評価もつけてくれると幸いです。
翌朝。第一高校一年A組の教室には、入学したばかりの生徒たち特有の落ち着かない空気が漂っていた。
昨日までは互いに名前と顔を一致させるだけで精一杯だったが、一日が経てば少しずつ会話も生まれ始める。教室のあちこちで小さな輪ができ、これから始まる高校生活への期待が声となって飛び交っていた。
「ふわぁ……」
そんな中、睦月綾人は自分の席で欠伸をしながら窓の外を眺めていた。
『眠そうね』
不意に頭の中へ響いたメルトの声に、綾人は表情を変えないまま念話を返す。
(流石に昨夜の事は堪えたかな。まさか王様とエルキドゥの戦闘規模があれ程とは思わなかった)
『口を出さなかった貴方の自業自得よ』
(手厳しいな)
即答したメルトリリスに、綾人は小さく息を吐いた。
昨夜、英雄王ギルガメッシュとエルキドゥが繰り広げた規格外の再会劇。その余波への対応や第二陣営のマスターである水原陽奈との接触。そして拠点へ戻ってからの情報整理まで行っていたため、睡眠時間は普段より短かく、三時間も寝れなかった。
幸い、監督役による情報操作は機能しているらしい。朝のニュースでも昨夜の異変は原因不明の局地的な地殻変動や魔法実験に関する憶測が飛び交う程度で、サーヴァントという存在に結びつける情報は確認出来なかった。
もっとも、魔法を軍事力として国家が管理するこの時代で、あれ程の異常を完全に隠し通すのは難しい。表向き収まっているだけで、裏側では間違いなく多くの組織が動き始めている。
「睦月君?」
突然、すぐ近くから声をかけられ、綾人は思考を中断する。
「ん?」
「少し眠そうですね」
深雪が心配そうに此方を見ていた。
「大丈夫ですか?昨夜、あまり眠れなかったとか」
「そんなところかな。少し夜更かしをしてね」
「夜更かし……」
深雪は少しだけ眉を寄せる。
「高校生活が始まったばかりなのですから、生活習慣には気をつけた方が良いと思いますよ」
「そうだね。次からは気をつけるよ」
妙に真面目な忠告に、綾人が申し訳なさそうに答える。流石に本当の事を話す訳にはいかない。
「……あの」
その時、横から控えめな声が聞こえた。
振り向いた綾人の視線の先には、二人の少女が立っている。一人は黒髪を短く整えた、小柄で落ち着いた雰囲気の少女。もう一人は柔らかな印象を持つ少女だった。
「北山雫。こっちは光井ほのか」
「光井ほのかです。よろしくお願いします」
「ああ。睦月綾人。よろしく」
ごく普通の自己紹介。
そのはずだった。
だが――北山雫は綾人の顔をじっと見つめていた。
「……?」
あまりにも真っ直ぐ見られるため、綾人が首を傾げる。
「俺の顔に何かついてる?」
「ううん」
雫は一度首を横に振った。それでも視線だけは外さない。
「ただ……何処かで会った事がある気がしただけ」
「え?」
声を上げたのは、雫ではなくほのかだった。彼女もまた、改めて綾人の顔を見つめる。その表情から、少しずつ笑みが消えていった。
「……私も」
「ほのか?」
「私も、睦月君の顔……何処かで見たような気がする」
二人から同時に見つめられ、今度は綾人が困惑する番だった。
「二人とも?」
その言葉と同時に、綾人の脳裏にも古い記憶が浮かび上がる。
今から二年前、綾人がまだ十四歳だった頃。政府筋から一件の極秘任務が回された。
表向きには若年魔法師の失踪事件だが、実態はより悪質だった。
非合法な魔法研究を行う犯罪組織が、将来有望な若い女性魔法師を複数拉致し、その魔法特性や遺伝的資質に関するデータを集めていたのである。
狙われたのは、必ずしも名家の人間だけではない。
強力な魔法力、希少な魔法適性、あるいは将来的に高い能力を発現する可能性を持つ少女たち。
その中に彼女達、北山雫と光井ほのかもいた。
*
今から約二年前。
雫が最初に覚えているのは、暗い部屋だった。窓はない。魔法によって強化された壁と扉。外部との通信を封じる妨害装置。
そして、魔法の発動を妨害する拘束具。
「……ほのか」
「雫……」
隣に座り込んでいたほのかが、不安そうに顔を上げる。二人は偶然一緒にいたところを襲撃され、そのまま拉致されていた。
雫は北山家の娘として護衛や誘拐対策について教えられていた。だからこそ、状況が絶望的であることも理解できてしまった。
護衛は分断され、発信機は潰された。施設の場所も分からない。CADも取り上げられて魔法もまともに使えない。
それでも雫は、隣にいるほのかの手を握っていた。
「大丈夫」
「……うん」
「絶対、誰か来る」
そう口にした雫自身、その言葉を何処まで信じていたのか分からなかった。だが、ほのかを怯えさせるわけにはいかなかった。
やがて廊下の向こうから足音が聞こえた。
二人の身体が強張る。扉の向こうに人影が立つ。
電子錠が解除され、重い扉が開いた。
入ってきたのは、犯罪組織の構成員ではなく少年だった。自分たちとほとんど年齢が変わらないように見える少年。
右手首には、簡素なブレスレット。服には埃がついていた。それなのに、その表情だけは奇妙なほど落ち着いていた。
「怪我は?」
それが、雫が初めて聞いた彼の言葉だった。雫もほのかも、すぐには答えられなかった。
当然だ。救援を期待していたとしても、現れるのは警察か軍、あるいは北山家の関係者だと思っていた。まさか、自分たちと大差ない年頃の少年が一人で入ってくるとは思わない。
「……誰?」
雫が尋ねる。
「君達を助けに来た」
少年はそれだけ答えた。そして二人の拘束具へ手を伸ばす。
「ちょっと待って、すぐ外すから」
不思議な少年だった。この状況で慌ててもいない。格好をつけてもいない。ただ当然のことをするように、自分たちを助けようとしている。
その時だった。
『侵入者、第三収容区に侵入!』
施設内に警報が鳴り響いた。
「……見つかったか」
少年が小さく呟く。
「え……?」
「大丈夫」
振り向いた彼は、雫とほのかへ軽く笑った。
「此処にいて。直ぐ戻るから」
その言葉を残して、少年は廊下へ出た。直後、複数の魔法が発動する気配がした。
雫は息を呑んだ。敵は魔法師。しかも一人や二人ではない。
「待って!」
思わず叫ぶが少年は止まらなかった。
ほのかが雫の腕を掴む。
数十秒。それだけだった。銃声も聞こえ、魔法が壁を揺らす音もした。
だが、長くは続かなかった。やがて、静かになった。
「お待たせ」
少年が戻ってきた。
「……え?」
「拘束具外すよ」
何事も無かった様にしゃがみ込む少年を、雫とほのかは呆然と見つめるしかなかった。
その後も同じだった。施設の出口まで何度か敵と遭遇した。そのたびに少年は二人を自分の背後へ下がらせ、襲撃者を無力化していく。
少年は速かった。
雫が知るどの魔法師とも違った。魔法の発動速度だけではない。相手が魔法を完成させるより先に位置を変え、死角へ回り込み、必要最低限の攻撃で戦闘能力を奪う。魔法師を相手にすることへ、異常なほど慣れていた。
だが雫の記憶に最も強く残ったのは、その強さではない。移動の途中、ほのかが足を挫いた時だった。
「痛っ……」
「ほのか?」
雫が振り返るより早く、少年が足を止めた。
「見せて」
ほのかの前にしゃがみ込み、状態を確認する。
「大丈夫。骨は平気だ」
「でも、私……歩けます」
「無理しなくていい」
少年の手がほのかの足へ触れた。淡い魔力。現代魔法とは少し違う、不思議な術式。
すると、みるみる痛みが急速に引いていく。
「……治った?」
「応急処置だよ。帰ったらちゃんと診てもらって」
そう言って立ち上がった少年へ、ほのかは何も返せなかった。
怖かったはずなのに、いつの間にか少年の背中を見ていると安心できるようになっていた。
出口が近づいた頃、今度は雫が尋ねた。
「あなた、名前は?」
「名前?」
「助けてもらったから。知りたい」
少年は少し困ったような顔をした。
「ごめん。教える事は出来ないんだ」
「でも」
「君達が無事に帰れたら、それで十分だよ」
結局、名前は教えて貰えなかった。施設から脱出すると、既に外には政府関係者や救急班が到着していた。その時になって初めて、雫たちは自分たち以外にも救出された少女がいることを知った。
別の区画に拘束されていた者。別の日に拉致されていた者。
そして、その中には七草家の少女――七草真由美もいた。
全員が同じ少年に救われていた。
だが、雫たちが保護された直後、少年は消えた。
本当に消えてしまった。北山家が後から調査しても、少年の所属も氏名も判明しなかった。
政府関係者は「協力者」としか説明してくれず、ほのかも何度か雫へ尋ねた。
『あの人は誰だったのだろう』と。けれど答えは出なかった。時間が経つにつれて記憶の中の顔も少しずつ曖昧になっていった。
ただ、絶対に忘れなかったものがある。
閉ざされた部屋の扉を開け、恐怖の中にいた二人へ最初にかけられた、あの言葉。
『怪我は?』
英雄めいた名乗りもなければ、大仰な励ましもなかった。ただ自分たちの無事を最初に確かめてくれた。
それだけは、二年経っても消えなかった。
*
そして現在。
「……睦月君?」
ほのかの声で、綾人は記憶から現実へ戻った。
「………ああ、ごめん。ちょっと考え事してた」
「ううん……」
ほのかはそう答えながらも、綾人の顔から目を離さない。雫も同じだった。
二年前より背が伸びている。髪型も違う。何より、あの時は恐怖と混乱の中だった。
確信出来ない。
それでも………。
「睦月君」
「ん?」
雫がじっと綾人を見る。
「二年前、何をしてた?」
「二年前?」
その問いに、綾人の表情がほんの一瞬だけ止まった。
「普通に中学生だったよ」
「……そう」
雫は追及しなかった。だが、その僅かな間を見逃してはいなかった。ほのかもまた、何かを感じ取ったようだった。
綾人の方も二人に妙な既視感を覚えている。
しかし、二年前の任務では多数の救出対象を一人ずつ名前で確認している余裕などなかった。任務終了後も情報秘匿のため、綾人が被害者たちの個人情報へ触れることはなかった。
北山雫。光井ほのか。
その名前と、二年前に救出した二人の少女は、まだ綾人の中では結びついていない。
「……?」
そんな三人のやり取りを、深雪が静かに見ていた。
彼女だけは知っている。綾人が時折、自分の年齢からは考えられないような場所に現れる人間だということを。
三年前。自分自身が、その命を救われているのだから。
深雪は雫とほのかを見て、そして再び綾人を見る。
――もしかして。
そんな予感を抱いたものの、今は口にしなかった。やがて授業開始を知らせる予鈴が鳴る。
雫とほのかは自分たちの席へ戻っていった。
その途中、雫はほのかに言う。
「ほのか」
「なに?」
「あの人かもしれない」
小さな声。ほのかは一瞬だけ足を止める。
「……私も、そう思った」
二人は振り返った。窓際では綾人が何事もなかったように授業の準備をしている。
まだ確信はない。けれど、二年前。絶望の中へ突然現れた名も知らぬ少年と、睦月綾人。
二つの姿が――少しずつ重なり始めていた。
*
放課後。
綾人は深雪たちと校門へ向かっていた。
そこには達也のほか、千葉エリカ、柴田美月、そして西城レオンハルトら二科生の姿もある。
「それで睦月君。いつなら空いてる?」
「何の話?」
「勝負に決まってるでしょ」
「ああ……」
当然のように言うエリカへ、綾人は呆れた目を向けた。
「まだ諦めて無かったんだ」
「当たり前じゃない。昨日見ただけでも分かるもの。あんた、相当やるでしょ?」
「どうして入学二日目で決闘を申し込まれるのかな」
「決闘じゃなくて手合わせね」
「言い方を変えただけだろ」
横を歩いていたレオがツッコミ、美月も困ったように笑う。その少し後ろでは雫とほのかも一緒に歩いていた。
二人は時折、綾人の背中を見ている。今朝までは「どこかで見たことがある」という程度だった。
今は違う。
声、話し方、何気なく他人を気遣う仕草。記憶の奥に残る十四歳の少年が、少しずつ鮮明になっている。
入学直後ということもあって、一科生と二科生という区分をそれほど意識せず自然に集まっただけの一団だった。
しかし、それを快く思わない者もいる。
「司波さん」
呼び止める声が響き、一同が足を止める。近づいてきたのは一年A組の森崎駿と、数名の一科生だった。
森崎は深雪へ視線を向け、それから達也たちへ目を移す。
「どうして二科生と一緒にいるんだ?」
その声には明らかな棘があり、深雪の表情がわずかに硬くなる。
「兄と友人たちと下校することに、何か問題がありますか?」
「兄……?」
森崎が達也を見る。胸元に一科生を示す花冠のエンブレムがないことを確認すると、その表情には戸惑いが浮かんだ。
「君が司波さんの兄なのか?」
「ああ」
達也は淡々と答える。
「ですが――」
森崎が何か言いかけたところで、エリカが一歩前へ出た。
「何?二科生が一科生と一緒に帰っちゃいけないなんて校則でもあるの?」
「そういう話じゃない」
「じゃあどういう話?」
「エリカちゃん……」
美月が慌てて袖を引く。森崎の後ろにいた生徒たちも険しい表情になり、空気が急速に張り詰めていった。
一科生と二科生。
制度上は指導教員の有無によって分けられているにすぎない。だが実際には、その区分が生徒たちの間で優劣として扱われている。
入学して間もない今でさえ、その意識は既に根深かった。
「二科生が一科生に馴れ馴れしくするのは――」
誰かが口にした瞬間、エリカの目つきが変わった。
レオも眉をひそめる。
深雪の周囲の温度が一瞬だけ下がったように感じられた。
そして達也は無表情のまま、わずかに重心を変える。
綾人はそれらを見渡し――静かに一歩、両者の間へ入った。
「はい。そこまで」
大声ではない。けれど、不思議と全員の耳へ届く声だった。
「睦月?」
森崎が振り向く。
「言いたいことがあるのは分かる。でも、このまま続けても喧嘩になるだけだ」
「だが」
「森崎」
綾人は相手を責めるでもなく、ただ静かに問いかけた。
「司波さんが誰と一緒に帰るかは、司波さんが決める事だろ?」
「それは……」
「それに一科生と二科生で一緒に下校するな、なんて校則は無かったよね。だったら俺達が此処で言い争う理由もない」
森崎が言葉に詰まる。今度は綾人がエリカを見る。
「エリカも」
「私?」
「さっき煽ったよね?」
「……煽ってないわよ」
「煽ってたと思うけど」
「ちょっとだけよ」
「ほら」
綾人が呆れると、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩んだ。レオが堪えきれず笑い、エリカが「何笑ってんのよ」と睨む。
その光景を見ながら、ほのかはふと二年前のことを思い出した。
あの時もそうだった。自分たちが恐怖で動けなくなっている中、あの少年だけはずっと落ち着いていた。
そして雫もまた、同じことを考えていた。
「同じ……」
無意識に呟く。
「雫?」
「なんでもない」
綾人はそのまま森崎へ向き直った。
「同じ学校の生徒なんだ。入学したばかりでわざわざ敵を作る必要もないと思うな」
「……」
森崎はしばらく黙っていた。やがて小さく息を吐く。
「分かった。今日は俺も言い過ぎた」
「それでいい」
綾人もそれ以上追及しない。勝ち負けを決める必要などない。綾人にしてみれば、一科生と二科生の対立など本当にそれだけの話だった。
昨夜、自分が見たものは天地を引き裂きかねない二人の英霊による宝具の激突だ。それと比べれば、高校生同士の区分を巡る諍いなど――。
『子供の喧嘩ね』
メルトリリスの声が頭の中へ響く。
(一応、俺も高校生なんだけど)
『中身までそうだとは言ってないでしょう?』
(どういう意味だよ)
そんな念話を交わしていた時だった。
「何事だ?」
凛とした声が響いた。校舎側から二人の上級生が歩いてくる。
一人は風紀委員長の三年生、渡辺摩利。
そしてもう一人は、同じく三年生で第一高校生徒会長の七草真由美だった。
「風紀委員会に、一科生と二科生が揉めているという連絡が入った」
摩利が一同を見回す。
「事情を説明してもらおうか」
「もう終わりましたよ」
答えたのは綾人だった。
「少し意見が食い違っただけです。今は問題ありません」
摩利は森崎たちを見る。森崎も不承不承ながら頷いた。
「……睦月の言う通りです」
「そうか」
摩利はしばらく双方の様子を観察した後、大きな問題には発展していないと判断したらしい。
「ならいい。だが次からは騒ぎになる前に――」
摩利が注意を続ける横で、真由美は何気なく綾人へ視線を向けた。
そして――動きを止めた。
「……え?」
小さな声だった。
綾人は気づかない。だが真由美だけは、その横顔から目を離せなかった。
二年前、今でも忘れられない夜がある。
若い女性魔法師ばかりを狙っていた犯罪組織。真由美自身もまた、その標的の一人となった。
七草家の人間を捕らえることには大きな危険が伴う。それでも組織が彼女を狙った理由は単純だった。
七草家の血統と、真由美自身が持つ高い魔法資質。真由美は他の少女たちとは別区画へ隔離されていた。
脱出の機会を窺っていた彼女が、初めて異変に気づいたのは施設全体の警報が鳴り響いた時だ。
敵の魔法師たちが慌ただしく移動を始める。侵入者は一人で、しかも少年。
最初は聞き間違いかと思った。だが数分後、彼女の収容されていた区画まで、本当にその少年は辿り着いた。
『立てますか?』
それが真由美へ向けられた最初の言葉だった。十四歳程度にしか見えない少年が、自分を捕らえた魔法師たちを突破して目の前にいる。
何者なのか。どうやってここまで来たのか。尋ねたいことはいくらでもあった。だが少年は自分について殆ど語らなかった。
真由美を安全な場所へ誘導すると、まだ救出されていない者がいると言って、再び施設の奥へ戻っていった。
後になって知った。その中には北山家の娘と、その友人もいたのだと。
事件後、七草家は当然のように少年の素性を調べたが、情報は一つも分からなかった。政府は情報を伏せた。記録の一部は機密指定され、事件そのものも表沙汰にはならなかった。
七草家当主である父の権限を持ってしても、核心部分には辿り着けなかった。まるで少年の存在だけが、事件記録から意図的に切り取られているようだった。
だから真由美は忘れなかった。自分を救った名も知らない少年の顔を。
しかし、その少年が今、目の前にいる。
「……まさか」
真由美が呟く。その声に綾人が振り返った。
「どうかしましたか、生徒会長?」
真正面から顔を見る。
間違いない。二年前より少し成長し髪型も雰囲気も変わっている。それでも、あの日に見た少年の面影は確かに残っていた。
「貴方……」
真由美は言葉を続けかけ、止めた。
周囲には多くの生徒がいる。あの事件について、此処で口にするべきではない。
「……いいえ」
いつもの柔らかな微笑を浮かべながら、真由美は首を横に振った。
「何でもないわ」
「?そうですか」
綾人は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
その様子を、雫とほのかが見ていた。特に雫は、真由美が綾人を見た瞬間に浮かべた表情を見逃さなかった。
驚愕、そして確信。
まるで、自分たちと同じものを見つけたような――。
「……ほのか」
「うん」
二人の中で、今朝芽生えた疑念が急速に形を持ち始める。一方、真由美もまた綾人を見つめながら、胸の奥で確信していた。
見つけた。
二年前、自分を救ってくれた少年を。
そして彼女はまだ知らない。同じ一年A組にいる北山雫と光井ほのかもまた、あの日、同じ少年によって救われた少女たちであることを。
*
やがて校門を出た一行は、それぞれ帰路についた。途中までは一緒だった美月も、交差点で皆と別れる。
「それじゃあ、また明日」
「また明日、美月」
「気をつけてね」
エリカとほのかに手を振り、美月は一人で住宅街へ向かって歩き始めた。
夕暮れの街。茜色に染まった道路を、長い影が伸びている。
美月は歩きながら、昨日の出来事を思い返していた。睦月綾人の傍にいた、普通の人には見えない女性。そして影の中へ消えた、髑髏の仮面をつけた男。
自分が見たものは何だったのだろう。未だ分からない事が多いが、自分が見てはいけないものを見てしまったのだという感覚だけはあった。
だからだろうか。美月は何となく後ろを振り返った。
「……?」
誰もいない。ただ夕暮れの道が続いているだけだった。
「気のせい……かな」
再び歩き始める。
その背後の建物の屋上。電柱の影。路地裏。そして住宅の塀の向こう。
視線だけが、音もなく移動していた。
一人ではない。否。全てが、一人だった。
黒衣を纏い、白い髑髏の仮面を被った者達。背丈も違う。体格も違う。気配さえ違う。
だが、その全てが同じ存在に連なるものだった。
その正体は、第三陣営のマスターが召喚した暗殺者。
アサシンのサーヴァント『百貌のハサン』。
一つの肉体に宿った無数の人格を、それぞれ独立した個体として現界させる異質なサーヴァント。その分身体の一人が屋上から美月を見下ろし、別の一人が路地を進み、さらに別の一人が先回りして帰宅経路を確認していく。
目的はまだ殺害ではなく、観察。
行動範囲の把握。交友関係の確認。
そして――彼女の眼が、どこまで英霊を捉えられるのか。
美月は何も知らず歩き続ける。しかし、百貌達はまだ知らない。
柴田美月が自分達を視る事が出来ると知った少年が、既に彼女を警戒対象ではなく、守るべき対象として認識していることを。
そしてその少年の影には。同じハサンの名を持つ、一人の暗殺者がいることを。
夕闇が街を包んでいく中、美月の背後を追う複数の影。
そのさらに遠く。誰にも気づかれることなく、別の気配が一瞬だけ揺らいだ。
聖杯戦争の暗部で、アサシン同士の静かな戦いが始まろうとしていた。
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次回はハサン同士によるアサシン戦です。