転生先が殺し合いを約束された帝国の第三王子だった件 作:冷やかし中華
十歳を過ぎた頃。
俺は人生で初めて、姉さんから離れることになった。
◆
「嫌よ」
「うん」
「行かないで」
「うん」
「だから行かないのね?」
「いや、行くよ」
「カイエン!」
怒鳴られた。知ってた。こうなると思ってた。
「何で!?」
「何でって……俺の外遊だから」
「そんなものやめなさい!」
「俺に言われても」
「カイエンの外遊でしょう!?」
「そうだけど、俺が決めた外遊じゃないよ」
理屈は通っているのに、通じない。
「なら断ればいいじゃない!」
「王子が国の仕事を?」
「そうよ!」
「駄目でしょ」
「駄目じゃないわ!」
「駄目だよ」
同じ言葉を三回繰り返した。
「カミィがいいって言ってるの!」
「姉さん、国王じゃないじゃん」
「なるのよ!」
「今は違うよ」
「カイエン!!」
また怒鳴られた。
目の前で、カミーラがものすごく不機嫌そうに腕を組んでいる。十歳を過ぎ、昔より背も伸びた。髪も長くなった。顔立ちも少しずつ、俺が前世で知っていたカミーラへ近づいている。
中身も、まあ、順調だった。良い意味かどうかは、知らない。
「どれくらい?」
「ん?」
「どれくらい行くの?」
「三週間くらい」
「長い!」
「そう?」
「長い!!」
「一ヶ月もないよ」
二回言えば短くなると思っているらしい。
「三日で帰ってきなさい!」
「無茶言うなあ」
「四日」
「交渉になってないよ」
「五日!」
「増えた」
値切っているつもりが、逆へ動いている。
「これ以上は譲らないわ!」
「俺に決定権がないんだって」
俺は苦笑する。
今回の外遊は、俺一人で好き勝手に外国へ行く、なんて話ではない。カキンの外交使節、その一員として、第三王子である俺も同行する。そういう話だった。
王族として他国を見る。外交の場へ出る。向こうの王族や有力者と顔を合わせる。形式上の意味もあるし、教育としての意味もある。
俺としては、断る理由はなかった。
むしろ、行きたい。
王宮の外。それも、カキンの外。前世では漫画の背景でしかなかった世界が、実際にはどうなっているのか。見てみたかった。
「姉さんもそのうち行くでしょ」
「今行く」
「今回は無理」
「どうして?」
答えは分かっているだろうに、訊く。
「姉さんの予定じゃないから」
「変えなさい」
「誰が?」
「カイエンが」
「無理だって」
「じゃあ外遊をやめなさい!」
戻った。
「だから――」
「カイエン!」
「はいはい」
「“はい”は一回!」
「はい」
この応酬だけは、何年経っても変わらない。
「行かない?」
「行く」
「嫌い!」
「そうですか」
「大嫌い!」
「はい」
沈黙。姉さんが口を開くまで、それなりに長かった。
「……お土産」
「いるんじゃん」
「いる!」
そこは、しっかりしていた。
◆
出発の日。姉さんは見送りに来なかった。
まあ、そうなるか。昨日も最後まで、
「行かないで」
と言っていた。
朝になったら機嫌が直っているかもしれない。少しだけ、そう思っていた。甘かったらしい。
「カイエン殿下。そろそろ」
「うん」
随行員に促される。振り返る。
当然、いない。
仕方ない。行こう。
俺が一歩踏み出したところで。
「カイエン!」
「ん?」
振り向く。
いた。廊下の向こうから走ってくる。侍女を置き去りにして、そのまま俺の前まで来る。
「姉さん」
姉さんは肩で息をしていた。返事はない。
「見送り来ないのかと思った」
「来てないわ」
「いるじゃん」
「これは見送りじゃないの」
「じゃあ何?」
「命令しに来たの」
まだ息が整っていない。
「何を?」
「早く帰ってきなさい」
「予定通り帰ってくるよ」
「早く!」
「だから――」
袖を掴まれた。
「早く」
さっきより、少しだけ小さな声だった。
俺は掴まれた袖を見る。それから、姉さんを見る。
「分かった」
「本当?」
「できるだけね」
「絶対よ」
「努力します」
「絶対!」
「……はい」
袖が、離れる。
「行ってらっしゃい」
「うん」
少し歩く。
「カイエン!」
「何!?」
「お土産!」
「忘れないよ!」
「いっぱい!」
「分かった!」
やっぱり、そこは大事らしい。
◆
初めての外国は面白かった。ものすごく、面白かった。
街が違う。建物が違う。服が違う。人が違う。食べ物も、匂いも、話し方も、全部が微妙に違う。
カキンの街並みは灰と黒で揃っているのに、ここは壁が薄い青や黄土に塗り分けられていて、遠くから見ると布を並べたように見えた。香辛料の匂いが、道の端から絶えず流れてくる。言葉はまるで聞き取れないのに、語尾だけがやたらと跳ねる。
もちろん、俺は王子として来ている。好き勝手に市場を歩けるわけではない。護衛もいるし、予定も詰まっている。
挨拶。会食。見学。また挨拶。
偉い人。偉い人。偉い人。偉い人。
多いな。
でも、嫌ではなかった。王宮にいるだけでは分からないことが、いくらでもある。同じ料理でも国が違えば味付けが違う。同じ王族でも立ち居振る舞いが違う。同じ商人でも、カキンの人間とは値段の付け方も、物の見せ方も違う。
面白い。もっと見たい。もっと知りたい。
そう思った。
前世で海外旅行が趣味だったわけではない。むしろ、休みの日なら家にいる方が好きだった。なのに今は、知らないものを見ることが妙に楽しい。
たぶん、王宮が狭すぎたのだ。
広いくせに。俺の世界としては、あまりにも。
◆
最初の数日は、姉さんのことをほとんど思い出さなかった。
いや、忘れていたわけじゃない。ただ、目の前のものが全部新しかった。忙しかった。それだけだ。
でも、ある日の会食で菓子が出た。
小さな焼き菓子。果物を煮詰めたものが入っている。一口食べる。
甘い。かなり、甘い。
でも、悪くない。むしろ、好きだ。
そして、最初に浮かんだのが。
「姉さん好きそうだな」
だった。
「殿下?」
「あ。いや。何でもない」
何でもない。本当に、ただそう思っただけ。
翌日、工房を見学した。細い金属を編み、小さな石をはめ込んだ簡素な髪飾りがあった。王族が身につけるような高価なものではないし、名のある宝石でもない。でも、光に当てると綺麗だった。
「……姉さんに似合いそう」
また、思った。
次の日、街で変な色の菓子を見た。
「姉さん食べるかな」
その次。妙に派手な布。
「姉さん好きそう」
その次。小さな香水瓶。
そこまで来て、ようやく手が止まった。
「姉さんのことばっかりじゃん」
随行員が、聞かなかったふりをしてくれた。
◆
その頃カキンでは、カミーラが、朝食を終えたあとの決まった時間に、決まった窓辺へ立っていた。そこからは庭がよく見える。いつもの時間の、いつもの場所に、誰もいない。
「カミーラ様。本日のご予定ですが――」
「知ってるわ」
「失礼いたしました」
庭を見る。
「カイエンは?」
「カイエン殿下でしたら、現在は――」
「知ってる!」
「……失礼いたしました」
知っている。外遊、三週間、そんなことは出発の前から嫌というほど聞かされている。なのに朝になると、身体の方が勝手に窓へ寄っていく。
いつもなら、あそこにいるからだ。走っていたり、身体を伸ばしていたり、時々わけの分からない格好でただじっとしていたりして、カミーラが庭へ降りていけば、あの子は必ず顔を上げてこう言う。
「姉さんもやる?」
やりたくなければ、
「やらない!」
と言えばいい。やりたければ、やればいい。どちらを選んでも、カイエンは同じ顔で待っている。
でも、今は、いない。
「……つまらない」
「何かお持ちいたしましょうか?」
「いらない」
「お菓子など――」
「いらない!」
「失礼いたしました」
少しして。
「……やっぱり持ってきなさい」
「かしこまりました」
菓子は、普通に食べた。
◆
翌朝、カミーラは誰にも言わずに一人で庭へ出た。侍女たちは慌ててついてきたが、そこから先へは入れなかった。
「いち」
走る。
「に」
走る。
「さん」
止まる。息が上がる。
それだけだった。
つまらない。勝っても誰も悔しがらないし、負けても誰も笑わないし、そもそも勝負をする相手がいない。この庭でやることの半分は口喧嘩で、残りの半分はカイエンをやり込めることだったのだと、いなくなって初めて気づいた。
「もうやらない!」
侍女が、びくりとした。
「カミーラ様?」
「やらない!」
「何をでしょうか?」
「全部!」
「……かしこまりました」
その日、カミーラは何もしなかった。次の日も、その次の日も。
◆
「カイエン殿下」
「ん?」
「お手紙が届いております」
「手紙?」
「カキンより」
嫌な予感がする。
受け取る。開く。読む。
『カイエンへ。
早く帰りなさい。
カミィより』
「……短っ」
予想通り。いや、予想より短い。
俺は少し考えて、返事を書いた。
『姉さんへ。
俺も帰るつもりはあります。
ただし、予定より早く帰るのは無理です。
お土産は何が欲しい?
カイエン』
これでしばらく静かになるだろう。そう思った。
数日後、また手紙が来た。今度は厚かった。
嫌な予感がする。
開く。読む。
欲しいもの。
欲しいもの。
欲しいもの。
欲しいもの。
「多いな!?」
菓子。髪飾り。服。香水。人形。靴。宝石。見たことのない動物。
「最後の何?」
しかも、最後に。
『全部。
カミィより』
「無茶言うなあ」
俺は笑った。
◆
外遊も半分を過ぎた頃、少しだけ自由に街を見る時間ができた。もちろん護衛付き。でも、十分だった。
市場を歩く。食べ物。服。工芸品。見たことのないものが、いくらでも並んでいる。
姉さんの土産も、だいたい決まった。菓子は日持ちするものを何種類か。髪飾りは高価すぎないもの。どうせ姉さんは、値段より自分が気に入るかどうかだ。
それから、足が止まった。
店の隅。棚の端。
何かがいた。
「……何だこれ」
陶器。手のひらより少し大きい。
黒っぽい。
丸い。
耳。らしきものが二つ。
目。やたら大きい。
口。笑っている。たぶん。
牙。みたいなものまである。
四本足。いや、二本?
「……猫?」
店主を見る。店主も陶器を見る。
「猫……でしょうな」
「でしょうな?」
作った側じゃないのか。
「古くからある意匠でして」
「何の?」
「さあ」
「さあ?」
「魔除けとも、福を招く獣とも」
「猫?」
「猫に見えますな」
「見えなくもないけど」
もう一度見る。
不格好。普通に、不格好。かわいい、とも言い難い。怖い、というほどでもない。何とも言えない。
何とも言えない顔で、笑っている。
姉さん、こういうの好きそうだな。
「これください」
「殿下?」
護衛が、本気か、という顔をした。
「何?」
「いえ」
「変?」
「いえ」
「変なんだ」
「申し上げておりません」
「顔に出てるよ」
買った。
別に高くなかった。名のある工房でもないし、宝石も使っていない。ただの、変な陶器。
でも何となく、姉さんにはこれが一番似合う気がした。
◆
朝、目を覚ます。身体を伸ばす。走る。跳ぶ。自分の体重を使って、身体を動かす。
外遊中でも、それは変えなかった。場所が変わっても、時間が多少ずれても、できる範囲でやる。物心ついた幼い頃から何年も、そうしてきた。
最近は最後に、少しだけ座る時間を作っていた。
瞑想、というほど大したものでもない。呼吸を整える。身体の力を抜く。自分の内側へ意識を向ける。
理由は単純。
念だ。
◆
前世の知識が正しいなら、念は特別な人間だけが持つ力ではない。誰にでも生命エネルギー、オーラはある。ただ普通は、それを認識できないし、使えない。
精孔。そこを自力で、ゆっくり開く。そういう修行方法が確かにあった。
問題は、漫画で読んだだけ、ということだ。呼吸。瞑想。意識。そんな程度の知識しかない。具体的に何をどうすればいい、なんて知らない。
だから、やってみるしかない。
初日、何もなかった。二日目も何もない。三日目、やっぱり何も――。
「……ん?」
違和感。
ほんの少し。
何か。
違う。
風?
いや、風はもっと外から来る。
これは、内側。身体の内側から、何かが外へ抜けている。
目を開ける。手を見る。
何もない。いや、見えていない。
でも、ある。分かる。
皮膚の表面。身体の周り。何かが薄く流れている。
「……まさか」
指を開く。閉じる。もう一度開く。
意識をそこへ向ける。集中する。見る。見ようとする。
そして。
「……あ」
見えた。
湯気。
みたいな。
白い。
薄い。
何か。
身体から。
漏れている。
息を止めていた。いつからかは分からない。吐く。心臓の音が、耳の奥で鳴っている。
「オーラ」
声に出す。消えない。
「これが……」
念。
俺はしばらく座ったまま、自分の手を見ていた。
嬉しい。ものすごく、嬉しい。十年以上、知識だけはあった。この世界に確かに存在することも知っていた。でも、自分で見た。自分の身体から出ている。
「……マジか」
笑った。一人で。たぶん、ものすごく気持ち悪い顔をしていたと思う。でも、止まらなかった。
「できた……」
俺にも、できた。
念が。
◆
――いや、待て。喜んでいる場合じゃない。
これ、漏れてない?
思い出す。念を知らない人間は精孔が閉じている。そこを開く。オーラが出る。そして出しっぱなしにすると疲れる。最悪、生命力そのものに関わる。
「待て待て待て待て」
俺、師匠いないんだけど。
「……纏」
思い出す。四大行。
《纏》。
《絶》。
《練》。
《発》。
まず、《纏》。身体から出ているオーラを、身体の周囲へ留める。
やるしかない。どうやって? 知らない。
「いや、知識だけで開けたんだから何とかなるだろ」
誰に言っているのか、自分でも分からない。
とにかく、漏れるものを身体へ沿わせる。外へ流すな。留める。纏う。意識する。
散る。
「違う」
もう一度。呼吸。焦るな。
さっきまで、何年も身体を動かしてきた。姿勢。呼吸。力を入れる場所。抜く場所。全部、一日でできたわけじゃない。
同じだ。
オーラを見る。感じる。流れる。止める。いや、止めるじゃない。包む。
何度もやる。崩れる。またやる。少し留まる。崩れる。また。
「……難しいな」
笑う。でも、嫌じゃなかった。
◆
その日のうちに纏ができるようになった――とは、とても言えなかった。
数秒。それらしい状態になる。崩れる。もう一度。十秒。崩れる。呼吸を乱すともっと駄目で、立つとさらに難しい。歩けばすぐ散る。
なるほど、これが修行か。
精孔を開くことと、使いこなすことは全然違う。入口を見つけただけで、その先を一歩も歩いていない。
ただ、座り込んだまま、一つだけ引っかかっていることがあった。
「……三日」
声に出してみる。
前世の記憶が正しければ、自力で精孔を開く修行は、毎日何時間も、一年以上。それが目安だったはずだ。才能のある人間で半年。とんでもない天才で、ようやく一ヶ月を切る。そういう世界だったと、俺は覚えている。
「……三日は、おかしくない?」
嬉しい。嬉しいのは間違いない。
でも、それとは別に、背中の方が少し冷たかった。
何年も身体を鍛えてきた。呼吸も、姿勢も、自分の内側へ意識を向けることも、やってきた。それが効いたのだと思いたい。
思いたいが、積み上げてきたものだけで、一年が三日になるものだろうか。
それとも、俺が最初からそういう風にできていたのか。
だとしたら。
誰のせいで。
俺は自分の手を見る。白い。薄い。まだ頼りない。
答えの出ない疑問だった。
「……まあ、いいか」
今は保留にする。どうせ、考えて分かることじゃない。
それに、速く開いたからといって強いわけではない。念能力者と戦ったこともないし、自分のオーラが多いのか少ないのか、それすら分からない。
なら、やることは今までと同じだ。
今日、できなかった。
なら、明日、またやる。
◆
カキンでは、カミーラがまた一人で庭へ出ていた。三日ぶりだった。
「カミーラ様?」
「何よ」
「本日は……」
「三回」
「はい?」
「三回だけやるの」
「……かしこまりました」
誰も意味を分かっていない。それでいい。分からせるつもりもない。
「いち」
走る。
「に」
走る。
「さん」
止まる。息を整える。
誰も見ていない。いや、侍女たちは見ている。控えの者も、庭の端の警備も、全員がこちらを見ている。でも、違う。カミーラが見てほしい人間は、この庭のどこにもいない。
「……今日はこれでいいの」
「はい」
「カイエンが帰ってきたら」
少し考える。
「五回やる」
「……はい」
「それで」
また。
考える。
「勝つ」
誰に。
とは。
言わなかった。
◆
三週間。長い、と姉さんは言った。
俺には短かった。もっと見たいものがあったし、もっと行きたい場所があったし、もっと話したい人間もいた。
それでも、帰国の日が近づくと少し嬉しかった。
何でだろう。
いや、分かっている。たぶん、姉さんだ。
「俺も大概だな」
荷物を見る。菓子。髪飾り。小物。それから、厳重に包まれた、変な猫。
これ、本当に喜ぶかな。
少し、不安になった。
◆
帰国。王宮。
懐かしい。たった三週間なのに、そう思った。
人が並ぶ。挨拶。報告。また挨拶。
面倒。早く部屋へ戻りたい。
そう思いながら、廊下を歩く。
「カイエン!」
「ん?」
聞き慣れた声。振り向く。
カミーラ。走ってくる。
「姉さん」
「遅い!」
第一声。それだった。
「ただいま」
「遅い!」
「予定通りだよ」
「遅いの!」
「三週間って言ったじゃん」
「長かった!」
「それは出る前にも聞いた」
「もっと早く帰ってきなさい!」
「無茶言うなあ」
俺は笑う。
姉さんは怒っている。たぶん、本気で。
でも、俺の袖を掴んでいる。出発の日と、同じ場所。
「姉さん」
「何よ」
「ただいま」
「……遅い」
「うん」
今度は、訂正しなかった。
◆
「お土産!」
「やっぱりそこ?」
「早く!」
「はいはい」
「一回!」
「はい」
部屋へ戻る。並べる。
菓子。
「これ何?」
「向こうの菓子」
「食べる!」
「あとで」
「今!」
「夕食前だから駄目」
「カイエン!」
「次」
髪飾り。
「姉さんに似合うと思って」
姉さんは髪飾りを光にかざして、少しの間、黙っていた。
「どう?」
「悪くないわ」
「お。珍しく素直」
「カミィには何でも似合うもの」
「そっちか」
小物。香り。布。
頼まれたもの全部は、当然、買っていない。
「これだけ?」
「十分だろ」
「全部って書いた!」
「全部買うとは言ってない」
「カイエン!」
「で」
最後。
「これ」
包みを置く。
「何?」
「俺も分からない」
「何それ」
「見れば分かる」
「分からないものを見せるの?」
「だから見て」
包みを開く。
カミーラが、止まった。
黒い。丸い。大きな目。妙な笑顔。牙。
猫。らしき。何か。
「……何これ」
「猫」
「猫じゃないわ」
「やっぱり?」
「こんな猫いないもの」
「俺もそう思った」
真顔で否定された。
「じゃあ何で猫って言ったの?」
「店の人が猫だって」
「嘘よ」
「たぶんね」
カミーラが陶器を持ち上げる。正面。横。後ろ。裏。また正面。
「変な顔」
「うん」
「不格好」
「うん」
「牙も変」
「うん」
全部その通りだった。
「全然かわいくないわ」
「じゃあ返して」
「嫌」
「え?」
胸へ抱え込む。
「これはカミィのよ」
「気に入ったの?」
「気に入ってないわ」
「じゃあ返して」
「嫌!」
「どっち?」
「カミィの!」
「猫じゃないんだろ?」
カミーラが、もう一度、変な生き物を見る。
「猫よ」
「さっき猫じゃないって言ったじゃん」
「今決めたの」
「誰が?」
「カミィが」
懐かしい。本当に。
「そっか」
「そうよ」
「じゃあ猫だね」
「猫よ」
カミーラが満足そうに笑った。
「名前は?」
大きな目。丸い身体。変な牙。何とも言えない、不格好な猫。
カミーラはしばらく考えて、首を傾げた。
「まだないわ」
「そう」
「そのうち決める」
「うん」
それきり、猫の話は終わった。
「カイエン」
「なに?」
「明日」
「うん」
「勝負するわよ」
「何の?」
「走るの」
「いいよ」
「カミィ、五回できるようになったから」
手が。
止まった。
「何よ」
「いや」
俺は少しだけ笑った。
「そっか」
「絶対勝つから」
「負けないよ」
「カミィが勝つの!」
いつもの調子だった。
「じゃあ明日ね」
「朝よ!」
「分かってる」
「寝坊したら許さないから!」
「しないって」
「絶対よ!」
「はい」
変な猫を抱えたまま、姉さんが俺を睨む。
俺はその顔を見ながら、三週間ぶりに、いつもの場所へ帰ってきた気がした。
お土産に買ってきた猫らしき置物が《百万回生きた猫(ネコノナマエ)》のモデルになるに違いない。たぶん、きっと。
あとツェリードニヒの《刹那の十秒(ラプラス・デビル)》があるので誤解されがちだけど、カミーラの《百万回生きた猫》は《絶》をした状態で「敵に殺されること」が発動条件ではないっぽいんですよね。
「敵に殺されること」そのものが、発動の制約であって、《絶》状態である必要はない、と考えると、たしかに囚われの身になる(能力バレする)と脆弱だけど、そうでない場合は、やっぱりヤベー能力なんだよな、と。