転生先が殺し合いを約束された帝国の第三王子だった件 作:冷やかし中華
よろしくお願いします。
姉さんが念に目覚めてから、何かが大きく変わったかというと。
そんなことはなかった。
「もうやらない!」
「うん」
「つまらない!」
「うん」
「何で止めないのよ!」
「止めたら怒るじゃん」
「止めなくても怒るわ!」
「知ってる」
「カイエン!」
怒って帰る。
数日後。
「今日は?」
「来たんだ」
「来たわよ!」
「何する?」
「簡単なの」
「じゃあ纏」
「また!?」
だいたい、こんな感じだった。精孔が開いたからといって、急に姉さんが努力を愛するようになるわけではない。
纏はやる。
纏が少し安定してきたので、絶も俺から教え始めた。もちろん、ビスケは何も言わない。新しいことを教えるのはあの人の仕事ではないし、俺が教える分には契約に関係がない。その代わり、危ないことをやろうとすれば止まる。そういう約束になっている。
身体の周りを覆っていたオーラが消える感覚が嫌らしく、最初は三秒でやめた。
「嫌」
「早いな」
「寒い」
「実際に寒くなったわけじゃないよ」
「カミィが寒いと思ったんだから寒いの!」
「はい」
「返事が気に入らない」
「どうしろと」
もっとも、嫌がる理由は分かる。絶は、身体を覆っているオーラを内側へ閉じる技術だ。外から見れば、ただ立っているだけ。でも本人からすると、それまで自分を包んでいたものが消える。俺も最初は落ち着かなかった。
姉さんの場合は、たぶんそれ以上だ。
この人は生まれてから一度も、自分が守られていない場所に立ったことがない。
部屋には人がいる。
外へ出れば護衛がつく。
欲しいと言えば誰かが持ってくる。
その姉さんが、自分の意思でオーラを引っ込める。薄着になるどころの話ではないのだろう。
三秒でも大したものだと思う。
もちろん、口には出さない。言ったら「当たり前でしょう」で終わる。
それでも。
来た日はやる。
帰る日は帰る。
来ない日は本当に来ない。
俺も迎えには行かない。
その代わり、俺は毎日、同じ場所にいた。
◆
「じゃ、今日から凝」
「はい」
「その前に復習」
「はい」
「纏」
やる。
「絶」
閉じる。
「練」
出す。
「右肩」
「あ」
「まだ残ってる」
「はい」
「アンタ、その癖しつこいわね」
「八年ものなので」
「自慢すんな」
怒られた。
ビスケとの契約が始まってから、数ヶ月。独学でやっていた頃とは、自分でも分かるくらい身体が変わっていた。
強くなった、というより。
分かるようになった。
立っている時、どこに力が入っているか。歩く時、どちらの足へ重さが移っているか。殴る時、拳より先にどこが動くか。
呼吸。
視線。
肩。
腰。
足。
今まで全部、自分の身体だった。今もそうだ。
なのに、前より細かく見える。
念も同じだった。以前は、纏ができた。絶ができた。練も一応できた。それだけだった。
今は違う。
「目」
「はい」
オーラを集中させる。
視界が変わる。
「肩に逃げてる」
「え?」
「目ぇ頑張ろうとして身体まで頑張ってどうすんの」
「……本当だ」
「もう一回」
やる。
崩す。
やる。
崩す。
「もう一回」
「はい」
何度目かで。
「まあいいわ」
「お」
「何よ」
「初日で、まあいいわ貰った」
「取り消すわよ」
「すみません」
危ない。
◆
凝。
周。
堅。
硬。
流。
ビスケは少しずつ、本当に少しずつしか先へ進ませなかった。一つ覚えるたびに、前のものへ戻される。
凝をやれば、纏が甘くなる。堅を覚えれば、絶の切り替えが遅くなる。どこかを伸ばせば、どこかが落ちる。
その繰り返しだった。
周は、意外と面白かった。自分の身体ではなく、物へオーラを纏わせる。最初は木の棒でやった。持っているだけなら簡単だ。
振ると散る。
当てると消える。
「棒が自分の腕だと思いなさい」
「思ってます」
「思ってない。今、棒の先だけ薄い」
「見えるんですか?」
「見えるわよ」
悔しかったので、それから数日は棒ばかり振っていた。
堅は、単純に、きつかった。練で膨らませたオーラを、そのまま全身へ留め続ける。言葉にすれば一行で済む。
やってみると、五分でふらつく。
「短い」
「これでも伸びました」
「維持時間を十分伸ばすだけでも、一ヶ月かかるって言われる技よ」
「一ヶ月……」
「それ、才能ある子の話ね」
「先生は?」
「言うと思った」
「教えてください」
「教えない」
教えてくれなかった。たぶん、聞いてもろくなことにならない数字だったのだと思う。
「硬!」
右拳へ。
「遅い!」
「痛っ!」
脇腹へ蹴り。
崩れる。
「右に集めることしか考えてない!」
「はい!」
「硬は強い! だから弱い!」
「はい!」
「意味分かってんの!?」
「分かってます!」
「なら立つ!」
「はい!」
立つ。
殴られる。
また立つ。
「極端なのよ!」
「はい!」
「全部集めて、他が空っぽ! そこ狙ってくださいって言ってるようなもんよ!」
「はい!」
「じゃあどうする!」
「流!」
「やれ!」
右。
左。
腹。
脚。
頭。
オーラを移す。
間に合わない。遅れる。読まれる。殴られる。
「痛い!」
「痛くしてんのよ!」
「知ってる!」
「口動かす暇あったらオーラ動かす!」
「無茶だ!」
「できる!」
やった。できなかった。殴られた。
ただ、殴られながら分かったこともある。流というのは、要するに、足りないものをどう配るかという話だった。オーラは無限に湧いてこない。全身を等しく厚くできるなら、そもそも悩まない。できないから、どこかを厚くして、どこかを薄くする。薄いところを殴られれば痛い。だから、殴られる場所を先に知らなければいけない。
つまり、流が下手なのではなく。
相手を見ていないのだ、俺は。
「先生」
「何」
「これ、オーラの練習じゃないですね」
「今頃気づいたの?」
「はい」
「じゃあ、もう一回」
「はい」
また殴られた。
◆
初めて流をまともにやった日の夜。
俺は床に寝転んでいた。
「動けない」
「でしょうね」
「指しか動かない」
「じゃあ指動かしときなさい」
「冷たい」
「自業自得」
身体中、痛い。オーラも、ほとんど残っていない。出せと言われれば出せる。
でも、たぶん、ろくな量ではない。
「今日は終わり?」
「終わり」
「もう一回だけ」
「終わり」
「流」
「終わり」
「纏だけ」
「終わり」
同じ言葉しか返ってこない。
「先生」
「何」
「まだ時間――」
「坊や」
「はい」
「休む」
「はい」
目が笑っていない。
「返事」
「はい」
「休む!」
「はい!」
怒られた。それから、ビスケが周囲を見る。
扉。
窓。
人。
「人払いは?」
「してあります」
「警護は?」
「廊下の外」
「入ってこない?」
「呼ばなければ」
「よし」
何だろう。ビスケが両手を合わせた。
「来なさい。クッキィちゃん」
現れた。
◆
知っていた。もちろん、知っていた。前世で。
だから、声が出た。
「おお……」
「何よ」
「いや」
「初めて見る顔じゃないわね」
「そんなことないです」
「嘘下手ね、アンタ」
危ない。
目の前には美容師姿の女性。
ビスケの念能力。
魔法美容師。
クッキィちゃん。
「寝なさい」
「はい」
「服」
「脱ぐ?」
「上だけ」
「はい」
「変なこと考えたら殺すわよ」
「十三歳ですよ」
「アンタ時々十三歳じゃないから言ってんの」
酷い。
言われた通り、横になる。クッキィちゃんの手が身体へ触れた。
「……あ」
分かる。
まず、力が抜ける。
さっきまで張っていた筋肉が、一枚ずつ剥がされるみたいに。
呼吸が深くなる。
身体が沈む。
「すご」
「喋らない」
「はい」
気持ちいい。ものすごく、気持ちいい。
そして、怖いくらい疲れが消えていく。
◆
終わった後。起き上がった。
肩を回す。
脚。
腕。
腰。
「……動く」
「でしょうね」
「先生」
「何?」
「もう一回流――」
「やらない」
「早い」
言い終わる前に切られた。
「言うと思ったから使いたくなかったのよ!」
「でも回復しました」
「疲労が抜けたの!」
「はい」
「身体が今日一日分、余計に育ったわけじゃない!」
「あ」
声が大きくなる。
「筋肉も骨も、オーラも、経験も! 何でもかんでも三十分で倍にできると思うな!」
「思ってません」
「顔が思ってた!」
「ちょっとだけ」
「坊や!」
「はい」
正座した。
「便利なものほど使い方を間違えたら駄目」
「はい」
「アタシが使うって言った時だけ」
「はい」
「終わりって言ったら終わり」
「はい」
「回復したから夜中に自主練とかもなし」
黙っていた。
「返事」
「はい」
読まれてる。
ビスケが座り直した。さっきまでの怒鳴り声とは、少し違う調子になる。
「坊や。強さって何だと思う?」
「オーラの量?」
「じゃあ、量の多い方が必ず勝つ?」
「……勝たない」
「そうよ」
指を一本立てる。
「戦闘力なんてね、環境と体調でいくらでも上下するの」
「はい」
「腹が減ってる。寝てない。怪我してる。それだけで人は弱くなる」
「はい」
「逆に言えば」
ビスケが、クッキィちゃんのいた場所を見る。
「実力で負けてる相手でもね。自分が絶好調で、向こうが不調な時を狙えば、けっこう勝てるのよ」
「……あ」
「分かった?」
分かった。
これは、疲れを取る能力ではない。
いつ戦うかを、こちらで決められる能力だ。
「便利なものほど使い方を間違えたら駄目」
同じ言葉を、もう一度言われた。今度は、意味が違って聞こえた。
考えてみれば、当たり前の話だった。念能力というのは、たいてい派手なものが強いと思われている。
殴る。
斬る。
燃やす。
実際、強い。
でも、どれだけ強い技を持っていても、その日たまたま寝不足なら威力は落ちる。怪我をしていれば動けない。疲れていれば読み違える。
そこを、片方だけ帳消しにできる。それがどういう意味を持つのか。
俺は、前世で漫画を読んでいた頃、この能力を「便利だな」としか思っていなかった。目の前で見て、ようやく違うものに見えた。
◆
「あと」
「はい」
「あの子には見せない」
すぐに誰のことか分かった。
「姉さん?」
「そう」
「何で?」
ビスケが、ものすごく嫌そうな顔をした。
「何でって……」
それから、俺を見た。
「アンタ、本気で聞いてる?」
「一応」
「あの子がこれ見たら何て言うと思う?」
考える。
「カミィにもやりなさい」
「そう」
「断ったら」
「何で?」
「そう」
「お金なら払える」
「そう!」
「宝石も」
「そこまで!」
「多分」
ビスケが額を押さえた。
「数ヶ月で分かったわよ。あの子、欲しいと思ったら終わりじゃないの」
「始まりです」
「でしょうね!」
知ってる。
「でも先生、姉さんの才能、惜しいって」
「惜しいわよ」
「なら」
「それとこれは別」
即答だった。
「アタシが契約したのはアンタ」
「はい」
「アンタに何を見せるかは、アタシが決める」
「はい」
「カミーラに何を見せるかも、アタシが決める」
「はい」
「これは見せない。使わない」
「分かりました」
「不満?」
「いえ」
本当に、不満ではない。姉さんが知ったら面倒になる。そこは、俺もよく知っている。
それに、さっきの話を聞いた後だ。この能力の本当の価値を、王家の人間に知られたらどうなるか。姉さんだけでは済まない。
軍。
兵。
王。
誰にでも使える。いくらでも払う人間が、この国には山ほどいる。
「姉さんが疲れてても?」
「使わない」
「怪我してても?」
「これは怪我を治す能力じゃない」
「それもそうか」
「あと」
「はい」
「便利すぎるものはね」
ビスケが少しだけ声を落とした。
「知られない方がいい時もあるのよ」
その時は、ただ。
「分かりました」
と答えた。
◆
姉さんがそれを見つけたのは、クッキィちゃんではなく、練だった。
「なによそれ!」
「あ」
しまった。
振り向く。
姉さん。
入口。
すごい顔。
「いつからいたの?」
「今!」
「なら帰って」
「何で!?」
「今日は見学の日じゃない」
「それ何!」
俺を見る。正確には、俺の身体から出ているオーラを見る。纏より、明らかに多い。
練。
「念」
「知ってる!」
「じゃあ何で聞いたの」
「カミィがやってないやつでしょう!」
そこか。
「姉さんにはまだ早い」
「何で?」
「纏と絶が安定してないから」
「してるわ!」
「してない」
「してる!」
これを何往復かやった。
「三日前、絶五秒でやめたじゃん」
「あれはカミィがやめたかったからやめたの!」
「同じだろ」
「違う!」
「坊や」
「はい」
ビスケ。
笑っている。
嫌な予感。
「やらせてみれば?」
「先生?」
「本人がそこまでやりたいって言ってんだから」
姉さんが勝った顔をした。
「ほら!」
「ただし」
ビスケがにっこり笑った。
「アタシが止めるまで」
姉さんが止まる。
「何で?」
「言っとくけど、一回だけね」
「一回?」
「教えるんじゃないわ。今のアンタがどれだけ持たないか、自分で分からせるだけ」
「持つわ!」
「そう。じゃあ確かめましょう」
念を押し始めた。
「やりたいんでしょ?」
「やるわ!」
「途中で嫌になっても?」
「ならない!」
「疲れても?」
「疲れない!」
「帰りたくなっても?」
「帰らない!」
「そう」
怖い。
先生。
すごく、怖い。
◆
二十分後。
「まだ!?」
「まだ」
「疲れた!」
「知ってる」
「カイエン!」
「俺に言わないで」
助けを求める順番は、いつも同じだ。
「あとどれくらい!?」
「先生」
「続けて」
「だそうです」
「何で他人事なのよ!」
姉さんのオーラが、明らかに弱くなっている。
練。
出す。
減る。
休む。
また出す。
もちろん、本当に危険になるほどはやらせない。ビスケがずっと見ている。止める線を決めているのは、姉さんではなくビスケの方だ。
「もう無理!」
「まだ出てる」
「出てない!」
「出てる」
「カイエン!」
「出てる」
「裏切り者!」
酷い。
さらに、しばらく。姉さんが床へ座った。
「もうやらない」
「うん」
「二度と」
「うん」
「絶対」
「うん」
どれも本気で言っている。
「カイエンもやめなさい」
「それは無理」
「何でよ!」
「俺の修行だから」
「嫌!」
「俺が?」
「それ!」
練を指差す。
「姉さんが嫌でも俺はやるよ」
「カイエン!」
「はい」
「やめなさい!」
「やめない」
姉さんがすごい顔で睨んだ。
「嫌い!」
「うん」
帰った。その日は本当に戻ってこなかった。
次の日も。
その次の日も、来なかった。
◆
「クッキィちゃん使わなくていいの?」
「誰に?」
「姉さん」
「使わないって言ったでしょ!」
「覚えてます」
「なら聞かない!」
それでも聞いた。
「疲れてたから」
「自分でやりたいって言った結果よ」
「はい」
「それと、あれくらいなら寝れば戻る」
「はい」
「何でもアタシの能力で片づけようとしない!」
「はい」
正論。
正論なんだけど。
姉さん、今日も来なかった。庭の隅を見る。
いつも姉さんが勝手に座る場所がある。石の縁で、日当たりが良くて、こちらから一番よく見える位置。誰かが決めたわけではない。いつの間にかそこになった。
今日は誰もいない。
俺は迎えに行かない。
行けば来る。それは知っている。でも、それをやったら、姉さんが戻ってくる理由は俺のままになる。
昔そう決めた。決めたのだから、守る。
守るのだが。
こういう日は、少しだけ長い。
まあ、そのうち来るだろう。そう思っていたところで、三日ほど王宮を空けることになった。
国内の視察。
王子の仕事だ。
断れない。
「先生、しばらくいません」
「知ってるわよ。予定表くらい見るって言ったでしょ」
「課題は?」
「移動中は纏。夜は絶。あとは寝なさい」
「それだけ?」
「アンタ、放っておいたらやりすぎるでしょ」
「やりません」
「顔」
また顔で判断された。
◆
ビスケット=クルーガーは、退屈していた。弟子が三日いない。
正確には弟子ではなく、依頼人だ。そう思っているうちは、まだ距離が取れている。
王宮の庭は広く、手入れが行き届いていて、そして石がつまらなかった。敷石も、噴水の縁も、全部同じ産地で、国が金をかけた場所というのはたいてい面白味がない。高いものを買ってきて、綺麗に並べるだけだからだ。
人間の方も、似たようなものだった。この王宮には驚くほど大勢の人間がいるのに、そのくせ誰も余計なことを喋らない。
挨拶はする。
道は譲る。
用件は伝える。
それだけ。
外から来た人間に対して警戒しているわけでもなく、単に、そういう場所なのだ。
誰が誰の下にいるのか。
どこまでが自分の仕事なのか。
全員がそれを把握していて、一歩も外へ出ない。
ハンターの仕事でいろいろな土地へ行き、もっと荒っぽい場所も、もっと危ない場所も知っているが、それでも、ここが一番息が詰まる。
仕方がないので、自分の稽古をしていた。誰も見ていない場所で、少しだけ本気を出す。こういう時間がないと、王宮暮らしは息が詰まる。
だから、足音には気づいていた。止める気もなかった。
「あなた」
声がした。振り向くと、第二王子が立っている。
供も連れずに。
「あら。ごきげんよう」
「カイエンは?」
「知ってるでしょう?」
「知ってるわ」
なら聞くな、とは言わない。
プロなので。
「じゃあ、何しに来たの?」
「別に」
少女は――少女、と言っていいのだろうか。自分のことは棚に上げるとして、目の前の子は十三歳で、背丈も声も年相応だ。
その第二王子は、庭の真ん中まで歩いてくると、当たり前のような顔で座った。ビスケは、それまでやっていた動きを途中で切り上げていた。誰もいない時にやる型と、人がいる時にやる型は違う。
見られて困るものは、しまう。
王族相手なら、なおさらだ。
「暇だから来ただけよ」
「そう」
「弟がいないから、静かでいいわ」
「そうねえ」
そして、勝手に始めた。
纏。
目を閉じて、呼吸を整えて、オーラを身体の周りへ寄せる。ビスケは、その様子を眺めていた。
止める理由はある。
まず、契約相手ではない。一年ぶんの時間を売った先はカイエンで、この子ではない。
次に、面倒を見る義理がない。これは冷たい話ではなく単純に職業上の線で、依頼にないことをやると、いつの間にか依頼が増える。増えた分は、たいてい払われない。長くやっていれば嫌でも覚える。
さらに言えば、この子は王族だ。しかも、欲しいと思ったものを諦めない種類の王族。一度でも教えれば次は当然になり、当然になったものを断ると、恨まれる。王族に恨まれるハンターは、あまり長生きしない。
だから、これまで一度もそういう立ち回りはしてこなかった。誰の弟子も取らない、という意味ではない。取ると決めた相手にしか教えない、というだけの話だ。
断る理由なら、いくらでも並べられる。
それでも、ビスケは何も言わなかった。目の前で、纏が崩れたからだ。
崩れて、直る。
また崩れて、また直る。
三度目には、崩れる前に戻していた。
誰にも直されていない。
自分でやっている。
この子は数ヶ月前に精孔が開いたばかりで、それも、系統立った修行を積んだわけではない。来たり来なかったり、怒って帰ったり、十分でやめたりしながら、気まぐれに触っていただけ。
その状態で、これだ。
ビスケは、長くこの仕事をしている。才能のある子供なら、それなりに見てきた。
珍しくはある。
いないわけではない。
ただ、これは。
「……もったいないわねえ」
小さく言った。聞こえなかったらしい。
良かった。
惜しい。
率直に言って、惜しい。
磨けばどこまで行くか分からない石が、目の前で放り出されている。
拾いたい。
拾って、削って、光るところまで持っていきたい。そういう性分なのだ。
だからこそ、線を引く必要があった。
ビスケは、頭の中で契約書をめくる。
教える相手はカイエン。
教える内容はアタシが決める。
カミーラに何を見せるかも、アタシが決める。
――なら。
カイエンに教えたところまで。
それより先は、一言も出さない。
それなら契約の中に収まる。あの子が弟から教わったものが崩れていたら、直す。新しいことは、教えない。
自分で決めた線を、自分で確かめた。そこまでやってから、ようやく口を開く。
「肩」
第二王子の目が開いた。
「え?」
「肩。上がってるわよ」
言われた通り、下ろす。纏が、少し安定した。
しばらく黙って続けている。そのうち、ぽつりと。
「教える気になったの?」
「なってないわよ」
「じゃあ何で言ったの」
「見てて気持ち悪いから」
「……何よそれ」
「そのままの意味」
第二王子は少しの間こちらを睨んでいたが、それから、鼻を鳴らして目を閉じた。
続けている。
文句を言いながら、続けている。
ビスケは、見せてもいい方の型へ戻った。
この姉弟は、両方とも面倒くさい。弟の方はいくら殴っても翌日同じ顔で戻ってくるし、姉の方は放っておくと勝手に来て勝手に始める。
そして、両方とも化け物だ。
姉の方は、自分が特別なのを当然だと思っている。弟の方は、自分たちがおかしいと気づき始めている。それなのに、どちらも態度を変えない。
片方は疑わないから。
もう片方は、疑っても続けると決めているから。
性質が悪いのは、たぶん後者だ。
「ねえ」
「何?」
「カイエンはいつ帰ってくるの」
「明後日でしょ」
「遅い」
「アタシに言われても」
「遅いわ!」
怒鳴られた。この国の王族は、どうしてこう理不尽なのか。
ついでに、もう一つ確認しておく。
この前の練は、例外だ。あれは教えたのではなく、やりたいと言うから、できないところまでやらせただけ。自分の限界を自分で見るのは、本人の権利だ。
だが、あれ以上はやらない。次に同じことを言われても、断る。
線は、引いた場所に置いておかないと意味がない。
二日後、カイエンが帰ってきた。この日のことは、言わなかった。言えば、あの子は必ず余計なことを考え、姉のために何かをしようとする。それはたぶん、この子にとって良くない。
どうでもいい嘘はつかない主義だが、聞かれていないことまで言う主義でもなかった。
◆
「先生、ただいま」
「おかえり」
「何かありました?」
「別に」
「本当に?」
「何よ」
「いや、何となく」
ビスケが、こちらをじっと見た。
「坊や」
「はい」
「今の、勘でしょ」
「はい」
「じゃあ、これから禁止」
何を禁止されたのか分からない。
「勘がですか?」
「勘で済ませるのが。何が引っかかったのか、毎回言葉にしなさい」
「面倒では?」
「面倒よ。やる?」
「やります」
増えた。
姉さんは、その日の夕方に来た。何事もなかったような顔で。
「遅い!」
「三日って言ったじゃん」
「遅いの!」
いつも通りだった。