「そなた、日曜は凛と出かけるのであったな」
登校途中、ミコトが唐突にそんなことを言った。
六月の朝はすでに夏の匂いを含んでいて、住宅街を抜ける細い道には容赦なく日差しが落ちている。額に浮いた汗を手の甲で拭いながら、半歩後ろを歩く銀髪の少女へ視線を向けた。
昨日までなら、その態度に特別なものは感じなかっただろう。しかし今朝のミコトは妙に静かだった。家を出てからここまで、普段なら目についたものについて好き勝手に質問したり、道行く人間の未来を眺めたりしているのに、今日はそういうものがほとんどない。
不思議に思っていると、ミコトが先を促すように顎を上げた。
「それで?日曜じゃ。出かけるのであろう」
「映画な。行くよ」
「二人でか?」
「そうだけど」
「何時からじゃ」
「昼くらい」
「どれほど一緒におる」
「知らねえよ。映画見て、そのあとなんか食うんじゃない?」
「ふむ」
そこで会話が途切れた。自分から聞いておいて、ミコトはそれ以上何も言わない。
数歩歩いてから、横目でその顔を見る。金色の瞳はまっすぐ前を向いており、表情にも特に変わったところはない。
「なんだよ」
「何がじゃ」
「いや、やけに細かく聞くから」
「聞いてはならぬのか?」
「別にいいけど」
そう答えると、ミコトは再び黙った。少ししてから、今度は独り言のように言う。
「映画を見るだけなら、一人でもできるであろう」
「まあな」
「ならば、何故わざわざ二人で行く」
「一緒に行きたいからじゃない?」
「何故じゃ」
「知らねえよ、俺に聞くなよ」
思わず笑うと、ミコトは眉を寄せた。
「そなたも行きたいのであろう?」
「誘われたし、面白そうだからな」
「一人では駄目なのか?」
「だから別に映画だけが目的じゃないって。友達と出かけるのも込みだろ」
ミコトは答えなかった。
人間同士が同じ場所へ行き、同じものを見て、同じ時間を過ごすことに価値を置く。そのこと自体は、もうミコトも知識として理解しているはずだった。一緒にゲームをし、漫画を読み、プリンを食べるようになってから、以前よりはそういう人間の感覚にも馴染んできている。
それでも何か納得できないらしい。
「そんなに気になるなら、お前も来れば?」
何気なく言った。どうせ止めたところで来るだろうと思ったからだ。
ミコトがこちらを見た。
「よいのか?」
「いや、駄目って言っても来るだろ」
「当然じゃ」
「じゃあ聞くなよ」
いつもの調子に戻ったやり取りに、少しだけ安心した。昨夜のミコトは妙だった。
目を覚ました自分を見た途端、ひどく安堵したような顔をしたかと思えば、
『妾は、そなたに見られていたいらしい』
などと言い出した。
本人にとっては重大な発見だったらしいが、自分にはまだ、その言葉の重さがよく分かっていない。ミコトは今まで誰にも認識されなかった存在だ。自分だけが見えるのなら、見られることそのものが珍しいのだろう。その程度に考えていた。
「なあ、昨日のこと、まだ気にしてんの?」
「昨日?」
「凛のこと」
ミコトの足がほんの少しだけ遅れた。
「何故、妾があの娘を気にせねばならぬ」
「いや、邪魔してきたじゃん」
「あれは、そなたが妾を見ておらぬかったからじゃ」
「それを気にしてるって言うんだよ」
「違う」
やけに早い否定だった。
不思議に思ったが、それ以上追及はしなかった。ミコトが自分の感情をうまく説明できないことには、もう慣れている。プリンを好きだと気づくまでにも時間がかかったものだ。
ゲームに負けて不機嫌になった時も、自分が悔しがっていることすら最初は分かっていなかった。今度もその類いなのだろう。そう考えて、そのまま話を終わらせた。
*
「日曜さ、十二時に駅前でいい?」
昼休み。
弁当箱を片付けていた悠真の机の横に、凛が立った。
「十二時?」
「映画。忘れてないでしょうね」
「忘れてないって」
「怪しい」
「なんでだよ」
「悠真だから」
「理由になってねえ」
「私の中ではなるの」
凛が笑うその横で、誰にも見えないミコトが机に腰掛けていた。
最近は物に触れられるようになったせいか、以前のように机の中へ身体が沈むこともない。悠真から見れば普通に少女が座っているようにしか見えないのだが、周囲の生徒にとってそこには誰もいない。
「十一時五十分には来てね」
「細かいな」
「十二時集合って言ったら、あんた十二時に家出そうだから」
「そこまでじゃねえよ」
「十一時五十分」
「はいはい」
「返事は一回」
「お母さんかよ」
凛が呆れたように笑った。
その瞬間だった。机の上に座っていたミコトの視線が、ふっと凛へ移った。その表情は変わらない。
ただ、金色の瞳だけが微かに細められる。悠真には分からないものを、ミコトは見ていた。
日曜日。
駅前。
人混みの中で悠真を待つ凛。
少し遅れて現れる悠真。
文句を言いながら二人で映画館へ向かう。
暗くなった館内で隣り合った座席。
上映中、凛が何かに笑い、それにつられて悠真も笑う。
映画が終わったあと、近くの店へ入る。凛が飲み物のストローを弄びながら話し、悠真がそれに答える。
その帰り道。
『今日、楽しかった』
そう言う凛。
『俺も』
そう答える悠真。そこから先には、さらに無数の枝があった。
また出かける。今度は凛からではなく、悠真から声をかける。そして二人で過ごす時間が増える。
呼び方が変わり、距離が変わる。今はまだ存在しない関係へと近づいてゆく可能性。
ミコトは見るのをやめた。
「……?」
凛の話を聞いていた悠真が、一瞬こちらを向いた。
「ミコト?」
「何じゃ」
「いや」
悠真は小声になる。
「なんか言った?」
「何も言っておらぬ」
「そう?」
凛が怪訝そうな顔をする。
「何?」
「いや、なんでもない」
「また?」
「またってなんだよ」
「最近ちょくちょく一人で喋ってるじゃん」
「考え事」
「声に出るほど?」
「出る日もある」
「怖いんだけど」
凛が半歩引く。
「お前な」
悠真が抗議すると、凛は笑いながら自分の席へ戻っていった。その後ろ姿を見送り、悠真も前を向く。だから気づかなかった、ミコトがまだ凛を見ていたことに。そして、その瞳が先ほどとは別のものを追い始めていたことに。
*
人間は出来事を一つずつ見る。
朝起きる。
家を出る。
誰かに会う。
話す。
別れる。
その一つ一つを別々の出来事として認識するが、ミコトには、そうは見えない。一つの出来事は、別の出来事へ連なっている。
凛が日曜日に家を出る。その前には、凛が映画へ行く約束をしたという出来事がある。そのさらに前には、悠真との関係がある。
同じ学校へ入ったことや幼い頃から家が近かったこと、何年も言葉を交わしてきたこと。
数え切れないほどの出来事が重なり、日曜日の正午という一点へつながっている。
人間の言葉へ直すなら、糸。それが一番近かった。
もちろん、本当は糸などではない。始まりと終わりのある単純な線でもない。無数の可能性が絡み合い、一つの出来事が別の何百という出来事へ影響し、それらがさらに別の未来へ連なっている。
ミコトはその全体を見ることができる。これまで、それを見て何かを思ったことはほとんどなかった。
そこにあるものは、ただそこにある。人間が右へ行こうが左へ行こうが、それも含めて世界の構造だった。
だが今は違う。
日曜日に悠真と凛が並んで歩いている。その光景を、ミコトは好ましいと思わなかった。
「…………」
ならば、ほんの少しだけ。ミコトは、その構造へ触れた。わざわざ壊す必要もない。ただ、日曜日へ続いている無数の可能性のうち、いくつかの位置を僅かにずらす。それだけでよい。
「ミコト」
名前を呼ばれ、ミコトは顔を上げた。悠真がこちらを見ている。
「何してんの?」
「何もしておらぬ」
「ずっと黙ってるから」
ミコトは悠真の顔を見つめた。
自分へ向けられている目。それを確認すると、胸の奥にあった説明のつかないざわつきが少しだけ弱くなった。
「悠真」
「ん?」
「……いや」
ミコトはわずかに目を細める。
「呼んだだけじゃ」
「なんだそれ」
呆れた声を出して、悠真が前を向く。ミコトはしばらく、その横顔を見ていた。
日曜日まで、あと三日だった。
*
日曜日の朝、いつもより少し早く目を覚ました。
枕元のスマートフォンを見ると、まだ九時を少し過ぎたところだった。約束は十二時。駅前までは電車で二十分ほどだから、十一時前に家を出れば十分間に合う。
「珍しいのう」
声のした方を見ると、ミコトが机の上に座っていた。
「そなたが自ら目を覚ました」
「俺をなんだと思ってんだよ」
「放っておけば昼まで眠る生き物」
「人をダメ人間みたいに言うな」
欠伸をしながら身体を起こした。
ミコトはいつもと変わらないように見える。金色の瞳も、腰まである銀髪も、少し尊大な座り方も同じだ。しかし、ここ数日のミコトが以前より頻繁に自分を見ているような気がしていた。
以前から観察されていたと言えばそうなのだが、質が違う。最初の頃は、珍しい虫でも眺めるような目だった。最近のはもっと個人的だ。
「今日、妾も行くぞ」
「知ってる。むしろ来ないと思う理由がない」
「賢くなったのう」
「誰のせいだよ」
ベッドから降りようとしたところで、スマートフォンが震えた。凛からだった。
『ごめん、今日ちょっと時間ずらしていい?』
『お母さんに買い物頼まれた』
『一時くらいでも大丈夫?』
画面を見ながら眉を上げた。
「どうした」
「凛。時間ずらしてくれって」
「ほう」
「親に買い物頼まれたって」
「そうか」
妙に短い返事だった。特に気にせずに、
『いいよ。一時な』
と返信した。すぐに既読がつき、
『助かる!』
と返ってきた。
「一時になった」
「そうか」
「なんか興味なさそうだな」
「そなたらの予定であろう。妾には関係あるまい」
「昨日あんなに聞いてたくせに」
「昨日は昨日じゃ」
ミコトはそう言って、窓の外へ視線を向けた。一瞬だけその横顔を見たが、すぐに目線を外した。
*
十二時少し前、予定より早めに家を出た。
「十一時五十分に来いって言われてたからな」
「約束は一時に変わったのであろう?」
「そうだけど、また何か言われんの嫌だし」
「面倒な娘じゃの」
「お前が言うな」
駅へ向かう道は休日らしく人が多かった。
ミコトは隣を歩きながら、時々すれ違う人間を眺めている。相変わらず誰も彼女を認識しない。買い物袋を持った老人がミコトの肩をそのまま通り抜けても、老人もミコトもほとんど気にしなかった。
駅に着き、改札を抜けたところで異変に気づいた。ホームへ続く階段の前に人が溜まっている。電光掲示板には、
『安全確認のため一部列車に遅れが発生しています』
という表示が出ていた。
「うわ」
思わず声を漏らした。
「なんじゃ」
「遅れてる」
スマートフォンで確認すると、目的地まで十五分ほど余計にかかるらしい。
「まあ、一時には間に合うか」
そのままホームへ下りた。ミコトもついてくる。
「人間というものは、よく時間を気にするのう」
「お前が気にしなさすぎなんだよ」
「早く着こうが遅く着こうが、着くことに変わりはなかろう」
「待ってる人間がいるんだよ」
そう言うと、ミコトは少しだけ黙った。
「待っておるのか」
「そりゃ約束してるし」
やがて電車が来た。多少混雑していたが、どうにか乗り込む。
ミコトは人を避ける必要がないため、自分のすぐ目の前に立つ。満員の車内で銀髪の少女と至近距離で向かい合う形になっているのに、周囲の誰も気づかないというのは、何度経験しても奇妙だった。
「近い」
「仕方なかろう」
「お前、人すり抜けられるだろ」
「そなたの近くにおった方がよい」
「なんで?」
「知らぬ」
「なんだそれ」
ミコトは何も答えず、こちらの顔を見ていた。
*
目的の駅へ到着した時には、十二時五十分を回っていた。
「ギリギリだな」
改札を出ながら、悠真は凛へメッセージを送った。
『着いた』
しかし返事はない。
「まだ来ておらぬぞ」
ミコトが言う。
「分かるの?」
「見れば分かる」
「便利だな、それ」
「褒めても何も出ぬぞ」
五分、十分と待った。十三時を過ぎても凛は来なかった。
悠真が電話をかけようとしたところで、スマートフォンが震える。
『ごめん!』
『買い物思ったより時間かかった!』
『今駅向かってる!』
「向こうも遅れてるって」
「そうか」
「今日なんなんだろうな」
「そういう日もあろう」
「お前、朝からそればっかだな」
悠真が笑う。ミコトは少しだけ目を逸らした。
結局、凛が現れたのは十三時十五分頃だった。
「ごめん!」
人混みの向こうから走ってくる。肩で息をしながら悠真の前で止まると、膝に手をついた。
「めっちゃ待った?」
「十五分くらい」
「ほんとごめん。レジ混んでてさ」
「いいよ。俺も電車遅れてたし」
「え、そっちも?」
「安全確認」
「今日ついてなくない?」
凛が顔を上げ、二人で笑う。その間に、ミコトが無言で二人の間へ立った。当然、凛には見えない。
「じゃ、急ご。上映十三時半でしょ?」
「あ」
悠真が時計を見る。十三時十七分だった。
「走れば間に合うんじゃね?」
「走るしかない!」
「高校生が映画一本に必死すぎるだろ」
「誰のせいだ!」
「俺じゃねえよ!」
二人が同時に走り出した。
ミコトはその後を追う必要すらない。遅れていたはずなのに、次の瞬間には悠真の隣を歩いている。
「何をそんなに急ぐ」
「間に合わなくなるからだよ!」
「別の回を見ればよかろう」
「時間決まってんの!」
悠真は走りながら答えた。その隣で凛も笑っている。
「誰と喋ってんの?」
「独り言!」
「走りながら?」
「余裕あんだよ!」
「じゃあもっと速く走って!」
「無茶言うな!」
二人の笑い声が重なる。ミコトはそれを見た。
昨日見た未来とは少し違う。列車は遅れ、凛の家の用事も長引いて、二人が会う時間はズレた。それでも、二人は一緒にいる。むしろ予定通りだった時より、楽しそうにさえ見えた。
「…………」
ミコトは足を止めた。
悠真は気づかず、凛と並んで先へ走ってゆく。ミコトは二人の背中を見つめた。
胸の奥に、またあの感覚が生じる。好ましくない。それだけなら、もう分かっている。だが今日は、それだけではなかった。
自分が少し触れて、未来は確かにずれた。それなのに二人は、また同じ場所へ戻ろうとしている。
「……妙じゃの」
ミコトは小さく呟いた。
人間同士の縁は、一本の線ではない。一つを外せば、別の経路が生じる。遅刻しても会う。電車が止まっても向かう。予定が変わっても、互いに相手を待つ。
それは世界の構造として見れば、何も不思議ではない。今までのミコトなら、それで終わっていた。
しかし今は、気に入らない。
前を走る悠真が、ふと後ろを振り返った。
「ミコト!」
名前を呼ばれる。
「来てんの?」
ミコトは悠真を見る。自分へ向いた目を見た瞬間、胸の奥が静かになった。
「おるわ」
「なら返事しろよ!」
「そなたが勝手に走っておるのであろう!」
悠真はまた前を向き、凛の隣へ戻る。ミコトの視線も、再びその背中へ向いた。
少しだけ、ほんの少しだけなら。そう思った。ミコトの意識が、人間には見えない方向へ広がってゆく。
映画館。上映時刻。予約。座席。機械。人間。そこへつながる無数の因果。どれも壊す必要はない。わずかに傾けるだけでいい。
ミコトは、そのうちの一つへ指を触れるように意識を向けた。
「これくらいなら」
小さく呟く。
「何も変わらぬのと同じであろう」
十五分後、悠真と凛は映画館の受付前で立ち尽くしていた。
「……え?」
凛がスマートフォンの画面を見る。もう一度確認しても、何度見ても表示は同じだった。
『ご予約が確認できません』
悠真も横から覗き込む。
「予約したんだよな?」
「したよ!」
「でもないって」
「したってば!」
凛が画面を連打する。その少し後ろで、ミコトだけが静かに二人を見ていた。
「ちょっと待って。絶対したから」
凛はスマートフォンを操作し、メールの履歴を開いた。
「ほら、これ」
悠真も横から画面を覗き込む。映画館から届いたメールには、作品名も上映時刻も、選んだ座席も記載されていた。
「予約できてんじゃん」
「でしょ?」
「じゃあなんで確認できないんだ」
「私が聞きたいよ」
凛はもう一度画面を確認すると、そのまま受付へ向かった。悠真も後ろについていく。ミコトは少し離れた場所に立ったまま、その様子を眺めていた。
受付の店員が凛のスマートフォンを確認し、端末を操作する。何度か首を傾げたあと、申し訳なさそうに頭を下げた。
「え?」
凛の声が一段高くなる。
悠真には店員の説明が断片的に聞こえた。予約処理、決済、エラー。座席確保が完了していないらしい。
やがて凛が肩を落として戻ってくる。
「駄目だった」
「なんで?」
「予約した時に決済処理でエラーが出てたみたい。メールだけ途中で送られたんじゃないかって」
「そんなことある?」
「あるからこうなってるんでしょ……」
凛は恨めしそうにスマートフォンを見る。
「席は?」
「もう埋まってる」
「一席も?」
「離れたところなら一つずつ空いてるって」
「それじゃ一緒に来た意味ないな」
「だよねえ……」
凛が大きく息を吐いた。
ミコトの視線が、その横から悠真へ向く。「一緒に来た意味」という言葉を確かめるように、ほんの僅かに目を細めた。
「次の上映は?」
悠真が館内の案内を見る。
「十六時二十分」
「三時間近くあるじゃん」
「待つ?」
「うーん……」
凛が時計を確認する。
「それ見たら終わるの十八時半くらいでしょ。私、今日十九時までには帰れって言われてる」
「間に合わない?」
「映画館から家まで考えるとちょっと厳しいかな。今日、おばあちゃん来るらしくて」
「そっか」
「……最悪」
凛がその場で項垂れる。
「朝から買い物頼まれて、急いで来て、映画館まで走ったのに」
「なんか運悪かったな」
「悠真の日頃の行いじゃない?」
「なんで俺なんだよ」
「こういうの大体あんたのせいでしょ」
「無茶苦茶だな」
言い返すと、凛が笑った。落ち込んではいるものの、本気で怒っているわけではないらしい。その笑顔を見て、悠真も少し笑う。
ミコトは二人を見比べた。予定していた映画は見られない。そこまでは、自分が望んだ通りだった。なのに、二人はまだ笑っている。そのことが、ミコトには少し不思議だった。
「じゃあ今日は帰る?」
「そうだな。映画見るつもりだったから他に何も考えてないし」
「……せっかく来たのに」
凛は頬を膨らませたあと、少し考える。それから悠真の顔を見た。
「また今度ね、今日のまま終わるの悔しいし」
「いいよ」
「次は私がちゃんと予約できてるか前日に確認する」
「そこまでやる?」
「やる。今日みたいなの二度と嫌だもん」
「じゃあ頼むわ」
「悠真も確認してよ。一緒に行くんだから当たり前でしょ」
「はいはい」
「返事一回」
「はい」
凛が満足そうに頷く。
「じゃ、また明日」
「おう」
手を振って、凛は駅の方へ歩いていった。その背中が人混みの中へ消えるまで見送ってから、悠真も反対方向へ歩き出す。
すると、すぐ横から妙に明るい声がした。
「さて、帰るかの」
悠真は横を見ると、そこにはミコトがいた。なぜだろう、ものすごく機嫌がいい。
「……お前」
「何じゃ」
「なんか嬉しそうだな」
「そうか?気のせいではないか」
「いや、絶対機嫌いいだろ」
ミコトは少し考え、そして自分の内側を確かめるように胸元へ手を当てた。
「ふむ」
「何してんの?」
「調べておる」
「自分の機嫌を?」
「うむ」
ミコトは時々こういうことをするようになった。自分に新しい感情が生じると、それをまるで未知の現象でも調査するように観察する。
しばらくして、ミコトは頷いた。
「確かに、悪くない気分じゃ」
「なんで?」
「何故であろうな」
ミコトは悠真を見る。悠真以外の誰にも見えない金色の瞳が、まっすぐこちらへ向いている。
「そなたと二人になったからではないか?」
「……は?」
悠真が足を止める。ミコトも止まった。
「何じゃ」
「いや」
あまりにも普通の顔で言うので、どう反応していいのか分からない。
「お前、そういうこと言うようになったんだな」
「そういうこととは何じゃ」
「いや、いい」
「妙な奴じゃの」
「お前にだけは言われたくない」
悠真は再び歩き出した。ミコトも隣へ並ぶ。
「せっかくじゃ。プリンでも買って帰ろうぞ」
「なんでお前のご褒美みたいになってんだよ」
「映画とやらに付き合ってやったであろう」
「何も見てないけどな」
「走ったぞ」
「俺と凛がな」
「妾も移動したぞ」
「絶対疲れてないだろ」
「疲労した者しかプリンを食べてはならぬという決まりでもあるのか?」
「ないけどさ」
「ならば問題なかろう」
こうなると何を言っても無駄だ。悠真は諦めて、途中のコンビニへ寄ることにした。
*
店を出たあと、近くの小さな公園へ入った。ベンチに座り、買った飲み物の蓋を開ける。隣ではミコトがプリンの容器を手にしていた。
初めて食べた頃のように恐る恐るスプーンを動かすことはもうない。慣れた手つきで蓋を剥がし、一口すくって口へ運ぶ。
「うむ」
「満足?」
「悪くないの」
「その割に毎回食うよな」
「好きなものを食べることに何か問題があるのか?」
「成長したな、お前。最初は好きって何だとか言ってたのに」
ミコトはスプーンを止めた。少しだけ考えてから、「そうであったな」と答えた。
「今は分かるの?」
「少しはの」
「じゃあ今の機嫌いいのも?」
「それは分からぬ」
「分かんねえのかよ」
「分からぬものは分からぬ」
そう言って、またプリンを食べる。呆れながら飲み物を口へ運んだ。そこで、ふと思い出す。
「……今日、ほんと散々だったな。最初、凛の用事で時間ずれただろ」
「うむ」
「しかも電車も遅れたし、映画の予約まで失敗」
「そのようじゃ」
ミコトは平然とプリンを食べ続けている。缶を持ったまま、その横顔を見た。
一つ一つなら珍しくない。家族から急に用事を頼まれることくらいあるし、電車が遅れることもある。予約のシステムに不具合が起きることだって、確率は低いだろうがあり得る。全部同じ日に重なることも、ないとは言えない。
単に運が悪かった。普通ならそれで終わる。
だが、隣にいる少女は普通ではない。人間には見えず、物理的な障害を無視する。過去も未来も、人間とは異なる方向から眺めている。人の人生の数十年先さえ、まるで目の前にある景色のように話す。
「ミコト」
「何じゃ」
「今日こうなるの、知ってた?」
スプーンが止まった。ほんの一瞬だった。すぐにミコトは普通の顔で答える。
「知っておったぞ」
鼓動が早くなる。
「どこまで?」
「どこまで、とは?」
「映画見られないこと」
「知っておった」
「いつから?」
「少し前からじゃ」
思わず黙りこんだ。ミコトはまたプリンを一口食べる。あまりにも自然だった。隠している様子もない。
「……じゃあ、なんで言わなかったんだよ」
「言う必要があったか?」
「いや、だって分かってたなら――」
途中で言葉が止まる。違う、問題はそこではない気がする。
今日一日を思い返した。朝、凛から予定変更の連絡が来た時、ミコトは「そうか」と言った。電車が遅れた時も、「そういう日もあろう」と返した。凛まで遅れてきた時も同じだった。そして映画館へ走る自分たちを見ていた時、一度、ミコトは後ろに立ち止まっていた。
その後、予約の失敗が判明した。さらに、映画へ行けなくなったあとから、ミコトの機嫌が明らかによくなった。
「…………」
偶然。そう考えれば全部説明できる。ただし、隣にいるのが普通の人間なら。
「ミコト」
「先ほどから何じゃ。落ち着きのない奴じゃの」
ミコトは最後の一口を食べ終え、空になった容器を眺めている。
「お前」
一度、言葉を止める。自分でも馬鹿なことを聞こうとしている気がした。未来が見えることと、未来を変えられることは別だ。これまでミコトがそんな能力を持っているとは、一度も聞いていない。
それでも、今日の偶然とミコトの態度、何より凛と出かけることをあれほど気にしていたことが、全部頭の中で一本につながった。
「今日のこと」
ミコトがこちらを見る。金色の瞳と視線が合った。
思い切って聞いた。
「お前、何かした?」
ミコトはこちらを見返した。否定するでもなく、驚くでもない。ただ質問の意味を考えるように首を傾げる。
「何か、とはなんじゃ?」
「今日のことだよ。凛の用事とか、電車とか、映画の予約とか」
「うむ」
ミコトはあっさり頷いた。
「少し縁をほどいただけじゃ」
「…………は?」
あまりに軽い調子だったため、一瞬、自分が何を聞いたのか分からなくなった。
「縁?それ、どういう意味だよ」
「どう、と言われてものう」
ミコトは空になったプリンの容器を持ったまま、少し考える。
「そなたらの言葉へ直すのが難しい」
「いいから説明して」
声が思ったより低くなった。それを聞いて、ミコトがこちらを見る。
「怒っておるのか?」
「まだ分かんない。だから説明して」
「ふむ」
ミコトはベンチから降りた。
公園の中では子供が走り回り、少し離れた場所では親子がボールを投げ合っている。自転車が公園の前を通り過ぎ、道路の向こうでは信号が変わった。そんな何でもない景色へ、ミコトは目を向けた。
「例えば、あの者」
一人の男を指す。仕事帰りらしい格好で、公園前の歩道を歩いている。
「あの者は、このあと店へ寄る」
「それで?」
「そこで飲み物を買う。店に入る時、一人の女とすれ違う。その女は店を出たあと、交差点で友人に会う。友人と話しているうちに予定していた電車へ乗り遅れ、次の電車へ乗る」
「……うん」
「次の電車には別の者がおる。その者と、数年後には共に働くことになる」
「全部見えてる?」
「見えておる」
ミコトには未来が見える。それ自体はすでに知っている。だが今話しているのは、それとは少し違った。
「一つの出来事は、一つで終わっておらぬ。誰かが何かをする。それによって別の者が動き、その者が動けば、さらに別の何かが変わる」
ミコトは指先を軽く動かした。
「それらは無数につながっておる。そなたらの言葉なら……縁、と呼ぶのが近かろう」
「それを、ほどいた。どうやって?」
「どうやってと言われても困るのう」
「そこをなんとか説明してくれ」
ミコトはしばらく考えるそぶりをした。
「妾が何もせぬ場合、今日、凛の母親は別の時刻に買い物を頼んでおった」
思わず体に力が入る。
「それを変えたの?」
「正確には違う。その時刻に頼む可能性も元より存在しておった。そちらへ少し傾けた」
「電車は?」
「安全確認が必要になる可能性があった」
「映画の予約」
「あの機械が処理に失敗する可能性もあった」
「…………」
ミコトは何でもないことのように続ける。
「存在せぬものを作ったわけでも、元あったものを壊したわけでもない。既にある可能性のうち、いくつかを選びやすくしただけじゃ」
言葉を失った。ミコトは嘘をついているようには見えない。そもそも、隠そうとすらしていない。
「なんで」
ようやく出てきた言葉は、それだけだった。
「何故そんなことした?」
「そなたがあの娘と出かける必要がないと思ったからじゃ」
「それを決めるの、お前じゃないだろ」
「何故じゃ?」
本当に分からないという顔だった。そのことが、かえって腹立たしかった。
「なんでって……俺が行くって決めたからだよ」
「じゃが、行けなくとも何も問題はなかった」
「問題あるだろ!凛、楽しみにしてたんだぞ」
「映画を見られなかっただけであろう。別の日に見ればよい」
「そういう問題じゃねえよ」
「では何じゃ」
ミコトは淡々としている。
「凛は傷ついておらぬ。そなたも傷ついておらぬ。映画も消えてはおらぬ。誰かが死んだわけでもない」
「だから!」
思わず声が大きくなった。公園にいた母親が一瞬こちらを見る。すぐに口を閉じた。傍から見れば、誰もいないベンチで空に向かって怒鳴っているヤバい奴だ。
少し声を落とす。
「……俺も行きたかったんだよ」
ミコトが瞬きをした。
「映画館に?」
「違う。凛とだよ」
その瞬間、ミコトが動きを止めた。
「俺が凛と話したかったから、行くって決めたんだよ。映画が面白いとかそういうのだけじゃなくて」
ミコトは黙っている。
「それをお前が勝手に変えるなよ」
数秒間、返事がなかった。公園の向こうで、子供の笑い声が聞こえる。やがてミコトの唇が動いた。
「……妾よりもか?」
一瞬、聞き間違えたと思った。
「そなたは」
ミコト自身も、言葉を探しているようだった。
「妾とおるより、あの娘と話したかったのか?」
「いや、なんでそういう話になるんだよ」
「分からぬ」
「分からないって……」
「妾にも分からぬ」
ミコトは自分の胸元へ手を置いた。先ほど機嫌を確かめた時と同じ仕草だった。
「今、何故そのようなことを聞いたのか、妾にも分からぬ」
眉間に小さく皺が寄る。
「じゃが」
そこで言葉を切る。
「気に入らぬ」
「何が」
「そなたが、あの娘と話したいと思っておることが」
もう何も言えなかった。
昨日までなら、ミコトは凛そのものを気に入らないと言っていた。しかし今の言葉は違う。問題なのは凛ではない。俺自身が凛へ向けているものだった。
「……それでも勝手に変えていい理由にはならないだろ」
「そうなのか?何故じゃ」
「またそれかよ……」
頭を抱えた。そして、ふと思い出した。
「お前、最初の日のこと覚えてる?」
「最初?」
「風呂でのこと」
「そなたが突然騒ぎ出した時か」
言い返しかけて、論点はそこではないと話を戻す。
「あの時言っただろ。全部理由が分からなくても、俺が嫌だって言ったらやめてくれって」
ミコトの表情が変わった。覚えているらしい。
「……覚えておる」
「お前も言ったよな。俺の意思そのものが理由になるのかって」
「言ったの」
「なら今回もそれでいい」
ミコトを見つめながら言った。
「俺が嫌なんだよ」
ミコトは黙った。
「俺が誰と話すかとか、誰と遊ぶかとか、そういうのを勝手に変えられるの」
「…………」
「お前には大したことじゃないかもしれないけど、俺には大したことなんだよ」
ミコトの金色の瞳が、こちらをじっと見つめている。
「だから、もう俺の人間関係を勝手にいじるな」
長い沈黙のあと、ミコトは小さく息を吐いた。
「……善処しよう」
「待て!なんで約束しないんだよ」
「善処すると言っておる」
「それ、約束する気ない奴の言い方だろ」
「人間は便利な言葉を作ったものじゃな」
「感心してる場合じゃねえ!」
怒鳴ると、ミコトは少しだけ笑った。
「笑うな!」
「そなたは忙しいのう。怒ったり困ったり」
「誰のせいだと思ってんだよ」
思わず大きくため息を吐いた。完全に納得したわけではない。むしろ、分からないことが増えた。
未来を見るだけだと思っていたミコトは、未来へ干渉することまでできる。しかも本人には、それがどれほど異常なことなのかという感覚がほとんどない。
今まで、ミコトは正体不明ではあるが、基本的には無害な存在だと思っていた。少なくとも、自分が嫌だと言えば、やめてくれる。そう考えていた。その認識を、少しだけ改める必要があるのかもしれない。
*
その夜、ベッドへ入った悠真は、凛へメッセージを送った。
『今日は残念だったな』
少しして返事が来る。
『ほんとだよ』
『次は絶対見るから』
『前日に予約確認よろしく』
『悠真も確認すること!』
悠真は苦笑しながら、
『はいはい』
と送ると、すぐに、
『返事一回』
と返ってきた。
「しつこいな……」
思わず笑うと、その声を聞いて、窓辺にいたミコトが振り返った。
「何を笑っておる」
「凛」
それだけ答えた。ミコトの顔から僅かに表情が消えた。
「また映画へ行くのか?」
「行くよ」
「今日あれだけのことがあったのに?」
「今日行けなかったからだろ」
「……そうか」
悠真はスマートフォンを置く。
「変なことすんなよ」
「分かっておる」
「ほんとか?」
「善処する」
「それ禁止な」
「注文の多い奴じゃ」
「原因はお前だからな」
電気を消した。暗闇の中でも、ミコトの輪郭は変わらずに見えていた。
「おやすみ」
「おやすみ、悠真」
悠真が目を閉じる。やがて呼吸がゆっくりになっていった。
ミコトはその顔を見ていた。
今日、自分は初めて、世界の形を自分の望む方向へ動かした。これまでも縁へ触れたこと自体はある。だがそれは、そこにあるものを動かしてみただけだった。
今日とは違う。悠真と凛が並んでいる未来が気に入らなかった。だから変えた。そして悠真に怒られた。
『俺が凛と話したかったからだよ』
その言葉がまた浮かぶ。理由は分からない。凛を嫌っているわけではない。あの娘が不幸になればよいとも思わない。
ただ、悠真が凛を見たいと思っている。悠真が凛と話したいと思っている。その事実だけが、どうしても胸の内側に引っかかった。
「……妾よりも、か」
眠っている悠真へ届かないほど小さな声で呟く。以前なら、悠真が自分を見ていないことが、ただ妙だった。それが今は違う。
悠真には、自分を見ていてほしい。悠真が他の誰かを見たいと思うことを、自分は好まない。
ミコトは閉じられた悠真の瞼をしばらく見つめた。やがて、その隣へ腰を下ろす。
「面倒じゃのう」
誰に言うでもなく呟く。
「これが妾か」
返事はない。悠真は眠っている。それでもミコトはそこを動かなかった。