時刻は25時を過ぎていた___
自室の机に置かれたモニタの光だけが暗がりの中でぼんやりと浮き上がっている。
作業ルームではスピーカー越しに聞こえてくる一定の規則正しさで打たれるキーボードの音と、小さく漏れる吐息だけだ。
画面に並ぶアイコンは『K』『雪』『Amia』、そして自分『えななん』
顔も、名前もどこでどんな生活を送っているのかも知らない
だけど、これでいいと絵名は思っていた
他人はどこまでいっても他人だ
お互いのプライドや私生活に深入りせず、ただ「良い作品」を作るためだけに繋がっているこの距離感が、今の絵名にとっては一番心地よかった。
絵名の足元では、相棒のイーブイが丸くなって小さな寝息を立てている。
部屋の隅にはあの時、絶望の夜に奇跡的に息を吹き返して以来、ずっと自分をそばで支え続けてくれているドブール。
ほんの少し絵の具を扱う筆の軌道が不器用な気もするけれど、絵名にとっては父親から否定され晒された自分を見捨てなかった、かけがえのない存在だ。
そして、絵名の繊細で激しい感情を誰よりも鋭く察知するブリムオンが、壁際から静かにこちらを見つめていた。
静寂を破ったのは、Kの不安げな声だった。
「……雪、今日も来ないね」
Amiaもいつもの軽い調子を潜め、困ったように息を吐く。「メッセージ送っても未読のままなんだよね__何かあったのかな…」
いつもなら作業の時間には遅れずにログインする雪が、ここ数日一度もログインしていない
素性を知るつもりなんてなかったはずなのに、胸の奥で嫌なざわめきが広がっていく。
絵名はイーブイの柔らかい背中にそっと手を伸ばし、焦りを打ち消すようにその毛並みを撫で下ろした。
「急に忙しくなっただけじゃない? 待ってればそのうち来るでしょ。」
強がりな言葉とは裏腹に、胸の騒ぎは収まらない。その時だった・・・・
机の上に置かれていたスマートフォンが、突如として眩い光を放ち始めた。
「え……なに、これ……!?」
光は部屋全体を包み込み、イーブイが驚いて跳ね起きる。ブリムオンが警戒して絵名の前に躍り出ようとした瞬間、視界が真っ白に染まった。
___________
浮遊感のあと、重力が戻る。
目に飛び込んできたのは色のない灰色の世界だった。
空も、
地面も、
遠くに見える街並みの無機質な構造物すらも、すべてが干からびたようにモノクロに見える。
「ここは……どこ……?」
周囲を見回すと、困惑した表情の少女たちが立っていた。
声を聞きK、そしてAmiaであることが分かった。
彼女たちも手持ちのポケモンを連れてこの異常事態に言葉を失っている。
その世界の中心に立っていたのは——ずっと姿を消していた雪だった
「もしかして、雪?あんた、こんなところで何して…」確証はなかった。だけどKとAmiaが居るってことは目の前の少女は雪ではないか?と。
駆け寄ろうとする絵名たちを、雪の冷ややかな眼差しが射抜く。その瞳には感情の欠片も宿っていなかった。
「来ないで……」
雪は静かに、聞いたことのないけれど逃げ場のない絶望を孕んだ声で呟いた。
「Kの曲を聴けば、救われると思ってた。
でも駄目だった。何も感じない。私はもう消えたいの」
「私の曲じゃ....ダメだった...」
「消えたい……? っ急に何言ってるのよ! それに奏の曲の何が不満だって言うの!?」
「そうだよ、雪。いつもの雪じゃないよ...どうしたの?」
必死に言葉を重ねる絵名たちに向かって雪は
小さく首を振った
その口から漏れ出た一言が、絵名の心を鋭く抉る。
「……なんで、私だけがおかしいって言うの?」
雪の瞳が、まっすぐにみんなをとらえた。
「Kだって、えななんだってAmiaだって本当は、消えたがってるくせに」
——ドクン、と心臓が跳ね上がった。
頭の中が真っ白になる。
一番触れられたくない自分の軟部を土足で踏みにじられた感覚だった
怒りなのか、
悔しさなのか、
それとも恐怖なのか
分からない感情が怒涛のように押し寄せ、呼吸が上手くできなくなる。
まふゆが何か話してる声を聞きながら.....気づいた時には、絵名は再び自分の部屋の机の前に突っ立っていた。セカイから弾き出されたのだ。
「はぁ……っ、ハぁ……っ」
静まり返った室内で、絵名は糸が切れたようにベッドの端に膝から崩れ落ちた。
「なによ‥なんなのよ、あいつ……!」
抱え込んだ自分の膝に、ボトボトと涙がこぼれ落ちる。
「そうよっ!私はずっと、消えたい_消えたがってるよ……!なんであんたに……そんなこと分かられなきゃいけないのよ……っ!!」
声にならない叫びが部屋に響く。
その瞬間、絵名の内に渦巻く破壊的なまでの感情を直接浴びてブリムオンが苦しそうに胸を押さえた。
かつてテブリムだった頃、絵名の壊れかけた心に同調して一気に進化を遂げてしまったあの夜と同じ波長。それでもブリムオンは逃げずそっと絵名のそばへ歩み寄る。
膝の上にぬくもりが重なった。
イーブイが、震える絵名の身体にぴったりと寄り添い、頭を押し付けてきている。「まだ何者にもなれていない」無進化のイーブイの温もりが絵名の心に痛いほど染み込む。
部屋の隅から、ドブールが申し訳なさそうに、けれど慈しむような瞳で歩み寄ってきた。
父親に夢を否定され世界中から見放されたと思ったあの日も、この子は私を選んでくれた。その温かい手に触れながら、絵名は歯を喰いしばる。
(……消えたいよ。ずっと消えたいよ)
才能なんてない。
『お前に画家になれる才能はない』と父親に切り捨てられたあの日から、必死に描いた絵が誰の目にも留まらないたび自分の存在価値がさらさらと砂のように崩れていくのを感じてきた。
(なのに‥なんで私は、まだ筆を握ってるのよ)
爪が食い込むほど拳を強く握りしめる。
(消えたいくせに、諦めきれない。才能なんてないのに、認めてほしい!描くのをやめたら本当に私が消えちゃいそうだから……苦しくて吐きそうになりながら、必死に描いてるんじゃない…!)
まふゆは「消えたい」と言って足を止めた。
でも、自分は止められなかった。止め方なんて知らなかったから。
「…あんな奴に、私の何が分かるっていうのよ……っ」
抱きしめたイーブイの毛並みに顔をうずめながら絵名の胸の中で、黒い絶望を塗りつぶすような激しい執念の火が灯っていた。