転生先が殺し合いを約束された帝国の第三王子だった件 作:冷やかし中華
引き続き楽しんでいただけるように努めていくので、よろしくお願いいたします。
調べる。
そう決めてから最初にやったのは、何もしないことだった。
◆
「右」
来る。
《流》。
受ける。
「左」
今度は、言葉を信じない。
視線。肩。腰。足。右。いや。
「腹」
「あ」
遅れた。
「痛っ!」
「考えすぎ!」
「この前は考えろって!」
考えた分だけ、身体が遅れる。
「考えるのと止まるのは違う!」
「難しい!」
「だから練習してんのよ!」
殴られた。
不可持民について調べ始めても、先生との修行は何も変わらなかった。正確には、変えさせてもらえなかった。
「今日は流」
「はい」
「明日は円」
「はい」
休みが課題表に入っている。
「その次は休み」
「はい」
休みの日が入っている。
「顔」
「何?」
「休みって言うたび嫌そうな顔すんのやめなさい」
「してません」
「してる」
先生との契約は残り少ない。だから俺としては、できるだけ詰め込みたかった。でも、先生はむしろ、前より修行時間を短くした。
「何で?」
「アタシがいなくなった後も同じ量やるつもり?」
「できるなら」
「そういうところよ」
怒られた。
最近、何を言っても、そこで済まされる。
◆
不可持民について、最初の数日は、本当に見るだけにした。あの日の施設。作業者名簿。別に管理されている記録。担当部署。それから、俺の権限で閲覧できる範囲の資料。
読む。
「これ、何で別なんですか?」
「以前より、そのように管理されております」
「以前って?」
「詳細は存じません」
「法律?」
言葉を選んでいる。選ぶということは、答えを持っている。
「……必ずしも」
「じゃあ何?」
「慣例、と申しますか」
別の日。
「この地方だと扱い違うけど」
「地方ごとの慣習がございますので」
「同じ不可持民なのに?」
「はい」
また別の日。
「この仕事しかできない?」
「禁止されているわけではございません」
「じゃあ別の仕事も?」
「現実には、難しいかと」
禁止されていない、と難しい、の間に全部ある。
「何で?」
「その……」
止まる。
「分からない?」
「申し訳ございません」
「いや。分からないなら、それでいい」
謝らせたいわけではない。
聞くほど、分からないことが増えた。
最初、俺は、不可持民という大きな制度が一つ存在していると思っていた。その制度を見つける。悪いところを調べる。直す。終わり。そんなものを、どこかで想像していた。
違った。
少なくとも俺が調べた範囲では、これだと指差せる一枚の紙がない。法律らしいもの。地方規則。役所の運用。昔からの慣習。理由の分からない決まり。理由を知っていても、口にしたがらないもの。
そして、紙には何も書いていない、ただの差別。
先生に言われた。
何が法律で、何が慣習で、何がただの嫌がらせなのか。
一緒にするな。
「……先生」
「何?」
「面倒」
「でしょうね」
中身を言っていないのに、面倒だということだけは伝わった。
「知ってた?」
「何調べてるか聞いてないもの」
聞かないと決めたら、本当に聞かない人だ。
「そうだった」
「大きい問題なんでしょ?」
「多分」
「なら面倒に決まってるじゃない」
身も蓋もなかった。
◆
あと十日だった。
数えるのはやめようと思っていたのに、朝になると勝手に数字が出てくる。
四十二だったものが、いつの間にか十になっていた。
「坊や」
「はい」
「これ」
白い紙。一枚。渡された。
「何?」
「最後の課題」
「試験?」
「そんな大層なもんじゃないわよ」
見る。何も書いていない。
「何するんです?」
「アタシが帰った後の予定を作りなさい」
「修行?」
「他に何があんのよ」
「ああ」
簡単だった。その日の夜、作った。
「多い」
「え」
「多い」
「まだ半分しか見てない」
「半分見れば十分!」
翌朝。
俺の予定表は、先生の手で真っ赤になった。
「朝。走る」
「はい」
「体幹」
「はい」
最後の課題表だった。
「基礎体術」
「はい」
「午前、公務中に纏と観察」
「はい」
まだ半分も来ていない。
「午後、剣」
「日によります」
「その後、流」
「はい」
一年分の順番が、そのまま紙に並んでいる。
「円」
「はい」
「隠」
「はい」
最後の一行で止まった。
「夜」
「復習」
一日の表に、空いている時間がない。
「休みは?」
「あります」
「どこ」
「睡眠」
先生が目を閉じた。
「坊や」
「はい」
「それは休みじゃない」
「でも八時間」
「そういう話してない!」
赤。赤。赤。
消される。
「ここ休み」
「二時間も?」
「二時間も、じゃない」
「ここも?」
「休み」
休みが二つ入っていた。今までの表にはなかったものだ。
「次の日」
「軽くする」
「何で?」
「アタシがいなくなるから」
手が止まった。
「クッキィちゃんもいなくなる」
「はい」
「今までより回復に時間がかかる」
「分かってます」
「分かってないから、こんな予定になるの」
言い返せない。
「一年ならね」
紙を指で叩く。
「無茶しても、身体がついてくることはある」
「はい」
「十年やるなら?」
黙る。
「二十年なら?」
もっと、黙った。
「アンタ」
先生が俺を見る。
「続けるんでしょ?」
「はい」
「なら、続けられる量にしなさい」
「でも」
やれる日の量で組むと、やれない日に全部崩れる。
「でも?」
「できるなら、やった方が」
「違う」
即答だった。
「できること全部やるのと、必要なことを続けるのは別」
「……はい」
「壊れない方が最後に勝つのよ」
覚えておこうと思った。
◆
予定表が、だいたい半分になった頃、先生が。
「じゃ」
と言った。
「次」
「まだあるの?」
「卒業試験」
「さっき最後の課題って」
増えた。
「あれは宿題」
「違うんだ」
「違う」
先生が指を一本立てる。
「問題」
「はい」
「一回目って、何回あると思う?」
止まる。
「……一回?」
「不合格」
「え」
「明日までに考えなさい」
「待って」
答えを言う前に次へ行く。
「次」
「次あるの!?」
「発」
話が飛んだ。
「急だな!」
「発」
「はい」
「一年経つけど」
「はい」
一年、作らなかった。
「まだ?」
「まだ」
「でしょうね」
意外だった。
「怒らない?」
「何で?」
「作らないことを目的にするなって」
「言ったわね」
一年前の言葉を、まだ持っている。
「今も作ってない」
「作らないことが目的?」
そこだけ確かめて、あとは何も言わなかった。
「違います」
「じゃあいい」
「軽いな」
「何が欲しいかは分かった?」
考える。
「増えた」
「は?」
「欲しいもの」
身を守るもの。姉さんを守れるもの。見つからないもの。相手を見るもの。
逃げるもの。追うもの。壊すもの。壊さずに済ませるもの。
この一年で、必要だと思うものばかり増えた。
「だから?」
「決められない」
「なら、まだ作るな」
作れと言われると思っていた。
「いいんですか」
「何でもできる能力なんて作れないわよ」
「はい」
「最後は選ぶことになる」
選ぶ。
最近、その言葉をよく聞く。
「それまでは?」
「基礎」
一年前と同じ答えだった。
「やっぱり」
「嫌?」
「いいえ」
「でしょうね」
先生が笑った。
次の日。
「で?」
「何が?」
「一回目」
「あ」
考えた。一晩。
「毎日?」
「何が」
「一日の最初にやる基礎が、その日の一回目」
「ふうん」
自信はなかった。
「違う?」
「不合格」
早い。
「また!?」
「明日」
「正解あるの?」
「さあ」
扇子で口元を隠した。
「出題者ですよね?」
「だから?」
理不尽。さらに、次の日。
「失敗した後?」
「何が?」
「一回目」
「続けて」
「できると思ってたのにできなかった時、基礎へ戻る。その時がまた一回目」
自分でも、言いながら足りない気がした。
「ふうん」
「どう?」
「不合格」
「先生!」
笑われた。
「何が正解なんですか」
「自分で考えなさい」
「契約終わるけど」
契約が終わっても続く課題を、わざと置いていく。
「終わってから考えれば?」
「卒業試験なのに?」
「そうよ」
意味が分からない。
◆
契約終了の前日、姉さんが来た。
「明日帰るの?」
「帰るわよ」
「どうして?」
「契約が終わるから」
「延ばせばいいでしょう」
一年、と最初に決めたのはこちらだ。
「延ばさない」
「カミィが払う」
「いらない」
値段の話になった。
「宝石」
「心が揺れるもの出さないで」
「じゃあ」
揺れると言いながら、受け取らない。
「でも帰る」
「何でよ!」
「最初から一年って決めてたから」
「カイエンが困るでしょう!」
少し、驚いた。先生も、ほんの少し。
「困らないわよ」
「何で?」
「あの子、アタシがいなくても勝手に続けるもの」
姉さんが先生を見る。俺を見る。
「……知ってるわ」
小さかった。
「何?」
「何でもない!」
怒られた。俺は、何もしてない。
「アンタも」
「何よ」
「纏と絶」
先生が姉さんへ。
「忘れない程度にはやっときなさい」
「命令しないで」
「じゃ、やらなくていいわよ」
「やるわ!」
やらせる言い方を知っている。
「どっちよ」
「カミィがやりたいからやるの!」
「はいはい」
「返事が気に入らない!」
最後まで、いつも通りだった。
先生は、姉さんを弟子にはしなかった。姉さんも、先生を師匠とは呼ばなかった。
それで、よかったのだと思う。
◆
契約の日、報酬を渡した。金。石。約束していた記録。
先生は、一つずつ確認した。
「よし」
「足ります?」
「契約通り」
「一年間、ありがとうございました」
「どういたしまして」
それだけだった。
思っていたより、あっさり。
「先生」
「何?」
「卒業試験」
「ああ」
試験のことは、こちらから聞くまで一度も触れなかった。
「結局、答えは?」
「知らない」
卒業試験の答えを、出題者が知らないという。
「は?」
開き直られた。
「今のアンタが出した答えを、十年後のアンタが正しいと思うかなんて、アタシが知るわけないでしょ」
十年後の話をされた。
「出題者なのに?」
「だから、たまに考え直しなさい」
「一回目って何回あるのか?」
「そう」
「それで合格?」
質問が返ってくる。
「合格したら?」
「卒業?」
「違う」
「じゃあ何」
終わらない試験を置いていくつもりだ。
「明日、また受けるの」
「卒業試験なのに?」
「だから卒業しないのよ」
分からない。
でも、何となく、分かった気もした。
「紙に書いときなさい」
「何を?」
「卒業条件」
「何て」
先生が笑った。
「卒業しないこと」
「やっぱり矛盾してる」
「なら考えなさい」
最後まで、それだった。
◆
「あ」
先生が荷物から何かを出した。
紙。何枚か。折れている。端に、見覚えのある文字。
投げられる。
「これ」
「何?」
「ゴミ」
「捨てていい?」
「読めないならね」
見る。
一枚目。右肩。二枚目。休め。三枚目。広げすぎ。
四枚目。見る。五枚目。数字で考えるな。六枚目。基礎へ戻れ。
他にも、宝石の名前。数字。知らない店の名前らしきもの。意味の分からない落書き。
「一年分の説教?」
「そう見える?」
「見える」
「じゃ、それでいいんじゃない?」
怪しい。
「先生」
「何」
「これ」
「知らない」
封も宛名もない紙だった。
「先生が渡したんだけど」
「知らない」
絶対何かある。
◆
「また会えますか?」
「さあ?」
「さあ」
「アタシ、ハンターよ」
「はい」
外へ出る前提で話されたのは、初めてだった。
「アンタも、いつか外へ出るんでしょ」
「多分」
「なら、そのうち会うんじゃない」
「雑」
「そういうもんなの」
荷物を持つ。
先生が、俺の額を一度、指で弾いた。
「坊や」
「はい」
「止まるな、とは言わない」
少し、意外だった。
「疲れたら止まる」
「はい」
「分からなくなったら止まる」
「はい」
止まれ、ばかり三つ並んだ。
「間違えたと思ったら止まる」
「はい」
三つとも、同じ答えだった。
「それで?」
「戻る」
「どこへ?」
「基礎」
「よし」
先生が少し笑う。
「あと」
「はい」
「自分で狩れないものまで、何でも抱え込まない」
不可持民のことは、詳しく話していない。
でも。
「はい」
答えた。
「じゃあね」
「はい」
背中が小さくなる。元々小さいのに、もっと小さくなる。
角を曲がって、見えなくなった。
それで、一年が終わった。その日の夕方、庭へ出た。
何も変わっていない。
石。木。空。
いつも先生が立っていた場所に、誰もいない。それだけの違いだった。
それだけなのに、妙に広かった。
◆
次の日の朝、一人で庭へ出た。
誰もいない。
「纏」
自分で言う。纏う。右肩が少し厚い。直す。
「絶」
閉じる。開く。
《流》。《円》。《隠》。予定表。休憩。
まだできる。かなり、できる。
でも、座る。水。飲む。休む。
悔しい。本当に、悔しい。
◆
暇だった。休むと、暇になる。前なら、この時間に何かやっていた。
《流》。《纏》。体幹。
今は、やらない。手が、妙に余る。
荷物。昨日、先生からもらった紙。見る。
「ゴミ」
らしい。捨てていい。らしい。読めないなら、という条件付きで。
「……読めるのか」
もう一度、見る。普通。紙。文字。落書き。
でも、先生がわざわざこんなものを渡す。意味がない、とは思えない。
「凝」
目へ、オーラを集める。
「あ」
あった。
文字の横。小さな、点。
普通に見れば、紙の汚れ。その程度。でも、《凝》すると、僅かに何かが違う。
一枚。一個。別の紙。三個。別。七個。
順番? 並べる。一。二。三。四。五。六。七。
まだ、意味がない。
「……先生」
いなくなってから、面倒なものを残していった。
もう一度、紙を並べ直す。同じ文字が、何枚もある。
右肩。右肩。右肩。休め。休め。
広げすぎ。数字で考えるな。
「……何枚あるんだよ、これ」
右肩が、一番多い。当たり前だ。この一年、何度言われたか。数えたことはない。でも、この紙より、ずっと多い。
――待て。
紙の枚数じゃない。
点だ。
右肩と書かれた紙の、点を、全部足す。
次。休め。足す。広げすぎ。足す。
それを、言われた回数の多い順に並べる。
「……そういうことか」
数字で考えるな。その通りだった。
数字を数えるんじゃない。何を何回言われたかを、覚えているかどうかだ。
右肩。休め。見る。
広げすぎ。数字で考えるな。基礎へ戻れ。全部。
言われた。全部、覚えている。一年分。
休憩時間がほとんど終わる頃、ようやく数字の列が出た。その下。短い文字。
ホームコード。たぶん、先生個人の。
息を吐いた。それから、さらに一行。小さい。
《凝》を解いたら、また見えなくなった。
もう一度、見る。
宝石の話ならいつでも。
それ以外は、本当に用がある時だけ。
「先生らしいな」
笑った。
連絡。してみようか。
一瞬、思う。昨日、別れたばかりだった。
「やめとこ」
紙を揃える。しまう。予定表を見る。
休憩。終了。立つ。
「流」
また、始める。
「何してるの?」
声。
「姉さん」
「休んでたの?」
「さっきまで」
「何で?」
庭の芝に跡がついている。
「先生に言われた」
「もういないじゃない」
いないから、守る。
「いないから」
「変なの」
「俺もそう思う」
姉さんが、いつもの石へ座る。
「今日は?」
「纏」
「また!?」
「嫌なら帰っていいよ」
「帰らない!」
いつも通りだった。
◆
先生がいなくなって、時間が増えた。
少しだけ。その時間を、不可持民に使った。
最初に試したのは、一人だった。あの日、名簿に載っていなかった人の中に、水を運んでいた男がいた。
名前は後から知った。
当たり前だけど、名前があった。俺が知らなかっただけだ。
毎日、同じ施設。同じ雑務。条件も、良くない。なら、別の仕事へ移せるのではないか。
そう思った。
俺は王子だ。正規の手続きを踏む。本人の希望を確認する。王家の管理する別施設へ。
配置転換。
担当官は、あっさり言った。
「殿下の御意向でございましたら」
できた。
◆
数日後。
「どう?」
「何が、でございましょう」
「仕事」
「以前より楽でございます」
答えが全部短い。短い答えは、だいたい用意されている。
「給金」
「増えました」
「住む場所」
「近くなりました」
なら、よかった。
そう言おうとした。
「前の仕事は?」
「はい?」
「君がやってた仕事」
「別の者が」
「誰?」
聞く。答え。同じ。不可持民。
俺が一人、動かした。その場所へ、別の一人が入った。仕事は、何も変わっていない。
「そっか」
本人の前では、それだけ。
「何か、不都合がございましたでしょうか」
「いや」
この人には、意味があった。仕事が変わった。給金が増えた。生活も、少し良くなった。
それを、失敗だった、とは言いたくない。
「よかった」
「恐れ入ります」
頭を下げられる。その頭を見ながら、思う。
助けた。つもりだった。
一人については、少し、良くなった。
でも。
人を一人、場所から動かしただけだった。
◆
「同じように希望する人がいたら?」
「同じように、とは」
「仕事を変えたい不可持民が、ほかにもいたら」
担当官が、少し、言葉を選ぶ。
「殿下」
「何?」
「どの程度までを、お考えでしょうか」
「どの程度?」
「人数でございます」
止まる。
「何人いるの?」
「地域ごとに異なります」
「じゃあ、この区域だけで何人いるの」
聞く。
思っていたより、多い。さらに、その数字すら、管理方法で変わると言われた。
一人を、俺の名前で動かした。同じことを、全員?
この人。この人も。この人も。
第三王子が、毎回、名前を出すのか。
俺がいなくなったら?
「……一旦、いい」
「承知いたしました」
止まる。また。
次は、本人へ聞いた。先生に言われた通りに。
「困っていることは?」
「ございません」
一人目。
「仕事で嫌なことは?」
「ございません」
二人目。
「待遇は?」
「十分でございます」
三人目。
「本当に?」
「はい」
四人目。
全部、同じ。五人目で、やめた。
◆
部屋へ戻る。机へ、突っ伏す。
「何してるの」
「姉さん」
「死んでるの?」
「生きてる」
床に転がっていた。
「なら起きなさい」
「はい」
起きる。姉さん。机を見る。
「何これ」
「資料」
「何の?」
「不可持民」
姉さんが、一枚、つまむ。
「何でそんなの調べてるの?」
「見たから」
「何を?」
「人」
見た、としか言いようがない。
「人?」
「うん」
姉さんは、何枚か見る。すぐ。
「つまらない」
「うん」
「最近ずっとこれ?」
「結構」
机の上の紙が、先月の倍になっている。
「何で?」
「分からないから」
「分からないならやめれば?」
正しい。姉さんらしい。
「そうかも」
「ならやめなさい」
やめた方がいいのは分かっている。
「でも、まだやめない」
「何でよ」
「もう少し知りたい」
「変なの」
資料を置く。その日は、帰った。
本人に聞けばいい。先生は、そう言った。でも、王子に言えるわけがない。
「困っている」
なんて。
その王子が、善人か、気まぐれか、明日には忘れるのか。不満を言った記録だけ、残るのか。
分からない。なら。
「ございません」
が、一番安全だ。
◆
聞き方を変えた。不可持民だけを、呼ばない。施設改善の調査として、働いている人間全員へ、同じ質問。
仕事。食事。時間。道具。怪我。移動。休憩。寝る場所。
しかも、誰が何を答えたか、俺には上げなくていい。そうした。
初めて、違う答えが出た。道具が足りない。休憩場所が遠い。終業時間が一定しない。怪我をしても、担当が違うと言われる。
小さい。本当に、小さい。
でも。
初めて。
「ございません」
以外が、出た。
一つずつ、直せるものは直した。不可持民だから、ではなく、仕事として。
道具。時間。担当。
その程度なら、比較的、通った。身分へ触れると、止まる。
「これは?」
「従来より」
「何で?」
「慣例で」
今日だけで、慣例という言葉を四回聞いた。
「変えられる?」
「私の一存では」
別の部署。
「ここは?」
「地方の規定が」
「誰が変えられる?」
「確認いたします」
確認。確認。確認。増える。
一枚の壁ではない。細い糸が、何百本も絡まっている。
一つ切る。ほどけない。変なところを切る。たぶん、もっと絡む。
◆
季節が、少し、変わった。
俺は、まだやっていた。
「まだやってるの?」
「何を?」
「それ」
姉さんが資料を指す。
「やってる」
「まだ分からないの?」
「前より分からなくなった」
「馬鹿じゃないの?」
「かもしれない」
否定しなかった。
「何で続けるの?」
「分からないところが分かったから」
「同じでしょう」
去年は、どこが分からないのかも分からなかった。
「違うよ」
「分からないわ」
「うん」
その日は、帰った。
また、しばらくして。
「まだ?」
「まだ」
「いつ終わるの?」
「分からない」
終わりを決めていない仕事を、初めて抱えた。
「何で?」
「終わりがどこか分からないから」
「最悪」
「俺もそう思う」
今日は、帰らなかった。
机の向かいへ座る。
「何がそんなに面倒なの?」
「全部」
「雑」
「例えば」
一枚、渡す。
「この人」
「誰?」
「不可持民」
「それは分かるわ」
姉さんは紙を覗き込んだまま動かない。
「前に仕事変えた」
「カイエンが?」
「うん」
姉さんが紙を裏返す。
「じゃあ終わりでしょう」
「その人はね」
「?」
「空いたところに別の不可持民が入った」
穴の形が変わらない限り、同じ人間がそこへ入る。
「じゃあ、その人も変えれば?」
「そうしたら、また別の人が入る」
同じ顔をした。
「全員変えれば?」
「俺もそう思った」
「やればいいじゃない」
「どこへ?」
姉さんの眉が寄る。
「何が?」
「全員。仕事を変えるとして。どこで働く?」
姉さんが止まる。
「仕事は?」
「作ればいいでしょう」
「誰が?」
「国が」
国が、で止まる。そこから先は誰も持っていない。
「いくらで?」
「知らないわよ!」
怒鳴っているが、席を立たない。
「俺も分からない」
「じゃあ調べなさい!」
「だから調べてる」
「あ」
黙った。
「それだけじゃない」
「まだあるの?」
「ある」
「嫌」
「やめる?」
嫌だと言った口で、続けろと言う。
「……続けなさい」
「はい」
「例えば?」
初めて、姉さんから聞いた。話す。分かっていることだけ。同じ不可持民でも、地方ごとに扱いが違う。全部が、法律ではない。
役所。慣習。仕事。生活。忌避。
別々に、絡んでいる。
「じゃあ」
姉さんが眉を寄せる。
「誰が悪いの?」
「分からない」
「王?」
「それも分からない」
誰か一人の顔を思い浮かべられたら、どれだけ楽か。
「役人?」
「一人変えて終わるなら楽なんだけど」
誰か一人を指せば済む話にしたいらしい。
「その人たち?」
「不可持民?」
「そう。嫌なら嫌って言えばいいでしょう」
言える立場の人間が言う台詞だった。
「言えると思う?」
「何で言えないのよ」
「姉さんに?」
言い直す。
「カミィに」
「俺でも無理だった」
「カイエンに?」
「うん」
「何で?」
たぶん。
ここから。
「怖いから」
「カイエンが?」
「王子が」
姉さんの顔が、少し、変わる。
「カミィは何もしないわよ」
「姉さんはそう思ってても」
「なら、何もしないって言えばいいでしょう」
言葉の問題ではない。
「それを信じてもらうのに時間がかかる」
「何で?」
「王子だから」
姉さんが、何か言おうとして、やめた。
「俺たち」
考える。
「何かするって言ったら、できることが結構ある」
「当然でしょう」
「だから」
「何?」
「何もしないって信じてもらうのも、難しいんだと思う」
姉さん、しばらく、黙る。
「変なの」
「うん」
「王子なのに」
「うん」
そこへ自分で辿り着いた。
「王子だから?」
「多分」
姉さんは、それが気に入らなかったらしい。
◆
その日、俺は何も頼まなかった。一緒にやろうとも、見に行こうとも、言わなかった。
これは。
まだ。
姉さんの問題ではない。
次の日も、一人。その次も、また。何日かして。
「カイエン」
「何?」
「今日、どこ行くの?」
「施設」
行き先を聞かれるのは、久しぶりだった。
「何しに?」
「見る」
短く答える。
「何を?」
「仕事」
「不可持民の?」
「それだけじゃないけど」
「ふうん」
資料。まとめる。立つ。扉。
「カイエン」
「何?」
振り向く。
姉さんは、少し、嫌そうな顔。
「カミィも見る」
止まる。
「いいの?」
「何でカイエンが決めるのよ」
「いや」
「カミィが見たいから見るの」
聞いたことがある。
少し、笑いそうになる。
「何?」
「何でもない」
「返事」
「はい」
返事の質まで採点されるようになった。
「気に入らない」
「難しいなあ」
姉さんが立つ。
俺は、何も説明しなかった。何を見るべきか。何を思うべきか。教えなかった。
俺が見て、分からなかったものを、姉さんが見たら、何を思うのか。
それは、俺が決めることではなかった。