目を開けて最初に見えたのは、瓶に入ったはちみつに光が当たって輝いているような金色だった。こちらをじっと覗き込んでいる二つの瞳だ。
「……近い」
「起きたか」
彼女は顔から二十センチも離れていないところにいた。
白銀の髪が肩から垂れ、朝日に透けている。昨日、駅前で初めて見かけた時から何一つ変わっていない。古風な白い衣装も、裸足なのも、やけに偉そうな表情もそのままだ。
昨日なら悲鳴くらい上げていたかもしれないが、一日中付きまとわれたせいで、さすがに慣れ始めていた。
「……まだいるのかよ」
「おるぞ」
「俺が寝てる間も?」
「うむ」
半分閉じた目のまま彼女を見つめた。
「暇じゃないの?」
「暇?」
「やることないだろ。俺、寝てただけだぞ」
少し考えるそぶりをする。
「暇ではない。そなたを見ておった」
「それを暇っていうんだよ、少なくとも人間ならな」
少女は納得した様子もなく、ベッドの横に立ったまま首を傾げた。ふと昨夜の会話を思い出す。なんで俺のそばにいるの、そう尋ねると、しばらく考えた末に答えた。
――そなたが妾を見るからじゃ。
その時は眠かったこともあり深く考えなかったが、朝になって改めて思い返してみても、意味はよく分からない。見えるからいる。理由になっているようで、なっていない気もする。
「まあいいや……」
悠真は欠伸をしながら枕元のスマートフォンを掴んだ。
画面を見る。七時十二分。
「…………」
もう一度見る。七時十二分。
「やばっ」
勢いよく布団を跳ね飛ばした。
「何じゃ」
「七時十二分!」
「そうじゃな」
「なんで起こさなかったんだよ!」
「何故妾がそなたを起こすのじゃ?」
「いや……そうだけど!」
制服を掴んで立ち上がり、部屋の外へ飛び出す。彼女はその後ろを当然のようについてきた。
「そんなに慌てて何をしておる」
「遅刻する!」
「まだしておらぬぞ」
「する前に急いでんだよ!」
階段を下りながら言い返すと、少女の足がわずかに止まった。
「ふむ」
「何だよ」
「そなたらは、まだ起こっておらぬことを考えて動くのであったな」
一瞬だけ足を止めた。
「……普通そうだろ」
「そうか」
それだけ言うと、そのままついてくる。昨日から何度も感じていることだったが、やはり会話のどこかが噛み合わない。知識がないわけではない。道路も車も学校も知っている。人間が生まれて死ぬことだって知っていた。なのに、妙なところで子供より物を知らない。いや、知らないというよりは考えたことがない、というほうが近いのかもしれない。
「悠真、起きたなら早く食べなさい!」
一階から母親の声が飛んできた。
「今行く!」
洗面所へ駆け込み、顔を洗う。顔を上げると、鏡の中には自分しか映っていなかった。
「……やっぱ映らないんだな」
背後には銀髪少女がいる。彼女は鏡を覗き込んだ。しかし鏡の中には洗面台と壁、そして制服姿の自分しか映っていない。
「ほう」
「自分で知らなかったの?」
「鏡など見る必要がなかったからの」
「昨日からそんなのばっかだな、お前」
タオルで顔を拭きながら呆れた。彼女は鏡越しにこちらを見つめている。
「鏡には映らぬが、そなたには妾が見えておる。妙じゃの」
「俺からするとお前の存在全部が妙なんだよ」
そう言って洗面所を出る。朝食の席では母さんが既にトーストを置いていた。席につくと、銀髪少女も当然のようについてきた。そして彼女は母さんのすぐ横に立つ。
「おい」
「何じゃ」
「そこやめろ。母さんの顔の横に立つな」
母さんを見るが、まったく気づかずコーヒーを飲んでいた。
「見えておらぬのだから問題なかろう」
「俺には見えてるんだよ」
「なら、そなたが見なければよい」
「無茶言うな」
「悠真?」
母さんが怪訝そうな顔をする。
「何?」
「さっきから誰と喋ってるの?」
「……英語の発音練習」
「日本語だったけど」
「日本語から始めるタイプなんだよ」
「何その勉強法」
視線が痛い。その横で彼女が淡々と言う。
「ずいぶん苦しい言い訳じゃな」
「誰のせいだと思ってんだ」
「悠真?」
「ごめん、何でもない」
母さんがいよいよ心配そうな顔をしたので、黙ってトーストを口に突っ込んだ。正面では彼女が面白そうに、こちらと母さんを交互に見ている。昨日の夕食でもそうだった。人間同士がどう話し、どんな顔をするのかを観察していた。
「……何見てるんだよ」
「そなたじゃ」
「俺?」
「今、母親に向けておる顔と、妾に向けておる顔が違う」
「そりゃ相手が違うからな」
「何故違う?」
「朝から面倒くさい質問すんな」
彼女は少しだけ首を傾げた。どうやら今日も一日こんな調子らしい。
*
「で」
玄関を出たところで、振り返ると、彼女も家から出てくるのが見えた。もちろん扉は使わず、壁を抜けて。
「もちろんついてくるよな」
「昨日も言ったであろう。そなたを観察する」
「学校だぞ」
「無論、知っておる」
思わず眉間を押さえた。嫌な予感は昨夜からしていた。
「授業中は話しかけるなよ」
「何故じゃ?」
「俺がおかしな奴に見えるから」
「既に母親からはそのように見えておったぞ」
「お前のせいだろ!」
「妾は何もしておらぬ」
「その台詞、昨日も聞いたよ!」
住宅街に自分の声が響く。前を歩いていた老人が振り返ったため、慌てて口を閉じた。
「そなたが嫌だと言えば、それ自体が理由になる、と言っておったな」
思わず足を止めた。昨日の風呂場でのことだった。裸を見られたくない理由を理解できない少女に、全部納得できなくても、俺が嫌だと言ったらやめてくれ――そう言った。
「……覚えてたんだ」
「忘れる理由があるのか?」
「いや、ないけど」
「ならば授業中、そなたが困るようなことはせぬ」
「おお」
思わず感心した。
「意外と物分かりいいじゃん」
「妾を何だと思っておる」
「昨日風呂を覗いてきた不審者」
「観察じゃ」
少女は不服そうだったが、それ以上は言い返さなかった。本当にほんの少しだけだが、昨日より話が通じるようになった気がする。そんなことを考えながら駅へ向かう道を歩いていると、彼女が不意に前方を見た。
「転ぶぞ」
「え?」
「あの男じゃ」
顎で示した先を、一人のスーツ姿の男が歩いていた。鞄を片手に持ち、スマートフォンを見ながらこちらへ向かってくる。
「いきなり何いってんの」
「今から転ぶぞ、あの男じゃ」
言った直後だった。彼は道端に転がっていた空のペットボトルを踏みかけ、慌てて足をずらす。その足がもう片方の足に引っかかった。
「うわっ」
身体が大きく傾き、完全に倒れはしなかったものの、数歩よろめいて電柱へ手をついた。彼は周囲を気にしながら姿勢を正すと、何事もなかったように歩き去っていった。
呆然とその背中を見送り、それから隣を見る。
「……今の、分かってたの?」
「うむ」
「どうやって?」
彼女は本当に不思議そうな顔をして言う。
「見えておったからじゃが?」
「…………」
じっと見つめると彼女はこちらを見返す。
朝の通学路を学生や会社員が行き交っていく。自分にしか見えない彼女は、なにを当たり前のことをといったような顔をしていた。
「……また変なのが出てきたな」
「何がじゃ?」
「お前の話だよ」
昨日一日で多少は慣れたつもりだったが、どうやらそれはかなり甘かったらしい。正体不明の少女について、まだ自分は何一つ分かっていない。その事実だけが、朝より少しはっきりした。
学校に着いてからも、頭の片隅にはさっきの出来事が引っかかっていた。
転ぶぞ。そう言うと数秒後、本当に会社員が転びかけた。偶然だと言ってしまえばそれまでだ。歩きスマホをしていたし、足元にはペットボトルも落ちていた。注意深く見ていれば、危ないと予想できなくもない。
ただ、彼女言い方には予想している感じがまるでなかった。雨が降っているから傘を差す。信号が赤だから止まる。その程度の当たり前のこととして口にしていた。
「……まあ、偶然だろ」
「何じゃ?」
「独り言」
「妾がおるのに独り言とは妙じゃな」
「お前、他の奴から数えられてないからな」
「失礼な奴じゃ」
校門を抜ける。登校してきた生徒たちの間を、彼女は平然と歩いていた。正確には、人の間を歩いているわけではない。彼女は向こうから誰かが来ても避けない。男子生徒が肩を通り抜け、女子生徒の鞄が腰を横切っても、本人はまるで気にしない。それを見ているこちらのほうが落ち着かなかった。
「せめて避けろよ、見てて気持ち悪い」
「妾には触れておらぬぞ」
「そういう問題じゃないんだよ」
昨日から何度この会話を繰り返しただろう。教室に入ると、既に何人かのクラスメイトが来ていた。
「お、悠真。今日早くね?」
声をかけてきたのは、昨日ゲームセンターへ誘ってきた友人の一人だった。
「どこが。普通だろ」
「お前いつもチャイムぎりぎりじゃん」
「うるさい」
鞄を机へ置く。その間に彼女は教室の中央まで進み、周囲を見回していた。昨日も学校というものについては知っていると言っていたが、実際の教室をこうして観察するのは面白いらしい。前方まで歩くと、教師用の机に腰掛けた。
「おい」
小声で呼ぶ。
「そこ座るな」
「誰も使っておらぬぞ」
「先生が来るだろ」
「来ても妾には触れぬ」
「俺の精神衛生の問題だ」
友人が眉を寄せた。
「お前さっきから何ぶつぶつ言ってんの?」
「今日の授業の予習」
「熱でもある?」
彼女は面白そうにこちらを眺めている。その顔を無言で睨んだ。
しばらくすると教師が入ってきた。彼女は机から降りることなく、教師が出席簿を置く様子を間近で見ている。準備をする教師の腕が彼女の胴体をすり抜けたので反射的に目を逸らした。もう一度前方を見ると、彼女は既に机から離れて、今度は黒板の横に立っている。誰にも見えないのをいいことに、本当に好き放題だった。
*
ノートへ板書を書き写している横で、少女は俺の机の上に座っていた。
「……まじで邪魔」
「妾は透けておるぞ」
彼女の向こうに教科書が見える。確かに透けて見える。
「見えるけど邪魔」
「面倒な男じゃの」
「人の机の上に座ってる奴が言うな」
教師が振り向いたため、慌てて口を閉じた。気にせず彼女はノートを覗き込む。
「何を書いておる」
「計算式」
「それは見れば分かる」
「じゃあ聞くなよ」
「この記号を使わねばならぬのか?」
「知らん。先生に聞け」
「妾の声は聞こえぬぞ」
「じゃあ諦めろ」
自分で言っていて馬鹿馬鹿しくなってくる。昨日まで普通だった日常に、明らかな異物が混ざってしまった。しかもその異物は自分にしか見えない。
彼女は教師が黒板へ数式を書きながら説明を続けるのをしばらく見つめていが、何の前触れもなく言った。
「三十七秒ほどで折れるぞ」
思わず手を止め、小声で返す。
「何が?」
「あれじゃ」
教師の手元を指す。
「チョーク?」
「そうじゃ」
黒板を見る。教師が使っているのは、ごく普通の白いチョークだった。まだ半分以上残っている。
「なんで?」
「なんでとは?」
「いや……」
さっきの会社員を思い出す。そして壁掛け時計へ視線を移した。秒針を確認し、そこから数え始めてみた。
すると教師が力を込めてチョークを押しつける。ぱきん、と乾いた音がして白い破片が教壇へ落ちた。
「…………」
教師は何事もなかったように新しいチョークを取る。教室の誰も気にしていない。
「何じゃ、先ほどから妙な顔をしておるぞ」
「お前、今のも分かってたの?」
「何がじゃ?」
「チョークが折れること」
「先ほど言うたではないか」
授業中だということも忘れて聞く。
「どうして分かった?」
彼女は答える前に、教師のほうへ視線を戻した。
「見えておったからじゃ」
またそれだ。朝と同じ答え。胸の奥に、妙なざわつきが生まれる。おそらく秒数までほぼ正確だった。しかも彼女は別にチョークが折れそうな兆候を観察していたようには見えない。
「……未来予知?」
思わず呟いた。
「何じゃ、それは」
「知らないのかよ」
「説明せよ」
「これから起こることを、起こる前に知ること」
彼女は数秒、意味を考えているようだった。それから、ひどく奇妙なものを聞いたように眉を寄せる。
「起こる前?」
「そうだよ」
「……妙な言い方をするのう」
彼女は当たり前のようにつぶやいた。
「そこにあるものを見ておるだけじゃ」
*
休み時間になると同時に立ち上がり、彼女に声をかけた
「ちょっと来い」
「どこへじゃ?」
「いいから」
当然、腕を掴むことはできない。一人で教室を出て、彼女がついてきていることを確認しながら廊下の端まで移動した。そして人通りの少ない階段の踊り場まで来た。
「さっきの話の続きだけど」
「そなたが妙な言い方をしておったものか?」
「普通はそう言うんだよ」
「普通とは便利な言葉じゃな」
力を抜き、階段の壁にもたれた。
「本当にこれから起こることが分かるの?」
「だから、これからという言い方が妾には――」
「とりあえず俺に合わせろ」
「注文の多い奴じゃ」
彼女は少し考えるそぶりをした。
「そなたの言う意味なら分かる」
「じゃあ、どのくらい先までわかる?」
また首を傾げる。
「先?」
「五分後とか、一時間後とか」
「見ようと思えば見える」
「明日は?」
「見える」
ふと階段の下を見る。ちょうど男子生徒が一人歩いていた。別のクラスの生徒で、名前も知らない。
「あいつ、このあと何する?」
彼女はちらりと男子生徒を見る。ほとんど間を置かなかった。
「一階へ下りる」
「それは見れば分かるな」
「自動販売機の前で止まる」
「……うん」
「財布を出し、百五十円の飲み物を買おうとする」
「それで?」
「金が足りぬ」
思わず男子生徒を見る。
「いくら?」
「十円」
「細かいな!」
声が少し大きくなった。近くを歩いていた女子生徒が怪訝そうに振り返る。すぐ咳払いして誤魔化した。
「……確認しに行くぞ」
階段を下りると、彼女も横を歩く。男子生徒は本当に一階へ下り、そのまま廊下の端にある自動販売機へ向かった。そこで立ち止まり、財布を出す。それを少し離れた場所から見ていた。
男子生徒が硬貨を数える。
「あれ?」
小さな声が聞こえた。
「百四十円しかねえ……」
「…………」
唖然として隣を見る。
「……マジか」
「何がじゃ」
「お前、もっと驚けよ」
「何故妾が驚く」
「普通は驚くだろ!」
「見えておったものが、そのようになっただけではないか」
心底不思議そうで、何も言えなくなる。どうやら彼女にとって異常なのは、未来が分かることではなく、それが見えていないことのほうらしい。
「……じゃあ」
廊下を歩く人間たちを見渡した。
「この学校にいる奴ら。このあと何するか、全部分かる?」
彼女も同じように廊下を見渡す。
「見ればな」
その返答があまりにも軽かったため、逆に背筋が少し冷えた。数百人いる生徒が、今この瞬間、それぞれが何を考え、どこへ行こうとしているのか。彼女には、その先まで見えているのかもしれない。
「……どこまで見える?一年後は?」
「見えるぞ」
彼女の返答には迷いがない。冗談のつもりかと笑おうとしたが、うまく行かなかった。
「……十年後は?」
「見える」
即答だった。
次の授業の開始を知らせる音が校内へ響き、廊下を歩いていた生徒たちが一斉に教室へ戻っていく。その流れの中でしばらく動けなかった。目の前の少女だけが、時間というものを自分とはまるで別の形で見ている。次の授業が始まっても、悠真はほとんど内容を聞いていなかった。
十年後でも見えると、彼女は確かにそう言った。朝の会社員も、授業中に折れたチョークも。自動販売機の前で金が足りなくなった男子生徒も。どれも偶然で片づけようと思えばできるが、ここまで続けばさすがに無理がある。隣を見ると、彼女は窓際に立ち、外を眺めていた。何を考えているのかは分からない。
いや、そもそも彼女にとって、今まで見てきたことのどこが異常なのかすら分からないのだろう。
教師の声が耳に入る。ノートを取りながらも、頭の中には別の疑問ばかりが浮かんでいた。十年後まで見えるなら。二十年後、三十年後でも見えるだろう。そして――最後までも。
*
昼休みになり、少女を連れて校舎裏の人気が少ない場所まで来ていた。正確には連れてきたのではなく、勝手についてきただけだが。
「また質問か?」
「もう嫌になったか」
「別に嫌ではない」
彼女はフェンス越しにグラウンドを眺めている。昼休みなので、何人かの生徒がボールを蹴っていた。
購買で買ったパンの袋を開けながら言う。
「朝の話だけどさ、未来が見えるってやつ」
「妾はそんな言い方をしておらぬぞ」
「分かった分かった。そこにあるものが見える、だろ」
「うむ」
「でさ」
パンを一口かじった。
「本当にどこまで見える?」
「またそれか」
「ちゃんと聞いてなかったからさ」
「十年後も見えると言ったであろう」
「十年より先は?」
「見える」
「五十年」
「見える」
「百年」
「それは人による」
「人による?」
「そこまで生きぬ者も多いからの」
あまりにも自然に言われて、パンを噛む動きを止めた。
「……つまり」
少し間を置く。
「あいつらが死ぬところまで分かるってこと?」
グラウンドを指すと、彼女も視線を移した。
「分かるぞ」
やはり、即答だった。背中に薄い寒気が走る。
「いつ死ぬかも?」
「見ればな」
「どうやって?」
「どうやって、とは?」
「病気とか事故とか、そういうのも?」
「見えるの」
彼女にとっては、質問の意図そのものが理解できていないらしい。考えながらしばらく黙った。
遠くで生徒の笑い声が聞こえる。ボールが地面を跳ねる音と、風で木の葉が擦れる音。目の前には、いつもの学校の昼休みが広がっている。少女の目には、この中を歩く人間一人ひとりについて、その人生の終わりまで何らかの形で見えている。
そう考えると、急に景色が薄気味悪く感じられた。
「じゃあ、例えば」
グラウンドの端を歩いていた教師を指した。
「あの先生」
「うむ」
「十年後どうなってる?」
彼女は一度教師を見る。
「別の学校におる」
「転勤?」
「おそらく、そなたらはそう呼ぶのであろうな」
「結婚してる?」
「しておる」
「子供は?」
「二人」
「……何歳くらいまで生きる?」
彼女はすぐに答えようとしたが、思わず手を上げた。
「いや、待って、言わなくていい」
少女が首を傾げる。
「何故じゃ」
「なんか嫌だ、それを知るのが」
彼女はますます分からない顔をする。
「尋ねたのはそなたであろう」
「そうだけど、やっぱりいい」
「妙な奴じゃな。何故、知れるものを知りたくない?」
それを聞いて少し考えた。
「怖いからじゃない?」
「ほう?」
「その人がいつ死ぬかとか知ったら、普通に話せなくなりそうだし」
「何故じゃ?」
「何故って……」
説明しようとして、言葉に詰まった。死ぬ未来を知りたくない。そんなのは当たり前だと思っていた。だが、彼女にはその当たり前がない。
「例えば、あの先生が来年死ぬって分かったらさ、顔見るたびにそのことを考えるだろ」
「来年死ぬなら、来年死ぬだけではないか」
「……そういうところだよ、お前」
少女には悪意がない。だからこそ、時々ぞっとする。人が生きることも、死ぬことも、彼女にとっては一つの現象でしかない。始まりがあって、終わりがある。
「とにかく、俺が聞いても死ぬ時期とかは言うな」
「ふむ?」
「俺が嫌だから」
彼女の動きが止まり少しだけ間があいた。
「……それ自体が理由になるのであったな」
「覚えてるじゃん」
「当然じゃ」
「なら、それで頼む」
「よかろう」
あっさり頷いた。ただ、自分が嫌だと言ったからやめる。そんな感じだ。
彼女はそのまましばらくグラウンドを眺めていた。
*
「でもさ」
昼食を食べ終え、フェンスにもたれかかった。
「お前が未来を見てるっていうのが、いまいち分かんないんだよ」
「だから未来という呼び方が――」
「それは分かったって」
先回りして止める。
「俺からすると、まだ起きてないことは存在してないんだよ。明日のことなんて、明日になるまで分からないだろ」
「妾には分かる」
「お前の話じゃなくて、俺らの話」
彼女は黙る。
「昨日は終わってる。今があって、明日はまだ来てない。普通はそういう感覚なの」
「ふむ」
「お前は違うんだろ?」
「違う、と言えば違うな」
「どう見えてる?」
彼女はしばらく考えた。どう説明すれば悠真に伝わるのか、それを探しているようだった。
「昨日、線の話をしたのを覚えておるか?」
「ああ」
紙の上に一本の線があるとして、その線の上しか移動できない存在の話だ。
「線の上におる者は、その場所しか知覚できぬ。前へ進めば、それまで見えなかった場所が現れる」
「まあ」
「後ろへ戻れば、既に通った場所がある」
彼女は地面へしゃがみ、指先で一本の線を引いた。
「そなたらにとって時間とは、これに近い」
地面を指が移動する。
「ここが今」
少し前を指す。
「こちらが、そなたらの言う未来」
後ろを指す。
「こちらが過去」
「それくらいなら分かる」
「じゃが」
少女の指が線から離れる。
「線の外にいる者ならば?」
少女は地面全体を手で示した。
「始まりも、途中も、終わりも、一度に見える」
「……それがお前?」
「じゃが正確ではない」
彼女はすぐに否定した。
「またかよ」
「そなたに理解できるものへ置き換えれば、そうなるというだけじゃ。妾が紙の上からそなたらを見ておるわけではない」
「比喩なのは分かってる」
「その答えは信用できぬな」
「うるさい」
彼女は立ち上がり言う。
「そなたらは時間を進むものとして感じておる。妾には、その感覚がない」
「時間が流れない?」
「流れるという表現そのものが妙なのじゃ」
「じゃあ、昨日も今日も明日も全部一緒?」
「一緒ではない」
「じゃあ違う?」
「違うとも言い切れぬ」
「なんも分かんねえよ」
「だから最初からそう言っておる」
彼女は少し呆れたような顔をした。
「そなたらの言葉へ落とせば、必ずどこかが間違う」
昨日聞いた言葉だった。人間が二次元の存在に立体を説明するようなものなのかもしれない。いくら例えを使っても、完全には伝わらない。
目の前の少女を見る。
「俺たちが知らないだけで、人間の一生も最初から最後まで見える?」
「概ねな」
「じゃあ……」
そこで、一つの疑問が浮かんだ。昨日の駅前で自分は彼女へ声をかけた。銀髪のお前だよ、と。すると彼女は驚いたように振り返った。もし人間の一生が、最初から最後まで見えているのなら。
「なあ、昨日俺がお前に話しかけることも分かってた?」
彼女の表情が止まった。それまでほとんど迷いなく答えていたが、初めてすぐに返事をしなかった。
「……いや」
「え?」
「分からなかった」
思わず眉を寄せた。
「なんで?」
彼女は答えずに、代わりにじっとこちらを見た。駅前で初めてこちらの視線を確かめた時と同じように。まるで、そこにあるはずのないものをもう一度確認するような目で。
昼休み終了を告げる予鈴が鳴ったが、彼女は動かなかった。自分もしばらくその場を動けなかった。
*
午後の授業が始まってからも、彼女は妙に静かだった。普段ならノートを覗き込んだり、教師の説明へ好き勝手に口を挟んだりするのに、今は窓際に立ったまま、ずっとこちらを見ている。視線が痛い。といっても、他の誰にも見えていないので助けを求めることもできない。
しばらく無視していたが、とうとう耐えられなくなった。
「……何」
小声で訊く。
「動くな」
「は?」
「そのままじゃ」
「授業中なんだけど」
「関係ない」
彼女は聞いていない。少し右へ移動してこちらの顔を見る。そして今度は左、後ろ。また前へ戻る。
「だから何してんだよ」
「見ておる」
「それは分かる」
「足りぬ」
彼女の眉間には、わずかに皺が寄っていた。昨日駅前で初めて出会った時も、似たようなことをされた。本当に自分が見えているのか確かめるため、彼女は何度もこちらの視線を試した。今の顔もその時と似ている。理解できないものを目の前にしている顔だ。
*
放課後になり、校門を出ると、少女も当然のようについてきた。今日は友人から声をかけられたが、適当に断った。少女について、今のうちに聞いておきたいことがあったからだ。歩きながら彼女に話しかける。
「他の人間は分かるんだろ?」
「概ねな」
「俺だけ分からない?」
「そうらしい」
「らしいって、自分のことだろ」
「妾にも初めてのことなのじゃ。断言できるか」
「俺からすればお前の存在全部が初めてだよ」
彼女は返事をする代わりに、前を歩いていた通行人へ視線を向けた。
「例えば、あの者。あの角を右へ曲がる」
少し先で男が右へ曲がった。
「その先の店に入り、飲み物を買う」
「またそういうやつ?」
「分かりやすいであろう」
少女の金色の目がこちらへ戻る。
「そなたを見ると、同じようにはならぬ」
「どう見える?」
「……説明しにくいのう」
そう言いながらも、彼女は考え始める。
「普通の者にも、複数の行き先はある」
「未来が一個じゃないってこと?」
「そなたの言い方ならな」
「じゃあ未来が枝分かれしてる?」
「それが近い」
彼女は道路脇に落ちていた小枝を拾おうとした。当然、指は通り抜ける。
「面倒じゃな。そなた、拾え。妾が説明してやっておるのじゃぞ」
「はいはい」
言われた通り枝を拾う。
「これで?」
「地面へ線を描け」
言われるまま、道路脇の土の部分に一本の線を引く。
「そこから枝を分けよ」
「こう?」
一本の線から二本。さらにそれぞれから二本ずつ。すると簡単な樹形図のような形になる。
「普通の人間は、こう見える」
彼女が指す。
「どれを選ぶか決まってないのに?」
「決まっておらぬ場合もある。じゃが、選べるもの自体は既にある」
「……つまり」
地面を見る。
「俺たちは、この枝の中から一個選ぶ?」
「大まかにはそうじゃ」
「で、俺は?」
彼女は黙り、こちらを見る。
「そなたは――枝がない」
「は?」
「正確には、先がない」
「死んでるみたいに言うな」
「そういう意味ではない。そなたが何かを選ぶ前には、その先が存在しておらぬのじゃ」
「……よく分からない」
「妾もよく分からぬ」
「え、お前も?」
「だから見ておるのじゃろうが」
彼女の顔が近づく。
「普通の者ならば、何をするか決める前から、選べる先が見える。じゃがそなたは違う」
「どう違う?」
「選んだ瞬間に、生じる」
思わず足を止めた。彼女も止まる。
「じゃあ……」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「普通の人間は未来を選択する」
「そうじゃな」
「俺は?」
しばらくこちらを見た。
「作っておるように見える」
風が吹き、住宅街の木々が揺れる。一瞬何も言えなかった。
「……そんな大げさな話?」
「知らぬな。妾も初めて見たと言っておる」
彼女は少し楽しそうにしていた。最初は困惑していた目が、少しずつ別の色を帯びている。未知のものを見つけた時の目だ。
「では試すぞ」
「急だな、何を?」
「右手か左手、どちらかを上げよ」
彼女の金色と目が合う
「どっち上げるか分からない?」
「分からぬ」
「じゃあ当ててみて。右か左」
彼女は少し考えた。
「右」
「よし」
両手をポケットに突っ込むと、彼女が固まった。
「……」
「どう?」
「……今、生じた」
「マジで?」
彼女が急に近づく。
「もう一度じゃ。次は歩け。右へ行くか左へ行くか選べ」
真っ直ぐ進んだ。彼女がまた止まる。
「そなた、わざとじゃな?」
「まあね」
「妾を試しておるな」
「お互い様だろ」
彼女は黙り込み、それからこちらの周囲を一周する。
「面白い」
「人を珍獣みたいに言うな」
「昨日も言うておったな、それ」
「実際同じ扱いされてるからな」
「仕方なかろう。そなたは妙じゃ」
「お前にだけは言われたくないな」
「妾は妙ではない」
「壁抜ける奴が言うな」
「そなたらの壁に従う理由がなかろう」
彼女は少し考えるそぶりをして、今度は真面目な声音になった。
「じゃが、一つ分かった。妾がそなたを分からぬ理由じゃ」
金色の瞳がこちらを見る。
「もっと見れば、さらに分かるかもしれぬ」
「まだついてくる気?」
「当然じゃな」
即答だった。
「そなたほど妙なものは、これまで見たことがない」
「もうちょっと傷つかない表現とかないの?」
「何故妾が気を遣わねばならぬ」
「昨日俺が嫌だって言ったら理由になるって覚えただろ」
「今のは嫌なのか?」
「……いや、別に」
「ならよかろう」
「使い方覚えるの早いな、お前」
*
家へ帰る途中、何度目か分からない呼びかけをした。
「お前さ」
「何じゃ」
彼女眉を寄せる。ずっと話しててようやく気づいたが、名前がなくて呼びづらい。昨日確認した時、彼女は自分に名前がないと言っていた。呼ぶものが居ないのだから、必要もなかったと。
「やっぱ名前ないと不便だわ」
「妾は困っておらぬぞ」
「俺が困る」
彼女が少し考える。
「……ならば、そなたが使いやすいものを決めればよかろう」
「俺が決めていいの?」
「妾には必要ないからの」
「適当だな……」
歩きながら彼女を見る。腰まで伸びた白銀の髪と金色の目。古めかしい服装と妙に偉そうな喋り方。厳密に言うなら神ではないらしいが、人間の言葉で近いものを探せば神。
しばらく考える。
「じゃあさ」
彼女がこちらを見る。
「ミコト、とか」
「みこと?」
「なんかそれっぽいだろ」
「それっぽいとは何じゃ」
「神様っぽい」
「妾は神ではないと言ったであろう」
「近いんだろ?じゃあ別にいいじゃん。呼びやすいし」
「雑じゃの」
「嫌なら別の考えるけど」
彼女は少し黙った。
「……それは、妾を示すものか?そなたがミコト、と言えば、それは妾を指すのか?」
「そうだけど」
「他の者ではなく?」
「お前だけだよ」
彼女は何も言わなかった。自分にはその質問の意味はよく分からなかった。
「じゃあ決まりな」
軽い調子で言う。
「ミコト」
その瞬間、彼女の動きが止まった。
「……?」
自分も立ち止まる。何かが変わった気がした。別に彼女が発光したわけでもなければ、空気が震えたわけでもない。ただ――妙にはっきり見える。
柔らかそうな銀色の髪と透き通った光を反射する金色の瞳だ。今までだって見えていたが、今は輪郭の境目が少しだけ強くなったように思える。
「……お前」
彼女――ミコトは返事をしなかった。自分の手を見ていた。指先から掌、手首まで視線を動かす。そして、ゆっくりと指を曲げる。
「どうした?」
ミコトはまだ自分の手を見ている。
「……妙じゃ」
反対の手も見て、それから自分の髪を一房掴む。そして視線を下げ、自分の衣装を見る。まるで初めてそれが自分のものだと気づいたように。
しばらくして、ミコトは自分の胸元へ手を置いた。
「……分からぬが、これが」
小さく呟く。
「妾か?」
「いや、そうだろ」
思わず笑った。
「お前何言ってんだよ」
ミコトはこちらを見る。その表情には、昨日よりほんの少しだけ色があった。
「帰るぞ、ミコト」
気を取り直して再び歩き出した。数歩進んでも、後ろから声がしないので振り返る。
「ミコト?」
ミコトが顔を上げる。その反応が、少しだけ遅れた。
「来ないの?」
「行く」
すぐに横まで追いつく。さらに数分歩いたところで、ミコトが突然言った。
「先ほどの、もう一度じゃ」
「何?」
「妾を呼べ」
「……は?」
「よいから」
意味が分からなかったが、言われた通りにした。
「ミコト」
しばらくこちらを見て、また前を向く。
「もう一度」
「何回やるんだよ」
「よいから」
「ミコト」
また振り向く。
「……何が面白いの?」
「分からぬ」
「分からないのにやってんの?」
「うむ」
ミコトは自分でも不思議そうだった。
「じゃが、今のは妾を呼んだのじゃろう?」
「そうだよ」
「妾だけを?」
「そう」
ミコトはしばらく黙っていたが、やがて小さな声でその音を確かめるように呟く。
「……ミコト」
自分で自分の名を口にする。それは昨日までは存在しなかった音。他の誰かを呼ぶためではない。この世界に数え切れないほど存在するものの中から、ただ一つだけを指し示す言葉。
「ミコト」
もう一度。隣を歩く少女を見る。
「気に入った?」
「分からぬ」
「またそれか」
「分からぬものは仕方なかろう」
そう答えた声は、いつもと同じだった。けれど彼女はそれから家に着くまで、何度か小さく自分の名前を口にしていた。名前がなかった奴に名前ができたのだから、珍しいだけなのだろうと、その程度に考えていた。