転生先が殺し合いを約束された帝国の第三王子だった件 作:冷やかし中華
本稿を書くにあたり参考にしたのは、明治4年8月28日(新暦1871年10月12日)に明治政府が出した太政官布告(解放令)です。
あと書きためていた下書の校正、調べものの確認には、AIも多用してます。わざわざ感想に書いていただくのも手間を取らせるので必須タグは追加しておきます。
十四歳になった頃。
先生との一年も、終わりが見えてきていた。
「右」
来る。
腕。《流》。
受ける。
「遅い」
「はい」
「左」
移す。
来ない。
「あ」
腹。
「痛っ!」
「素直すぎ!」
「右って言ったじゃん!」
「敵が言った通り殴ってくれると思ってんの!?」
右と言われて右を見た。そこへ左が来た。
「先生は敵じゃないでしょう!」
「今は敵!」
「理不尽!」
口が動くと、手が止まる。
「口!」
「はい!」
殴られた。最近、こういうことが増えた。技を覚える。できるようになる。すると、先生はその技を使わせなくなる。
《凝》を覚えたら、《凝》する場所を読まれる。《流》が速くなったら、嘘を混ぜられる。《円》が少し安定したら、その中へ石を投げ込まれる。《隠》ができるようになったら、今度は先生の《隠》を見つけろと言われる。
「先生」
「何?」
「難しくなってない?」
「当たり前でしょ」
「前は、右って言ったら右から来た」
いつの間にか、言葉と動きが一致しなくなっている。
「いつまで初心者扱いしてほしいのよ」
「十四歳です」
「念能力者としては?」
「初心者です」
年数で数えると、まだ四年に満たない。
「なら、なおさら覚えなさい」
拳。来る。今度は言わない。
肩。視線。腰。足。右。たぶん、右。
オーラを寄せる。
左から来た。
「痛い!」
「たぶん、で動くな!」
「じゃあ分からない時どうすんの!」
「全部捨てない!」
もう一発。腹。
今度は、残していた分で受ける。痛い。でも、さっきよりマシ。
「そう!」
「褒めた?」
「調子乗るな!」
「早いな!」
難しい。
一年前のことを思い出す。初日、俺は立っていられなかった。八年以上やってきたはずの身体が、面白いように転がされた。あの時と比べれば、今は立っている。殴られてはいるが、立ってはいる。その代わり、転ばされ方が変わった。
昔は、こちらが崩れていた。
今は、崩されている。
自分の癖を読まれ、覚えた技をそのまま利用される。どちらがマシなのかは、正直よく分からない。
◆
先生との修行は、いつの間にか、技を覚えることより、間違え方を覚えることの方が多くなっていた。
「できない奴は、できない失敗しかできないの」
「はい」
「できるようになると、できる奴の失敗が増える」
「嬉しくない」
できなかった頃の失敗は、全部同じ形をしていた。
「成長したってことよ」
「もっと嬉しい言い方ない?」
「ない」
なかった。それでも毎日やった。
走る。殴られる。殴る。棒を振る。
纏う。閉じる。出す。集める。動かす。広げる。隠す。
休む。
前なら、最後の一つはなかった。今は、先生が見ていなくても時間になったらやめる。
悔しい。
本当に悔しい。
まだできる、と思ってもやめる。翌日、またやる。
「成長したわねえ」
「何が?」
「休めるようになった」
休むのが下手だと、最初の頃に何度も言われた。
「そこ?」
「そこ大事よ」
そういうものらしい。
◆
その週、俺は地方へ出ることになった。王族の公務としては、ごく軽いものだ。地方の役所と、街の主だった人間へ顔を見せる。
贈り物を受け取る。挨拶をする。
それだけ。
馬車で二日。滞在が三日。帰りに二日。
先生も同行した。契約の中に、危機管理と野外活動が入っている。王子が王宮の外へ出るなら、それを見るのは契約の範囲内だ。書類の上でも、誰の目にも、何もおかしくない。
「先生」
「何?」
「移動中は何すれば」
「座ってなさい」
移動は一日の半分を占める。
「それだけ?」
「窓の外見てなさい」
窓の外を見るのが課題なのか休憩なのか、最後まで言わない。
「観察?」
「暇つぶし」
どっちだ。
◆
街へ入ったのは、二日目の昼だった。
港がある。
市場がある。
人が多い。
王宮の周りとは、匂いからして違う。その日の予定は夕方からだったので、少しだけ時間があった。
「歩くわよ」
「護衛が」
「後ろから来るでしょ」
もう歩き出していた。
「目立ちません?」
「アンタが黙ってればね」
言われた通り、黙って歩いた。服も、王宮で着るものではない。目立たない格好にしてある。それでも、周りの人間はこちらを見る。護衛が四人もついて歩けば当然だ。
「坊や」
「はい」
「あの店」
先生が顎で示す。果物を並べた店。人が三人いた。
「誰が一番偉い?」
「……声出してる人」
「違う」
一番大きい声を出していた男が、一番よく指示を受けていた。
「え」
「もう一回見なさい」
見る。
声を出しているのは、手前の若い男。客を呼んでいる。奥に、年配の女が座っている。もう一人、荷物を運んでいる男。
「奥の人」
「何で?」
「若い人が、時々そっち見てる」
「そう」
値段の話になった瞬間だけだった。
「値段の話になった時に見た」
「そう」
「だから、決めるのはあの人」
「正解」
少し嬉しかった。顔に出ていたらしい。
「今の、簡単な方よ」
「そうですか」
「じゃあ次」
先生が別の方向を示す。荷物を積んでいる人たち。
六人。いや、七人。
「誰が一番偉い?」
「……あの人」
「何で」
「一人だけ荷物持ってない」
自信があった分、堪えた。
「はい不正解」
「え」
「持ってないだけよ。あの人、さっきから他の連中に何も言ってない」
見る。確かに、口を開いていない。
「じゃあ」
「もう一回」
見る。
荷物を持っていない男は、記録をつけている。時々、荷物の数を数えている。誰にも命令していない。命令されてもいない。
その少し向こうに、休んでいる男がいた。誰も、その男へ何も言わない。
休んでいるのに、誰も文句を言わない。
「……休んでる人」
「何で?」
「あの人が休んでても、誰も何も言わない」
「そう」
黙っている人間ではなく、黙らせている人間を見る。
「他の人が休んだら、たぶん言われる」
「そう」
先生が少しだけ笑った。
「命令する側とされる側はね、口より先に身体で分かるのよ」
「はい」
「誰が誰の前で黙るか」
「はい」
三つとも、口では分からないことだ。
「誰が誰の前でだけ姿勢を直すか」
「はい」
「誰が休んでいても、誰も口を出さないか」
最後のは、言われてみれば当たり前のことだった。当たり前なのに、言われるまで見ていなかった。
◆
夕方の会食は、退屈だった。偉い人が並んでいる。
挨拶をする。贈り物を受け取る。同じ話を三回聞く。
俺は笑って、頷いて、決められた言葉を返す。それだけで終わった。部屋へ戻ってから、先生に聞かれた。
「今日、何人いた?」
「二十人くらい」
「偉い順に並べられる?」
「席順で?」
「席順は誰かが決めたものでしょ。アンタが見て、どう思った?」
思い出す。
席の一番上に座っていた男。その隣。少し離れた場所。でも、話が決まりかけた時、全員が一度だけ見た人間がいた。席では三番目だった。
「三番目の人」
「へえ」
「合ってます?」
「知らないわよ。アタシもよそ者だもの」
ずるい。
「でも、そう見えたんでしょ?」
「はい」
「なら覚えときなさい。合ってるかどうかは、そのうち分かる」
「分からなかったら?」
「分からなかったってことも覚えときなさい」
厳しい。
◆
帰りの馬車で、先生が思い出したように言った。
「坊や。今日、いくつか当てたわね」
「はい」
「じゃあ、最後の問題」
「まだあるの?」
「アンタの周りは?」
意味が分からなかった。
「周り?」
「今、この馬車の外に何人いる?」
「……六人?」
毎日見ている人間を、二人数え落とした。
「八人」
「あ」
「名前は?」
口を開いて、閉じた。
顔は分かる。毎日見ている。でも、名前が出てこない。
全員は、出てこない。
「誰が一番偉い?」
「護衛の……隊長?」
「その人、誰の命令で動いてるの?」
「王宮の」
答えられなかった。
「誰?」
また止まった。考えたことがなかった。
「今日、市場では当てたのにね」
「はい」
「何でだと思う?」
分からなかった。
先生が窓の外を見る。
「見られる側にずっといるとね」
「はい」
「見る癖がつかないのよ」
馬車が揺れた。
「アンタの周りにいる人間はね、アンタを見るのが仕事なの。だから、アンタが見なくても回る」
「はい」
「回るから、見なくなる」
「はい」
今まさにそうなっていた。
「そのうち、いるのに数えなくなる」
その時は、なるほど、と思っただけだった。
◆
王宮へ戻って、数日。その日は午後から、また別の仕事が入っていた。国内の施設視察。今度は近場で、先生の同行はない。
「行ってきます」
「はいはい」
「課題は?」
「仕事しなさい」
どこまでが冗談なのか、一年経っても分からない。
「仕事中にもできるもの」
「観察」
話が戻った。
「それ修行じゃない?」
「仕事でも使えるでしょ」
「雑」
雑、と言ってから課題が具体的になるのはいつものことだ。
「じゃ、今日会った人間を十人覚えて帰ってきなさい」
「顔?」
「顔だけ覚えてどうすんの。立場。喋り方。誰が誰を見てるか。誰の前で黙るか」
十人分だ。
「多いな」
「できなかったら?」
「明日殴られる」
「分かってんじゃない」
嫌な理解が深まっている。
◆
特別な視察ではない。王族の子供が、少しずつ国の仕事を知るためのもの。
役人が説明する。俺が聞く。質問する。答えが返ってくる。
それだけ。
倉庫。作業場。宿舎。水路。
少し前なら、建物を見て、人数を聞いて、終わっていた。
今は人を見る。
誰が説明している。誰が説明されていない。
誰がこちらを見る。誰が見ない。
誰が前に立つ。誰が後ろに下がる。
先生に言われたから、そうしていただけだった。だから、たぶん、見つけた。
一人。
名簿にいない。
いや、一人ではない。
何人か。
働いている。荷物を運んでいる。掃除もしている。水も運んでいる。
でも、俺へ渡された作業者の一覧に名前がない。
「これ」
「はい?」
案内役の役人が振り返る。
「人数、合ってる?」
「はい。登録作業員は記載の通りでございます」
言い方に、一つ余計な語が入っていた。
「登録?」
「はい」
「あの人たちは?」
指す。
一瞬、役人の目が動いた。本当に、一瞬だけ。
「……あちらは」
声が少し低くなる。
「不可持民でございます」
その言葉を聞いた時、頭の中で何かが繋がった。
◆
知っていた。
言葉は。
前世で、漫画の中で読んだ。
カキン。不可持民。カミーラ。私設兵。
呪い。
そんな、いくつかの情報として知っていた。なのに、今まで思い出していなかった。正確には、思い出す必要がなかった。
ページの中では、設定だったからだ。
誰かの能力。誰かの所属。誰が誰を狙っている。
そういうものを読む時に出てきた言葉。
目の前に人間が立っているとは、考えたことがなかった。
「不可持民だから、名簿に載らない?」
「こちらの名簿には、でございます」
こちらの、で区切った。
「別にあるの?」
「管理は別となっております」
「誰が?」
役人が、ほんの少し困った顔をした。俺は止めた。
「ごめん。今はいい」
「は」
今は、と自分で言った。別に意味はなかった。ただ、ここで聞き続ける話ではない気がした。役人が隠しているというより、俺が、何を聞けばいいのか分かっていなかった。
それに、この人に悪意はない。あの一瞬の目の動きは、言いにくいことを言う時のものだった。嫌がっているわけでもない。隠しているわけでもない。説明する必要のないことを説明させられた、という顔だ。
この人にとって、それは制度なのだ。
だから、見ることだけにした。同じ仕事をしている、ように見える。同じ場所にいる、ように見える。
でも、何かが違う。何が違う。
分からない。
服。立つ場所。呼ばれ方。仕事。食事。住む場所。給金。家族。
何も知らない。
漫画を読んだから知っている。
そんな気になっていただけだった。
◆
王宮へ戻った。夕方。
「おかえり」
「ただいま」
帰った途端だった。
「十人」
「え?」
「今日会った人間。十人」
「あ」
覚えてはいる。並べ方を考えていなかった。
「忘れた?」
「覚えてます」
「じゃあ言って」
言う。
案内役。施設の責任者。倉庫担当。帳簿を持っていた人。警護。作業員。
途中で止まった。
「七人」
「あと三人」
出てこなかった。いや、出てこないわけではない。
数え方が分からなかった。
「坊や?」
「先生」
「何?」
「ちょっと聞いていい?」
「内容による」
聞く前から、断られる気はしていた。
「政治の話」
「嫌」
「即答」
早すぎる。
「アタシ政治家じゃないもの」
「知ってます」
「じゃあ聞くな」
「政治家じゃないから聞きたい」
ビスケが少しだけ眉を上げた。
「何それ」
「先生、俺より長く生きてるでしょう」
「喧嘩売ってる?」
扇子が飛んできた。
「二十年以上は」
「具体的に言うな!」
「言ってません」
怒られた。
「それで?」
「あと、先生ハンターだから」
「それが?」
「いろんな場所見てるでしょう?」
ビスケが黙った。
「国とか、街とか。俺より」
「まあね」
「だから」
少し考える。聞き方が難しい。
「昔から続いてる仕組みがあって」
「うん」
「その仕組みのせいで、明らかに扱いが悪い人がいるとして」
「うん」
村の名前は出さない。出した瞬間、ただの相談ではなくなる。
「でも、それが何十年とか、もっと前から続いてて。一人が決めたわけでもなくて。たぶん、いろんなものがくっついてる」
「うん」
「そういう時」
一度止まる。
「普通、どこから見るものですか」
ビスケはしばらく何も言わなかった。
◆
「最初に言っとくけど」
「はい」
「アタシに国の変え方なんて聞かないでよ」
「聞きません」
聞きたいのは変え方ではない。見方だ。
「王様の仕事も知らない」
「俺もまだ知らない」
「アンタは知っときなさいよ」
「はい」
それはそう。
「あと、何の話かも聞かない」
「え」
「聞いてほしい?」
「……いや」
聞かれたら、たぶん全部喋っていた。
「ならいい」
ビスケが脚を組み直した。
「そうねえ」
少し考えて。
「アタシなら、まず触らない」
「触らない?」
「分からないうちはね」
「それで?」
触らないで見る、が最初に来た。
「見る」
「見る」
繰り返しただけだった。
「誰がやってる」
「はい」
順番がある。
「誰が決めてる」
「はい」
「誰が得してる」
「はい」
五つ目まで来て、ようやく順番の意味が分かった。
「誰が困ってる」
「はい」
「なくしたら、今度は誰が困る」
言葉が出なかった。
「そこも?」
「当たり前でしょ」
「悪い仕組みなら、なくせばいいんじゃ」
「本当に?」
即座に返された。
「その仕組みで飯食ってる奴がいたら?」
答えられない。
「それがなくなったら、別のところが動かなくなったら?」
これも答えられない。
「悪いと思ってるのがアンタだけだったら?」
「それは」
「あるわよ」
ビスケはあっさり言った。
「外から見たら最悪でも、中にいる奴はそれしか知らないこともある」
「はい」
「逆もある」
「逆?」
「外から見たら平気そうなのに、中にいる奴だけずっと地獄、とか」
何も言えなかった。
「だから見る」
「はい」
「一個ずつ」
「はい」
混ぜたまま見ていた。だから大きく見えていた。
「何が法律で、何が慣習で、何がただの嫌がらせなのか」
「……はい」
「そこ一緒にしたら駄目」
◆
「先生」
「何?」
「その三つ、そんなに違います?」
「全然違うわよ」
ビスケが指を三本立てた。
「昔、ある鉱山で仕事したことがあってね」
「はい」
「よそから来た人間は、坑道の一番奥にしか入れなかったの」
他人の国の話をしている口調ではなかった。
「危ないところですか」
「一番危ないところ」
よそから来た人間だけ、という線がどこから引かれたのか。
「それ、法律?」
「まさか」
「じゃあ」
「規則ですらなかったわ。ただ、ずっとそうだったの」
指を一本折る。
「昔そうだったから、今もそう。誰が決めたかも分からない」
「慣習」
「そう。で、これは変えられた」
理由が倫理ではなく効率だった、というところで一度詰まる。
「え」
「危ないところに慣れてない人間を入れるのは効率が悪いって、新しく来た現場の責任者が言ってね」
「それだけ?」
「それだけ。誰も反対しなかったわ。反対する理由がなかったから」
二本目。
「でも、給金は変わらなかった」
「同じ仕事なのに?」
「そっちは契約書に書いてあったの」
紙になった時点で、手続きが要る。
「法律じゃないけど」
「紙になってる分、面倒よ。全部作り直しになる」
「……変えられたんですか」
「三年かかったって聞いたわ。アタシはもういなかったけど」
三本目。
「最後のはね」
「はい」
「よそから来た人間だけ、飯の時間が後回しだった」
三つ目が一番厄介だ、という顔をしている。
「それも規則?」
「規則でも契約でもないわ。決めた人間もいない」
「じゃあ何で」
「そこにいる奴らが、そうしたかったから」
息が詰まった。
「これが一番厄介」
「はい」
「変えろって命令したらどうなる?」
「……従います」
「表向きはね。で、その分、別のところで嫌がらせが増える」
嫌な想像が浮かんだ。
「分かる? 紙に書いてあるものは、手続きを踏めば変わる。慣習は、理由があれば変わる。でも、嫌がらせは、命令一つじゃなくならない」
三本とも指が下がった。
「だから最初に分けなさい。全部まとめて『悪い仕組み』にしたら、どれも直せない」
なるほど、と思った。同時に、面倒だ、とも思った。口には出さなかった。
◆
「あと」
「はい」
「本人に聞く」
止まった。
「本人?」
「困ってる本人」
「それは……」
そこが一番難しい。
「何」
「俺、王子ですよ」
「知ってる」
「王子に『困ってることある?』って聞かれて、本当のこと言うと思います?」
ビスケがにっこり笑った。
「やっと一個分かったじゃない」
「何が?」
「難しい理由」
腹が立つ。
「じゃあどうすれば」
「知らない」
「先生」
ここまで並べておいて、最後だけ渡さない。
「言ったでしょ。アタシ政治家じゃない」
「ここまで言っておいて?」
「一般論聞きたいって言ったのアンタでしょ」
「そうだけど」
ビスケが俺を見た。それから、少しだけ声の調子を変えた。
「坊や。アタシがここで答え言ったらどうなると思う?」
「どうって」
「アンタ、それを正解だと思ってやるでしょ」
やる。たぶん、何も疑わずに。
「……やります」
「ほら」
「駄目ですか」
「駄目じゃない。念ならそれでいいの」
ビスケが指で自分の肩を叩く。
「アタシは念の先生よ。纏がおかしければ直せる。流が遅ければ分かる。だからアンタは、アタシの言う通りにやってればいい」
「はい」
「でも、その話は違う」
「はい」
「アタシが正しいかどうか、アタシにも分からない。なのにアンタは、たぶん十年やる」
言い返そうとして、やめた。
「間違ってても十年やるでしょ、アンタ」
否定できなかった。
「だから言わない」
「……はい」
「本人に聞く必要がある。でもアンタには本音を言えない」
「はい」
矛盾を矛盾のまま置いていけ、と言っている。
「じゃ、そこから先は?」
「俺が考える」
「正解」
嬉しくない。
全然、嬉しくない。
◆
「先生なら」
「まだあるの?」
「もし、どうにもならないくらい大きかったら?」
「何が?」
大きさの話をした時点で、逃げ道を探している。
「問題が」
「大きかったら大きかったでしょ」
「諦める?」
「場合による」
返事が思ったより早かった。
「先生でも?」
「何よその顔」
「もっと、何とかするって言うかと」
「アタシを何だと思ってんの」
「ハンター」
「なら分かるでしょ」
ビスケが指を一本立てる。
「自分が狩れるものを見極めるのも、ハンターの仕事よ」
もう一本。
「狩れないものに飛びついて死んだら?」
「終わり」
「そう」
指が下がる。
「しかも、自分一人なら好きに死ねばいいけど」
「先生」
「何」
「それ、俺に言ってる?」
「王子様なんでしょ?」
何も返せなかった。
「アンタが転んだ時、巻き込まれる人間が一人じゃないなら」
ビスケが俺を見る。
「そこまで数えてから動きなさい」
いつもの、少し高い声。いつもの、小さな身体。
でも、今の言葉だけは妙に重かった。
◆
「じゃ」
ビスケが立つ。
「残り三人」
「今?」
「課題」
話の中身と課題は別、という線を一度も崩さない。
「この空気で?」
「この空気だから」
「鬼」
「早く」
思い出す。
施設の入口。記録係。水を運んでいた男。それから、名前のない人たち。
「先生」
「何」
「名簿に載ってない人は?」
「何の話?」
「今日会った人」
「会ったなら一人でしょ」
名簿に載らない人間を、今日初めて数に入れた。
「名前知らない」
「じゃあ、名前を知らない一人」
「それでいいの?」
「忘れるよりマシ」
そうか。
名前を知らない。何人いたかも、正確には覚えていない。さっきまで、それを十人の中に入れようともしていなかった。
馬車の中で言われたことを思い出す。
いるのに数えなくなる。
あれは、俺の護衛の話だと思っていた。
「……八人目」
「うん」
「名前を知らない。水を運んでいた人」
ビスケは何も聞かなかった。
不可持民です、とは言わなかった。
言えば、それで数えたことになってしまう気がした。
「九人目」
続ける。十人目まで言った。
◆
「坊や」
「はい」
「アタシがここにいるの、あと何日か知ってる?」
「知ってます」
「言ってみなさい」
「四十二日」
ビスケが少し黙った。
「……数えてたの?」
「毎日じゃないです」
「毎日でしょ、それ」
「たまにです」
「嘘つき」
嘘だった。
「あと四十二日で、アタシはいなくなるわ」
「はい」
「その話の続きは、アタシがいなくなってからも続くわね」
「たぶん」
残りの日数を、先生の方が正確に数えていた。
「たぶんじゃないでしょ」
「……はい」
「なら、今のうちに慣れときなさい」
「何にですか」
「聞く相手がいない状態に」
その日は、それで終わった。
◆
その夜、部屋へ戻ってから、もう一度不可持民という言葉を思い出した。
知っている。
知っていた。
けれど、何も知らない。
誰がそう呼ばれるのか。いつからなのか。
何ができないのか。何ならできるのか。
どうやって生きているのか。本人たちは、どう思っているのか。
何も知らない。
だから、まず調べることにした。変えるためではない。まだ、何を変えればいいのかすら分からないから。
先生に聞いて、解決策は一つも増えなかった。ただ、自分が何を知らないのかだけは少し増えた。たぶん、最初はそれでいい。
姉さんには、まだ何も言っていない。話すことがないからだ。
見た。
名前を知らない人がいた。
それだけを持っていって、何を言えというのか。いつか話す日が来るのかもしれない。でも、今日ではない。
窓の外は、もう暗くなっていた。
明日も、朝から《纏》をやる。
右肩が厚い癖は、まだ直っていない。
解放令を調べて思ったことは、時の政府が「貴方たちは何時何時から身分に差はなく、これからは平等の立場です」と書面(憲法╱法律)を揃えたところで、事前教育(周知の徹底と根回し)を怠れば禍根が残るのは当然だよね、ということ。