比喩ではなく、世界が音を立てて割れ、次の瞬間、足元から河川敷が消えた。
「――っ!」
落ちた、と思った。けれど身体はどこにも落ちなかった。足の裏にはまだ地面の感触がある。ただ、同じ場所を川が流れ、知らない道路が走り、見たことのない建物が幾重にも重なっている。空では昼と夜が混ざっていた。星の向こうから陽が差し、遠くの街は輪郭を失って、存在しては別の姿へ塗り替わっていく。昨日も今日も、まだ来ていない明日さえも、区別を失って押し寄せていた。
「悠真!」
声に振り向く。ミコトが俺の制服へしがみついていた。その姿を見つけた瞬間、反射的にその小さな体を抱きしめる。
背後で何かが崩れたが、もう振り返らなかった。世界がどれだけ壊れているのかなんて、嫌というほど見た。今さら一つ二つ異常が増えたところで、確かめる意味もない。
俺はミコトを見た。
狂った風に長い髪が舞っている。昼とも夜ともつかない光を受けた銀白の髪は、雪より淡く、月明かりを溶かしたような柔らかな輝きを帯びながら宙へほどけていた。その奥で、金色の瞳が俺を見返している。初めて会った時から綺麗な顔だとは思っていた。けれど、あの頃の美しさはもっと遠かった。完璧に整っているのに、何を見ても心を動かさない。笑っているように見えても、それが笑顔なのかさえ本人には分かっていなかった。
だが、今は違う。消えたくないと、ここに居たいと俺の服を掴んでいる。同じ顔のはずなのに、以前よりずっと目を離しがたかった。最初から綺麗だった。でも今のこいつを魅力的だと思う理由は、それだけじゃない。
「……何じゃ」
ミコトが眉を寄せる。その表情さえ、俺にはひどく見慣れたものになっていた。
ふと、ミコトの背後にあるものが視界へ入り込んだ。頭の奥が軋む。この世界には存在しない方向へ、理解できない途方もない何かが広がっている。
もう一度ミコトを見る。
目の前にいる少女と、その向こうに広がるもの。これまで俺は、その二つを一つのものとして考えてきた。
元々ミコトなどという少女はおらず、俺が本来認識できないものを見て、それを人間の姿として理解した。それが始まりだった。だから、今ここにいる少女も、高次元にある巨大な存在も同じものだと、ずっとそう思っていた。でも本当にそうなのか。向こうに広がっているものを見ても、そこに「ミコト」を感じなかった。
俺に向けられた感情も、何かを欲しがる意思も、失うことを恐れる弱さもそこには見つけられない。考えれば当たり前だ。それらは俺と出会ってから生まれたのだから。最初はただ、俺が形を与えただけだった。でも、その後まで俺が決めたわけじゃない。ミコトが何に喜び、何を嫌がり、何を望むようになるのかなんて、俺は一度も決めていない。こいつは勝手に変わった。勝手に俺に腹を立てて、執着して、俺が作った形の中で、俺の知らないものが生まれ続けた。今のミコトは、もうただの翻訳結果じゃないんじゃないか。向こうにあるものを人間の形へ映しただけの像なら、こんなふうに変わっていく必要はない。俺が見ていないところでも、自分自身について考え、俺の予想とは違う答えを出す必要もない。でも、こいつはずっとそうしてきた。そうだ、俺の目の前にいるのは、高次元存在の全てではない。そこから生まれた、ミコトという一つの人格だ。
そう考えた瞬間、不意にもう一つのことが腑に落ちた。世界を壊しているのは、高次元存在があることそのものじゃない。そんなものは俺が生まれるより遥か前から存在していた。壊れ始めたのは、俺がミコトを見つけてから。
正確には――目の前の少女を「高次元存在そのもの」として見続け、その全てをこちら側へ引き寄せるようになってからだ。俺が見ているものに、世界が形を与えようとしている。少女一人の中へ、本来この世界には入りきらないもの全部を押し込もうとしている。
それで世界が壊れるなら、押し込めるのをやめればいい。高次元にあるものは、そこにあるものとして見て、目の前にいるミコトは、ミコトとして見る。二つが同じ起源を持っていたとしても、今までのように全部を一つへ重ねなければいい。
俺に何かを切断する力なんてない。必要なのは、最初から力じゃなかった。俺が繋げてしまっているなら、繋げて見るのをやめればいい。
「悠真?」
ミコトが怪訝そうに俺を見るが、俺は答えなかった。
説明している時間もないし、説明したところで俺自身が全部理解しているわけでもない。ただ、不思議なくらい確信だけはあった。
俺はミコトの顔を見る。薄い頬が風に乱された銀白の髪の隙間から覗いている。不安を隠し切れずに揺れている金色の瞳と目が合った。
この少女を一つの存在として意識する。その一方で、背後にあるものを無理に理解するのをやめた。あれは、あれだ。ミコトの起源で、ミコトへ繋がっているもの。それ以上、人間の少女という形へ押し込めて見る必要はない。
ミコトの体が僅かに強張った。何かが変わり始めたのが俺にも分かった。ずっと重なって見えていた二つの輪郭が、ゆっくりとずれていく。ミコトの背後にあった巨大なものが、別の方向へ動き始める。遠ざかるという表現では足りない。こちら側への食い込みをやめ、本来ある場所へ引き戻されていく。
俺は目の前のミコトから目を逸らさなかった。
「そうだ、全部こっちに来なくていい」
その瞬間、何かが外れた。音も光もなかったが、それまで一つとしてしか認識できなかったものが、突然二つに見えた。向こうにある、果てのない存在と、一人の少女。
ミコトが声を漏らす。
背後に広がっていた巨大な構造が、一気に人間世界から退いていった。それと同時に、重なっていた街が一つずつ消えていき、昼と夜がほどける。いくつにも分かれていた川が重なり、一本へ戻っていく。世界が急速に形を取り戻していた。
「……成功した」
思わず呟いた。
ミコトは何も答えなかった。
「ミコト?」
だんだんと握っていた手の感触が薄くなっていく。ミコトの輪郭が透けている。本人も気づいたらしく、自分の手を見る。
「悠真…」
指に力を入れるけれど、さっきまであった感触がどんどん消えていく。
「待てよ、ミコト!」
掴んでいた手がすり抜けた。輪郭が淡くなり、銀白の髪も金色の目も、向こう側の景色に溶けていく。分離は成功して、世界は元へ戻り始めている。だが、こいつまで消えようとしてる。
「ミコト!」
「悠真、妾を――」
声が途切れて、消えた。何もなくなった。さっきまでミコトが立っていた場所を、ただ風が通り抜ける。
世界は静かになり、空は一つになっている。街も見慣れた形へ戻っていく。成功した。俺がやろうとしたことは間違っていなかったはずだ。世界が助かって喜ぶべきなのに、もうそんなことはどうでもよかった。
「ミコト」
返事がない。胸の奥が急激に冷たくなる。俺はミコトがいた場所へ手を伸ばしたが、もう何の感触もない。
「違うだろ」
高次元存在とミコトを分けて、世界は戻った。ミコトだけが消えた。
「勝手にいなくなるなよ」
何事もなかったかのように正常へ戻っていく。全部解決したみたいな様子で、それが無性に腹立たしかった。
――ミコトは、何もない場所にいた。以前なら、それを不自然だとは思わなかっただろう。自分と世界の境界すらなかった頃なら、どこにいるのかという問いそのものが意味を持たなかった。
けれど今は違う。ここには悠真がいない。それが、はっきりと嫌だった。
ここには、自分の起源がある。この世界が受け入れることすらできない、途方もない存在がある。そこへ溶けてしまうこともできた。けれど、それで帰ったなんて思えなかった。帰りたい場所は別にあると、そう思ったことに、ミコト自身が気づく。
悠真の視線がない。名前を呼ぶ声もない。それでも、自分が誰なのかは分かった。
迷う必要すらなかった。今、自分自身がそう思っている。その認識だけを頼りに、ミコトは初めて自分から境界の向こうへ手を伸ばした。
「妾はミコトじゃ!」
――声がした。
振り返ってみると、何もなかった空間に輪郭が生まれている。銀白の髪が風を受けて広がり、その中心から金色の瞳が現れた。
ミコトだった。それを認識したら頭で考えるより先に身体が動いた。
「わっ――」
その小さな身体を抱き寄せる。
「な、何をする!」
「いた……」
「何じゃ?」
「いた」
「見れば分かるであろう!」
腕の中に感触がある。頬へ細い髪が触れる。柔らかい。ここに、確かにいる。それを確認した途端、全身から力が抜けそうになった。
「く、苦しいわ!」
「ちょっと黙ってて」
「何じゃその言い草は!」
「今だけ」
ミコトがまだ何か言おうとしたが、構わず俺の胸元で動きを止める。腕の中の小さな身体から、微かな温度が伝わってくる。そこでようやく、まともに息ができた気がした。
世界が助かったことより、その瞬間はただ、ミコトが戻ってきたことがどうしようもなく嬉しかった。
どれくらいそうしていたのか分からない。
数秒だった気もするし、もっと長かった気もする。
腕の中にいるミコトは最初こそ文句を言っていたものの、やがて大人しくなった。俺が力を抜いても逃げようとはせず、額を胸元へ預けたまま黙っている。
少し前まで、世界が壊れようとしていた。昼と夜が同時に空へ浮かび、過去も未来も区別を失い、この河川敷そのものがどこに存在しているのかすら分からなくなっていた。
それが嘘だったみたいに静かだった。夕方だった空はそのまま夜へ向かい、雲の隙間に残った赤い光もゆっくり薄れていく。
いつもの世界だった。その真ん中で、俺はようやくミコトから身体を離した。
「……もうよいのか?」
「何、その言い方」
「そなたが勝手に抱きついてきたのであろう」
「そうだけど」
言われると急に恥ずかしくなった。さっきは何も考えていなかった。消えたと思った奴が突然戻ってきたから、確認するみたいに抱きしめただけだ。それだけのはずなのに、改めて距離が開くと妙に意識してしまう。
ミコトの髪が頬にかかっている。風に乱されたそれを細い指が耳へ掛けると、その下から滑らかな頬と金色の目が現れた。
まだ少し驚いているらしい。でも、どことなく機嫌がよさそうにも見える。
「何じゃ」
ミコトがじっと俺を見る。
「そなた、いつもより積極的じゃの」
「気のせいだろ」
「気のせいではない」
即答だった。思わず笑う。
「何がおかしい」
「何でもない」
「絶対に何かあるではないか!」
声も、怒った顔もいつも通りだ。あれほど心配した自分が馬鹿みたいに思える。
「でも、本当に大丈夫なのか?お前」
ミコトは自分の身体を見る。さっきまで消えていたなんて思えないほど、輪郭ははっきりしている。俺が手を伸ばして指先へ触れると、今度は向こう側へ抜けずに止まった。そのまま指を絡めてみる。
「なにをしておる」
「確認してるだけ」
「なんだか気恥ずかしいぞ」
「さっき抱きしめても何も言わなかったのに?」
「それは……」
言葉に詰まって、金色の目が一瞬だけ逸れる。
「……あれは緊急事態じゃ」
「じゃあ今は?」
「平時じゃ」
「世界滅びかけた直後だけどな」
「もう戻っておるから平時じゃ」
随分と切り替えが早い。俺は苦笑しながら、空を見上げた。
本当に戻っている。少なくとも見える範囲には、さっきまでの異常は残っていない。
そしてもう一つ、あれほど強く感じていた、ミコトの背後の途方もない何かも見えなくなっていた。
「あれは?」
聞くと、ミコトが少しだけ目を細める。
「あるぞ」
「見えないけど」
「そなたが見ておらぬからであろう」
「……そういうこと?」
「おそらくな」
ミコト自身も完全に理解しているわけではなさそうだったが、それでも先ほどまでとは明らかに違う。以前は、ミコトを見ればその奥に高次元側の存在が嫌でも重なってきた。でも、目の前にはミコトしかいない。
「じゃが、妾と向こうとの繋がりがなくなったわけではない」
ミコトは自分の胸元へ手を当てる。
「じゃが、先ほどまでのように常に重なってはおらぬようじゃ」
「切れたんじゃないの?」
「完全に切れておれば、妾は戻ってこられぬであろう。おそらく今の妾は、そなたの言葉を借りれば……こちら側だけで形を保っておる」
高次元側から絶えず形を与えられているわけではなく、ミコト自身がミコトとしてここにいる。
さっき何もない場所から戻ってきた時の声を思い出す。
――妾はミコトじゃ。
誰にも見られていない場所で、自分でそう決めて、それで戻ってきた。
「じゃあ、もう俺が見てなくても消えない?」
「試してみるか?目を閉じてみよ」
「嫌だよ」
反射的に答えていた。ミコトが目を丸くする。
「今消えたばっかだろ」
「妾はもう戻った」
もう一度同じことになるとは思っていない。理屈でも大丈夫なんだろう。でも、今はまだ試したくなかった。
ミコトは少しの間俺を見てから、ふっと口元を緩めた。
「……そうか」
「何その顔」
「別に何でもないぞ」
「絶対何かあるだろ」
「何でもないと言うておる」
やけに満足そうなので追及する気も失せる。
「それより」
俺は話を戻した。
「力はどうなった?未来見たり、縁いじったりするやつ」
そこでミコトも初めて気づいたようだった。金色の瞳が僅かに細くなる。数秒、何も起こらない。
「……見えぬ」
嫌な予感がした。
「全部?」
「待て」
ミコトが目を閉じた、その瞬間だった。空気が変わった。ほんの僅かだったが、俺には分かった。目の前にいるミコトの奥に、細い道のようなものが開く。先ほど世界へ溢れていたものとは比べものにならないほど小さい。向こう側の全てをこの場所へ引き寄せるのではなく、ミコト自身が必要な部分だけへ手を伸ばしているように感じた。
金色の目が開く。
「……見える」
「戻った?」
「戻ったというより、繋いだ」
ミコトは少し驚いた様子で自分の手を見る。
「以前は妾とあちらを分けて考える必要そのものがなかった。じゃが今は、望めば触れられる」
「じゃあ能力、なくなってないんだ」
「当然であろう」
急にいつもの尊大な顔へ戻った。
「妾を誰だと思うておる」
「一回消えた奴」
「そなたは本当に余計なことばかり言うな!」
でも、よかった。能力を失うこと自体が問題だったわけではないが、それでも、ミコトの大事なものを失わせずに済んだ。
「じゃあさ、俺は?」
ふと思いつく。
「何がじゃ」
「未来。見てみて」
ミコトが俺をみる。さっきまで少し得意げだった顔が、みるみる不機嫌になった。
「……何もない」
「やっぱり?」
「やっぱり、ではない!」
ミコトが俺の胸を軽く叩いた。
「どうしてそなたは相変わらず何もないのじゃ!」
「俺に言われても」
「向こうへ繋ぎ直したのじゃぞ!以前と同じように見えておる!あの川向こうの人間が明日の朝何を食べる可能性が高いかまで分かるというのに、そなたは何もない!」
「知られてる人達はかわいそうだな」
「問題はそこではない!」
俺は思わず笑った。これで一つ、はっきりした。ミコトが俺の未来を見られないのは、能力が足りないからじゃない。
俺自身が、そういう存在なのだ。選ぶまで先がなくて、ミコトにも見えない。
「じゃあ、これからも俺が何するか分かんないんだな」
「……そうなる」
言葉とは反対に、ミコトの声はどこか沈んだ。未来を見られない。それこそが、こいつがずっと怖がっていたものだった。明日も俺がミコトを見る保証はない。俺が別の誰かを選ぶ未来さえ、事前には分からない。
ミコトは悠真の未来を覗こうとするけれど、やはりそこには何もなかった。
以前なら、この空白は恐怖そのものだった。
悠真が明日も自分を見てくれる未来を探しても、存在しない。ならば外側から逃げ道を塞ぎ、自分だけを見るしかない状況を作ってしまえばいい。そうすれば少なくとも、悠真が誰かに奪われる可能性を減らせる。
今でも、それはできた。再び高次元側へ意識を繋いだ瞬間、周囲に張り巡らされた無数の因果が手に取るように分かる。
悠真の家族、友人そして水瀬凛。
そこへほんの僅かに触れるだけでいい。誰かとの予定をずらすことも、会う機会を失わせることもできる。以前と何も変わらない。その事実に、ミコトは僅かに安堵した。
同時に、もう一つの感情が浮かぶ。悠真に嫌われたくない。以前なら理解できなかった単純な感情だった。悠真は、他者との関係を奪われることを嫌がった。それをすれば当然怒る。
あの何もない場所で、自分がミコトであることを自分で選んだ時、同時に分かってしまった。
悠真にも同じことをする権利がある。誰を見て、誰を大事にするのか。誰のそばにいるのかを決めるのは悠真だ。ひどく気に入らないが、それでも奪ってしまえば、選ばれたことにはならない。
「……ミコト?」
悠真の声で意識が戻る。
「また変な顔してた」
「そなたには言われとうない」
ミコトは高次元側との接続を閉じた。途端に、膨大な因果の網が視界から消える。
そして悠真だけが残った。
「もういいの?未来見なくて」
「……今はな」
そう言ったあと、ミコトは何かを思い出したように街の方を見る。
「いや。まだ一つ、やらねばならぬことがある」
「何?」
ミコトは答えず、もう一度高次元側へ繋がった。空気が僅かに変わる。今度はさっきより迷いがない。
「おい」
「黙っておれ」
「また何かする気?」
「するぞ」
即答されて身構える。
「戻すのじゃ」
ミコトが俺を見る。
「そなたと、この世界の者どもとの縁を」
その言葉で思い出した。世界そのものが壊れかけていたせいで、それどころではなくなっていた。
ミコトが薄くした、俺と周囲との繋がり。
「あれ、まだそのままだったのか」
「世界が壊れたからといって、妾が行ったことまで勝手に元へ戻るわけではない」
「じゃあ戻して」
「……」
「何?」
「不本意じゃがの」
不機嫌そうに言い返しながら、ミコトが目を閉じる。何が起きているのか、俺には見えない。をしているのか分からないからこそ、俺はその横顔を見ることしかできなかった。
しばらくして、ミコトが目を開く。
「戻したぞ」
「全部?」
「……ほとんどな」
「ほとんど?」
嫌な引っかかり方だった。
「何を残したんだよ」
ミコトは答えない。でも、その顔を見た瞬間にだいたい分かった。
「……凛?」
ぴくりと眉が動く。
「やっぱりか」
「まだ何も言うておらぬ!」
「顔に出てる」
「出しておらぬ!」
ミコトが露骨に顔を逸らした。その反応に呆れると同時に、少しだけ笑いそうになる。世界を壊しかけた高次元存在が、最後まで引っかかっているのがそこなのか。
「ミコト、ちゃんと戻してくれよ」
「分かっておる」
そう答えたくせに、ミコトはすぐには何もしなかった。金色の瞳は俺ではなく、俺には見えない何かを追っている。高次元側へ繋がっている時の目だ。
「……そんなに嫌なの?」
「嫌じゃ」
「即答だな」
「嫌なものは嫌じゃ」
戻せと言うのは簡単だった。もともとミコトが勝手にやったことなのだから、元に戻すのが当然だとも思う。俺には何も見えない。ミコトが何を見て、何を迷っているのかも分からなかった。
ミコトの前には、再び無数の因果が広がっていた。その中に一本だけ、戻さず残していたものがある。
水瀬凛。
悠真との間にあった縁を元の強さへ戻せば、その先に無数の可能性が再び生まれる。
二人で学校から帰り、休日に出掛ける。隣り合って笑い合い、距離が近づく。今まで曖昧なままだった感情が、何かのきっかけで言葉になる可能性もある。さらに先へ目を向ければ、それ以上の未来もあった。
ミコトは眉間に深く皺を寄せた。
「……気に入らぬ。全部じゃ」
悠真には全く見えていない。それが余計に腹立たしい。
水瀬凛との縁を戻さないことは簡単だった。もっと巧妙にもできる。二人の関係そのものを壊さなくてもいい。偶然予定が合わなくなる程度に留めてもいい。水瀬凛の目が別の誰かへ向く可能性を少しだけ強くすることもできる。
そうすれば悠真は気づかない。自分が触れたことすら、一生知らずに済むかもしれない。
方法はいくらでもあって、ミコトにとってそれは難しいことではない。だからこそ、以前なら何の迷いもなくそうしていただろう。悠真から何かを奪っているつもりさえなかった。自分が望む形へ、邪魔な可能性を整理しているだけだと思っていた。
けれど今は、その先にあるものを知っている。
悠真が自分を選ぶ未来だけを残したとしても、他の未来を自分で消してしまえば、それが本当に悠真の選択なのか、もう分からない。
悠真の未来そのものは見えないから、怖い。何を選ぶか分からない。明日も自分のそばにいる保証はない。水瀬凛を選ぶことだって、本当にあるのかもしれない。その可能性を考えるだけで、胸の内側に嫌な感覚が広がった。
今すぐ消してしまいたいけれど、ミコトは因果へ伸ばしかけた意識を止めた。
そして水瀬凛と悠真を繋ぐ縁を、元の形へ戻した。
ミコトが小さく息を吐いた。
「戻したぞ」
「本当に?」
「疑うなら自分で確かめてみよ」
「俺には見えないって」
「ならば妾を信じるしかあるまい」
言い方だけは偉そうだった。でも、その顔は全然納得していない。
「……嫌そうだな」
「嫌じゃと言うたであろう。もう既に戻したことを後悔しておる」
「早すぎるだろ」
「妾以外の女と楽しそうにしておる時点で気に入らぬ」
そこまで言ってから、ミコトは口を閉ざした。
「……じゃが、本当に何もしておらぬ」
さっきまでより小さな声だった。
今のこいつなら、本当に何でもできる。凛との縁をもう一度薄くすることだって、おそらく俺が気づかないようにできる。
それでも、やらなかった。
「……そっか」
ミコトが顔を背ける。
俺はその横顔を見た。夕暮れはほとんど消えていて、空には夜の色が広がっている。街灯が点き始め、その淡い光が銀白の髪の輪郭を薄く照らしていた。
綺麗だった。
こいつは俺を好きなんだと思う。それについては、もう疑う余地もない。好きだから独占しようとした。好きだから怖がった。好きだから、世界まで壊しかけた。
正直、やり方は最悪だ。面倒だし、極端だし、何度止めても別の解釈をして余計なことをする。
それでも、嫌で仕方ないことを、俺が嫌がるからではなく、自分で考えてやめた。
凛との未来を見て、自分にとって最悪かもしれない可能性まで見たけど、それでも残した。そのことが、妙に嬉しかった。
「何じゃ」
視線に気づいたらしい。ミコトがこちらを見る。
「さっきからジロジロと」
「見ちゃ駄目?」
「……駄目とは言っておらぬ」
さっきまでの勢いが嘘みたいに声が小さくなる。俺は笑ってしまった。
「何じゃ!」
「いや、お前もそういう顔するんだなって」
「どういう顔じゃ!」
「言わない」
「言え!」
「嫌だ」
ミコトが俺の袖を引っ張った。その仕草を見て、胸の奥が少しだけ狭くなる。さっき抱きしめた時とは違う。あの時は、いなくなったと思った反動だったが、今はもっと静かだった。こいつがここにいることを嬉しいと思う。
俺の隣で怒っているのを見て安心する。自分でも馬鹿みたいだと思う。でもミコトが消えた時、俺は本気で怖かった。戻ってきた時には、考えるより先に抱きしめていた。
今も、少し距離が近いだけで妙に意識する。そこまで考えてから、ようやく自分の中にあるものを自覚した。
「……何じゃ」
「何でもない」
「今、絶対に妾のことを考えてたの」
「お前、俺の未来見えないんだろ」
「それとこれに何の関係がある!」
「じゃあ、俺が今何考えたかも分かんない?」
ミコトが俺を見る。ほんの一瞬、高次元側へ繋ごうとしたような気配がして、すぐに消えた。
「……分からぬ」
「そっか」
「何じゃ、その嬉しそうな顔は」
「別に」
「悠真!」
少し前まで世界が終わりかけていた河川敷に、ミコトの声が響いた。そのことがおかしくて、俺は笑った。
家へ戻る道は、驚くほど普通だった。車が走り、信号が変わり、コンビニの前では学生が騒いでいる。誰も世界が壊れかけていたことを知らないようだった。
「これ、みんな覚えてないの?」
「そもそもあの状態では、出来事として順序立てて認識すること自体が難しかろう」
「じゃあ俺たちだけ?」
「おそらくな」
それでいいのかもしれない。原因を説明しても絶対に信じてもらえないだろう。
俺はスマホを取り出した。何件か通知が来ていた。
母親から、
『遅くなるなら連絡しなさい』
友達からは、
『明日ゲーセン行かね?』
そして凛からも一件。
『今日大丈夫だった? なんか連絡つかなかったけど』
少しだけ立ち止まった。普通のメッセージだった。
「……戻ってる」
「当然じゃ」
横から画面を覗き込んだミコトの声が、一気に低くなる。
「見るなよ」
「何故じゃ」
「人のスマホだから」
「妾とそなたの間で今更であろう」
「プライベートはあるの!」
画面を隠す。ミコトは明らかに不満そうだった。
「……水瀬凛か」
「そうだけど」
「返信するのか。明日でもよかろう」
「心配してるんだから返す」
「……そうか」
不満そうではある。でも、それだけだった。
『大丈夫。ちょっと色々あった』
と返し、送信完了の表示が出る。
横を見ると、ミコトが唇を尖らせていた。
「何」
「別に」
「絶対何かあるだろ」
「そなた、妾にも返信せよ」
「なんだそれ、お前隣にいるじゃん」
「関係ない」
「何送ればいいの」
ミコトは少し考える。
「妾の方が大事じゃ、と送れ」
「なんだそれ」
「もう知らぬ!」
めちゃくちゃな返答に呆れて笑う。でも、以前と違う。
凛を俺から遠ざける代わりに自分を見ろと言う。自分にも構えと言う。やっていることは相変わらず面倒なのに、不思議と嫌じゃなかった。
「分かったよ」
スマホをポケットへ戻して、ミコトを見る。
「お前にもちゃんと構う」
ミコトが少し目を見開く。そのあと、いかにも当然だというように顎を上げた。
「初めからそうしておればよいのじゃ」
「はいはい」
「返事が軽いぞ」
そう言いながら、ミコトが俺の袖を掴む。振り払う理由はなかった。
そのまま歩き出す。
街には家族も、友人も、凛もいる。俺には俺の生活がある。その全部を残したまま、こいつもここにいる。少し前までなら両立しないと思っていた二つが、今は同じ道の上に並んでいた。
たぶん最初から、俺が欲しかったのは、こういう形だった。
家に着いた頃には、もうすっかり夜になっていた。玄関を開けると、奥から母さんの声が飛んでくる。
「悠真? 遅くなるなら連絡くらいしなさい」
「ごめん。ちょっと色々あって」
「色々って何よ」
「説明しても絶対信じないと思う」
「何それ」
呆れた声が返ってくる。それだけだった。俺が帰ってきたことを気にして、遅かったことを怒られる。少し前なら失われていた当たり前の反応に、妙な安心感があった。
靴を脱いでいる横で、ミコトが母さんのいる居間を覗き込む。
「元に戻っておるな」
ほんの少しだけ複雑そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
「後悔してる?戻したの」
ミコトは少し考える。
「しておるぞ、当然であろう。妾はそなたを独占したいのじゃ」
相変わらずだった。けれど、その後に因果を弄ろうとはしない。以前なら冗談で済まなかった言葉を、今は少し笑って聞けた。
階段へ向かいながら振り返る。
「ありがと」
ミコトが足を止めた。
「……何故そなたが礼を言う」
「俺の大事なもの、戻してくれたから」
「元は妾が弄ったものじゃぞ」
ミコトはしばらく俺を見ていたが、やがてぷいと横を向いた。
「礼を言うくらいなら、もっと妾を大事にせよ」
「そこに繋げるんだ」
俺の後を追って階段を上がってくる。部屋へ入ると、昨日までと何も変わらない景色があった。ベッドも机も、床に置きっぱなしの鞄もそのままだ。そこへミコトが当然のように入ってきて、いつもの場所へ座る。
もう随分と見慣れた光景のはずだった。さっき一度、本当にいなくなったからかもしれない。いることが当たり前だったものが、当たり前ではなかったと知ってしまった。
「……何じゃ」
また気づかれた。
「見るくらいいいだろ」
「悪いとは言っておらぬ」
「じゃあいいじゃん」
ミコトがベッドの端に座ったまま、俺を見上げる。その瞬間、最初にこいつと会った頃のことを思い出した。
あの頃も似たようなことを聞かれた気がする。何故見る。どうして自分が見える。そんな問いに、俺はまともな答えなんて持っていなかった。見えるから見て、そこにいるから話しかけた。ただそれだけだった。
「見たいからな」
「……何?」
「だから、見たいから見てる」
ミコトが固まった。金色の目が大きく開いたまま、数秒動かない。
「……もう一度言え」
「聞こえただろ」
「もう一度じゃ」
「嫌だよ」
「何故じゃ!」
「恥ずかしいから」
言ってから、自分で余計に恥ずかしくなった。ミコトの目がさらに丸くなる。
「そなたでも、そのようなことを思うのか」
「失礼だな」
「いや、妾はてっきり…もっと鈍いものかと」
「お前に言われたくない」
「妾は鈍くないぞ!」
「嫉妬って分かるまでどれだけかかったと思ってんの」
「それとこれは別じゃ!」
ミコトが立ち上がって抗議してくる。その姿を見ながら、また笑ってしまった。こいつを見ていると、少し前まで世界が終わりかけていたことまで馬鹿馬鹿しく思えてくる。
「ミコト」
「何じゃ」
「俺、お前が消えた時さ、本気で嫌だった。世界が戻ってるとか、全然どうでもよくなった」
口にすると、自分でも相当なことを言っている気がした。
「家族も友達も凛も大事だよ。それは変わらない」
ミコトの眉が少しだけ動く。
「でも、お前もその中にいるっていうか……」
「その中?」
「違うな」
少し考える。
「同じじゃない。お前がいなくなるのは、特別、嫌だった」
ミコトが俺を見る。何かを期待しているのが、あまりにも分かりやすかった。
「それは、何じゃ?」
「そこまで言わせる?」
「言え」
「やだ」
「言え!」
「察してくれよ」
「そなたの未来も心も見えぬのに、どうやって察しろというのじゃ!」
「普通の人はみんなそうなんだよ!」
「不便すぎる!」
「今更人間関係の基本に文句言うな!」
結局、いつもの言い合いになった。それでもミコトは、さっきより明らかに機嫌がいい。俺もたぶん同じだった。
*
それから数日が過ぎた。世界は何事もなかったように続いている。学校へ行けば友達に話しかけられ、家へ帰れば母さんに用事を頼まれる。凛も以前のように俺のところへ来るようになった。
「悠真、日曜空いてる?」
昼休み、凛が机の横で聞いてきた。
「日曜?」
「前に行けなかった映画。まだやってるみたいだからさ」
「ああ」
横を見ると、ミコトがいた。ものすごく嫌そうな顔で凛を見ている。
「断れ」
小声で言われる。
「なんで」
「妾が嫌じゃ」
「理由になってないって」
「妾にとっては十分じゃ」
凛が怪訝そうな顔をする。
「何?」
「いや、何でもない」
「また独り言?」
「まあ、そんな感じ」
凛にはミコトが見えない。俺だけが知っている。俺だけが、この銀白の髪をした少女が腕を組んで隣に立っているのを知っている。
「で、どうする?」
「たぶん空いてるから行けるよ」
「よし。じゃあ後で時間送るね」
「了解」
凛が自分の席へ戻っていく。ミコトは無言だった。
「……何」
「今からでも遅くないぞ」
「何が」
「体調を崩すとか」
「やめろ」
「電車が止まるとか」
「絶対やめろ」
「映画館だけ臨時休業になるとか」
「ピンポイントすぎるだろ」
「できるぞ」
「知ってるから怖いんだよ」
ミコトは本気で不満そうだった。でも、何も起きない。その気になればできる。未来を見て、どこへ触れれば予定が崩れるかまで分かる。それでもこいつは何もしなかった。
しばらくして、ミコトが俺の袖を掴む。
「……妾も行く。そなたら二人だけで行かせるくらいならな」
「今更じゃん。お前どうせ勝手についてくるだろ」
「それでは一緒に行くとは言わん」
「じゃあ、一緒に行く?」
ミコトの顔が僅かに明るくなる。
「うむ」
単純だなと思う。以前なら凛を遠ざけていたが、今は自分が近づいてくる。結局独占欲は何一つなくなっていない。でも、それでいい。
*
その夜、電気を消す前に、ミコトへ聞いた。
「なあ、俺以外なら今でも未来、見えるんだよな」
「……そうじゃ」
少しだけ声が低くなった。俺はベッドへ腰掛けたまま、ミコトを見る。
「そなたの先は分からぬ。そなたが選ぶまでは、何もない」
「それは怖い?」
今度はすぐに答えなかった。ミコトは窓の外へ目を向ける。
「……怖いぞ」
しばらくして、そう言った。
「そなたが明日も妾を見るとは限らぬ。妾でない者を選ぶかもしれぬ。それを妾は前もって知ることができぬ」
「うん」
「気に入らぬ。今でも、妾だけを見ておればよいと思っておる」
「それは無理」
「即答するでない!」
「そこは変わんないよ」
ミコトは不満そうに俺を睨んだ。でも、俺にはもう分かっていた。
こいつが本当に欲しかったのは、俺以外を全部消した世界そのものじゃない。そこで俺が自分を見ることでもない。他にも選べるものがある中で、それでも自分へ目を向けてほしかったのだ。
「お前しかいなかったらさ、俺がお前を見るのって、選んでることにならないだろ」
ミコトが黙った。
「他にも家族とか、友達とか、凛とか、これから知り合う奴とか。そういうのが全部あって」
一度息を吐く。
「それでも俺が、お前のそばにいたいって思うから意味があるんじゃない?」
口にした途端、さっきまでより恥ずかしくなった。ミコトは瞬きもせず俺を見ている。
「……そなた。今のをもう一度」
「絶対嫌だ」
「何故じゃ!」
「今日はもう結構言っただろ!」
「全然足りぬ!」
「欲張りだな」
「そなたにだけは言われとうない!」
ミコトがいつものように袖を掴む。その手を見て、ふと思う。明日の俺が何を選ぶかは、俺にも分からない。でも少なくとも今は、この手を振りほどきたいとは思わなかった。
「ミコト、未来が分かんないなら、それでいいんじゃない?」
「よくないぞ」
不満そうに答える。
「じゃあ明日になったら、その時また聞けばいいじゃん」
「何をじゃ」
「俺がお前を見たいか」
ミコトが少し黙った。
「……明日も妾を選べ」
「それ命令?」
「願いじゃ」
驚いて顔を見る。本人も言ってから少し気恥ずかしくなったらしい。視線を逸らしている。
「そっか。じゃあ明日、また答える」
「今答えよ」
俺は笑った。
「俺は、お前のそばにいたい」
ミコトの目が僅かに見開かれる。今度は「もう一度言え」とは言わなかった。代わりに、何かを決めたように立ち上がる。
「では、そうせよ」
「はい?」
ミコトが布団の端を持ち上げた。
「何してんの」
「寝る」
「ここで?お前、寝る必要ないだろ」
「必要があるかどうかの話ではない」
当然のように布団へ潜り込んでいく。
「ちょ、ちょっと待って」
「何じゃ」
「狭いんだけど」
「詰めよ」
「俺のベッドなんだけど」
「妾はあの時一度消えておったのじゃぞ。埋め合わせとして今夜くらい妾の好きにさせよ」
そう言われると弱かった。仕方なく壁側へ身体を寄せる。ミコトは満足そうに空いた場所へ横になった。同じ枕を使うには近すぎるので、自分の腕を枕代わりにしている。長い銀白の髪がシーツの上へ扇のように広がり、暗い部屋の中でも淡く光を含んで見えた。
「……近くない?」
「今更じゃな。そなたから抱きついてきたこともあったの。あれは情熱的じゃったのう」
「やめてくれ」
「妾は記憶力がよいのでな」
「そこだけ忘れて」
「嫌じゃ」
ミコトが楽しそうに笑った。部屋を暗くする。すぐ隣に誰かがいるというだけで、普段とは全然違う。寝返りを打てば触れそうな距離にミコトの顔がある。瞼を閉じれば長い睫毛が頬へ影を落とし、いつもの尊大な印象が少しだけ薄くなる。
綺麗だと思った。なんとなく、このまま朝までここにいてほしいと思った。
「悠真」
目を閉じていたミコトが呼ぶ。
「起きてるじゃん」
「今から寝るところじゃ。そなたがするというから試してみる」
「前は嫌がってなかった?」
「今は悪くない」
それ以上は聞かなかった。
しばらく静かになる。すると布団の中で何かが動いて、ミコトの指が俺の手を探り当てた。
「何してんの」
「気にするな」
「俺はどこにも行かないから」
金色の瞳が暗闇の中で俺を見る。しばらくして、絡めた指が少しだけ緩んだ。
「……そうか」
「うん」
「ならば寝よ」
「はいはい」
「返事が軽い」
そんなことを言いながら、ミコトは俺から離れなかった。俺も目を閉じる。明日の俺がどうするのかは、まだどこにもなくて、ミコトにも分からない。だから、明日の約束をする必要はないのかもしれない。朝になったら、その時また決めればいい。ただ今夜は、隣から聞こえる小さな吐息と、握った手の感触がなくならなければ、それで十分だった。
「悠真」
「何?」
「……おやすみ」
「うん。おやすみ、ミコト」
返事の代わりに、見つめ合う。そのまま俺たちは、同じ夜の中で目を閉じた。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。