転生先が殺し合いを約束された帝国の第三王子だった件 作:冷やかし中華
楽しんでいただけるように、しばらくはストックの続く限り毎日更新する予定です。
良かったら、拙作のウマ娘二次創作も読んでね!(ダイマ)
俺が初めてカミーラ=ホイコーロに出会ったのは、三十年以上前。俺と彼女がまだ、生まれたばかりの赤ん坊だった頃のことだ。
そして、あの日。
俺は自分がとんでもない場所へ生まれ落ちたことを知った。
◆
最初に感じたのは。
寒い。
だった。
次に。
眩しい。
それから。
うるさい。
「――――!」
「――――――!」
「――――、――――!」
何人もの声。
光。
知らない匂い。
ざらつく布。
身体が重い。
というより。
動かない。
いや。
待て。
何だこれ。
何で身体が動かない?
腕。
短い。
指。
ちっちゃい。
視界。
ぼやける。
声。
出ない。
「あー……」
出た。
いや。
違う。
喋ろうとして「あー」しか出ない。
この時点で薄々、嫌な予感はしていた。というか、ここまで揃えば、普通に考えて答えは一つしかない。
――俺。
赤ん坊になってない?
「――――!」
また声がした。
何を言っているのか、分からない。日本語じゃない。英語でもない。前世で聞いた覚えのある、どの言語とも違う。
ただ、声の調子だけは分かる。
喜んでいる。
たぶん、俺が無事に生まれたことを。
あ。
やっぱり。
赤ん坊なんだ。
いやいやいや。落ち着け俺。
赤ん坊になったことについてはもういい。よくないけど、とりあえず後回し。
転生。そういうことだろう。小説とか漫画とかで死ぬほど見た。まさか自分がやるとは思わなかったけれど。
「――――」
女の声。
近い。
疲れ切っていて、でも、妙に品がある。
その声に応じて誰かが動いた。ぼやけた視界の向こうから、俺と同じくらい小さな何かが運ばれてくる。
赤ん坊。
たぶん、俺より少し先に生まれた子。
「――――、カミーラ」
世界が止まった。
今。
何て言った?
「カミーラ」
聞き間違いじゃない。
意味の分からない言葉の中で、その音だけは、あまりにもはっきりと俺の記憶にあった。
待て。
待て待て待て待て。
「――――カミーラ――――」
やめろ。
いや、まだだ。カミーラなんて名前、探せばどこかにいる。
偶然だ。きっとそうだ。そういうことにしてくれ。
「――――ホイコーロ――――」
やめてくれ。
カミーラ。
ホイコーロ。
知っている。
前世で。
漫画で。
何度も見た名前だ。
「あ――」
声を出そうとした。
「あぅ」
当然、出ない。
いやいやいやいやいや。
嘘だろ。
よりによって。
よりによってそこ!?
転生先、選べるとかじゃないの? せめてモブ! どこかの一般家庭! 天空闘技場の観客! ヨークシンの通行人! 何なら名前のないハンターでもいい!
なんで。
よりによって。
あの一族なんだよ!
「――――」
女が、今度はこちらを見る。
「――カイエン」
知らない。
その名前は。
知らない。
「カイエン=ホイコーロ」
やめろ。
名字までつけるな。
カイエン。
ホイコーロ。
原作に。
そんな奴。
いない。
「――――ドゥアズル――――」
今度こそ、頭の中が真っ白になった。
ドゥアズル。
カミーラ。
ホイコーロ。
意味の分からない言葉の中から、知っている固有名詞だけが、次々と突き刺さってくる。
まだ分からない。俺がどういう立場なのか。何番目なのか。この赤ん坊が本当に「あの」カミーラなのか。何も確定していない。
でも、嫌な予感だけは確信に近かった。
カキン。
ホイコーロ。
カミーラ。
ドゥアズル。
もし。
もしも俺が思っている通りなら、この先にはあれがある。
ブラックホエール号。
壺中卵の儀。
そして、王位継承戦。
「あ……」
「?」
「あ、あ……」
「あああああああああああああああっ!!」
泣いた。
人生二度目。いや、今世では初めて。
本気で泣いた。
「――――」
「――――!」
違う。
そうじゃない。
たぶん今、
『元気ですね』
とか言ってるんだろ。違うから! 元気だから泣いてるんじゃない! 死にたくないから泣いてるんだよ!
俺、下手すると将来、兄弟姉妹で殺し合いさせられるんだけど!?
「――――?」
知らない言葉。
誰かが俺を抱き上げ、あやす。
違う。そうじゃない。
でも説明できない。できるわけがない。俺は赤ん坊で、この世界の言葉すら分からない。
その時、俺のすぐ横へ、小さな赤ん坊が寝かされた。
カミーラ。
たぶん、あの、カミーラ=ホイコーロ。
傲慢。自己中心的。自分以外の人間は、自分へ従って当然。そんな女。
だった。
――原作では。
赤ん坊のカミーラが、ぼやけた目でこちらを見ていた。
「ぁ」
「…………」
「あぅ」
手が動いた。
小さな手。
その指が、俺の頬へ触れた。
温かい。
当たり前だけど、普通の赤ん坊だった。漫画の登場人物じゃない。王位継承戦の参加者でもない。第二王子でもない。
ただの、生まれたばかりの女の子。
「……ぁ」
そして、もし俺の予想が正しいなら。
俺の姉。
そう思った瞬間だった。
緊張が、全部切れた。
「――――?」
「――――!」
「カイエン――?」
俺はそのまま、気を失った。
◆
次に目を覚ました時も、当然、赤ん坊だった。
夢じゃなかった。
人生、終わったかもしれない。
ただ、この時点ではまだ、終わったと決めるには、確認しなければならないことが多すぎた。
◆
それからしばらく、俺は必死だった。
まず必要なのは情報だ。ここが本当に俺の知っている世界なのか、名前がたまたま一致しただけという可能性はないのか。その一縷の望みを、どうにか確かめたかった。
だが現実は残酷で、俺にできることは何一つなかった。
立てない。
歩けない。
物を掴めない。
当然、本など読めるわけがないし、誰かに質問することもできない。声を出そうとすれば「あー」か「うー」しか出てこない。前世で何十年か生きた人間の頭が、生後数ヶ月の身体に押し込められている。その落差は、思っていたよりずっと堪えた。
結局、唯一残された手段が、聞くことだった。
王宮らしき場所で暮らす赤ん坊の周りには、常に誰かがいる。乳母、侍女、医者、衛兵。そして彼らは、赤ん坊の前ではよく喋った。当たり前だ。赤ん坊は何も理解しないと思っている。
だから俺は、目を閉じたまま、寝ているふりをして、ひたすら聞いた。
問題は言葉だった。当然ながら、彼らは前世の言語で喋ってくれない。まったく知らない音の並びを、意味の分からないまま丸ごと覚え込み、状況と照らし合わせて一つずつ推測していく。
この音が出ると乳母が来る。
この音の後は決まって身体を拭かれる。
この音は、誰かが部屋へ入ってきた時にだけ使われる。
積み木を裏返しに積み上げていくような作業だった。何度も間違えたし、何度もやり直した。それでも、毎日、何十回も同じ言葉を浴びせられるのだ。半年もすれば、断片は形になり始めた。
固有名詞だけなら、もっと早かった。
カイエン。
カミーラ。
生まれた日に聞いた二つの名前。その意味を、ようやく文章として理解できるようになった。
「カミーラ殿下は、本日もお元気ですね」
「カイエン殿下もよくお笑いになります」
殿下。
ああ、やっぱり。そこも合っていた。
そして、拾いたくない言葉ほど、正確に聞こえてくる。
「――ベンジャミン殿下も、そろそろ……」
その名前を聞き取れた日のことは、今でも覚えている。
ベンジャミン。
知っている。第一王子。軍を率いる男。原作の継承戦で、最も王に近い候補の一人だった男。
その名前が、伝聞や物語としてではなく、同じ王宮にいる人間の話題として、当たり前のように出てきた。その時点で、もう九割は決まったようなものだった。
それでも往生際悪く、俺は確認を続けた。
国の名前。カキン。
王の名前。ナスビー=ホイコーロ。
母の名前。ドゥアズル。その立場は、第二王妃。
そして、カミーラ。第二王子。
全部、一致した。
問題は、俺だった。
「第三王子カイエン殿下――」
聞き間違いかと思った。何度も、何度も聞いた。でも、間違いではなかった。
第三王子カイエン=ホイコーロ。第二王妃ドゥアズルの息子。第二王子カミーラ=ホイコーロの、双子の弟。
いない。
原作に。
そんな王子は。
存在しない。
ここは、俺が前世で読んでいた漫画の世界だ。そして俺は、本来なら存在しなかった、カミーラの双子の弟。出生順で言えば、第三王子。
諦めた。
ここは間違いなく、あの世界だ。しかも、よりによって、最も面倒な場所のど真ん中。
「ばぶ」
絶望しているのに、口から出るのはこれである。
赤ん坊。
不便すぎる。
ただ、この数ヶ月で、一つだけ手に入れたものがあった。
黙って。
聞いて。
覚えて。
組み立てる。
誰にも気づかれないまま、周囲の情報だけを集め続ける癖。あの頃はただの生存本能だった。それが何十年も経ったあと、まったく別の場所で役に立つことになるなんて。
この時の俺は当然、知らない。
◆
とはいえ、今日明日殺されるわけではない。王位継承戦が始まるのは、まだずっと先だ。少なくとも、赤ん坊の今すぐではない。
そこへ思い至ってからは、多少、冷静になった。
時間はある。原作知識もある。何より俺は今、王族だ。金、教育、人脈。利用できるものは多い。
だったら、備えればいい。
念を覚える。
強くなる。
継承戦そのものを回避する方法を探す。
無理なら、生き残る方法を作る。
そして可能なら――。
横を見る。カミーラが寝ていた。同じ部屋の、少し離れた位置。乳母や侍女が、いつも側についている。
この子も、殺し合いへ参加する。原作通りなら、当然、俺と。
嫌だな。
そう思った。
この時は本当に、ただそれだけだった。
◆
王宮での生活は、不自由だった。
ただし、一般的な意味ではない。
食事。服。寝床。医療。困るものなんて何一つない。泣けば誰かが来た。腹が減れば乳母が来る。少しでも熱を出せば、医者が何人も飛んでくる。世話をする人間は、いくらでもいた。
なのに、変な話、俺は時々、ひどく一人だった。
部屋には常に人がいる。夜も、必ず誰かが控えている。衣擦れの音と、焚かれた香の匂いだけが、暗い部屋をゆっくり動いていた。だが誰も、俺に話しかけはしない。正確に言えば、用件しか言わない。
お召し替えでございます。
お食事でございます。
お休みのお時間でございます。
全部、俺へ向けられた言葉のはずなのに、返事を期待されていない。
泣けば、必ず人が来る。来るのだが、誰も理由を聞かない。空腹か、不快か、熱か。そのどれかだと決めつけて、順番に潰していく。どれでもなかった時、彼女たちは困った顔をして、ただ抱き上げて揺らす。それで泣き止まなければ、次の人間が呼ばれる。
俺が何を思って泣いているのか。そこを知ろうとする人間は、一人もいなかった。
まあ、当たり前ではある。相手は赤ん坊なのだ。思っていることなんて、あるわけがない。
――ただ、俺にはあった。
俺は自分がどこへ生まれたか知っていて、この先この王家で何が起きるか知っていて、いつか兄弟姉妹で殺し合う日が来ることまで知っていて、それを、誰にも言えなかった。言えたところで信じられないし、そもそも、まだ満足に喋れない。
部屋の中に何人いようと、この頭の中身を分かち合える相手は、この世界に一人もいない。その事実だけが、静かに積もっていった。
人生で一番手厚く世話をされながら。
人生で一番、俺は一人だった。
◆
母のことは、しばらく分からなかった。
第二王妃ドゥアズル。その人が母親だという知識はある。けれど、顔を合わせる機会は驚くほど少なかった。少なくとも、俺たちの身の回りの世話を、母自身がすることはほとんどない。乳を与えるのは乳母。世話をするのは侍女。成長すれば、教育を施す人間も別につく。母は時々、様子を見に来るだけだった。
その日も、そうだった。
部屋の空気が変わり、侍女たちが一斉に頭を下げる。抱き上げられて、ようやく、まともに顔を見た。
整った顔立ちの女性だった。カミーラの面影が、確かにある。
「よく育っているようね」
声も、悪いものではなかった。冷たいわけではない。むしろ、満足そうですらあった。
ただ、目が。
俺を、見ていなかった。
いや、見てはいる。顔の造作を確認するように。手足の発育を見るように。健康状態を確かめるように。
その視線の先にあるのは、俺という人間ではなく、王家へ生まれた第三王子。そういう存在なのではないか。幼いながら、俺にはそう見えた。
「二人とも、良い王子になりなさい」
良い王子。
そう言われて、乳母たちが誇らしげに頭を下げる。誰も、何も、おかしいとは思っていない。この王宮では、母親が子供へ向ける言葉として、それが自然なのだろう。
俺は抱かれたまま、天井を見た。
この人は、俺を嫌っているわけじゃない。邪険にもしていない。たぶん、大事にはしている。
――「王子」として。
少なくとも、今の俺には、そう感じられた。
「……あぅ」
声を出してみた。
母は少しだけ笑って、俺を侍女へ返した。
それだけだった。
◆
やがて、弟が生まれた。
王宮が騒がしくなり、祝いの言葉が飛び交い、また一人、王子が増えた。
「第四王子ツェリードニヒ殿下のご誕生を――」
来た。
できれば、知りたくなかった名前。
覚悟はしていた。いずれ生まれてくることは分かっていたし、自分が一人割り込んだ以上、番号が一つ後ろへずれるはずだと、そう思っていた。
なのに。
「…………第四?」
変わっていない。
原作でも、あいつは第四王子だった。
俺が生まれたのに。俺が確かに、この王家へ一人増えたのに。あいつの番号だけは、何も動いていない。
「…………」
気味が悪かった。
理屈が合わない。合わないのに、そこにある。まるで、あの男の座る場所だけが、最初から決められていたみたいに。
考えすぎだ。そう思うことにした。
思うことにしたが、背中の落ち着かなさは、しばらく消えなかった。
◆
答えが出たのは、次の弟が生まれた時だった。
「第五王子チョウライ殿下のご誕生を――」
「…………は?」
思わず声が出た。
チョウライ。知っている。前世で読んだ漫画では、第三王子。
だった。
でも、今は第五王子。
一つじゃない。
二つ。
ずれている。
「…………」
俺が一人割り込んだ。それだけなら、全員が一つずつ後ろへ下がるはずだ。チョウライは第四王子になり、ツェリードニヒは第五王子になる。
そうならなかった。
俺が入って、なおかつ、二人の生まれる順番そのものが、原作と入れ替わっている。
「……そういうことか」
誰にも聞こえない声で呟いた。
世界は、俺が一人増えたぶんだけ、綺麗に一つずれてくれるわけじゃない。俺という石が落ちた場所から、波が、勝手な形で広がっていく。
どこがどれだけ動くのか、誰にも分からない。
俺にも、分からない。
「……そっか」
当たり前のことだった。俺が生まれた時点で、この世界は、もう俺の知っている漫画と完全に同じではない。その事実を、初めて、目に見える形で突きつけられた気がした。
ただし、番号が変わったからといって、中身まで変わった保証はない。
特に、あの第四王子については。
むしろ、変わっていてくれと、心の底から願った。
◆
それからも、父の子供は増えていった。
新しい王子が生まれるたび、王宮は祝った。王家の繁栄。国の未来。誰もが笑顔で祝福する。
俺だけが、数を数えていた。
一人増えるということは、いつか始まる殺し合いの席に、一人追加されるということだ。祝いの声が上がるたび、俺の頭の中では、数字が一つずつ大きくなっていく。
この王家では、子供が生まれることと、いつか殺し合う席が増えることが、同じ意味を持っている。
誰も。
それを口に出さない。
全員が知っているはずなのに。
誰も。
言わない。
それが。
この王宮の作法だった。
◆
「第三王子殿下、本日もご機嫌麗しく」
俺がまだ、まともに喋れるようになる前から、周りの人間は俺を第三王子と呼んだ。
「カイエン殿下」
「王子様」
「殿下」
もちろん、名前でも呼ばれる。でも、視線が違った。
俺自身を見ているようで、その後ろにある王子、王家、国王。そういうものを見ている。
前世では、人間はもっと雑だった。好きな奴。嫌いな奴。面白い奴。変な奴。そういう目で見られていた。
ここでは、違う。
俺が笑えば。
「さすが殿下」
物を覚えれば。
「聡明であらせられる」
失敗すれば。
「まだお幼いですから」
怒れば、誰かが謝る。俺が悪くても、相手が。
子供心にも、気味が悪かった。
◆
そんな中、唯一、最初から何も変わらない奴がいた。
「カイエン!」
カミーラだった。
「なに、姉さん」
「これ!」
差し出されたのは、半分潰れた菓子。
「……何それ」
「カミィの!」
「じゃあ何で俺に渡すの」
「持ってて!」
「はいはい」
「食べちゃダメ!」
「食べないよ」
数秒後。
「カイエン!」
「今度は何」
「返して!」
「はい」
「遅い!」
「理不尽だなあ」
侍女たちは当然、青ざめていた。
「カ、カミーラ様。第三王子殿下にそのような――」
「カイエンはカイエンよ!」
カミーラが言った。
たぶん本人は、何も深い意味なんて考えていない。俺は双子の弟。だからカイエン。それだけ。
でも俺には、その言葉が妙に残った。
◆
カミーラは昔から、わがままだった。
「カイエン、こっち!」
「今、本読んでる」
「こっち!」
「だから――」
「カイエン!」
「……はいはい」
強い。
我も。
声も。
押しも。
「一緒に遊ぶ!」
「何するの」
「知らない!」
「そこから俺が決めるの?」
でも、俺が王子だからとか、俺が男だからとか、俺が自分より下だからとか、そんなものではなかった。
カミーラにとって、俺はカイエンだった。
気に入らなければ怒る。面白ければ笑う。欲しいものがあれば奪う。俺が嫌がれば、さらに怒る。
ひどい。普通にひどい。
でも、俺が何をしても、周りの大人みたいに顔色を窺わない。
「カイエン!」
「はいはい」
「“はい”は一回!」
「誰に教わったの、それ」
「カミィが決めた!」
「ですよね」
だから、いつの間にか、カミーラといる時だけ、俺も少し子供になれた。
◆
前世の俺のことは、正直、あまり語ることがない。
特別な人生ではなかった。働いて、飯を食って、寝て、休みの日には本を読むか、漫画を読むか。そんな暮らし。誰かに誇れる何かを成し遂げたわけでもない。
ただ、好きなものはいくつかあった。その一つが、あの漫画だった。
念という力があって、化物みたいな連中が本気で殺し合っていて、それでいて、誰も彼もが妙に人間くさい。
その中で俺は、カミーラというキャラクターが好きだった。
傲慢で、我儘で、自分が世界の中心だと信じて疑わない。まともな人間ではないし、褒められた性格でもない。ただ、その徹底ぶりが、いっそ気持ちよかった。
――紙の上で見ている分には。
だから、生まれた直後にその名前を聞いた時、俺は絶望した。好きなキャラクターに会えて嬉しい、なんて感情は、一秒も湧かなかった。
あれは、そういう物語じゃない。
――なのに。
「カイエン!」
「なに?」
「見て!」
「見てるよ」
「もっと見て!」
「どうしろと?」
いつからか、目の前のカミーラと、漫画で読んだカミーラを、同じ人間として考えることができなくなっていた。
これは、漫画のキャラクターじゃない。
俺の隣で。
泣く。
怒る。
笑う。
眠る。
俺の菓子を奪う。
俺の寝台へ勝手に入ってくる。
そして、俺がいなくなると、探しに来る。
そういう、生きた人間だった。
◆
ある夜、目を覚ますと、隣にカミーラがいた。
いや、正確には、俺の寝台へ潜り込んでいた。
「姉さん」
「……」
「姉さん」
「……なに」
「何でいるの」
「寝るから」
「自分の部屋あるでしょ」
「やだ」
「なんで」
「カイエンがいるから」
すごい理屈だ。
「戻りなよ」
「やだ」
「怒られるよ」
「誰が?」
「侍女とか」
「カミィが怒る」
「強いなあ」
結局、追い出せなかった。
少しして、姉の寝息が聞こえてくる。俺は、暗い天井を見上げた。
王位継承戦。その言葉が、頭の中へ浮かぶ。
未来。ずっと先。いつか、この子と。
殺し合う。
「…………嫌だな」
小さな声だった。カミーラは起きない。俺だけに聞こえる。
「それは……嫌だ」
俺は未来を知っている。だから、備えようと思った。自分が生き残るために。
でも、その夜、初めて、少しだけ考え方が変わった。
俺が生き残る。
だけじゃ。
駄目だ。
「……姉さんもだ」
隣を見る。眠っている。無防備な顔。
将来どんな人間になるのか、俺は知っている。
――いや。
本当に?
原作のカミーラ。それは、俺がいなかった世界のカミーラだ。そして、この世界は、もうあの通りには動いていない。
チョウライは第五王子になった。俺が一人増えただけで説明のつかない形で、原作とは違うことが、もう起きている。
なら、目の前の姉さんだって、同じになるとは限らない。
「そっか」
簡単なことだった。
未来を知っているなら、変えればいい。俺自身も、姉さんも、変えられるところまで変えればいい。
王位継承戦が、どうしても避けられないのなら。その時までに。
「……強くならないとな」
俺が。
そして、たぶん、姉さんも。
◆
「カイエン」
「ん?」
「手」
「何?」
「手!」
「はいはい」
寝ぼけたカミーラが、俺の手を探した。
握る。
小さな手。汗ばんで、少しべたついている。
いつか俺は、この手を敵として握ることになるのだろうか。
そんな未来。
嫌だった。
「姉さん」
「……なに」
「俺ね」
「うん」
「姉さんとは殺し合わないよ」
「…………」
「絶対に」
返事はなかった。
もう寝ている。
「……聞いてないか」
まあいい。俺が覚えていれば、それで十分だと思った。
――この時の俺は、まだ知らなかった。
たった一人の姉と殺し合わないために立てた、その程度の誓いが、三十年以上経ったあと。
自分の顔を裂き。
王位を捨て。
国を追われ。
それでもなお、彼女を追って、あの巨大な船へ密航するところまで。
俺自身を連れていくことになるなんて。
そんなことは、まだ、知る由もなかった。
ちなみに王位継承を反古にした元王子がオリ主なので、継承戦の席は原作通り「十四」から変わりません。……変わらない予定です。