翌朝、目を覚ましたとき、最初に視界へ入ったのは右手だった。
正確には、自分の右手をじっと見つめているミコトだった。
窓から差し込む朝の光の中、彼女はベッド脇に座り込み、自分の手を顔の前まで持ち上げている。細い指を開いては閉じ、手のひらを返し、顔の近くへ持っていく。そして今度は銀色の髪を一房つまんで眺めていた。
「……何してんの、ミコト」
寝起きの声でそう言うと、ミコトの顔がこちらを向いた。
反応が妙に早い。金色の瞳がこちらを捉え、そのまま数秒ほど動かなかった。
「今のは妾を呼んだのじゃな。ミコト、と」
「ああ」
「他の何者でもなく?」
「昨日も同じこと聞いただろ」
枕元のスマートフォンへ手を伸ばした。七時少し前。まだ慌てるほどではない。
横ではミコトが何やら納得したように頷いている。
「やはり奇妙じゃ。そなたが『ミコト』と音を発しただけで、それが妾へ向けられたものだと分かる」
「名前ってそういうもんだから」
「そなたが『机』と言えば、あれを指す」
ミコトは机を指差した。
「『窓』ならば、あれじゃ。じゃが机も窓もいくらでもある。じゃがミコトは妾しかおらぬ」
「そりゃ俺がお前につけた名前だからな」
何気なく答えると、ミコトはまた自分の手へ視線を落とした。
「妾しか、おらぬ」
小さく繰り返す。昨日から何度目だろう。
帰宅途中にも、ミコトは自分の名前を何度も口にしていた。嬉しそう、というのとは少し違う。新しい玩具を与えられた子供というより、今まで存在にすら気づいていなかった自然法則を発見した学者のような反応だった。
「そんな珍しいか?」
「珍しいというより、妙じゃな。昨日までは必要のなかったものじゃ」
「やっぱりいらない?名前」
ミコトがこちらを見る。
「いらないなら、なしに戻してもいいけど」
しばらく沈黙したあと、ミコトは首を横へ振った。
「いや、必要かどうかは、まだ分からぬ。ただ――」
そこで言葉を切り、少し考える。
「妾を示すものがあるというのは、悪くない」
「はいはい」
「何じゃ、その返事は」
昨日までは名前すらなかった相手が、たった一晩で名前への愛着らしきものを持ち始めている。もっとも本人がそれを愛着だと理解しているかは怪しい。
そのままベッドから起き上がった。
「着替えるから向こう行ってろ」
「何故じゃ?」
「昨日までの話は全部忘れたのか?」
ミコトは一瞬考え、
「そなたが嫌だから、それ自体が理由になるのであったな」
「覚えてんじゃん」
「仕方ないのう」
壁の向こうへ消えていく。
ドアを使え。そう言おうとして、すぐ諦めた。この二日で、諦めがずいぶん早くなった気がする。
*
その日の放課後、帰宅して冷蔵庫を開けると、奥にプリンが二つ入っていた。
母親が買ってきたものだろう。そのひとつを手に取ったところで、いつの間にか背後にいたミコトが覗き込んでくる。
「それは何じゃ」
「プリン、知らない?」
「その物体の成分や構造について訊いておるのなら、おおよそ分かる」
「なに言ってんの」
「そなたがそれを何として扱っておるのかを訊いたのじゃ」
「おやつ」
「おやつ」
これは知らない単語だったらしい。
「飯とは違うのか?」
「別に腹減ってなくても食う」
「何故じゃ」
「食いたいから」
「腹が減っておらぬのに?」
「うまいから」
ミコトの眉がわずかに寄る。この顔にもずいぶん慣れてきた。彼女が何か理解できないものに出会ったときの顔だ。
「つまり、生存に必要がないものを、味覚への刺激だけを目的として体内へ入れるのか」
「言い方」
「違うのか?」
「合ってるけど、絶対プリン食うときの説明じゃない」
テーブルにつき、蓋を剥がした。ミコトは真正面から覗き込んでいる。
「食べてみる?」
「妾は食事を必要とせぬ」
「必要かどうかじゃなくてさ。うまいかどうか試せばいいだろ」
「妾に味覚があるかも分からぬぞ」
「じゃあ余計に試してみれば」
スプーンを一本取り出し、差し出すと、ミコトは不服そうにこちらを見る。
「持てぬ」
そうだった。
これまで、人間も車も壁も、あらゆる物体がミコトを素通りしていた。差し出したところで受け取れるわけがない。
「悪い。忘れてた」
「妙な奴じゃな」
「じゃあ無理か」
そのままスプーンを引っ込めようとした、そのときだった。
「待て」
ミコトが手を伸ばすと指が柄へ重なった。今まで通り通り抜けるはずだった。
「……む?」
ミコトの指先が、スプーンの柄に引っかかった。
二人とも動きを止めた。
「今……」
ミコトがもう一度指を閉じると今度ははっきりと握った。自分が手を離しても、スプーンは床へ落ちなかった。
白銀の髪の少女が、自分の手の中にある銀色のスプーンをじっと見ている。
「お前、物持てたっけ?」
「持てぬ」
「じゃあなんで?」
「妾に聞くな」
「お前の身体だろ」
「妾にも分からぬことがあると昨日散々知ったであろう」
「そうだけどさ……」
ミコトはスプーンを裏返し、指先で確かめるように柄を撫でる。
「昨日より、こちら側へ近いような感覚はある」
「こちら側?」
「そなたらのいる場所じゃ」
詳しく聞こうとしたが、ミコト自身にも説明できないらしい。
昨日、名前をつけたときにも妙なことがあった。
それまでと同じ姿のはずなのに、突然、輪郭が少しだけはっきり見えた。あれは気のせいだと思っていた。
だがこうして物を持っている姿を見ると、本当に何かが変わっているのかも知れない。
「まあ、持てるならいいか」
「よいのか?」
「何か不都合はある?」
「分からぬ」
「じゃあ考えるのは後回し」
「そなたは時折、妙に潔いのう」
「お前と二日も一緒にいればこうなる」
プリンを一口分すくい、ミコトへ渡す。
「ほら」
ミコトはスプーンの上の薄黄色い塊を眺めた。
「これを口へ入れるのか」
慎重に口へ運ぶと、唇がスプーンに触れた。そして一口。ミコトの動きが止まった。
「どう?」
返事がない。
目を閉じるでも、笑うでもない。ただ何かを確かめるように、口の中のプリンをゆっくり飲み込んだ。
「……甘い」
「プリンだからな」
「これが甘い、か」
「甘いの知ってるだろ」
「知識としてはな。己の感覚として経験するのとは違うらしい」
そう言って、容器を見る。
「もう一口」
「はいはい」
同じようにすくうと、今度は先ほどより早く口へ運んだ。
飲み込む。
「もう一口」
「自分ですくえば?」
プリンを容器ごと渡してみると、そのまま受け取った。容器も問題なく持てた。そして黙々と食べ始める。
さっきまで「生存に必要のない摂取」などと言っていた奴とは思えない速度だった。
「お前、気に入った?」
スプーンが止まる。
「うまい?」
「うまい、という言葉が正しいかは分からぬ」
「じゃあもう食いたくない?」
容器を見ると、ほとんど空だった。
ミコトは冷蔵庫へ視線を向ける。
「もう一つあったな」
「あったけど」
「それも寄越せ」
「めちゃくちゃ気に入ってんじゃん」
「何故そうなる」
「また食いたいんだろ?」
「うむ」
「それは好きってことじゃない?」
ミコトが止まった。
「好き」
初めて意味を確かめる言葉のように呟く。
「まあ、人間ならそう言うと思う」
「……これは、この食物に備わっておる性質なのか?」
「違うんじゃない?プリン嫌いな奴だっているし」
今度こそ、ミコトは明確に不思議そうな顔をした。
「同じものを口へ入れてもか?」
「人によるだろ」
「では、この『好き』というものは――」
ミコトは空の容器を見て、それから自分の手を見る。
「これにあるのではない?」
「たぶん」
「妾の側にある?」
「そういうことになるんじゃない?」
ミコトはしばらく黙っていたが、やがて自分の胸元へ手を置きながら呟いた
「……妾に」
その呟きは奇妙に小さかった。しかし何をそんなに驚いているのか分からない。
けれどミコトはしばらく、空になったプリンの容器と自分の手を交互に眺めていた。
昨日までは、自分の名前さえなかった。
今日、その彼女にはひとつ、「自分のもの」と呼べるものが増えたらしい。
「で、二個目食う?」
ミコトが顔を上げる。
「食う」
「即答かよ」
「妾はプリンが好きなのであろう?」
「俺に確認すんなよな」
笑いながら冷蔵庫へ向かうと、背後から少し間を置いて声がした。
「……妾は、プリンが好き」
誰かに教えるためではなく、自分自身へ確かめるような声だった。
振り返ると、ミコトは空の容器を手にしたまま、どこか妙な顔をしている。笑っているわけではない。
けれど昨日までの、世界のすべてを遠くから眺めていたような顔とも、ほんの少しだけ違って見えた。
二つ目のプリンを食べ終えてから、ミコトはしばらく妙に静かだった。
空になった容器をテーブルへ置き、自分の指先や掌を眺め、ときおり何かを確かめるように胸元へ視線を落とす。その様子が気になって、冷蔵庫から麦茶を取り出しながら尋ねた。
「何考えてんの?」
「妾についてじゃ」
ミコトが顔を上げる。
「これまで妾は、人間を見ることはあっても、妾自身を見る必要はなかった」
「自分の姿を?」
「そうではない。妾が何を好み、何を嫌うのか。それを知ろうと思ったことがなかったという話じゃ。そもそも、そのような差が妾に存在するとも考えておらなんだ」
コップへ麦茶を注ぎながら、少しだけ納得した。
ミコトはこれまで、人間については妙なところまでよく知っていた。人がいつ生まれ、どう生き、何を選び、いつ死ぬか。それすら、本人にとっては特別な知識ではないらしい。
そのくせ、人がなぜ笑うのか、なぜ恥ずかしがるのか、なぜ嫌だと思うのかといったことになると、途端に理解が怪しくなる。まして、自分自身のこととなればなおさらだった。
「じゃあ調べればいいじゃん」
そう言うと、ミコトは目を細めた。
「プリンみたいに。いろいろ試して、好きか嫌いか見ればいいだろ」
「なるほどの」
少し考えてから、ミコトは大きく頷く。
「よし。では調べよう」
「なんでそんな大仕事みたいになってんの」
「妾についての調査じゃぞ。重要に決まっておろう」
「急に自己研究始めだしたな」
軽口をよそに、ミコトはすでに部屋を見回していた。
*
最初の対象になったのはテレビだった。
リビングでは夕方のバラエティ番組が流れている。芸人が大げさに転び、スタジオから笑い声が上がった。
ミコトはソファの端に座り、真剣な顔で画面を見ていた。
「どう?面白い?」
「……分からぬ」
また芸人が妙なことを言い、画面の向こうで観客が笑う。しかしミコトは笑わない。
「以前より、なぜあの者たちが笑っておるかは分かる。予想していなかった返答や、失敗した者の動作が可笑しいというのであろう」
「まあ、だいたいそんな感じ」
「じゃが妾自身は、別に笑いたくはならぬ」
「じゃあ好きじゃないんじゃない?」
ミコトはテレビを見たまま、しばらくして結論を出した。
「ではこれは、好かぬ」
「いきなり嫌い判定かよ」
「好きではないのだから、嫌いなのではないのか?」
「好きでも嫌いでもないってのもある」
ミコトがこちらを見る。
「なぜそのような中途半端なものが存在する」
人間の感情に文句を言われても困る。結局ミコトは、テレビについては「どうでもよい」に分類した。
次に試したのは漫画だった。自室から適当に一冊持ってきて渡す。
「これは?」
「漫画」
「知っておる。静止した絵と文字を順番に読むものであろう。人間が読んでいるところは見たことがある」
「じゃあ読んでみれば」
ミコトは受け取った漫画を開いた。最初の数ページは、ひどく無表情だった。そのままページをめくっていく。
そして十五分ほど経った頃に気づいた。ずいぶん静かだ。振り返ると、ミコトは床に座り込んだまま漫画を読んでいた。
「どう?」
「今は話しかけるな」
「ええ」
「集中しておる。今、こやつが怪しいところなのじゃ」
「誰だよ」
覗き込もうとすると、ミコトが本を少し離す。
「先を見せるな」
「別に俺何もしてないけど」
そして数分後、ぱたん、と本が閉じられた。
「終わった」
「面白かった?」
「続きが欲しい。これで終わりではあるまい」
「三巻まであるけど」
「持って来るのじゃ」
思わず笑った。
「めちゃくちゃハマってるじゃん」
ミコトの眉がわずかに動く。
「違う。話が途中で終わっておるから、結末を確認する必要があるだけじゃ」
「それをハマってるって言うんじゃない?」
「違う」
「じゃあ二巻いらない?」
「いる」
「即答だな」
「確認が必要じゃと言うておる」
二巻を渡すと、ミコトはすぐに読み始めた。十分もすると、こちらの存在すら忘れたようにページをめくっている。
どう見ても気に入っている。それでも本人は、最後まで「続きが気になるだけ」と言い張った。
*
その日の夜。
今度はミコトの方から次の実験を持ち出した。
「悠真、人間には、眠ることを好む者もおるのじゃろう?」
ベッドに寝転びながらスマートフォンを見ていたが、顔だけを上げて答える。
「まあいるんじゃない。寝るの好きな奴」
「そなたは?」
「好き。朝起きるのは嫌い」
「ならば妾も試す」
「試すって」
ミコトはそのまま隣にきて横になった。
「おいおい」
「何じゃ」
「なんで俺のベッドなんだよ」
「眠るための場所なのであろう?問題あるまい」
問題はある。そう言いかけたが、本人にはまるでその感覚がないのを思い出し、ため息をついた。
「せめてそっち端寄れ」
「細かい男じゃのう」
ミコトは少しだけ移動すると、仰向けになり、目を閉じた。数分だけそのまま目を瞑り、すぐにぱちりと目が開く。
「何も起こらぬ」
「早すぎるだろ」
「どれほど待てばよい」
「寝ようと思ってすぐ寝れるとは限らない」
「非効率じゃな」
また目を閉じて一分ほど経つ。
「悠真、暇じゃ」
「寝ようとしてる奴が喋んな」
「何もせず目を閉じておるだけではないか」
「そうやって寝るんだよ」
「人間は毎日このようなことをしておるのか?」
「そうだけど」
「不可解じゃ」
さらに一分。
「悠真」
「今度は何」
「これは好かぬ」
思わず吹き出した。
「嫌いなもの第一号じゃん」
「第一号?」
「プリンは好き。睡眠は嫌い」
「ふむ」
ミコトは起き上がった。
「妾は、プリンが好きで、眠ることは嫌い」
「寝る必要ない奴が睡眠嫌いでも参考にならない気するけど」
「妾の好みなのだから、妾が決めてよかろう」
ミコトは少しだけ満足そうに頷いた。そして、ふと部屋の隅へ視線を向けた。テレビの下にゲーム機が置いてある。
「では、あれは何じゃ」
「ゲーム」
「先ほど読んだものと似た娯楽か?」
「全然違うな」
「何をする」
「種類によるけど……勝ったり負けたり?」
「勝敗があるのか」
その言葉に、ミコトがわずかに興味を示した。
この二日間で妙なことばかり起こったせいか、正体不明の高次元存在とゲームをすることに、以前ほど違和感を覚えなくなっていた。
「やる?」
ミコトがゲーム機を見る。
「結果なら分かってしまうぞ」
「普通の相手ならな」
挑発してみると、ミコトがこちらを見た。
「俺は分かんないんだろ?」
一瞬の沈黙の後、ミコトの金色の瞳がわずかに細くなった。
「……なるほど」
その顔を見て、少し嫌な予感がした。
「面白そうではないか」
「お前、そういう顔できるようになったんだな」
「どういう意味じゃ」
ゲーム機の電源を入れ、コントローラーを一つ差し出し、ミコトが受け取る。プリンのスプーンを持った時よりも、今度はずっと自然だった。
本人も一度だけ自分の指先を見たが、すぐ画面へ視線を戻す。
「これはどうすればよい」
「とりあえず俺を倒せば勝ち」
「簡単じゃな」
「操作も知らない奴が何言ってんだ」
「未来が見えぬからといって、そなたに負けるとは限らぬぞ」
「言ったな?」
二人分のキャラクターが画面へと現れる。そして開始を告げる文字。
「で、この棒は何じゃ」
試合開始と同時に、ミコトのキャラクターが真っすぐ壁へ突っ込んだ。
「何故そちらへ行く!」
「お前が左押してるからだよ!」
「右へいくのじゃ!」
「キャラに言っても伝わらねえって!」
「止まれ! 止まらぬか!」
数秒後、画面に大きく敗北の文字が表示された。
予想よりも弱すぎて腹を抱えて笑った。
ミコトは無言で画面を見ていた。その横顔には、まだ怒りも悔しさも浮かんでいない。ただ、知らない現象を観察する時と同じ目で、自分の敗北を見つめている。
「……これが、負けるということか」
ミコトはコントローラーを握り直した。
「もう一度じゃ」
二戦目は、一戦目より長く続いた。
「それは何じゃ」
「回避」
「これは」
「攻撃」
「では、これは」
「必殺技」
「最初に言わぬか!」
ミコトは文句を言いながらも、こちらの説明を一度聞いただけで操作を覚えていった。
最初の試合では壁に向かって走り続けていたキャラクターが、次の試合ではきちんと方向を変え、さらにその次では相手の攻撃を避けるようになる。覚える速度だけなら、明らかに普通ではない。
「お前、慣れるの早すぎない?」
「一度見れば分かることを、何度も間違える方が不思議じゃ」
「いや、普通はもうちょいかかるんだよ」
「人間は不便じゃな」
「お前基準で言うな」
四戦目も自分が勝った。
「もう一度」
五戦目、また勝つ。
「もう一度じゃ」
六戦目はミコトがあと一撃というところまで追い詰めたが、ぎりぎりで逆転した。画面に勝敗を示す文字が現れる。
一旦コントローラーを置き、軽く伸びをした。
「惜しかったな」
「……」
「ミコト?」
返事がない。ミコトは画面を見たまま動かなかった。
「どうした?」
「……今のは、妾が勝つところであった」
「いや、余裕で負けだけど」
「あとちょっとじゃった!」
突然声が大きくなり、少し驚いた。ミコト自身も驚いたらしく、一瞬だけ目を見開き、それから口を閉じる。
「……何じゃ、今のは」
ミコトは胸元へ手を当てた。
「妙じゃ。結果は分かっておる。妾は負け、そなたが勝った。それだけのことであろう」
「まあな」
「じゃが、好ましくない」
「負けたから?」
「そうなのか?」
聞き返されても困る。
「普通は負けたら悔しいだろ」
「悔しい」
昨日まで知らなかった言葉を確かめる時と同じように、ミコトが繰り返す。
「勝ちたかったのに負けた時とか、惜しかった時とか。そういうの」
「勝ちたかった?妾は勝ちたかったのか」
「いや、俺に聞かれても」
ミコトはしばらく黙り込んだ。しばらく、考えるようにコントローラーのボタンを親指で撫でる。
「……もう一度」
「まだやるの?何戦目だと思ってんだ」
「妾が勝つまでじゃ」
「それ、完全に負けず嫌いだろ」
「そうなのかもしれぬ」
妙に素直に認めた。先ほどまでなら、人間の分類に自分を当てはめられること自体を不思議がったはずだ。
言われた通りに再戦を選ぶ。
「まあいいけど。次で最後な」
「何故じゃっ」
「もう疲れた」
「妾は疲れておらぬぞ」
「俺が疲れてんだよ」
「不便じゃな、人間は」
「今日何回目だよそれ」
試合が始まる。今度のミコトは、さっきまでとは明らかに違った。こちらの攻撃を見てから避けるのではなく、こちらが何をしそうか読んで先回りしてくる。
「ちょ、待て」
「待たぬ」
「それ未来見てない?」
「見ておらぬ」
「ほんとかよ!」
「そなたの先など見えぬと言うておろう!」
確かにそうだった。ミコトはこちらの未来を完全には見通せない。ならば今の動きは、単純に何度も戦った結果、こちらの癖を覚えたのだろう。それはそれで厄介だった。
「そこじゃ!」
「うわ」
ミコトの攻撃がきれいに入る。操作しているキャラクターの体力が大きく削れた。
「ほれ、どうした」
「っ調子乗んなよ」
「先ほどまでの威勢はどこへ行った」
「言うようになったな、お前」
残り体力はほぼ互角だ。あと一度大きな攻撃が入れば決まる。
ミコトが身を乗り出す。金色の瞳は完全に画面へ向けられていた。
「そこじゃ!」
ミコトが攻撃を出すが、一瞬早く、自分が回避する。
「あ」
空振りだ。背後へ回った自分のキャラクターが攻撃を叩き込み、画面が派手に光った。
勝敗を示す文字が現れる。
俺の勝利だ。
「よし!」
「……」
「危なかった」
「……」
「おいおい?」
ミコトが固まっている。
「また負けたな」
そう言った瞬間、ミコトの眉がぴくりと動いた。
「負けたと言うな」
「いや負けただろ」
「分かっておる!」
また声が大きくなった。思わず笑う。
「なんだよ、そんな怒るなって」
「怒っておらぬ!」
「どう見ても怒ってんじゃん」
「怒っておらぬと言うておろう!」
「それ怒ってる奴の言い方だろ」
我慢できずさらに笑う。
「……笑うでない」
ミコトはコントローラーを握ったまま、じっとこちらを睨んでいる。だがその視線には、普段のような超然としたものがなかった。
「……何じゃ、これは」
「だから怒ってるんじゃない?」
「妾が?」
「俺に」
ミコトが目を瞬く。その言葉は、本当に予想していなかったらしい。
「妾が、そなたに腹を立てておる?」
「たぶんね」
「何故じゃ」
「笑われたからじゃない?」
「妾が負けたことを、そなたが笑ったからか」
「まあ、俺もさんざん煽ったしな」
ミコトは黙った。それからゆっくりとコントローラーを床へ置く。
「妙じゃ」
「今日そればっかだな」
「以前、他の人間が怒っているのを見たことはある」
「そりゃあるだろ」
「誰かが己の意に沿わぬことをした時、声を荒らげる。相手を遠ざける。攻撃することもある。構造としては理解しておった」
ミコトは自分の胸を指先で押さえる。
「じゃが、これは外から見たものとは違う」
いつもより慎重に言葉を選んでいる。
「そなたが笑った時、やめさせたいと思った。妾のことを笑うなと思った」
「うん」
「そなたが笑うこと自体は、先ほどまで何とも思わなんだ」
「まあ普通そうだろ」
「では、何故妾が笑われると違う?」
「自分のことだからじゃない?」
何気なく返した言葉だったが、ミコトはそこでしばらく黙って考え込んだ。
「妾自身のことだから」
「たぶんね」
ミコトは目を伏せて、自分の手を見る。
名前を得てから何度もそうしたように、今度はそこへ何か別のものを探すように。
「プリンは好きじゃ。眠るのは好かぬ」
「うん」
「ゲームでは勝ちたい。負ければ悔しい」
「うん」
「そなたに笑われれば、腹が立つ」
「ごめんって」
「謝れと言うておるのではない」
ミコトは顔を上げた。困惑しているようだが、どこか興味深そうでもあった。
「これらはすべて、妾に起きておるのじゃな」
「そうだろ、お前の感情なんだから」
「感情」
ミコトはまたその言葉を口の中で転がす。また少し笑いそうになったが、今度は我慢した。
しばらくして、ミコトがこちらを見る。
「悠真。妾は、変わったか?」
突然な質問だったが、少し考えてみる。
最初に会った日。車が身体を通り抜けても気にせず、人間が笑う理由すら不思議がっていた。誰かに見られるということも、自分というものも、ろくに意識していなかった。
それが今では、プリンを気に入り、漫画の続きを欲しがり、ゲームに負けて怒っている。
「うん、かなり人間っぽくなってきたよな」
ミコトが目を細める。
「人間っぽく?」
「最初のお前、何考えてるか全然分かんなかったし」
「今なら分かると?何故じゃ」
「何故って……怒ったり、好き嫌いあったりするから?」
ミコトはしばらくこちらを見て、そして静かに言う。
「……そなたがそう見るからであろう」
「これも俺のせい?」
「知らぬ。じゃが」
ミコトは自分の手へ視線を落とす。
「そなたに見つかってから、妾には分からぬものばかり増えておる」
「それは嫌なこと?」
ミコトは少し考えて言う。
「……分からぬ」
「またそれ?」
「分からぬものを分からぬと言って何が悪い」
ミコトは床に置いたコントローラーを拾った。
「もう一度じゃ」
「は?」
「勝っておらぬ」
「まだやるの?」
「当たり前じゃ!」
「今のいい話っぽい流れ全部返せよ!」
ミコトはすでにゲーム画面へ向き直っていた。
「早うせぬか。妾は今、勝ちたいのじゃ」
その言葉に、一瞬だけ止まった。
勝ちたい。あまりにも普通の言葉だった。けれど、つい昨日までのミコトなら、おそらく口にすることのなかった言葉でもある。
「……はいはい」
仕方なく再びコントローラーを手に取った。
「じゃあ次こそ最後な」
「妾が勝てばな」
「条件変えるな」
ゲームが再開される。
今度のミコトは、開始前から少しだけ楽しそうに見えた。本人にそう言えば、きっと否定するだろう。だから何も言わなかった。
*
翌日の放課後。
「悠真、今日は行くだろ?」
帰り支度をしていた自分の肩を、後ろから友人の一人が叩いた。
「ゲーセン。前は眠いとか言って逃げただろ」
「ああ」
そういえば、ミコトと出会った日にも誘われていた。あの日は前夜に動画を見すぎて寝不足だったため断ったが、今日は特に予定もない。
「行く?」
もう一人の友人が鞄を肩へ引っかけながら訊いてくる。
「行く」
「珍しい。即答じゃん」
「たまにはな」
そのまま立ち上がると、窓際にいたミコトがこちらを向いた。
「げーせん、とは何じゃ」
「ゲームセンター」
「昨日のあれと同じものがあるのか?」
「似たようなのはある」
「では妾も行く」
「今の聞く必要あった?どうせついてくるだろ」
「当然じゃ」
むしろ何を今さら聞くのか、とでも言いたげな顔だった。その会話は当然、友人たちには聞こえていない。
「悠真?」
「ん?」
「誰と喋ってんの?」
「……独り言」
「最近多くない?」
「気のせい」
ミコトが横で笑う。
「ずいぶん苦しい言い訳じゃの」
「誰のせいだよ」
「妾は何もしておらぬ」
これ以上ミコトと話していると本気で気が狂ったと思われそうだ。
*
駅前のゲームセンターは、放課後ということもあって学生が多かった。
音楽ゲームの電子音にクレーンゲームの派手な効果音。そして対戦ゲームから聞こえる歓声。
昨日、自宅で家庭用ゲームを初めて触ったばかりのミコトは、店へ入るなりあちこちへ視線を向けていた。
「騒がしい場所じゃな。これほど多くの人間が、勝敗のために集まっておるのか?」
「全部が勝負じゃないけど」
説明しているそばから、ミコトはクレーンゲームの筐体へ近づいた。ガラスを気にせず、上半身を景品の並んだ内部へ突っ込む。
「おい」
ぬいぐるみの山の中から顔だけ出す。
「それずるいだろ」
「何がじゃ」
「中見んなよ」
「外からも見えておるではないか」
「そういう問題じゃない」
ミコトは気にする様子もなく筐体から出てくる。
「奥の赤いものが取りやすそうじゃぞ」
「助言すんな。反則っぽいから」
「人間の遊戯は面倒な規則が多いのう」
「昨日ゲームで負けまくってた奴が言うな」
「……その話をするでない」
露骨に機嫌を悪くする。昨日まではそんな反応すらなかった。たった数日で随分変わったものだと思った。
*
しばらく三人で店内を回った。
対戦ゲームをしたり、クレーンゲームを冷やかしたり、くだらない話をしたりする。
ミコトは当然ずっとついてきた。最初のうちは、何か見つけるたびに小声で話しかけていた。
「昨日やったやつに近いぞ」
「こちらの方が操作が多そうじゃな」
「やってみる?」
「他人から見れば筐体が勝手に動くことになるであろう」
「あ、それはまずいか」
「少しは考えよ」
そんなやり取りをしていたのだが、時間が経つにつれて、友人との会話に夢中になっていった。
「そういや数学の小テスト返ってきた?」
「返ってきた。俺二十八点」
「低っ」
「おまえは?」
「七十一」
「裏切り者!」
「何を裏切ったんだよ」
笑いながら歩いていると、横でミコトが口を開いた。
「悠真」
聞こえているが、友人と続けて話しているので返事をしなかった。
「でもあの問題おかしくなかった?」
「どれ?」
「最後のやつ」
「悠真」
「俺そこ適当に式書いた」
「それで七十一取るの腹立つな」
「知らんって」
「悠真」
三度目でちらりと横を見ると、ミコトがこちらを見ていた。
「何?」
「……いや」
「何だよ」
「もうよい」
妙な返事だった。だが友人が次のゲームを指差したので、すぐそちらへ意識を戻した。
*
ミコトは二人の後ろを歩きながら、首を傾げた。
妙だった。先ほど自分に起きたものが何なのか分からない。
悠真は自分の声を聞いていた。それなのに、すぐには返事をしなかった。ただそれだけで別に何の問題もない。
悠真は友人と話していた。人間が複数の人間と会話することくらい知っている。これまで何度も見た。
それなのに。
「……何じゃ」
小さく呟く。
落ち着かない。
昨日ゲームで負けた時の感覚とは違う。プリンがなくなった時に感じた「もう一つ欲しい」とも違う。悠真に笑われて腹を立てた時とも違った。
これは何なのか。
前を歩く悠真を見る。彼の友人が何か言い、悠真が笑う。
ミコトは無意識に歩みを速め、悠真の隣へ並ぶ。
「悠真」
もう一度呼ぶ。
「ん?」
今度はすぐにこちらを見た。
悠真の黒い瞳と視線があったその瞬間に、先ほどまでの妙な感覚が、少しだけ弱くなった。
「何?」
「……何でもない」
「さっきもそれ言ってたじゃん」
「何でもないと言っておる」
「変なの」
悠真はそう言って、また前を見て友人との話に戻る。すると再び、わずかに落ち着かなくなる。そこでミコトはようやく一つの共通点に気づいた。
悠真が自分を見ている時に妙な感覚は弱くなる。そして悠真が他の者を見ている時にそれは強くなる。
「……これは何じゃ?」
答える者はいない。
*
ゲームセンターを出た頃には、外はすっかり夕方になっていた。友人二人とは駅前で別れる。
「じゃあまた明日」
「おう」
「今度はもっと早く来ようぜ」
「気が向いたらな」
手を振り、二人が人混みへ消えていく。
帰路へ向かって歩き出し、数歩進んだところで気づく。ミコトがついてこない。振り返ると、少し離れた場所に立っていた。
「ミコト」
名前を呼ぶとミコトが顔を上げる。そのまま少し早足で追いついてきた。
「何してたの?」
「少し考えておった。今日のことじゃ」
しばらく並んで歩く。
夕方の住宅街。相変わらず、ミコトの身体を避けるものはいない。
「プリンは好きじゃ」
「急に何?」
「漫画も、恐らく好きじゃ」
「やっと認めた」
「眠ろうとすることは好かぬ」
「それも知ってる」
「ゲームでは勝ちたい。負ければ悔しい」
「そうだな」
ミコトは少し黙った。
「今日も、妙なものがあった」
「何?」
「そなたが妾を見ておらぬ時じゃ」
思わず首を傾げる。
「俺もずっとお前を見てるわけじゃないけど」
「分かっておる」
ミコトは少し不満そうに眉を寄せた。
「そなたがあの者たちと話しておった時、妙に落ち着かなかった」
「暇だったんじゃない?話に入れないし」
「そういうものか?」
「知らんけど」
「そなたは適当じゃな」
「分からないものは分からないだろ」
その言葉に、ミコトは黙った。歩きながら、自分の手を見る。指を一つずつ確かめるように動かす。
ミコトはしばらく黙っていた。
「……妾というものは」
ミコトが呟く。
「随分と騒がしいものなのじゃな」
思わず笑った。
「今さら?」
ミコトの眉が吊り上がる。
「また妾を笑ったな。笑うなと言うておろう!」
「怒んなって」
「怒っておらぬ!」
「昨日からずっとそれ言ってるじゃん」
「これは怒っておるのではなく――」
「じゃあ何?」
「……分からぬ!」
ミコトは本気で怒ったように追いかけてきた。逃げる必要などないのに、何となく歩調を速める。
「待て!」
「嫌だよ」
「待たぬか、悠真!」
夕暮れの道を、誰にも見えない少女の声だけが追いかけてくる。その声は、初めて出会った日のものよりも、ずっと感情に満ちていた。