『暗殺教室―透明な殺意―』
第一話 生まれながらの暗殺者
潮田渚は、人の視線から外れることが得意だった。
物陰に隠れる必要はない。
足音を忍ばせる必要もない。
ただ、その場にいる誰からも重要ではないと思われればいい。
意見を求められれば相手が望む言葉を返し、機嫌が悪そうなら近づかず、自分より声の大きな誰かがいれば、その陰へ自然に溶け込む。
目立たない。
逆らわない。
警戒されない。
それは渚が幼い頃から身につけた、生きるための習慣だった。
渚自身は知らなかった。
自分が日常的に行っていることが、標的へ気づかれず接近するために暗殺者が長い年月をかけて習得する技術と、ほとんど同じであることを。
彼の才能を理解する者は、これまで誰もいなかった。
渚本人でさえ、それを才能だとは思っていない。
だが、その日は違った。
潮田渚の前に初めて、「殺してもよい相手」が現れた。
◇
椚ヶ丘中学校三年E組。
本校舎から遠く離れた山の上にある、古びた木造校舎。
成績不振者や素行不良者を集め、他の生徒たちへ恐怖を植えつけるために作られた隔離クラス。
この学校で失敗すれば、あそこへ落とされる。
そう言われ続けた場所へ、渚は少し前から通っていた。
その朝、教室へ入った渚は足を止めた。
教壇の前に、見知らぬ男が立っていたからではない。
男の隣に、人間ではない生物がいたからだ。
丸い黄色の頭。
大きく裂けた三日月形の口。
黒い服の下から伸びる、何本もの触手。
着ぐるみには見えない。
作り物にも見えない。
触手は一本ずつ別の意思を持つかのように動き、教卓に置かれた出席簿や教科書を確認している。
「渚」
隣から茅野カエデが小声で呼びかける。
「何、あれ?」
「分からない」
渚は答えながら、黄色い生物を見る。
視線を向けた瞬間、相手もこちらを見た。
目が合った。
大きな笑顔は変わらない。
表情から感情を読むことができない。
それでも渚は、黄色い生物の触手が一本だけ、自分たちの方へ向いたことに気づいた。
聴覚器官がどこにあるのかは分からない。
だが、茅野の小声を聞き取っている。
渚は何も言わず、自分の席へ向かった。
生徒たちがそろうと、黒いスーツを着た男が教壇の前へ立った。
「私は防衛省の烏間だ」
低く、無駄のない声だった。
烏間惟臣。
それが男の名前らしい。
烏間は教室を見渡し、生徒たちが静かになったことを確認すると、黄色い生物について説明を始めた。
月を破壊した存在。
最高速度はマッハ二十。
来年三月には地球を破壊すると宣言していること。
そして、なぜか三年E組の担任になることを希望していること。
あまりにも現実離れした話だった。
教室がざわめく。
信じられないと言う者もいた。
悪い冗談だと笑おうとする者もいた。
しかし、夜空に浮かぶ月はすでに大部分を失っている。
世界中の人間が目撃した、その事実だけは否定できなかった。
「こいつが三年E組で教師をする条件として、政府はお前たちに暗殺を許可した」
烏間が、教卓の上に置かれたケースを開ける。
中に並んでいたのは、拳銃と緑色の縞模様が入ったナイフだった。
「これらは政府が開発した対先生用の武器だ。この生物の細胞だけを破壊し、人間にはほとんど害を与えない特殊素材で作られている」
烏間が黄色い生物を見る。
「来年三月までに、こいつを殺せ。暗殺に成功した者には、百億円を支払う」
その金額を聞いた瞬間、生徒たちの反応が変わった。
百億円。
現実感のない数字だったが、E組から抜け出すどころか、人生そのものを変えられる金額だということは分かる。
一人ずつ、銃とナイフが配られていく。
渚も受け取った。
拳銃は見た目より軽い。
弾倉には対先生用のBB弾が装填されている。
ナイフには刃がついていない。
柔らかな特殊素材で作られており、人間の体へ押し当てても怪我をさせることはないという。
渚は銃を持ちながら、黄色い生物を見た。
殺さなければ、地球が滅びる。
だが、初対面の相手へいきなり銃を向けることに、心が追いつかない。
恐怖がないわけではない。
殺すことへの抵抗もある。
その一方で、渚の目は無意識に情報を集め始めていた。
触手は全部で何本あるのか。
それぞれがどこまで動くのか。
視界はどれほど広いのか。
烏間が説明している間、黄色い生物は生徒だけを見ているわけではない。
出席簿が風でめくれると触手で押さえ、床へ落ちそうになったチョークを別の触手で受け止めた。
複数の物事へ同時に意識を向けられる。
ただ速いだけではない。
周囲の変化を認識する能力も極めて高い。
「では、先生からもご挨拶を」
黄色い生物が、教壇の中央へ進み出た。
「初めまして。今日から三年E組の担任を務めます。皆さんには先生の命を狙いながら、立派に卒業してもらいましょう」
「先生って、本気で言ってんのかよ」
寺坂竜馬が声を上げる。
「地球を壊すつもりなのに、俺たちへ勉強を教えるって?」
「ええ。その予定です」
「意味分かんねえよ」
「先生自身も、自分ほど教育熱心な地球破壊生物は珍しいと思っています」
教室のあちこちから困惑した声が上がる。
黄色い生物は、反応を楽しむように笑った。
「ですが、地球を救いたければ先生を殺すしかありません。どうぞ遠慮なく狙ってください」
その言葉を合図にしたように、何人もの生徒が銃を構えた。
渚も周囲へ遅れて銃口を持ち上げる。
「撃て!」
誰かの声が響いた。
次の瞬間、教室中を無数の銃声が満たした。
対先生用BB弾が一斉に教壇へ殺到する。
だが、そこに標的の姿はなかった。
「遅いですねぇ」
声は教室の後ろから聞こえた。
生徒たちが振り返る。
黄色い生物は最後列の机の上に立ち、一冊の本を読んでいた。
銃口が後方へ集まる。
再び発砲。
しかし、引き金が引かれるより先に黄色い姿が消えた。
「先生の最高速度はマッハ二十。姿を見てから狙ったのでは間に合いませんよ」
今度は天井近くから声がする。
また銃口が動く。
銃声。
残像。
銃声。
残像。
誰も捉えられない。
標的の姿を目で追うことさえできなかった。
それでも、渚は銃を撃たなかった。
初めから諦めたわけではない。
黄色い生物の動きを見ていた。
正確には、見えない動きを周囲に残された結果から読み取っていた。
カーテンの揺れ。
机上のプリント。
生徒たちの髪。
床に落ちたBB弾が転がる方向。
黄色い生物は、ただ速く移動しているわけではない。
生徒の体に触れず、教室の備品を壊さず、他の生徒が撃った弾が誰かの顔へ当たらないように動いている。
時には触手で弾の軌道を変えてさえいた。
いくら人体にほぼ無害でも、目に当たれば痛い。
その危険まで避けている。
――僕たちを傷つけない。
渚は一つの規則を見つけた。
だが、それだけでは足りない。
相手がどこへ移動するか予測できても、マッハ二十の速度で避けられたら当たらない。
狙っていることを知られれば、引き金を引くより先に逃げられる。
渚は銃口を下ろした。
引き金へかけていた指も離す。
銃を机の上へ置いた。
その様子を見た茅野が声をかける。
「渚、もう撃たないの?」
「うん」
「弾切れ?」
「まだ残ってるよ」
渚はそれだけ答えた。
自分はもう攻撃しない。
少なくとも、そう見えるようにする。
銃声が鳴り響く中、渚は肩から力を抜いた。
標的を見ない。
武器へ触れない。
周囲の生徒たちと同じように興奮することも、悔しがることもしない。
ただ、その場に座っている。
黄色い生物の意識から、自分という存在を少しずつ外していく。
やがてクラスメイトたちの弾倉が空になり始めた。
銃声が減る。
床には大量のBB弾が散らばっている。
「残念でしたねぇ」
黄色い生物は、教室前方へ戻ろうとしていた。
「一発も先生には――」
その移動経路上に、渚の席があった。
渚は標的を見ていない。
右手は机の下。
そこには、先ほど受け取った対先生用ナイフが握られていた。
黄色い生物が机の横を通過する。
渚は振り向かなかった。
立ち上がりもしなかった。
ナイフを振ることさえしない。
ただ右手を持ち上げ、予測した移動経路へ刃先を置いた。
そこへ、黄色い触手が自ら飛び込んだ。
「――!」
殺せんせーが反応する。
接触する直前で進路を変えた。
マッハ二十の速度があれば、気づいてからでも回避できる。
そのはずだった。
だが、完全には避けられなかった。
ナイフの先端が、触手の表面をほんのわずかにかすめる。
小さな音がした。
殺せんせーの触手から煙が上がる。
傷はごく浅い。
表面をわずかに削っただけ。
暗殺には程遠い。
それでも。
教室から、全ての音が消えた。
殺せんせーは教壇の上へ移動し、自分の触手を見ている。
渚は机の下からナイフを出した。
「……浅かった」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「おい、今……」
前原が驚いた顔で渚を見る。
「当たったのか?」
「少しだけ」
「少しって、お前……!」
誰も一発も当てられなかった。
姿を見ることすらできなかった。
その相手へ、渚はナイフを届かせた。
しかも立ち上がることも、相手の姿を見ることもなく。
茅野が渚と殺せんせーを交互に見る。
「どうして、そこを通るって分かったの?」
「皆の弾がなくなったら、殺せんせーは教壇へ戻ると思ったから」
「それだけ?」
「僕たちにぶつからないように動いていたから、通れる場所が少なかったんだ」
渚は机と机の間を指さす。
「教壇へ戻るなら、僕の右側を通る可能性が一番高かった」
「でも、避けられるとは思わなかったの?」
「思ったよ」
「じゃあ、どうして当たったの?」
その質問に、渚は少し考えた。
「殺せんせーは、僕がもう諦めたと思っていたから」
殺せんせーの顔に、紫色の模様が浮かんだ。
動揺を示す色だということを、渚はまだ知らない。
「渚君」
「はい」
「いつから先生の動きを予測していたのですか?」
「途中からです」
「なぜ銃を使わなかったのです?」
「引き金を引いてから弾が届くまでに、避けられると思ったので」
渚は手にしたナイフを見る。
「殺せんせーが動くところへ、先にナイフを置く方が速いと思いました」
「先生自身の速度を利用したわけですか」
「はい」
渚は何でもないことのようにうなずいた。
殺せんせーは自分の触手を見る。
傷は非常に浅い。
暗殺成功と呼ぶには程遠い。
だが、問題は傷の大きさではなかった。
渚のナイフが動いた瞬間まで、殺せんせーは攻撃に気づかなかった。
武器を持っていることにも。
自分の進路を予測していることにも。
目の前の少年からは、殺気が感じられなかった。
攻撃の直前でさえ、呼吸も心拍も視線もほとんど変化しなかった。
隠していたのではない。
攻撃する瞬間まで、渚の中に殺気そのものが生まれていなかったのだ。
標的を殺すという意思と、体を動かす瞬間が完全に一致している。
予備動作がない。
心の準備さえない。
殺すと決めた瞬間には、すでに刃が置かれていた。
「ぬるふふふ……」
殺せんせーが笑う。
だが、その笑い声には先ほどまでの余裕がなかった。
「初めてにしては、見事な攻撃です」
「ありがとうございます」
「しかし、この程度の傷では先生は殺せませんよ」
「分かっています」
「それに、今の方法はもう先生に知られました。同じ手は二度と通じません」
「同じ方法は使いません」
即答だった。
殺せんせーの笑みが、わずかに固まる。
「次は、今の攻撃を警戒することも利用します」
教室中の視線が、渚へ集まった。
渚はそこで初めて、自分が注目されていることに気づいた。
少し困ったように視線を下げる。
普段と変わらない、大人しい少年の姿だった。
しかし烏間だけは、厳しい表情で渚を観察していた。
今の攻撃がどれほど異常なものか、クラスの誰よりも理解していた。
初心者の偶然ではない。
渚は超生物の移動を分析し、自分を非戦闘員だと思わせ、その意識の外から刃を置いた。
速さで勝ったのではない。
反応で上回ったわけでもない。
標的が反応を始める瞬間そのものを遅らせた。
訓練を積んだ暗殺者が標的の警戒を解くには、時間が必要になる。
身分を偽り、信用を得て、無害な存在として近づく。
渚はそれを、わずか数分で行った。
何より恐ろしいのは、本人が自分の技術を特別だと理解していないことだった。
◇
一斉射撃による暗殺が終わると、殺せんせーは何事もなかったように授業を始めた。
教壇へ立ち、触手でチョークを持つ。
だが、そのうちの一本は、渚がいる方向へ向けられていた。
渚が鉛筆を持ち替える。
触手がわずかに動く。
教科書を開く。
また触手が動く。
渚が消しゴムを落とし、拾うために机の下へ手を伸ばした瞬間には、殺せんせーの顔が黒く変わった。
「渚君」
「はい?」
渚が顔を上げる。
「机の下に何を隠していますか?」
「何も隠していません」
「では、今手に持っているものを見せてください」
渚が右手を机の上へ出す。
握られているのは消しゴムだけだった。
教室から笑い声が上がる。
「殺せんせー、警戒しすぎだろ」
杉野が言う。
「渚は消しゴムを拾っただけじゃん」
茅野も笑っている。
殺せんせーの顔が恥ずかしさを示す赤色に変わった。
「せ、先生は生徒の安全を確認しただけです!」
「自分の安全じゃなくて?」
「両方です!」
授業は再開された。
だが、殺せんせーの注意は完全には渚から離れなかった。
渚は黒板を見ながら、その変化を静かに記憶する。
先ほどの攻撃によって、殺せんせーは机の下へ向かう右手を警戒するようになった。
ならば次は、左手。
あるいは足元。
渚本人ではなく、隣の席から攻撃する方法もある。
殺せんせーが自分を警戒している間に、別の誰かが本命を狙ってもいい。
選択肢は増えていた。
一度の暗殺に失敗したのではない。
一度の攻撃によって、標的の警戒する場所を一つ増やした。
警戒する場所が増えれば、その分だけ他への注意は薄くなる。
渚はノートの端へ短く書き込んだ。
――右手を警戒。
――僕が動くと触手が反応。
――視線を集めれば、他の人が動きやすい。
殺せんせーは授業を続けながら、その小さな書き込みをマッハ二十の視力で読んでいた。
顔色が再び紫色へ変わる。
「渚君」
「はい」
「先生の警戒まで記録しないでください」
「駄目ですか?」
「駄目ではありませんが、本人の目の前で書くものではないでしょう!」
「隠した方がいいですか?」
「そういう問題ではありません!」
渚は少し考えた後、ノートを閉じた。
殺せんせーは安堵する。
その瞬間、渚が机の下で左手を動かした。
触手が反応する。
だが、渚はただ鞄の位置を直しただけだった。
教室から再び笑い声が上がる。
殺せんせーの顔が真っ赤になる。
渚は殺せんせーをからかうつもりなどなかった。
本当に鞄を直しただけだ。
しかし殺せんせーは、自分の反応をまた一つ渚へ教えてしまった。
――僕が左手を動かしても反応する。
ノートは閉じている。
だから渚は、それを頭の中だけに記録した。
◇
放課後。
生徒たちが帰り支度を始める中、烏間は渚を呼び止めた。
「潮田。少し残れ」
「分かりました」
茅野と杉野が心配そうに振り返る。
「先に帰っていて大丈夫だよ」
渚がそう言うと、二人は何度か振り返りながら教室を出ていった。
殺せんせーも、職員室へ向かったらしい。
教室には渚と烏間だけが残された。
「今日の攻撃について聞きたい」
烏間は教卓へ寄りかからず、まっすぐ立っている。
「お前は、どこかで暗殺や武術の訓練を受けたことがあるのか?」
「ありません」
「ナイフを扱った経験は?」
「料理で使うくらいです」
「銃は?」
「今日が初めてです」
烏間は渚の目を見る。
嘘をついている様子はない。
「なぜ、殺気を隠せた?」
「殺気?」
渚が首を傾げる。
その反応を見て、烏間は質問を変えた。
「攻撃する前に緊張しなかったのか?」
「少しはしました」
「俺からはそう見えなかった」
「緊張したまま攻撃したら、気づかれると思ったので」
「だから抑えたのか?」
「いいえ」
渚は少し考える。
「攻撃する前に考えるのをやめました」
「考えるのを?」
「はい。ナイフを置く場所は、先に決めていました。だから殺せんせーが近づいてきたとき、もう考える必要はありませんでした」
「自分が何をしようとしているのかも意識しなかったということか」
「たぶん、そうです」
烏間は黙り込んだ。
普通の人間は、攻撃前に無意識の準備をする。
標的を見る。
武器を握る。
呼吸を止める。
肩や腕へ力を入れる。
それらの予備動作を完全に消すには、長い訓練が必要になる。
渚は違う。
本人の中で、攻撃はすでに終わっていた。
標的が来る位置を決め、そこへナイフを置く。
その手順を組み立てた時点で、実行時に判断することを全てなくした。
だから迷いも、緊張も、殺意も表に出ない。
「潮田」
「はい」
「ナイフを持て」
烏間が、机の上に置かれていた対先生用ナイフを渚へ渡す。
「俺へ一度でも触れさせてみろ。どこでも構わない」
渚はナイフを受け取る。
「今からですか?」
「ああ」
「烏間先生は、僕が攻撃することを知っていますよね」
「当然だ」
「それなら、かなり難しいと思います」
「無理だと思うなら、そう言え」
「無理だとは思っていません」
渚は静かに答えた。
「難しいだけです」
烏間の目がわずかに細くなる。
二人は教室中央へ移動した。
机と椅子が並ぶ、狭い空間。
烏間は腰を落とし、渚の動きへ意識を集中する。
先ほどの殺せんせーと違い、油断はない。
渚が危険な才能を持っていると理解したうえで、正面から向き合っている。
「始めろ」
烏間が告げる。
渚は動かなかった。
右手にナイフを持ち、自然に立っている。
一秒。
二秒。
三秒。
烏間は隙を見せない。
渚が前へ踏み込めば、即座に腕を取れる体勢だ。
教室内には机が多く、左右へ回り込むこともできない。
正面から行くしかない。
渚はナイフを逆手へ持ち替えた。
烏間の視線が右手へ向く。
渚は一歩進んだ。
まだ間合いの外。
さらに一歩。
烏間の重心がわずかに下がる。
次の踏み込みに対応する準備。
渚は右肩を動かした。
烏間の左手が反応する。
ナイフを持った手首を外側から掴む動き。
だが渚は攻撃しなかった。
右手を開く。
ナイフが床へ落ちる。
烏間の手が空を切った。
渚はそのまま踏み込んだ。
武器はもう持っていない。
烏間は即座に、別の可能性へ意識を切り替える。
落とした武器を拾うのか。
素手で触れようとするのか。
蹴りか。
体当たりか。
その全てへ対応できる。
だが渚は何もしなかった。
烏間の目の前で足を止める。
「降参か?」
烏間が問う。
「いいえ」
声は、烏間の正面から聞こえた。
同時に、右の脇腹へ軽い感触があった。
烏間が視線を落とす。
渚の左手が、対先生用ナイフを握っている。
その刃先が、烏間の服へ触れていた。
「……二本目か」
「はい」
渚が右手へ持っていたナイフは囮だった。
本命は最初から左手に隠されていた。
制服の袖の内側。
手首と袖の間に挟み、外から見えないようにしていた。
「いつ用意した?」
「烏間先生からナイフを受け取ったときです」
「俺が渡したのは一本だけだ」
「もう一本は、教室の床に落ちていました」
一斉射撃の後、誰かが置き忘れたものだった。
渚は烏間に呼び止められ、教室へ残った時点で拾っていた。
その動作を、烏間は見ていない。
正確には、見ていたはずなのに拾ったことを認識していなかった。
渚が床に落とした消しゴムを拾うのと、ほとんど同じ動きだったからだ。
「最初から二本目が本命だったのか」
「はい」
「右手のナイフを捨てれば、俺が左手を警戒する可能性もあった」
「その可能性はありました」
「なら、なぜ成功すると判断した?」
渚は烏間の姿勢を見る。
「烏間先生は、僕が右手で攻撃すると思っていました。右手を止めようとした後、僕がナイフを捨てたので、次は足元へ注意を向けました」
「落としたナイフを蹴る可能性を警戒したのか」
「はい」
実際、烏間の視線は一瞬だけ床へ落ちた。
ごく短い時間。
普通の人間なら見逃すほどの隙。
だが渚は、その隙が生まれるように最初のナイフを落とした。
右手のナイフは武器ではない。
烏間の視線を床へ導くための道具だった。
「僕の左手を見ていなかったので、当てられると思いました」
渚はそう説明し、ナイフを離した。
烏間は自分の脇腹を見る。
正面から向き合っていた。
攻撃が来ることも知っていた。
渚を未経験の中学生として侮ってもいなかった。
それでも刃を届かせられた。
渚の身体能力は高くない。
動きも速くなかった。
腕力なら烏間が圧倒している。
本気で制圧すれば、一秒もかからず地面へ押さえ込める。
しかし、それらは暗殺の勝敗とは関係がなかった。
渚は烏間と戦わなかった。
強さを競おうともしなかった。
烏間の防御を突破したのではない。
防御する場所を、自分の望む方向へ移動させた。
「もう一度だ」
烏間が言う。
「今度は二本目のナイフも警戒する」
「分かりました」
二人は再び距離を取った。
烏間は渚の両手を見る。
右手。
左手。
袖。
足元。
先ほどより広い範囲を警戒する。
「始めろ」
渚は右手にも左手にも、ナイフを持たなかった。
二本とも床に置いたままだ。
丸腰で烏間へ向かって歩く。
烏間は動かない。
渚が間合いへ入る。
あと一歩で、烏間の手が届く。
その瞬間、烏間は背後に気配を感じた。
振り返らない。
だが、教室の後ろの扉が開いた音がした。
「烏間先生?」
茅野の声だった。
先に帰ったはずの茅野が、教室へ戻ってきている。
「渚、忘れ物――」
茅野の言葉が止まる。
烏間は正面の渚を警戒したまま、茅野の位置も把握する。
渚は動かない。
武器もない。
攻撃する様子はない。
数秒後、茅野が教室へ入ってきた。
手には渚の鞄がある。
「これ、置いたままだったよ」
「ありがとう、茅野」
渚が振り向く。
その瞬間。
烏間は自分の背中へ何かが触れたことに気づいた。
対先生用ナイフ。
それを握っていたのは茅野だった。
「え?」
茅野本人が、誰よりも驚いている。
鞄の持ち手に挟まれていたナイフが、烏間の背中へ当たっていた。
「どういうことだ」
烏間が渚を見る。
「教室を出る前に、茅野へ頼みました」
「何を?」
「少し時間を置いて、僕の鞄を持ってきてほしいと」
「でも渚、ナイフがついてるなんて言ってなかったよ」
茅野が慌てて鞄を確認する。
持ち手の裏側に、ナイフが紐で固定されていた。
鞄を普通に持っているだけでは見えない位置だ。
「言ったら、茅野が緊張すると思ったから」
「私も知らないまま、暗殺に参加してたの?」
「ごめん」
渚は素直に謝った。
烏間は鞄につけられたナイフを見る。
「最初の訓練を始める前から、二回目の攻撃を用意していたのか」
「二本目を使う方法が知られたら、次は僕の両手を警戒すると思ったので」
「だから自分では武器を持たなかった」
「はい」
「俺が茅野を危険だと判断しなかったことも利用したな」
渚はうなずく。
「茅野は攻撃することを知らなかったので、警戒されないと思いました」
一回目。
目に見えるナイフを捨て、隠した二本目を当てた。
二回目。
自分が武器を持つことさえやめ、暗殺に参加していると知らない第三者へ刃を運ばせた。
烏間が一つの手段を警戒すれば、渚はその警戒を利用して次の手段へ進む。
攻撃が失敗した後に対策を考えているのではない。
最初から、相手が何を警戒するようになるのかまで計算している。
「三回目も用意しているのか?」
烏間が尋ねた。
渚はすぐには答えなかった。
視線を教室の窓へ向ける。
烏間も同じ方向を見る。
窓の外。
旧校舎の屋根から、殺せんせーが顔だけを出していた。
「ぬ、ぬるふふふ。素晴らしい訓練でしたねぇ」
その顔には大量の汗が浮かんでいる。
最初から見ていたらしい。
渚が殺せんせーへ視線を向ける。
「三回目は、烏間先生を狙っていません」
殺せんせーの笑みが固まった。
「渚君?」
「殺せんせーが様子を見に来ると思っていました」
渚が窓辺へ近づく。
窓枠には、小さな紙片が挟まれていた。
それを引き抜くと、窓の外で何かが外れる。
屋根の上から対先生用BB弾が一斉に落下した。
「ぬるやっ!」
殺せんせーが高速で移動する。
全ての弾を避け、教室の反対側へ逃れる。
命中はしなかった。
渚も当たるとは思っていなかった。
重要なのは、殺せんせーがどこへ逃げたかだった。
移動した先。
開いた窓のすぐ外には、一本の対先生用ナイフが紐で吊るされていた。
殺せんせーは寸前で進路を変える。
ナイフには触れない。
今度は完全に回避した。
「惜しかった」
渚が呟く。
「惜しかった、ではありません!」
殺せんせーが教室へ飛び込んでくる。
顔は怒りを示す赤色に変わっていた。
「なぜ烏間先生との訓練中に、先生への暗殺まで準備しているのですか!」
「殺せんせーなら見に来ると思ったので」
「先生が来なかったらどうするつもりだったのです!」
「片づけます」
「そういう問題ではありません!」
茅野は目を丸くしている。
烏間も、窓辺に仕掛けられた簡単な罠を確認した。
大がかりなものではない。
教室にあった紐と、余った対先生用武器だけで作られている。
殺せんせーへ命中する可能性は低い。
それでも渚は、烏間との訓練、茅野を利用した二回目の攻撃、殺せんせーへの三回目の暗殺を同時に進めていた。
一つの標的へ集中していたわけではない。
教室にいる全員の意識を見ながら、それぞれを別の目的へ動かしていた。
「潮田」
烏間が呼ぶ。
「はい」
「お前は暗殺者として、自分をどの程度だと思っている?」
渚は質問の意味が分からず、少し考えた。
「まだ一度も成功していません」
殺せんせーへ与えたのは、かすり傷。
烏間へ当てたのは、人体に無害な訓練用のナイフ。
だから渚の中では、成功とは呼べなかった。
「それに、殺せんせーには二回とも避けられました」
「マッハ二十の標的を初日で殺せないのは当然だ」
烏間は厳しい表情のまま告げる。
「だが、お前はすでに暗殺者として成立している」
「僕が?」
「ああ」
身体能力ではない。
武器の扱いでもない。
渚は、標的を自分の望む方向へ動かす。
警戒すべきものを見せ、本命から意識を外す。
一つの攻撃に失敗しても、その失敗によって生まれた警戒を次の暗殺へ利用する。
自分自身さえ、必ずしも刃を持つ必要はない。
戦うことなく。
力を競うことなく。
相手が負けるまでの道筋だけを、静かに作り上げる。
「お前は戦闘には向いていない」
烏間は続ける。
「正面から殴り合えば、クラスの中でもお前より強い者はいる。走るのが速い者も、力の強い者もいる」
渚は素直にうなずく。
「だが、暗殺に限れば話は別だ」
烏間の視線が鋭くなる。
「今の三年E組で、お前より危険な人間はいない」
教室が静まり返った。
渚は自分の手を見る。
小さく、力も強くない手。
今まで誰かに褒められたことなど、ほとんどない。
特別なものを持っていると言われたこともない。
その自分が、暗殺なら強い。
実感はなかった。
ただ、殺せんせーを狙っている間だけは、不思議なほど頭が静かだった。
何を見るべきか。
誰を動かすべきか。
どこに刃を置けばいいのか。
教えられなくても理解できる。
まるで、初めから知っていたかのように。
殺せんせーが渚の前へ移動する。
「では先生から、最初の課題を出しましょう」
「課題?」
「先生の弱点を一つ見つけること。それを利用し、一週間以内に先生の触手を一本奪ってみなさい」
「殺すのではなく?」
「いきなり先生を殺してしまっては、授業が続けられませんからねぇ」
「でも僕たちの目的は、殺せんせーを殺すことですよね」
「も、もちろんです。ただし教師には教育計画というものが――」
「分かりました」
渚は殺せんせーを見上げる。
「一週間以内に、触手を一本取ります」
その声に威圧感はない。
殺意もない。
ごく普通の生徒が宿題を引き受けるような、穏やかな返事だった。
だからこそ。
殺せんせーは、自分の触手へ冷たいものが触れたように感じた。
◇
その夜。
防衛省へ戻った烏間は、三年E組に関する報告書を作成していた。
月を破壊した超生物の様子。
生徒たちの反応。
暗殺へ取り組む姿勢。
最後に、個別の注意事項を追加する。
対象生徒――潮田渚。
身体能力、一般的な中学生の範囲。
武術、射撃、暗殺術の訓練歴なし。
正面戦闘能力、低。
そこまで入力し、烏間は手を止めた。
昼間の光景を思い出す。
攻撃が来ると分かっていた。
正面から向き合っていた。
渚が危険な才能を持つことも、すでに理解していた。
それでも二度、刃を届かせられた。
一度目は、視線を操作された。
二度目は、暗殺者が渚自身であるという思い込みを利用された。
殺せんせーへ仕掛けた攻撃まで含めれば、渚は短い時間の中で三つの異なる暗殺を成立させている。
烏間は、新たな評価を書き込んだ。
――暗殺適性、測定不能。
一度その文字を消す。
より正確な表現へ書き直す。
――暗殺適性、極めて高し。
――気配、視線、殺意の制御を無意識に実行可能。
――標的の警戒および防御行動を誘導し、本命の攻撃から注意を外す能力を有する。
――本人に訓練経験はないが、暗殺に関する思考はすでに完成している。
そして最後に、一文を付け加えた。
――戦闘能力を基準に評価してはならない。暗殺条件下においては、現時点ですでに熟練者以上の危険性を持つ。
報告書を保存する。
同じ頃。
旧校舎では、殺せんせーが教室の周囲を飛び回っていた。
机の下。
天井裏。
窓枠。
黒板の裏。
渚が罠を仕掛けていないか、何度も確認している。
「ありませんね。どこにもありません」
当然だった。
渚はまだ何も仕掛けていない。
一週間という期限を与えられたばかりだ。
それでも殺せんせーは、すでに存在しない罠を探していた。
渚が仕掛けるより先に。
殺せんせーの意識は、渚という暗殺者へ縛りつけられている。
自分が警戒させられていることに、殺せんせー本人も気づいていた。
だが、一度触手へ刃を届かせた少年を無視することはできない。
その時点で、渚の最初の一手は成功していた。
潮田渚は、まだ一人も殺していない。
プロの暗殺者と会ったこともない。
正式な訓練も受けていない。
それでも彼は、誰かから技術を与えられる前から暗殺者だった。
これから学ぶのは、強くなる方法ではない。
生まれながらに持つその強さを、より確実に標的へ届かせる方法だけ。
三年E組の暗殺教室。
その最初の日。
殺せんせーは、一人の生徒に小さな傷をつけられた。
烏間惟臣は、二度殺された。
そして潮田渚は、ようやく自分の才能が使える場所を見つけた。
一週間後。
殺せんせーは、自ら与えた課題を後悔することになる。