口調などに違和感あります
第二話 一週間目の首級
殺せんせーが潮田渚へ出した課題は、単純だった。
一週間以内に弱点を一つ見つけ、触手を一本奪うこと。
本当の暗殺に比べれば、条件はずっと軽い。
しかし、初日に触手をかすめたときとは違う。
殺せんせーはすでに、渚を危険な暗殺者として警戒していた。
マッハ二十で動く標的へ、警戒された状態から刃を届かせなければならない。
正面から挑めば、渚に勝ち目はない。
だから渚は、正面から挑まなかった。
◇
課題を出されてから三日。
渚は一度も殺せんせーを攻撃していなかった。
授業中は真面目に黒板を見て、休み時間には茅野や杉野と話している。対先生用の銃もナイフも、鞄の奥に入れたままだった。
罠を用意している様子もない。
それでも殺せんせーは、渚が手を動かすたびに触手を反応させていた。
「渚君」
数学の授業中、殺せんせーが呼びかける。
「はい」
「先生への攻撃はどうしました?」
「今は問題を解いています」
「先生は授業中の暗殺も歓迎していますよ」
「そうなんですか?」
「ええ。勉強と暗殺を両立できてこそのE組です」
「分かりました」
渚は素直に返事をすると、再び問題を解き始めた。
「……それだけですか?」
「何がですか?」
「いえ、何でもありません」
殺せんせーは黒板へ向き直る。
その触手の一本は、依然として渚の方角へ向けられていた。
茅野がそっと渚へ顔を寄せる。
「殺せんせー、ずっと渚を警戒してるね」
「うん」
「攻撃しないの?」
「今はしないよ」
渚は声を抑えて答えた。
「まだ調べてる途中だから」
「弱点を?」
「それだけじゃない。どこまで見えてるのか、どんな音を聞き分けられるのか、僕が動いたときにどの触手が反応するのかも見てる」
渚は黒板を見たまま、右手を机の中へ入れた。
殺せんせーの触手が即座に動く。
渚が取り出したのは消しゴムだった。
続いて、左手で教科書のページをめくる。
今度は反対側の触手が、渚との間へ移動した。
「本当だ」
茅野が囁く。
「左右で違う触手を使ってる」
「僕の右手を一番警戒してるみたい」
「初日にナイフを使った手だから?」
「たぶんね」
殺せんせーが黒板へ数式を書きながら口を挟んだ。
「先生には、二人の内緒話も全て聞こえていますよ」
渚はノートの端へ短い言葉を書き込む。
「それも記録するのですか?」
「はい」
「何と書いたのです?」
「小声の会話も聞き分けられる、と」
「それは弱点ではなく、先生の優れた能力でしょう」
「でも、全部の音を聞こうとするなら、偽物の合図にも反応すると思います」
チョークを持つ触手が止まった。
教室のあちこちから笑い声が漏れる。
殺せんせーは渚へ向き直った。
「先生に聞こえるように、作戦を説明する暗殺者がいますか?」
「まだ作戦じゃありません。確認しているだけです」
「何を確認しているのです?」
「殺せんせーが、僕たちの会話をどこまで聞いているかです」
殺せんせーはしばらく渚を見つめた後、授業を再開した。
渚も再び問題へ取りかかる。
攻撃はしない。
罠も仕掛けない。
ただ、殺せんせーが何を警戒し、どのような刺激へ反応するのかを一つずつ確認していた。
殺せんせーにとっては、何も起こらない三日間。
だが渚にとっては、暗殺に必要な情報を集める三日間だった。
◇
四日目。
体育の授業で、烏間は生徒たちに対先生用ナイフを使った接近訓練を行わせた。
二人一組となり、一方が攻撃し、もう一方が回避する。
渚の相手は杉野友人だった。
「行くぞ、渚」
「うん」
杉野がナイフを構える。
元野球部だけあり、基礎体力は渚よりも高い。
開始の合図と同時に踏み込み、渚の肩へナイフを突き出した。
渚は半歩だけ横へ動く。
刃が制服の脇を通過する。
杉野はすぐに手首を返し、二撃目へ移ろうとした。
その直前。
渚の指が、杉野の手首へ軽く触れた。
杉野の手からナイフが落ちる。
強く叩かれたわけではない。
痛みもない。
それなのに、指から力が抜けていた。
「何したんだ?」
「杉野がナイフを握り直す前に、手首を押しただけだよ」
「それだけで落とすか?」
「握ろうとしてる途中だったから」
渚は拾ったナイフを杉野へ返した。
「もう一回やろう」
「今度は取られないからな」
杉野はナイフを体の近くへ置く。
手首へ触れられないよう、慎重に間合いを詰めた。
渚は杉野の右肩を見る。
その視線に気づいた杉野が、反射的に右側を守る。
渚は逆の方向へ回り込んだ。
杉野が振り返ったときには、ナイフの先が背中へ触れていた。
「また負けた……」
「杉野が右を守ったから、左が空いたんだ」
「渚が右ばっかり見てたからだろ」
「うん」
「わざとか?」
渚はうなずいた。
「右から攻撃すると思ってほしかったから」
杉野はしばらく渚を見つめた後、苦笑した。
「お前、暗殺になると本当に強いな」
「正面から戦ったら杉野の方が強いよ」
「でも今、二回とも俺が負けたぞ」
「これは戦いじゃなくて、先にナイフを当てる訓練だから」
渚にとって、その二つは明確に違っていた。
相手を殴り倒す必要はない。
押さえ込む必要もない。
最初から最後まで優位に立つ必要さえない。
刃が一度、標的の急所へ届けばいい。
暗殺では、最後の一瞬だけ相手を上回れば勝てる。
「杉野」
「何だ?」
「少し手伝ってほしいことがあるんだ」
「殺せんせーの触手を取る課題か?」
「うん」
杉野が興味深そうに身を乗り出す。
「何をすればいい?」
「ボールを投げてほしい」
「ボール?」
「杉野が一番得意な球を見たいんだ」
◇
体育の授業が終わると、二人は旧校舎裏の空き地へ向かった。
杉野は体育倉庫から軟式野球のボールとグローブを持ってくる。
「一番自信があるのはスライダーだけど、それでいいか?」
「うん。まずは普通に投げてみて」
渚がグローブを構える。
杉野は大きく振りかぶり、ボールを投げた。
球は渚の手前で外側へ曲がり、グローブの脇を通過した。
「悪い!」
「大丈夫。もう一球お願い」
二球目。
渚は捕れなかった。
三球目も、グローブの先をかすめて後ろへ転がる。
それでも渚は、杉野の手元をじっと観察していた。
肩の開き方。
肘の位置。
手首の角度。
指がボールから離れる瞬間。
四球目。
渚のグローブが、変化したボールを正確に捉えた。
「もう捕れるようになったのか?」
「曲がり始める位置が分かったから」
「分かっても、普通はそんなにすぐ捕れないんだけどな」
杉野がもう一球投げる。
渚はそれも捕球した。
「この球を殺せんせーに当てるのか?」
「違うよ」
「じゃあ、何に使うんだ?」
「殺せんせーを動かすため」
渚はしゃがみ込み、地面へ簡単な図を描いた。
殺せんせーの位置。
杉野の投球。
クラスメイトたちの配置。
攻撃を受けた場合に選ぶと思われる移動先。
杉野は説明を聞きながら、次第に表情を引き締めていった。
「これ、全部渚が考えたのか?」
「まだ途中だよ。殺せんせーがどう動くか、全部は分からないから」
「失敗したら?」
「そのときは、どこへ逃げたか覚える」
渚は地面に描いた線を指で消す。
「次は、その逃げ道も塞げばいい」
絶対に一度で成功させる必要はない。
失敗しても、標的の反応を知ることができる。
何を守るのか。
どこへ逃げるのか。
どんな攻撃を優先して警戒するのか。
一度挑むたび、次の暗殺は完成へ近づいていく。
「でも、今回は成功させたい」
渚は杉野を見上げた。
「杉野の球なら、できると思う」
杉野は手の中のボールを握り直す。
「分かった。やろう」
◇
五日目。
渚は磯貝悠馬、片岡メグ、岡野ひなた、木村正義へ協力を頼んだ。
六日目には前原陽斗、速水凛香、中村莉桜、茅野たちも作戦へ加わった。
寺坂たちにも役割を与える。
ただし渚は、誰にも作戦の全体像を説明しなかった。
それぞれが知っているのは、自分の立ち位置と動く合図だけだった。
「どうして全員に説明しないんだ?」
磯貝が尋ねる。
「殺せんせーは、僕たちの視線や表情も見てるから」
渚は答えた。
「次に何が起こるか知ってたら、無意識にその場所を見ちゃうかもしれない」
「誰か一人が余計なところを見ただけで、作戦を読まれるってことか」
「うん。それに、全員が知らなければ、殺せんせーに作戦を聞かれても答えられない」
「仲間にも本命を隠すのかよ」
前原が感心したように言う。
「そこまでする?」
茅野が尋ねる。
「殺せんせーを騙すなら、それくらいしないと無理だよ」
渚の声に迷いはなかった。
殺せんせーを過小評価していない。
マッハ二十の速度。
人間を大きく上回る視力と聴力。
複数の作業を同時に行える触手。
それら全てを持つ標的を欺くなら、隠せる情報は仲間からも隠す必要がある。
「本当に触手を取れるのか?」
寺坂が疑わしそうに言う。
「分からない」
渚は正直に答えた。
「何だよ、それ」
「殺せんせーがまだ見せてない能力を持ってるかもしれない。予想と違う動きをしたら、作戦は止める」
「一週間の期限に間に合わなくなるぞ」
「皆が怪我するよりいいよ」
寺坂が黙る。
渚は集まったクラスメイトたちを見回した。
「でも、今まで見た動きだけで対応するなら、最後の一撃までは運べる」
大声で自信を示したわけではない。
それでも、誰も笑わなかった。
渚はすでに、初日に殺せんせーへ刃を触れさせている。
警戒していた烏間へも、二度ナイフを届かせた。
言葉だけではない実績があった。
「俺たちは、言われたとおりに動けばいいんだな?」
寺坂が確認する。
「うん」
「なら、やってやるよ」
寺坂は対先生用の銃を肩へ担いだ。
作戦は期限最終日の午後。
体育の時間に決行されることになった。
◇
七日目。
殺せんせーは朝から渚の動きを注意深く見ていた。
課題の期限は今日まで。
渚が何かを仕掛けるなら、残された時間は少ない。
しかし、午前中は何も起こらなかった。
渚はいつもどおり授業を受け、休み時間には杉野や茅野と話している。
武器へ触れることもない。
やがて昼休みが終わり、体育の時間になった。
生徒たちが旧校舎裏の運動場へ出ると、杉野が野球のボールを手にしていた。
「殺せんせー」
「何でしょう、杉野君」
「俺の球、受けてみてくれないか?」
「先生が捕手を務めるのですか?」
「そう。俺、前は野球部で投手をやってたんだ」
殺せんせーは杉野とボールを交互に見る。
「分かりました。では、自慢の球を見せてください」
一本の触手を広げ、捕球の姿勢を取る。
杉野が投球位置へ移動した。
他の生徒たちは少し離れた場所へ集まっている。
渚は茅野の隣に立っていた。
両手には何も持っていない。
対先生用の銃もナイフも見当たらなかった。
それでも殺せんせーは、渚から意識を外さない。
「行くぞ!」
杉野が第一球を投げた。
ボールは殺せんせーの手前で曲がった。
触手が軌道を追い、正確に受け止める。
「良い変化球です。しかし、少し曲がり始めるのが早いですね」
殺せんせーがボールを返す。
杉野は悔しそうに受け取った。
「もう一球だ」
二球目。
三球目。
四球目。
殺せんせーは全ての球を受け止め、そのたびに腕の振りや指の使い方について指摘した。
杉野は一つ一つの助言を真剣に聞いている。
そして五球目。
「これで最後だ」
杉野が告げる。
「全力で来なさい」
殺せんせーが触手を構えた。
渚は足元にあった小石を、靴先で一度だけ鳴らす。
最初の合図。
杉野が投げる。
それまでと同じフォーム。
しかし、球速はわずかに落とされていた。
殺せんせーの触手がボールを受け止める。
その瞬間。
磯貝と前原が左右から対先生用の銃を撃った。
殺せんせーは体を浮かせ、飛来したBB弾を避ける。
杉野のボールは触手で握ったままだ。
続けて岡野と木村が発砲する。
殺せんせーは上へ移動した。
その進路へ、片岡と速水が撃つ。
さらに高度を上げようとした殺せんせーの視界へ、大きな防球ネットが広がった。
寺坂、村松、吉田、岡島が四方から持ち上げたものだった。
対先生用の素材ではない。
殺せんせーへ触れても、傷を与えることはできない。
「このネットでは、先生を捕まえられませんよ」
殺せんせーは網目を抜けようとする。
その瞬間、中村と神崎が別の紐を引いた。
広がっていた網が崩れ、殺せんせーの周囲へ垂れ下がる。
絡まっても、引き千切るのは簡単だった。
だが、ネットの端は寺坂たちが握っている。
高速で引けば、生徒たちまで巻き込んでしまう。
殺せんせーは力任せに突破せず、触手を使って網目を外し始めた。
そこへ四方からBB弾が飛来する。
殺せんせーはネットを解きながら、全ての弾を避けた。
「連携は見事です。ですが、この程度では先生を追い詰められませんね」
殺せんせーが渚を見る。
「渚君は攻撃しないのですか?」
「しています」
「合図を出しているだけではありませんか」
「僕の役目は、殺せんせーを攻撃することじゃありません」
「では、何をしているのです?」
「そこまで来てもらいました」
渚が答えた瞬間。
岡野が対先生用ナイフを投げた。
狙いは殺せんせーの体ではない。
正面へ向け、やや高い位置に投げている。
同時に、速水と中村が左右から射撃する。
殺せんせーは三つの攻撃を確認し、後方へ移動した。
そこには片岡たちの射線がある。
上には防球ネット。
下からは、木村が投げ上げた対先生用ナイフ。
一つ一つなら、いくらでも避けられる攻撃だった。
だが、生徒たちは殺せんせーへ当てようとしていない。
特定の方向へ移動させるため、逃げ道を順番に塞いでいた。
殺せんせーは、まだ空いている教室側へ移動した。
そこには渚がいる。
しかし、渚は丸腰だった。
両手にも、袖にも武器はない。
殺せんせーが最も警戒している生徒でありながら、攻撃する手段を持っていなかった。
だからこそ、その方向だけが残されている。
殺せんせーは考える。
渚自身は指揮役。
実際に攻撃するのは、別の生徒。
殺せんせーは渚の左右にいる生徒を確認した。
茅野。
杉野。
杉野は投球位置から動いていない。
茅野は両手を体の前で重ねている。
武器は見えなかった。
殺せんせーが教室側へ進む。
その瞬間、渚が一歩踏み出した。
殺せんせーの注意が、渚の右手へ集まる。
何もない。
左手にもない。
だが、その背後にいる茅野の右手には、一本の対先生用ナイフが隠されていた。
「渚!」
茅野が呼ぶ。
渚は振り返らない。
手だけを背後へ差し出した。
茅野がナイフを渡す。
殺せんせーは、渚の手へ武器が収まった瞬間には回避を始めていた。
それでも渚は、殺せんせーの体を追わなかった。
すでに予測していた場所へ刃を置く。
殺せんせーがその刃を避ければ、中央の体へ片岡たちのBB弾が届く。
中央を守るなら、触手を前へ出すしかない。
判断に使える時間は、ほとんどなかった。
殺せんせーは一本の触手を盾にする。
渚のナイフが、その触手の根元へ触れた。
わずかな抵抗。
渚は踏み込みながら、ナイフを最後まで押し切った。
一本の触手が切断される。
切り離された部分は地面へ落ちる前に崩れ、跡形もなく消えた。
攻撃が止まる。
運動場へ、数秒の静寂が訪れた。
「取った……」
杉野が呟く。
「本当に取ったぞ!」
次の瞬間、三年E組から歓声が上がった。
寺坂たちは防球ネットから手を離し、互いの肩を叩く。
磯貝や片岡も、安堵したように息を吐く。
茅野が渚へ駆け寄った。
「やったね、渚!」
「うん」
渚はナイフを下ろした。
「茅野が、ちょうどいいタイミングで渡してくれたからだよ」
「合図されたとおりに動いただけだよ」
「でも、一瞬でも遅かったら間に合わなかった」
杉野も二人のもとへやってくる。
「俺の球は役に立ったか?」
「もちろん。最初にボールを受け取らせたから、触手を一本使わせたままにできた」
殺せんせーは、切断された触手の根元を確認していた。
中央の体は無傷。
触手一本で、致命的な攻撃を防いだ。
本当の暗殺なら、殺せんせーの生存という結果は変わっていない。
それでも渚は、与えられた課題を確かに達成した。
「お見事です、渚君」
殺せんせーが生徒たちの前へ戻る。
「先生が中央の体を守るため、触手を盾にするところまで計算していたのですか?」
「はい」
渚はうなずいた。
「全部を避けられないと思ったら、殺せんせーは触手を使って中央の体を守ると思いました」
「もし先生が、触手を犠牲にしなかったら?」
「そのまま片岡たちの弾が体へ届いていました」
「それも避けられた可能性は?」
「あります。その場合は失敗です」
渚は隠さずに認めた。
「殺せんせーが、まだ見せていない方法で逃げる可能性も考えていました。予想と違う動きをしたら、皆には攻撃を止めてもらう予定でした」
殺せんせーは周囲を見渡した。
誰も怪我をしていない。
生徒たちは殺せんせーへ直接接近せず、それぞれ安全な位置から役割を果たしていた。
使われた武器も、人間にはほとんど害を与えない対先生用のものだけだった。
渚は仲間を危険へさらさず、標的の逃げ道だけを狭めた。
「それで、先生の弱点は何だと思いましたか?」
「先生であることです」
渚はすぐに答えた。
「殺せんせーは僕たちを傷つけません。杉野が投球を見てほしいと頼めば、捕手を引き受ける。ネットを破れば早く逃げられる状況でも、皆を巻き込むかもしれないから、ゆっくり外そうとした」
「なるほど」
「もう一つあります」
「まだあるのですか?」
「自分の速さを信じていることです」
殺せんせーの触手が、わずかに止まった。
「殺せんせーは、どんな攻撃でも見てから避けられると思っています。だから杉野の球を受けたし、防球ネットに囲まれても、すぐにはその場を離れなかった」
「先生のマッハ二十は、実際に世界最高の速度ですが」
「はい。だから速さで勝とうとは思いませんでした」
渚は手にしたナイフを見る。
「殺せんせーが速く動くほど、最後の場所へ早く来るようにしたんです」
生徒たちが撃った弾も、投げたナイフも、防球ネットも、単独では殺せんせーに届かない。
だから殺せんせーは、それらを一つずつ回避した。
しかし、回避する方向そのものが渚に決められていた。
殺せんせーは自分の速さで逃げたのではない。
渚の作った道を、マッハ二十で走らされていた。
「課題は合格です」
殺せんせーは教師として、はっきりと告げた。
「期限内に先生の弱点を見つけ、触手を一本奪いました。しかも、仲間を危険へさらしていません」
「ありがとうございます」
「ですが、忘れてはいけません」
殺せんせーの声から、わずかに軽さが消える。
「先生は今回、触手一本で中央の体を守りました。実際の暗殺なら、先生は生きています」
「分かっています」
「同じ作戦も、次は通用しません」
「同じ作戦は使いません」
渚は迷わず答えた。
「次は、触手で守ることも利用します」
殺せんせーはしばらく何も言わなかった。
烏間は、少し離れた場所から渚を見つめていた。
触手を一本奪ったことだけが重要なのではない。
渚は殺せんせーの能力を正確に認めている。
マッハ二十の速度も、複数の触手も、人間を遥かに上回る感覚も否定していない。
そのうえで、殺せんせーが正しい判断をするように仕向けた。
杉野の球を受ける。
生徒を巻き込まないよう、ネットを乱暴に破らない。
飛来する攻撃を順番に避ける。
中央の体を守るため、触手を盾にする。
殺せんせーは、全て正しく判断した。
その結果、触手を奪われた。
標的の失敗を待つのではなく、正しい選択をさせながら追い詰める。
暗殺者として、極めて完成度の高い思考だった。
◇
作戦に使った道具を片づけた後。
渚と杉野は二人で体育倉庫へ向かっていた。
杉野は先ほど使用した軟式球を握っている。
「なあ、渚」
「何?」
「殺せんせーが言ってたこと、本当だと思うか?」
「スライダーのこと?」
「うん」
杉野はボールへ視線を落とす。
「俺、前は野球部で投手をやってたんだ。自分のスライダーには自信があった」
杉野は、野球部にいた頃のことを話し始めた。
有望な投手として期待されていたこと。
しかし、寺貝という選手に自慢のスライダーを簡単に打たれたこと。
それから自信を失い、成績まで崩してE組へ落ちたこと。
「あいつのスライダーは、打者の手元で鋭く曲がる。俺のは曲がるのが早いから、簡単に見切られる」
渚は、すぐに慰めなかった。
杉野が求めているのは、「そんなことはない」という根拠のない言葉ではない。
先ほどまでの投球を思い出す。
腕の振り。
指の長さ。
ボールを離す位置。
「杉野の手って、寺貝より小さい?」
「たぶんな。あいつは指も長かった」
「なら、同じ握り方が杉野に合うとは限らないと思う」
「それはそうだけど……」
「今日、少し力を抜いて投げた五球目は、それまでより遅かった。でも、変化はあまり小さくなってなかったよ」
杉野が顔を上げる。
「あの球は、作戦のために遅くしただけだぞ」
「うん。でも、力を抜いたことで、指がボールへ長く触れてたのかもしれない」
渚は投球の専門家ではない。
だから断言はしない。
ただ、観察して気づいた違いを伝える。
「殺せんせーなら、もっと正確に分かると思う」
「暗殺する相手に野球を教えてもらうのか?」
「頼めば教えてくれるよ」
渚はわずかに笑った。
「それが殺せんせーの弱点だから」
杉野も笑う。
「確かにな」
運動場へ戻ると、殺せんせーはまだそこにいた。
地面に残った仕掛けの跡を確認している。
杉野は少し迷った後、ボールを握って歩み寄った。
「殺せんせー」
「何でしょう、杉野君」
「さっきの続き、教えてくれないか?」
「もちろんです」
殺せんせーはボールを受け取った。
「まずは、杉野君の手に合った握り方を考えましょう。他人と同じ投げ方をする必要はありません」
杉野は真剣な表情で説明を聞き始めた。
渚は少し離れた場所から、その様子を見ていた。
殺せんせーを殺すために見つけた弱点。
生徒の悩みを見過ごせず、求められれば教師として応えずにいられないこと。
それは暗殺に利用できる性質であると同時に、E組の生徒を救う長所でもあった。
弱点と長所は、同じ場所に存在している。
渚はノートを取り出した。
新しいページへ、一行だけ書き込む。
――殺せんせーは、生徒の可能性を放置できない。
暗殺のための情報。
それだけではない気がした。
◇
翌朝。
渚の机へ、前日に行われた数学の小テストが返却された。
答案には点数とともに、殺せんせーの短いコメントが添えられている。
暗殺の作戦は申し分なし。次は数学にも同じだけ準備をすること。
「暗殺では勝ったのに」
渚が答案を見て呟く。
「数学は別ってことだね」
隣からのぞき込んだ茅野が笑った。
「渚、作戦を考えてて勉強する時間が減ってたでしょ」
「それは否定できないかな」
「次はテストでも勝たないとね」
「うん。頑張るよ」
二人が話していると、教室の扉が開いた。
一人の男子生徒が入ってくる。
赤みがかった髪。
余裕のある笑み。
停学処分を終えた、三年E組きっての問題児。
赤羽業だった。
業は教室を見渡し、やがて渚を見つける。
「久しぶり、渚君」
「久しぶり、カルマ君」
昔から互いを知る二人の、気安いやり取り。
しかし業の視線は、渚の机に置かれた対先生用ナイフへ向かった。
「面白い先生が来たって聞いたけど」
業は楽しそうに目を細める。
「僕が休んでる間に、渚君もずいぶん面白くなったみたいだね」
渚は静かに業を見る。
赤羽業。
頭脳、身体能力、度胸。
その全てで、これまでのクラスメイトとは大きく異なる。
そして、自分と同じように相手の思考を読み、裏をかくことのできる生徒。
殺せんせーにとって、新たな暗殺者が教室へ加わった瞬間だった。
一方の業は、まだ知らない。
かつて大人しく、自分の後ろをついてきていた潮田渚が。
自分より先に、殺せんせーから触手を一本奪っていたことを。