魔法科高校の大聖杯戦争   作:けーやん

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助けた者と助けられた者

 翌朝。

 

 昨夜まで降っていた雨の名残が道路の端に小さな水溜まりを作り、朝の陽光を細かく反射していた。第一高校へと続く通学路を、睦月綾人と柴田美月は並んで歩いている。

 

 一見すれば、同じ学校へ通う一年生同士が偶然一緒になっただけにしか見えない。しかし実際には、昨夜の一件を受けて綾人が美月の護衛を兼ねて同行しているのだった。

 

「……あの、睦月君」

 

「ん?」

 

「本当に、ここまでしてもらって大丈夫なんでしょうか」

 

 遠慮がちに尋ねてきた美月へ、綾人は歩調を変えないまま視線を向ける。

 

「昨日あんなことがあったばかりだからな。少なくとも、しばらくは一人で登下校しない方がいい」

 

「それは分かるんですけど……睦月君にも色々あるでしょうし」

 

「まあ、色々はあるけど」

 

 そこで綾人はわずかに間を置いた。脳裏に浮かんだのは、自宅で待機している八騎のサーヴァント達である。騎士王、英雄王、インドの大英雄、ギリシャの大英雄、狐耳の良妻志望、源氏の棟梁、可憐なプリマドンナ、そして現在この周囲を誰にも気づかれないよう警戒している暗殺者。

 

 改めて考えると、高校生が抱える「色々」の範囲を明らかに逸脱している。

 

 すると、少し離れた建物の上から低く落ち着いた声が届いた。

 

『主殿。前方、異常なし。後方にも追跡者は確認出来ませぬ』

 

『了解。ありがとう、呪腕さん』

 

 昨夜、美月を狙っていた百貌のハサンが再び姿を見せる可能性は否定できない。もっとも、相手もこちらが警戒を強めていることは理解しているはずであり、すぐに同じ手を繰り返すとは綾人も考えていなかった。

 

 それでも用心するに越したことはない。

 

 昨日までは美月の眼が「サーヴァントを認識出来る可能性がある」という情報に過ぎなかったものが、昨夜の接触によって第三陣営にはほぼ確定事項として伝わってしまったのだから。

 

「おはよう、睦月君。柴田さん」

 

 聞き慣れた声に振り向く。

 

 少し後ろから歩いてきた北山雫と光井ほのかだった。

 

「おはよう」

 

「お、おはようございます」

 

 美月も頭を下げる。だが、二人の視線はすぐに綾人へ向かった。特に雫の視線が妙に鋭いので、綾人は嫌な予感を覚えた。

 

「……睦月君」

 

「ん?何?」

 

「昨日の話」

 

 それを聞いた綾人はやはりかと内心で思った。

 

「二年前、何をしてたの?」

 

 朝の爽やかな空気とは対照的に、質問は真っ直ぐだった。隣のほのかが少し慌てる。

 

「し、雫。いきなりそれじゃ……」

 

「昨日も聞いた。でも、ちゃんと答えて貰ってない」

 

「昨日も言ったけど、普通の中学生だったよ」

 

「それは聞いた」

 

「事実だから」

 

「じゃあ、どうして答える前に少し考えたの?」

 

「……よく見てるな」

 

 雫は返事をしなかった。

 

 二年前。違法な魔法研究を行っていた組織が、将来有望と判断した若い女性魔法師たちを次々と拉致した事件。その中には雫とほのか、そして七草真由美も含まれていた。

 

 当時十四歳だった綾人は政府から依頼された極秘任務で施設へ潜入し、組織の魔法師たちを制圧しながら囚われていた少女たちを救出した。

 

 しかし綾人にとって、それは数ある任務の一つだった。

 

 救出した人間の個人情報まで教えられてはいない。ましてや任務終了後に彼女たちの素性を調べる理由もなかったため、第一高校で雫やほのかと再会しても、最初は二年前の少女たちだとは結びつかなかった。

 

 一方、助けられた側にとっては違う。

 

 名前すら告げずに現れ、自分たちを救い出し、そして何事もなかったかのように姿を消した少年。

 

 その記憶が簡単に消えるはずもない。

 

「私も……聞きたい」

 

 ほのかが小さく口を開いた。

 

「睦月君の声、前から何処かで聞いたことがあるような気がしてたの。昨日、雫が二年前の話をしてから、ずっと考えてて……」

 

 綾人は困った様に少し目を逸らす。

 

 完全に誤魔化し切るなら、もっと上手いやり方はいくらでもある。しかし目の前の二人へ嘘を重ね続けることには、どうにも抵抗があった。

 

「おはよう、みんな」

 

 そこへ、また一人。

 

 振り向いた綾人は、今度こそ本格的に逃げ道が塞がれたことを悟った。

 

「七草先輩」

 

「朝からずいぶん難しい顔をしているのね、睦月君」

 

 七草真由美はいつもの柔らかな笑みを浮かべながら歩み寄ってくる。しかし、その瞳だけは笑っていなかった。真っ直ぐに綾人の顔を見ている。

 

 昨日、校内で初めてまともに顔を合わせた時からそうだった。

 

 雫とほのかは声や仕草を中心に記憶を辿っていたが、真由美は違う。二年前の事件当時、彼女は二人より落ち着いた状態で綾人の姿を見ていた。そのため顔立ちそのものについても、比較的鮮明な記憶が残っている。

 

「丁度良いところに来ました」

 

 雫が言った。

 

「ええ。私もそう思うわ」

 

「……何がでしょう」

 

 綾人が一応聞いてみると、真由美は一歩近づいた。

 

「二年前のことよ」

 

 綾人は三方向から完全に包囲された。サーヴァントとの戦闘なら突破口を探すところだが、これはどう考えても逃げる方が悪手である。

 

『主殿』

 

 念話越しに呪腕のハサンが呼びかけてきた。

 

『この状況、私の助力は不要と判断致します』

 

(正しい判断だと思うけど、少しくらい助けてくれてもいいんじゃないか?)

 

『暗殺者にも不可能な任務はございます』

 

(諦めるの早くないかな?)

 

 返事はなかった。完全に気配まで消された気がする。

 

「……分かりました」

 

 観念した綾人は小さく息を吐いた。

 

「昼休み。ちゃんと話します」

 

 雫が目を瞬かせる。ほのかも驚いたように綾人を見る。真由美だけは、やはりというように僅かに表情を和らげた。

 

「ただし、話せない部分もあります。そこだけはご了承ください」

 

「勿論よ」

 

 真由美はすぐに頷いた。

 

「場所は生徒会室を使いましょう。あそこなら不用意に誰かに聞かれることもないし」

 

「生徒会室……」

 

 入学してまだ間もない一年生が、なぜか昼休みに生徒会長から生徒会室へ呼び出されることになった。

 

 綾人は空を見上げた。今日は朝から長い一日になりそうだと思った。

 

          ◇

 

 昼休み。

 

 生徒会室へ入った綾人は、想定していたより人数が多いことに気づいた。

 

 真由美、雫、ほのかだけではない。達也と深雪の司波兄妹もいる。

 

 さらに、生徒会書記の市原鈴音、生徒会会計の中条あずさ、そして壁際には風紀委員長である渡辺摩利まで立っていた。副会長の服部刑部少丞範蔵だけは所用で席を外しているらしく、この場にはいない。

 

「……七草先輩」

 

「なにかしら?」

 

「三人に話すつもりだったんですけど、人多くないですか?」

 

「結果的にこうなったわ」

 

「どうして」

 

 頭を抱える綾人に真由美がくすりと笑う。

 

 摩利も腕を組んだまま口元を僅かに緩めた。

 

「安心しろ。無関係な話を聞きに来たわけじゃない。二年前の事件について七草から最低限の事情は聞いた。学校の生徒が過去に巻き込まれた事件で、現在になって関係者同士が再接触した可能性がある以上、風紀委員長として無視するのもどうかと思ってな」

 

「私は生徒会長として、ということにしておいて」

 

「便利ですね、その肩書」

 

「使えるものは使う主義なの」

 

 一方、達也は黙ったまま綾人を見ていた。その視線には、単なる興味とは違うものがある。

 

 三年前。

 

 沖縄で深雪を救った綾人が、今度は二年前にも別の場所で何かをしていた可能性がある。達也なら、そこから何を推測するかは容易に想像できた。

 

「お兄様には、私からお願いしました」

 

 深雪が言う。

 

「私も……聞いておきたかったのです。綾人さんが二年前に何をされていたのか」

 

 その声音は穏やかだったが、どこか真剣だった。

 

「…………分かった」

 

 綾人は諦めて空いている椅子へ座った。

 

「最初に言っておきますけど、これから話す内容には機密指定されているものが含まれています。なので、任務の依頼元や作戦目的の一部、組織内部で確認した情報、それから俺が具体的に何を命令されていたかについては話せません」

 

「それで構わないわ」

 

 真由美が頷く。

 

「私たちが知りたいのは一つだけだから」

 

 雫とほのかも綾人を見る。綾人はしばらく三人の顔を見回してから、静かに口を開いた。

 

「……二年前、ある組織が若い魔法師を拉致していた事件があったのはご存知ですか?」

 

 室内から軽い空気が消えた。

 

「対象は主に、将来的に高い魔法能力を持つ可能性があると判断された人間だった。魔法力そのもの、珍しい適性、家系……選ばれる理由はいくつかあったらしい」

 

 真由美の表情が僅かに硬くなる。

 

 七草家という十師族の血筋。それだけでも狙われる理由としては十分だった。

 

「俺はその施設に入った」

 

「どうしてですか?」

 

あずさが思わず尋ね、すぐに「あっ」と口を押さえる。

 

 綾人は首を横に振った。

 

「そこは話せません」

 

「ご、ごめんなさい」

 

「いえ」

 

 綾人は続ける。

 

「中には複数の区画があって、捕まっていた人たちも分散させられていた。俺は確認できた人から順番に拘束を解除して、安全な場所へ移動させた」

 

 ほのかの手が膝の上で僅かに震えた。記憶が蘇っているのだろう。

 

 窓のない部屋。魔法を封じるための拘束具。外部との通信を遮断された閉鎖空間。そして、突然開いた扉。

 

 そこに立っていた、自分たちと大して年齢の変わらない少年。

 

『怪我は?』

 

 最初に聞かれたのは、それだった。

 

 名前でも事情でもない。自分達が怪我をしていないか、それだけを確認した。

 

「……やっぱり」

 

 ほのかの呟きに綾人は言葉を止めた。

 

「やっぱり……睦月君だったんだ」

 

 声が僅かに震えている。隣に座っていた雫が、ほのかの手へ自分の手を重ねた。

 

「私達を助けてくれた」

 

 雫が綾人を見る。

 

「何度も部屋から出ていって、そのたびに外で音がして……戻ってくると、また私たちを先へ進ませた」

 

「……そうだったね」

 

 その答えだけで十分だった。ほのかが目を伏せる。

 

「途中で、私……足を痛めて」

 

「右足首だったよね」

 

 綾人が反射的に答えた。ほのかが顔を上げる。

 

「捻ってた。歩けなくなるほどじゃなかったけど、そのまま走らせると悪化しそうだったから、応急処置だけした」

 

「その後、ちゃんと病院で診てもらえって言われた」

 

「言った気がする」

 

「言ったよ」

 

 ほのかの目元が少し潤んだ。綾人はそこでようやく理解した。自分にとっては二年前に受けた任務の一つに過ぎなかった。

 

 しかし彼女たちにとっては違う。

 

 閉じ込められ、先の見えない状況に置かれていたところへ誰かが現れ、自分たちを外へ連れ出した。助けた側と助けられた側では、同じ出来事でも記憶の重さがまるで違うだろう。

 

「あの時、名前を聞いた」

 

 雫が静かに言った。

 

「でも教えてくれなかった」

 

「任務中だったから」

 

「『無事に帰れれば、それでいい』って」

 

 綾人は少し困った顔になった。

 

「そんな格好つけた言い方したかな?」

 

「した」

 

 即答だった。

 

「改めて思い出すと、昔の俺少しキザっぽかったな」

 

「今もあまり変わってない」

 

「それ褒めてる?」

 

「褒めてる」

 

 雫の表情はいつも通り大きくは変わらない。それでも、その声は確かに柔らかかった。

 

「ありがとう、睦月君」

 

 綾人は一瞬、返事に詰まった。

 

「……うん、どういたしまして」

 

 結局、それしか言えなかった。今度は真由美が口を開く。

 

「私のところへ最初に来たのも、貴方ね」

 

「……はい」

 

「私の場合、北山さん達とは別の区画だった。警備もかなり厳しかったはずよ」

 

「七草先輩のいた区画は少し面倒でした」

 

「少し?」

 

 達也が初めて口を挟んだ。

 

「睦月の言う『少し』は、一般的な基準とは違う可能性があるな」

 

「そこ掘り下げる?」

 

「事実確認だ」

 

 摩利が小さく笑った。真由美も楽しそうに目を細める。

 

「確かに。私の記憶では、あなたが来る前まで外にはかなりの人数がいたはずなんだけど」

 

「そこは機密事項なので話せません」

 

「便利な言葉ね」

 

「さっき先輩が肩書を便利に使ったので、お互い様でしょう」

 

 今度は鈴音まで僅かに笑った。張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。

 

 だが真由美は、すぐに真剣な表情へ戻った。

 

「助けてもらった後、七草家でも貴方を探したの」

 

 綾人が目を瞬かせる。

 

「俺を?どうしてです」

 

「少なくとも、お礼くらいはしたかったもの。でも、どれだけ調べても分からなかった。事件そのものの資料はあるのに、救出作戦の核心部分だけ不自然なくらい情報が消えていた。最終的に確認できたのは、『外部協力者が関与した』という程度」

 

「……その辺りは俺からは何とも」

 

「でしょうね」

 

 真由美は責めるような言い方をしなかった。むしろ、長年引っかかっていたものがようやく解けたような表情だった。

 

「でも、これで分かった。あの時の男の子は、やっぱり睦月君だった」

 

「俺は入学するまで先輩たちの名前すら知りませんでしたけどね」

 

「それも本当なの?」

 

「ええ。任務終了後、救助対象の個人情報なんて教えられませんでしたし、俺から調べる理由もありませんでしたし」

 

 真由美は一瞬呆れた顔をした後、吹き出した。

 

「二年間探していた側としては、少し複雑ね」

 

「………確かに無神経な発言でしたね。すみません」

 

「謝るところじゃないわ」

 

 深雪は、ここまで静かに話を聞いていた。三年前、自分も綾人に救われた。そしてその一年後、綾人はまた別の場所で雫、ほのか、真由美を救っていた。

 

 深雪は自分の胸の奥に生まれた感情を上手く言葉に出来なかった。ただ一つ確かなのは、三年前の出来事が特別な偶然だったわけではないということだった。

 

 睦月綾人は、おそらくそういう人なのだ。

 

 助けを必要としている者がいれば、自分が危険な場所へ入っていく。そして終われば、名前すら残そうとしない。

 

「睦月君」

 

「ん?」

 

「……ご自分がしたことを、少し軽く考えすぎではありませんか?」

 

「そう、かな」

 

「そうです」

 

 珍しく強い口調だった。

 

「助けられた者にとっては、決して『任務の一つ』ではありません」

 

 その言葉に、雫とほのか、そして真由美が同時に頷いた。

 

 四対一。居心地を悪く感じた綾人は助けを求めるように達也を見る。

 

 しかし、達也は平然と告げた。

 

「今回は深雪に同意する」

 

「味方がいないんだけど」

 

「自業自得だな」

 

 摩利が笑う。

 

「だが、司波妹の言う通りだと思うぞ、睦月。人を助けることに慣れすぎるのも考えものだ」

 

「渡辺先輩まで」

 

「風紀委員長としての忠告だ」

 

「七草先輩と言い回し似てませんか?」

 

「あら、気が合うわね、摩利」

 

「お前と一緒にするな」

 

 二人のやり取りに、あずさが小さく笑う。

 

 鈴音はそんな一同を眺めながら、綾人に訊く。

 

「一つだけ確認しても?」

 

「はい」

 

「睦月君は当時十四歳。にもかかわらず、武装した魔法師が複数存在する施設へ単独で侵入し、複数の被害者を救出した。ここまでは事実ですね?」

 

「……はい」

 

「それ以上は?」

 

「機密なので答えられないです」

 

「でしょうね」

 

 鈴音はそれ以上追及しなかった。だが、その目は明らかに綾人という存在を再評価している。

 

 入学したばかりの一年生。

 

 それだけなら、多少腕が立つという噂があったとしても特別視する理由はない。しかし、二年前の時点ですでに実戦経験を持ち、しかも高度な警備下にある違法研究施設から複数の人質を救出しているとなれば話は別だ。

 

「睦月」

 

 摩利が壁から離れた。

 

「何でしょう」

 

「風紀委員会に興味はないか?」

 

「は?」

 

 突然の勧誘だった。真由美の眉が僅かに動く。

 

「ちょっと摩利。何を勝手に勧誘しているの?」

 

「優秀な人材を見つけたら声をかけるのは当然だろう」

 

「綾人君は生徒会向きかもしれないわよ?」

 

「いつから俺の進路相談になったんです?」

 

「今」

 

「即答しないでくださいよ」

 

 真由美と摩利が互いを見る。どうやら本人の意思とは無関係に話が進み始めている。

 

「実戦経験、冷静な判断力、対人戦闘への対応力。風紀委員として申し分ない」

 

「生徒同士の揉め事を穏便に収める調整能力もあるわ。昨日の一件を見る限り、生徒会でも十分役に立つと思うけれど」

 

「会長」

 

 鈴音が静かに割って入る。

 

「本人が完全に置き去りです」

 

「あ。そうだったわね」

 

「助かりました、市原先輩」

 

「礼には及びません」

 

 綾人は小さく息を吐いた。

 

 昨日は百貌のハサン。夜は美月への聖杯戦争の説明。

 

 そして今日は、二年前に救出した三人との再会を改めて確認したと思えば、今度は生徒会と風紀委員会から目をつけられた。

 

 生前と比べて、今の学校生活というものは想像していたより忙しいらしい。その時、昼休み終了を知らせる時刻が近づいていることにあずさが気づいた。

 

「そ、そろそろ戻らないと……」

 

「あ、本当だ」

 

 ほのかも時計を見る。

 

 綾人が立ち上がると、雫も席を立った。そのまま彼の横を通り過ぎようとして、一度だけ足を止める。

 

「睦月君」

 

「ん?」

 

「二年前、名前を教えてくれなかった」

 

「うん」

 

「だから今、ちゃんと言う」

 

 雫は真っ直ぐ綾人を見た。

 

「ありがとう、綾人君」

 

 初めて名前で呼ばれた。ほんの一瞬だけ綾人が目を見開く。その横から、ほのかも少し照れたように続いた。

 

「私も……ありがとう、綾人君」

 

「…………うん。どういたしまして」

 

 綾人は二年前には返す事の出来なかった言葉を口にした。

 

 真由美も席を立つ。

 

「私からも改めて。ありがとう、睦月君。二年前、私を助けてくれて」

 

「七草先輩まで改まらなくても」

 

「こう言う事は、ちゃんと言葉にしておきたいの」

 

 真由美は微笑んだ。

 

「それに、これで終わりじゃないもの」

 

「何がです?」

 

「せっかく見つけたんだから、これからゆっくりお礼をさせてもらうわ」

 

「いや、此方としては普通に学校生活送らせて貰えれば十分ですよ」

 

「それを決めるのは助けられた側よ」

 

「横暴ですね」

 

 綾人が呟くと、室内に小さな笑いが広がった。ただ一人、達也だけは笑いながらも、その瞳の奥で別のことを考えていた。

 

 三年前は沖縄。二年前は違法研究施設。そして現在の第一高校。

 

 睦月綾人という少年の周囲には、偶然だけでは説明できないものが多すぎる。だが、達也は追及しなかった。

 

 綾人が話せないと明言した以上、そこには相応の理由がある。何より、自分自身も他人に明かせない事情を抱えている以上、無理に踏み込むつもりはなかった。

 

 生徒会室を出る直前、綾人はふと振り返る。真由美と摩利が何かを話している。鈴音が冷静に二人へ意見を述べ、あずさがその横で資料を整理している。

 

 これまで綾人にとって、生徒会は学校を運営する上級生たち、風紀委員会は校内秩序を守る組織という程度の認識しかなかった。

 

 だが今日を境に、その距離は明らかに変わった。

 

 二年前に救った三人との再会が、思いもしなかった形で新しい縁を繋ぎ始めている。

 

 そして綾人自身はまだ知らない。

 

 昨夜、自分が美月へ聖杯戦争の真実を説明していた頃、監督役が第三陣営へ正式な警告を下していたことを。

 

 百貌のハサンを使い、聖杯戦争とは無関係な美月を意図的に追跡し、その眼の能力を試した行為。

 

次に同様の行為を繰り返せば、二十四画ある令呪のうち八画を没収する。その警告を受け、第三陣営は美月への直接接触を一時的に停止している。

 

だからこそ、この日の登校は何事もなく終わった。

 

しかし、それは第三陣営が動きを止めたという意味ではない。

 

狙うことが禁じられたのなら、別の方法で情報を集めれば良い。美月へ触れられないのなら、聖杯戦争の参加者そのものを探れば良い。

 

 第一高校。そこには今、八人のマスターの一人である睦月綾人がいる。

 

 そして彼の周囲には、司波達也、司波深雪、七草真由美、北山雫、光井ほのか、柴田美月。現代魔法社会において決して無視できない人間たちが、少しずつ集まり始めていた。

 

 二年前に救われた者。

 

 三年前に救われた者。

 

 昨日、救われた者。

 

 過去に綾人が伸ばした手が、本人の知らないところで幾つもの縁となり、今になって彼の周囲へ戻りつつある。

 

そして、その縁がやがて極東大聖杯戦争そのものを大きく動かすことになるなど、この時の綾人はまだ知る由もなかった。




この主人公、政府から依頼を受け実行するあたりがなんかエミヤ〔オルタ〕みたいになってね?と文章を書きながら思いました。

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