生に教わりました」
「それは前にも聞いた。誰だ?」
「それは秘密です」
「やはりか」
まさか「アキレウスの師匠であるケイローン先生です」と答えるわけにはいかない。
真由美が楽しそうに綾人を見る。
「綾人君って、秘密が多いわね」
「七草先輩にだけは言われたくない気がします」
「あら、どうして?」
「何となくです」
「ふふっ」
真由美は笑っている。克人はそんな二人のやり取りには触れず、報告内容を整理するように僅かに目を伏せた。
「今回の件は部活連としても看過できない。処分については風紀委員会、生徒会とも協議する。特に魔法を使用しようとした者については、通常の部活動間の揉め事とは分けて考える必要がある」
「同意する」
摩利が頷き、真由美も表情を引き締める。
「壬生さんと桐原君についても、どうしてあそこまで衝突したのかを確認する必要があるわね。表面的な喧嘩だけ処理しても、原因が残っていたらまた起きるかもしれないもの」
達也は無言だった。
壬生紗耶香が抱えているもの。
一科生と二科生。第一高校に存在する制度上の区分と、そこから生まれる感情。
今回の衝突には、それが少なからず関係している。単なる剣道部と剣術部の対立として片付けるべきではない。
「司波」
克人が呼ぶ。
「はい」
「睦月」
「はい」
「二人とも、よく止めてくれた。あのまま魔法まで飛び交っていれば、負傷者だけでは済まなかった可能性もある」
真っ直ぐな言葉だった。
達也が軽く頭を下げる。
「ありがとうございます」
綾人も続いた。
「どうも」
「特に睦月」
「はい?」
「お前は風紀委員ではないと聞いた」
「そうなんですよ」
綾人が大きく頷く。
「十文字先輩からも渡辺先輩に言ってください。一般生徒を働かせすぎだって」
「睦月!」
摩利が声を上げる。
だが克人は真顔のまま数秒考え――。
「適性はあると思う」
「十文字先輩まで?」
真由美が吹き出した。
「ふふっ……綾人君、諦めた方がいいんじゃない?」
「七草先輩はどっちの味方なんですか」
「もちろん生徒会長として学校全体の味方よ?」
「絶対面白がってる……」
「そんなことないわ」
笑顔で言われても説得力がない。摩利は満足そうだった。
「では正式加入については後日――」
「話を進めないでください」
「頑固な奴だ」
「俺が悪いみたいに言わないでくださいよ」
張り詰めていた室内の空気が少しだけ緩む。それから必要な確認をいくつか済ませ、綾人と達也はようやく解放された。
生徒会室を出る直前。
「綾人君」
真由美に呼び止められ、綾人が振り返る。
「はい?」
「今日はありがとう」
先ほどまでの冗談交じりの声ではなかった。
「貴方達が止めてくれなかったら、本当に大きな事故になっていたかもしれないから」
綾人は一瞬だけ目を瞬かせる。それから、いつものように笑った。
「仕事を押しつけられた分は働きましたから」
「もう」
真由美が苦笑する。綾人は軽く手を上げ、生徒会室を後にした。
◇
校門を出る頃には、空は夕暮れの色に染まり始めていた。
「遅かったわね」
最初に声を掛けてきたのはエリカだった。
校門近くには深雪、レオ、美月、雫、ほのかが待っていた。
「あれ?待ってたの?」
綾人が尋ねる。
「達也さんと綾人君が事後報告に呼ばれたって聞いたから」
ほのかが答える。
「折角だから一緒に帰ろうって」
「悪かったな」
達也が言うと、深雪は微笑んだ。
「いいえ、お兄様。私たちも先ほどまで話をしていましたから」
「何の話してたの?」
綾人が何気なく尋ねる。
「綾人君の話」
エリカが答えた。
「よし、帰ろう」
綾人が即座に歩き出した。
「ちょっと待ちなさい!」
「聞かない方が幸せな話ってあるだろ?」
「逃げるな!」
レオが笑いながら二人の後を追う。こうして八人は並んで帰路についた。
「それで、結局何だったんだ?」
レオが達也に尋ねる。
「剣道部と剣術部の乱闘についての事後報告だ」
「やっぱりあれか」
「結構大きな騒ぎになってたみたいですからね」
美月が心配そうに言う。彼女たちは乱闘の現場へは来ていない。ただ、校内に広がる噂までは止められなかった。
既に「剣道部と剣術部が大喧嘩した」「魔法まで使ったらしい」「風紀委員が制圧した」など、尾ひれの付いた話が飛び交っている。
「魔法を使おうとした人がいたのは本当?」
雫が尋ねる。
「本当」
綾人が答える。
「でも発動はしてない」
「お兄様が止められたのですか?」
深雪の問いに達也が頷く。
「ああ」
深雪の表情が誇らしげになる。
「流石です、お兄様」
「深雪、大したことではない」
「お兄様にとってはそうかもしれませんが――」
兄妹のいつものやり取りが始まる。綾人はそれを眺めながら笑う。
「相変わらずだな」
「何がですか、綾人君?」
深雪が振り返った。
「いや、仲良いなって」
「当然です。お兄様ですから」
迷いがない。
「そっか」
「綾人君は?」
「俺?」
「今日は何をされたのですか?」
「俺は暴れてた剣術部の人たちを何人か止めただけだよ」
「何人か、ねぇ」
エリカが横から疑わしそうに見る。
「何さ」
「綾人の『何人か』って信用出来ないのよね」
「何で?」
「強い人って大体、自分の基準がおかしいから」
「偏見だよ」
「じゃあ何人?」
綾人は考える。
「覚えてないな」
「ほら!」
「人数数えながら喧嘩止める奴いないだろ」
レオが豪快に笑う。美月も口元を押さえ、ほのかまで笑っていた。雫は相変わらず表情の変化こそ小さいが、目元が僅かに柔らかい。
「でも」
雫が言う。
「怪我してない?」
「うん。してないよ」
「本当に?」
「本当」
「ならいい」
短い。だが綾人には、それが雫なりの心配だと分かっている。
「ありがとう」
そう答えると、雫は小さく頷いた。ほのかも安心したように微笑む。その様子を見た深雪の胸にも、僅かに複雑な感情が生まれた。
雫とほのか。
二人が綾人に特別な感謝を抱いている理由を、深雪は知っている。二年前に二人を救ったのが綾人だったから。
そして自分も同じだ。
三年前。自分の人生にとって決して忘れることのできない時に、彼は現れた。今はこうして普通の同級生として隣を歩いている。なんとも不思議な縁だと思う。
「そういえば綾人君」
エリカが言った。
「ん?」
「この間の話の続き」
「何だっけ」
「私との剣勝負」
「忘れてなかったか」
「忘れるわけないでしょ」
「記憶力良いなぁ」
綾人が空を見上げる。
「何よその反応!」
「俺、今日もう剣術部の人たち相手したんだけど」
「私は剣術部じゃないわ」
「知ってる」
「じゃあ問題ないでしょ」
「どういう理屈かな」
くだらない会話。いつもの下校。夕暮れの街。
このまま帰れば、夕飯を作って、サーヴァントたちと食卓を囲むことになるだろう。アキレウスあたりには今日の動きを見られたら、間違いなくケイローンの指導が早速役に立ったと喜ばれる。
出来れば黙っておきたい。
そんなことを考えていた時だった。制服の上着のポケットに入れていた端末が、一度だけ短く振動した。
綾人の足は止まらない。表情も変わらない。
だが、内心で気持ちを切り替える。
(――この振動は)
通常のメッセージではない。一定の間隔を置いた特殊な通知。綾人が政府から受けている非公開任務専用の回線だった。
「…………」
会話を続けながら、自然な動作で端末を取り出す。画面には一見すると何の変哲もない通知が表示されている。だが綾人が指紋認証に加え、決められた操作を行うと表示が切り替わった。
短い文章には緊急度と集合指定。
そして、任務要請。
綾人の瞳から、ほんの一瞬だけ高校生らしい柔らかさが消えた。
『魔法師殺し』。
裏社会の一部でそう呼ばれる自分に対する、政府からの依頼。内容の詳細は専用拠点で確認する形式になっている。
流石にこの場で開くことは出来ないと判断し、綾人は画面を閉じる。
「綾人君?」
ほのかの声。
「ん?」
「どうかした?」
「いや」
自然に笑う。
「ちょっと連絡来ただけ」
嘘ではない。問題は内容を言えないことだけだ。
しかし、達也が僅かに綾人を見る。
ほんの一瞬、端末を確認した時の綾人の目。それを見逃していなかった。だが何も言わない。
綾人はそのまま数分、皆と歩いた。直ぐ離れる方が不自然だ。曲がり角。駅へ向かう道。
そこで綾人は時間を確認するように端末を見る。
「悪い」
七人が振り返る。
「俺、ちょっと寄るところあったの忘れてた」
「寄るところ?」
エリカが尋ねる。
「買い物だよ」
「何買うの?」
「夕飯の材料」
「さっき帰ったら夕飯作るみたいなこと言ってなかった?」
「だから材料がいるんだろ」
「何か怪しい」
「夕飯の買い物を疑われる高校生って何だよ」
綾人が呆れたように返すと、レオが笑った。
「じゃあここで別れるのか?」
「うん。スーパーこっちだから」
自然な理由。実際、この先には食料品店もある。
「では綾人君、また明日」
深雪が言う。
「うん。また明日」
「綾人君、今日は本当に無理しないでね」
ほのかが言う。
「分かってる」
雫も綾人を見る。
「ちゃんと休んで」
「雫まで」
「昨日も何かしてたんでしょ?」
「……何で分かるんだ」
「顔」
「そんなに出てる?」
「少し」
綾人は頬へ触れる。
「気をつけよう」
「そこじゃない」
雫の冷静な指摘に、綾人は苦笑した。美月も小さく頭を下げる。
「また明日、睦月君」
「うん。また明日」
「剣勝負忘れないでよ!」
「エリカだけ別れの挨拶がおかしい」
最後までそんなやり取りを交わし、綾人は七人と別れた。
一人。反対方向へ歩き出す。
十メートル。二十メートル。
曲がり角を一つ越える。それでも歩調は変えない。
背後の気配を確認する。誰も追っていない。
一般人の視線。監視カメラ。車両。周囲の環境を自然に確認しながら進む。
「呪腕さん」
そして、小さく呼ぶ。
『ここに』
声だけが届く。姿は見えない。気配も殆どない。
「政府から仕事だ」
僅かな沈黙。
『聖杯戦争とは別件でございますか、主殿』
「そうだね」
『承知いたしました』
「皆の方、念の為見ててくれる?」
『柴田殿を中心に警戒を継続いたします』
「お願い」
『主殿は?』
「いつもの拠点に行くよ」
『護衛を一騎、お連れになった方がよろしいのでは』
「まだ仕事内容も分からないからな。聖杯戦争と関係ない政府案件にサーヴァントを連れていくと、逆に面倒になる可能性もある」
『確かに』
呪腕は納得した。
「危なそうなら呼ぶよ」
『必ずお呼びください』
「分かった」
気配が離れていく。そのまま綾人は歩き続けるとやがて大通りを外れ、人通りの少ない道へ入る。
表情から笑みが消える。姿勢そのものは変わっていない。
制服姿。一見みたらごく普通の高校一年生。だが纏う空気だけが少しずつ変化していく。
先ほどまでエリカと言い合い、レオと笑い、美月や雫やほのかと話し、深雪たちと並んで歩いていた少年とは違う。
睦月綾人には、二つの日常がある。第一高校一年A組の生徒としての日常。そして。政府から依頼を受け、表には出せない仕事を処理するもう一つの日常。
十分ほど歩いたところで、綾人は古い雑居ビルへ入った。外観だけなら特に目立たない。一階には閉店した事務所。二階も空室。三階には看板すらない。階段を上がる。廊下の最奥には何の表示もない扉。
綾人は一度周囲を確認すると、端末を取り出した。認証の電子音が鳴り、ロック解除された扉が開き、室内へ入る。
そこで漸く綾人は息を吐いた。
「さて」
鞄を机へ置き、制服の上着を脱ぐ。奥にあるロッカーを開ければ、学校生活とはまるで無関係な装備が整然と収められていた。
予備のCADや通信機器。簡易医療用品。任務用の衣服。身分を示すものはない。もし誰かに発見されても、第一高校の睦月綾人へ直接繋がる物は極力置かれていない。
綾人は壁際の専用端末へ近づき、複数の認証を通すと画面が点灯した。
《認証完了》
《政府指定協力員――睦月綾人》
表示が切り替わる。
『《新規依頼》』
綾人の目が細くなる。学校にいた時とは違う。先ほど剣術部員を制圧した時とも違う。相手が学生であれば、傷つけないことを最優先に出来る。
だが此処から先の世界では、相手が同じ配慮をしてくれる保証などない。
綾人は画面へ指を伸ばした。
「内容を確認するか」
画面をタッチして依頼書が開き始める。
同じ頃。綾人と別れた帰り道を達也は深雪たちと歩きながら、一度だけ後ろを振り返った。向けられた視線には既に綾人の姿はない。
「お兄様?」
深雪が不思議そうに尋ねる。
「どうかなさいましたか?」
「いや」
達也は前へ向き直る。
「何でもない」
ただの買い物。そう言った綾人を疑う理由はない。だが端末を見た一瞬。目つきが変わった。あれは夕食の材料を買い忘れた人間の目ではなかった。
それ以上、達也は考えない。自分にも秘密がある。綾人にもある。互いに踏み込むべきではない領域があることを、達也は理解していた。
一方、その頃の綾人は専用端末の前に立ち、表示されていく依頼内容を無言で読み進めていた。
学校での乱闘。聖杯戦争。更に政府からの裏の仕事。
一見すれば何の関係もない三つの世界を行き来しながら、睦月綾人の日常は今日も続いていく。だが画面に映し出された今回の依頼は、綾人が予想していたよりも遥かに厄介なものだった。
「……なるほど」
読み終えた綾人が、静かに呟く。
「今回は、そういう仕事か」
高校生の顔は、もうそこにはなかった。
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