目を開けると、金色の瞳と目が合った。
「……近い」
「そうか?」
「そうだよ」
目の前にあった顔が、ほんの少しだけ遠ざかり、白銀の髪が肩からさらりと落ちた。朝日を透かしたそれは、出会った頃よりもずっとはっきりした輪郭を持っている。
ミコトは俺のベッドの脇に座り、相変わらずこちらを見ていた。
別に珍しいことじゃない。こいつは眠らないし、疲れない。腹も減らない――と言っていたはずなのにプリンだけは食べるようになったが、ともかく睡眠を必要としないから、俺が寝ている間も好き勝手に漫画を読んでいるか、窓の外を眺めているか、あるいはこうして俺を観察している。いつもの朝のはずなのに、妙に落ち着かなかった。
「何じゃ。先ほどから妾の顔ばかり見ておる」
「お前が俺の顔見てるからだろ」
「妾はいつも見ておるぞ」
「それもどうなんだよ」
起き上がりながらそう返しても、ミコトは悪びれもしない。
「そなたは見られることを気にしすぎじゃ」
「人間は普通気にするんだよ」
「知っておる」
「だったらもう少し遠慮してくれ」
「善処しよう」
「その言い方やめろ」
反射的に返してから、少しだけ嫌な気分になった。昨日も聞いた言葉だったし、いや、昨日だけじゃない。俺がこいつに、自分の人間関係を勝手にいじるなと言った時にも、ミコトは同じように「善処しよう」と答えた。
二度としない、とは言わなかった。その事実が今までより重く感じられるのは、たぶん昨日聞かされた話のせいだ。俺がミコトを見つけたのではなく、俺に見られたものがミコトになった。あれから何度思い返しても、いまいち現実味がない。
この銀髪も、金色の目も、偉そうな喋り方も、最初は俺の頭が理解できない何かを勝手に人間の少女として処理した結果らしい。そして俺が名前をつけて、話しかけて、一人の相手として扱っているうちに、本当に「ミコト」という一人の存在になった。プリンが好きなのも、漫画に夢中になるのも、ゲームで負けると怒るのも、俺が作ったわけではない。けれど、それらが生まれるための最初のきっかけを作ったのは、どうやら俺のようだった。
「……何じゃ」
気づけば、また見ていたらしい。
「いや」
「昨日から妙じゃぞ、そなた」
「昨日あんな話聞かされて、気にするなって方が無理だろ」
「そういうものか」
ミコトはしばらく俺を眺めたあと、自分の手へ視線を落とし、指を開いてから閉じる。以前にも何度か見た仕草だった。
「妾には、さほど変わったようには思えぬがの」
ミコトは自分の掌を見ながら言う。
「昨日までの妾と、今日の妾じゃ。妾からすれば何も変わっておらぬ」
「まあ、見た目はな」
「そなたには違って見えるのか?」
「……ちょっとだけ」
「どのように?」
言われて考える。見た目が変わったわけじゃない。昨日と同じ顔で、同じ服を着て、同じ声で話している。それなのに俺の中では、何かが違っていた。
「なんていうか……前より責任感じる。お前がこうなったことに、俺が関係してるって聞いたから」
ミコトの眉がわずかに動いた。
「そなたが責任を負う必要はあるまい。妾がこうなったのは、妾自身が選んだことじゃ。そなたが命じたわけではなかろう」
「まあ」
「ならば妾は妾じゃ。そなたの所有物ではない」
「……なんかお前に言われると複雑だな」
「何故じゃ」
「いや、別に」
その言葉は正しい。俺がきっかけだったとしても、ミコトは俺の所有物じゃない。
*
「今日、駅前寄ってかね?」
一時間目と二時間目の間の休み時間、前の席の友人が振り返って言った。
「駅前?」
「ゲーセン。新しいの入ったって」
「ああ」
もう一人も横から入ってくる。
「この前お前だけ途中から来ただろ。今日は最初からやろうぜ」
「いいけど」
俺が答えると、窓際に腰掛けていたミコトがこちらを見た。誰にも見えない銀髪の少女は、当然のように教師用のロッカーの上に座っている。
「またあそこへ行くのか」
「たまにはいいだろ」
「妾も行くぞ」
「誰も止められないだろ、お前」
「そうじゃな」
ミコトは平然としている。以前だったら、俺が友達と遊びに行くと言えば多少なりとも機嫌が悪くなったはずだ。少なくとも、誰と行くのか、何時間いるのか、妾もいるのに必要なのかと、何かしら言ってきた。けれど今日は何も言わない。それが逆に気になった。
「なんか言わないの?」
「妾が何を言うのじゃ」
「別に」
気のせいかと思い、友人との話に戻った。放課後になったのは、それから数時間後だった。
「悠真、悪い」
帰り支度をしていると、一人が手を合わせた。
「今日無理になった」
「なんで?」
「姉貴から買い物付き合えって連絡来た。車出せる奴いなくなったらしい」
「高校生のお前が車出すわけじゃないだろ」
「荷物持ちだよ。断ると面倒なんだって」
「じゃあ二人で行く?」
俺がもう一人を見ると、そいつも微妙な顔をした。
「俺も駄目かも。部活の奴が一人休んで、人数足りないって。ちょっと手伝ってくれって言われた」
「お前帰宅部だろ」
「中学の時やってたから」
「マジかよ」
「悪い。今度な」
二人は口々に謝りながら教室を出ていき、俺だけが鞄を肩に掛けたまま残った。
「……なんだそれ」
別に珍しいことじゃない。急に予定が変わることなんてあるし、姉に呼ばれることも、昔の部活仲間に頼まれることもある。俺はゆっくりと横を向いた。窓際でミコトが頬杖をついて座り、こちらを見ていた。
「何じゃ?何故妾を見る」
「別に」
「妙な奴じゃの」
そう言ってミコトは窓から降り、俺の隣まで来ると、いつものように歩き出した。
「帰るぞ、悠真」
「お前、なんか機嫌よくない?」
足を止めないまま訊くと、ミコトも歩きながら自分自身を確かめるように少し考えた。
「そう見えるか?ならば、恐らく機嫌がよいのじゃろう」
「なんで?」
「そなたと二人で帰れるからではないか?」
あまりにも普通に言われて、一瞬返事に詰まった。
「……お前、そういうこと平気で言うようになったよな」
「事実を言うて何が悪い」
「悪くないけど」
ミコトは俺を追い越して数歩先へ出ると、こちらを振り返った。銀色の髪が夕方の光に揺れる。
「早くせぬか」
ここ数日で、すっかり日常の中に入り込んだ見慣れた姿だった。俺はその後を追った。
帰り道、ミコトは本当に機嫌がよかった。
別に鼻歌を歌ったり、笑顔を振りまいている訳でもない。そもそもこいつは、俺と出会うまで機嫌というものすら意識したことがなかったような奴だ。それでも、こうも一緒にいれば歩き方や声の調子だけで何となく分かるようになる。今日は明らかに軽い。
「二人で帰るのが好き?」
何となく訊いてみると、ミコトは俺の隣を歩きながら首を傾げた。
「恐らくの。自分の感情というものは、未だ分かりづらいのじゃ。されど、先ほどより今の方が好ましく感じるのであれば、そういうことであろう?」
「まあ、そうだけど」
「ならば妾は、そなたと二人で帰るのが好きなのじゃろう」
相変わらず、妙なところだけ素直だった。告白みたいな台詞を平然と言うくせに、本人にそういう自覚はないらしい。俺がどう返すべきか迷っている間にも、ミコトは特に照れる様子もなく前を向いている。
「……お前、そのうち変な勘違いされるぞ」
「誰にじゃ」
「いや、お前のこと見えるの俺だけだった」
「ならば問題なかろう」
「それはそうなんだけど」
言い返せなくなって、俺も前を向いた。さっきまで一緒にゲーセンへ行くはずだった二人の姿はなく、代わりに俺の横を歩いているのは、他の誰にも見えない銀髪の少女だけだった。
*
家に帰ってからスマートフォンを見ると、凛からメッセージが届いていた。
『この前の映画、今度の土曜どう?』
前回は散々だった。待ち合わせ時間がずれ、電車まで遅れ、挙げ句の果てには映画館の予約までおかしくなった。しかも、そのうち少なくともいくつかは、隣にいるこいつの仕業だった。ソファで俺の漫画を読んでいるミコトへ目をやる。
「何じゃ」
「まだ何も言ってないんだけど」
「見ておったではないか」
「見るくらいいいだろ」
「そなたの眼はそなたのものなのであろう?」
妙に引っかかる言い方だったが、追及するほどでもない。俺はスマートフォンへ視線を戻した。
『いいよ。今度こそ見よう』
そう打って送信すると、メッセージの横に送信済みの表示が出たので、そのまま机へ置いた。
しばらくして風呂に入り、夕飯を食べ、部屋へ戻る。ミコトにゲームで二回負けて、三回目に勝ったところで「もう一度じゃ」と要求され、それに付き合っているうちに時間は過ぎていった。そして、寝る前になってスマートフォンを確認した時、ふと気づいた。
「あれ?凛から返事ないな」
「そうか」
「まあ、別にいいけど」
急ぎの話でもない。風呂に入っているのかもしれないし、勉強でもしているのかもしれない。そう思って、その日は寝たが、翌朝になっても既読はついていなかった。
*
「昨日メッセージ送ったんだけど」
登校して教室へ入る途中、ちょうど廊下で凛と会ったので声をかけた。
「メッセージ?」
「映画。土曜でいいって」
「え?」
凛が足を止めた。
「来てないけど」
「嘘」
「嘘ついてどうするのよ」
凛は鞄からスマートフォンを取り出して画面を確認し、俺も自分の画面を開いた。確かに昨日送ったメッセージは残っている。
「ほら、送ってる」
「ほんとだ。でもこっちにはないよ」
「なんで?」
「知らないよ。通信エラーじゃない?」
「送信済みになってるけどな」
「じゃあアプリがおかしかったとか」
凛は大して気にした様子もなく、もう一度送ってみるように言った。俺もその場で同じ内容を送り直すと、今度はすぐ凛のスマートフォンが震えた。
「来た」
「じゃあ昨日の何だったんだ」
「たまにはそういうこともあるんじゃない?」
「そういうもん?」
「知らないけど」
凛が笑う。
「とりあえず土曜ね。十二時でいい?ちゃんと来てよ」
「前回、遅れたの俺だけのせいじゃないだろ」
「でも悠真なら普通に寝坊しそうだし」
「しねえよ」
そんなやり取りをしながら教室へ入ろうとして、俺は後ろを振り返った。ミコトが少し離れた場所に立ち、俺と凛を見ていた。いつもなら会話へ割り込んできていた。俺の視界に入ろうとするし、映画へ行く必要があるのかと文句を言っていた。でも今日は何も言わなかった。
「……ミコト?」
「何じゃ」
「いや」
「変じゃの。ほれ、行くぞ」
そう言って、いつものように俺の横を通り抜ける。何もしていないし、何も言っていない。それなのに昨日から、何となく引っかかっていた。
*
その日の六時間目、ホームルームで担任から、週末に予定されていた球技大会について話があった。
「体育館の設備点検で問題が見つかったらしくてな。今週の球技大会は延期になった」
教室中から不満の声が上がった。
「マジかよ」
「せっかく練習したのに」
「いつになるんすか?」
「まだ未定だ。あと今日の放課後に予定していたクラス練習も中止。体育館は使用禁止になってるから、各自そのまま帰るように」
担任の説明を聞きながら、俺は机に頬杖をついた。俺自身は球技大会をそこまで楽しみにしていたわけじゃない。ただ、今日は友人たちと放課後に少し残って練習する予定だった。昨日はゲーセンで、今日はクラス練習。二日続けて、放課後の予定がなくなったことになる。もちろん偶然だ。体育館の設備に問題があったのなら仕方がないし、それをミコトと結びつける方がおかしい。そう思いながら、俺は教室の後ろを見ると、窓際に立っていたミコトと目が合った。
「……何じゃ」
声は小さく、授業中だから、俺にだけ聞こえるような距離まで来ている。
「今日、早く帰れるな」
「うむ」
「嬉しい?」
ミコトは少し考えた。
「そなたと過ごす時間が増えるのであれば、妾にとって悪いことではないの」
「……そっか」
「何じゃ、その顔は」
「いや、別に」
「昨日からそればかりではないか」
ミコトは不満そうだったが、俺はそれ以上何も言わなかった。
昨日、友達二人の予定が同時になくなり、夜には凛へのメッセージだけが届かなかった。そして今日は体育館の不具合で放課後の予定がなくなった。一つ一つなら、どれも普通にあり得る。
映画の日だってそうだった。買い物を頼まれることも、電車が遅れることも、予約システムでエラーが起きることも、それぞれなら珍しくない。だからこそ、こいつのやり方は分かりづらい。何もないところから奇跡を起こすわけではなく、最初から存在していた可能性を少し傾けるだけなのだから。
「ミコト。今日の球技大会のこと、お前じゃないよな?」
一瞬だけ、金色の目が俺を見る。
「何故妾に聞く」
「前科があるから」
「失礼な奴じゃな」
「じゃあ違うの?」
ミコトは答えなかった。
「おい」
「そなたは妾が違うと言えば、信じるのか?」
「……それは」
思わず言葉に詰まる。ミコトはそんな俺を見ると、小さく息を吐いた。
「ならば聞いても仕方あるまい」
「いや、そういう問題じゃなくて」
ちょうど担任がこちらを見たので、俺は口を閉じるしかなかった。ミコトはそのまま教室の前へ戻っていく。否定しなかった。ただ、それだけが妙に胸に残った。
*
その日の夕方、さらに予定が変わった。
「ごめんね、悠真。今日、お母さんいないから」
帰宅するなり、母さんが申し訳なさそうに言った。
「どっか行くの?」
「おばあちゃんのところ。ちょっと手伝ってほしいことがあるって連絡が来てね。今日は泊まって、明日の夕方には帰ってくると思う。晩ご飯は作ってあるから。温めて食べて」
「父さんは?」
「それが、お父さんも今日から出張なのよ。言ってなかった?」
「聞いてない」
「あれ? 昨日決まったから、まだ言ってなかったかも」
母さんは慌ただしく荷物を確認しながら説明する。父さんの出張先で急に人手が必要になり、二泊することになったらしい。母さんの方も、祖母が体調を崩したというわけではなく、家の片付けを手伝ってほしいと頼まれただけだった。何もおかしくないし、どちらも普通の用事だ。けれど玄関先で母さんを見送り、扉が閉じた瞬間、家の中がやけに静かになった。
テレビの音もなければ、台所から食器の触れ合う音もせず、父さんと母さんの声も聞こえない。普段なら気にしたことすらない生活音が、なくなって初めて妙に大きなものだったと気づく。
「ずいぶん静かになったのう」
背後から声がして振り返ると、ミコトが廊下に立っていた。俺と目が合うと、金色の瞳をわずかに細める。
「今宵は、二人きりじゃな」
その言葉だけなら、少し前の俺なら呆れて終わっていたと思う。でも今は違った。昨日は友人、今日は学校、凛との連絡、そして家族と、俺の周りから少しずつ何かが減っている。
「……ミコト」
「何じゃ?」
ミコトはいつもと変わらない顔でこちらを見る。俺はしばらくその顔を見つめたが、結局、口にしかけた言葉を飲み込んだ。
「いや。何でもない」
「またそれか」
ミコトは不満そうに眉を寄せた。まだ証拠はない。ただの偶然かもしれないと、そう思おうとした。
母さんが出ていったあと、俺はしばらく玄関に立っていた。鍵の閉まる音がやけに大きく響き、それが消えると家の中は完全に静かになった。外を走る車の音や、どこかの家から聞こえる犬の鳴き声まで普段よりはっきり聞こえる。
「いつまでそこにおる」
背後からミコトに声をかけられ、俺はようやく靴を脱いだ。
「別に」
「またそれか」
「今考えてるんだよ」
「何をじゃ」
「いろいろ」
ミコトはそれ以上訊かなかった。リビングへ入り、冷蔵庫から母さんが作っておいた夕飯を取り出す。電子レンジへ入れている間も、ミコトはいつものように俺の後ろをついてきた。
何も変わらない。いつもと同じ家で、いつもと同じようにミコトがいる。違うのは、他の人間が一人もいないことだけだった。温め終えた夕飯をテーブルへ並べながら、俺はポケットからスマートフォンを取り出した。
「何をしておる」
「凛に連絡」
ミコトの視線がスマートフォンへ向く。
「朝、土曜に映画行くって決めただろ。時間の確認」
「学校で話せばよかろう」
「明日でもいいけど、今できるんだから今する」
「そうか」
それだけ言って、ミコトは椅子へ腰掛けた。俺は画面を開く。
『土曜、駅前十二時でいいよな?』
入力して送信ボタンを押そうとしたところで、指が滑った。
「あ」
スマートフォンが手から落ちる。反射的に掴もうとしたが間に合わず、端末はテーブルの角へぶつかったあと、床へ落ちた。乾いた音が響く。
「うわ、最悪」
慌てて拾い上げた。見ると画面は真っ黒になっている。電源ボタンを押しても何も起こらない。
「……嘘だろ」
もう一度長押しするが、反応はなかった。充電が切れたとは考えにくい。学校を出た時にはまだ半分以上残っていた。念のため充電器を差し込んでみるが、それでも画面には何も表示されない。
「壊れたのか?」
横から覗き込んだミコトへ、俺は答えなかった。
スマートフォンを見て、それからミコトを見る。もう一度スマートフォンへ目を落とす。
偶然、手が滑っただけだ。落としたのも俺だし、壊れたのだって打ちどころが悪かっただけだろう。そんなことは分かっている。けれど、この二日間に起きたことが頭の中へ次々と浮かんだ。
ゲーセンへ行くはずだった友人二人に、それぞれ別の予定が入った。凛へ送ったメッセージは届かず、放課後のクラス練習は体育館の不具合でなくなった。父さんには急な出張が入り、母さんにも祖母の家へ行く用事ができた。
そして今、凛へ連絡しようとしたスマートフォンが壊れた。どれもあり得る。何もしなくても起こり得ることばかりだ。だからこそ疑わしい。それは、こいつが一番得意とするやり方だった。
「ミコト」
「何じゃ」
俺は壊れたスマートフォンをテーブルへ置いた。
「全部お前か?」
ミコトは俺を見る。
「全部とは?」
「とぼけんなよ」
自分でも思った以上に低い声が出た。
「昨日のあいつらの予定。凛へのメッセージ。球技大会。父さんの出張。母さんの用事。それと、これ」
最後にスマートフォンを指す。
「お前がやったのか?」
ミコトは少しも慌てなかった。言い訳もしなければ、考える時間さえ必要としなかった。
「うむ」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「……は?」
「妾じゃ」
「お前……」
あまりにも簡単に認められたせいで、用意していたはずの言葉が出てこない。
「何で」
ようやくそれだけ絞り出す。
「何でこんなことしたんだよ」
ミコトは俺の質問の意味が分からないというように首を傾げた。
「そなたの周りは騒がしすぎる。朝になれば家族がおる。外へ出れば友がおる。学校へ行けば教師も生徒もおる。あの娘もおる。帰ってからも、それを使って誰かと話しておる」
ミコトは俺を真っ直ぐ見ている。
「そなたは、妾ではないものへ向ける時間が多すぎる」
「だから減らしたって?」
「そうじゃ」
「ふざけんな」
「何故じゃ?」
本気で分からないらしい。その顔を見た瞬間、腹の底から苛立ちが湧いてきた。
「前に言っただろ。俺の人間関係を勝手にいじるなって」
「覚えておる」
「だとしたら何やってんだよ!」
「人間関係そのものを壊してはおらぬ」
ミコトは落ち着いた声で答えた。
「そなたの友は、今もそなたの友であろう。父と母も変わらずそなたの親じゃ。あの娘も、そなたを嫌うようにはしておらぬ」
「そういう問題じゃないだろ」
「では、どういう問題じゃ」
ミコトは立ち上がり、俺の前まで来た。
「妾は誰の心も変えておらぬ。記憶も奪っておらぬ。そなたを嫌わせてもおらぬ。ただ、少し会う機会を減らしただけじゃ」
「それを人間関係いじってるって言うんだよ!」
「何故じゃ?今日会わずとも、明日会えばよかろう。今日話さずとも、友でなくなるわけではあるまい」
「そういう一回一回が大事なんだよ。友達と遊んだり、家族と飯食ったり、凛と話したりすることだよ。そういうの全部ひっくるめて関係なんだろ」
ミコトは黙って聞いている。理解しているようには見えなかった。
「お前から見たら、誰と誰がどう繋がってるかなんて最初から見えてるのかもしれないけどさ、人間は違うんだよ。会って、話して、一緒に何かして、それを積み重ねるんだ」
「会わぬ日が一日増えた程度で、その積み重ねが消えるのか?」
「消えない。でも、お前が勝手に決めていいことじゃない」
この前も同じ話をしたはずだった。映画を見られなかったことそのものに怒ったんじゃない。俺が凛と出かけると決めたのに、ミコトが勝手にその結果を変えたから怒った。あの時より、今回はずっとひどい。一つの予定ではなく、俺の日常そのものへ手を入れ始めている。
「お前、どこまでやった?スマホも壊したんだろ」
「壊した、という表現は正しくないの。そなたが手を滑らせる可能性は元からあった。落とした場所が悪く、壊れる可能性も存在しておった。妾はそれが生じやすいよう、少し縁へ触れただけじゃ」
「それを壊したって言うんだよ!」
声が家の中へ響いた。普段なら母さんにうるさいと怒られるくらいの声だったが、今日は誰もいない。それに気づいた瞬間、余計に腹が立った。
「父さんの出張も?」
「元より、そなたの父が行く可能性はあった」
「母さんは?」
「祖母から頼み事をされる可能性があった」
「体育館も?」
「設備が傷んでいたのは妾のせいではない。今日見つかる可能性を選びやすくしただけじゃ」
「友達は?」
「あの者たちにも、それぞれ別の用事が存在しておった」
淡々と答えるミコトを見ているうちに、背中が冷たくなっていく。映画の時より規模が大きい。いや、それだけじゃない。こいつは俺が言わなければ、このまま続けるつもりだったのではないか。
「凛へのメッセージも、お前か。朝送り直した時は届いただろ」
「そなたがその場で送り直すとは思わなんだ」
「じゃあ失敗したってこと?」
「失敗?」
ミコトは不思議そうに瞬きをした。
「そなたとあの娘が話す機会が少し減ればよいと思うただけじゃ。届いたのであれば、それはそれで構わぬ」
「構わないなら最初から何もすんなよ」
「何故じゃ?」
また同じ言葉だった。俺にとっては説明するまでもないことが、こいつには本当に分からない。ミコトは少し考え込むように目を伏せ、それから静かに続けた。
「誰も消してはおらぬ。誰も傷つけておらぬ。そなたの父も母も無事じゃ。友も無事。あの娘も無事。学校も明日になれば変わらず存在しておる」
そこでミコトは俺を見上げた。
「ただ、そなたとの縁を少し薄くしただけじゃ」
その言葉を聞いて、ようやく分かった。こいつは何も学んでいないわけじゃない。むしろ、学んだからこそやり方を変えたのだ。俺が「人間関係を勝手に変えるな」と言ったから、関係そのものは壊さなかった。友達を俺から嫌わせることも、家族の気持ちを変えることも、凛の記憶を消すこともしなかった。
ただ、会わなくした。話せなくした。一緒にいる時間を減らした。
本人なりに、俺の言葉を守っているつもりなのだ。
「……ミコト。お前、本気でこれが悪くないと思ってるの?」
出会ったころとは違い、ミコトはプリンを食べれば嬉しそうにして、ゲームで負ければ本気で悔しがり、漫画の続きが気になって夜通し読むような少女になっていた。けれど同時に、人生を結ぶ因果へ手を伸ばし、本人にさえ気づかれないままその形を変えられる存在でもある。そして今、その力を使う理由が、以前よりはっきりしている。
ミコトは俺から目を離さないまま、静かに言った。
「妾には、そなたが何故そこまで他の者を必要とするのかが分からぬのじゃ」
ミコトの声に怒りはなかった。ただ本当に理解できないものを前にして、その理由を尋ねているだけの声だった。
「何故って……」
答えようとして、言葉に詰まる。友達がいるから遊び、家族だから一緒に暮らす。凛とは昔からの付き合いだから話すし、学校には行かなければならないから、そこで教師やクラスメイトとも関わる。俺にとっては、どれも説明する必要すらないほど普通のことだった。
「必要だから必要、じゃ駄目なのかよ」
「答えになっておらぬ」
「じゃあ、お前はどうなんだよ。プリンだって別に食わなくても生きていけるだろ。漫画だって読まなくていいし、ゲームだってやらなくていい。それでもやるだろ?」
「好きだからじゃ」
「同じだよ」
ミコトが僅かに目を細める。
「俺だって友達と話すのが楽しいし、家族と一緒にいるのも普通に好きだし、凛と話すのだって嫌じゃない。何でも必要かどうかだけで決めて生きてるわけじゃないんだよ」
「ならば、妾と話すのは?」
「嫌ならとっくに追い出そうとしてる」
「追い出せぬであろう」
「そうだけど!」
こんな時でも余計なところだけ正確だ。思わず声を荒らげると、ミコトはほんの少しだけ口元を緩めたものの、その表情はすぐ消え、俺をじっと見つめる。
「では、妾とおることも好ましいのじゃな?」
「……まあ」
「妾を見ることも?」
「嫌じゃないよ」
そこだけは否定する理由がなかった。最初は迷惑でしかなかったし、授業中に話しかけられて困ったことも何度もある。それでも、いつの間にかミコトがいること自体は日常になっていた。朝起きれば部屋にいて、学校へ行けばついてくる。帰れば漫画を読み、プリンを要求し、ゲームをすれば負けて怒る。いなくなったら、たぶん困る。
そんなことを考えていると、ミコトが静かに言った。
「ならば、なおさら分からぬ。そなたには妾がおる」
まるで、それだけで十分なはずだと言うような口調だった。
「それとこれとは別だろ」
「何故別なのじゃ」
ミコトは困ったように眉を寄せ、しばらく沈黙したあと、その金色の瞳を真っ直ぐ俺へ向けた。
「悠真。そなたは昨日、妾へ問うたな。もしそなた以外にも妾を認識できる者がおれば、そなたでなくともよかったのではないか、と」
昨日の会話が蘇る。俺がそう訊いた時、ミコトは即座に否定した。
「覚えてるよ」
「ならば分かっておろう。妾にとって、そなたは他の者と取り替えられる存在ではない」
ミコトは自分の胸元へ手を置いた。
「妾は元より、この姿ではなかった。名もなく、この声も、この口調も、今のような妾という境界さえなかった」
白銀の髪が肩から滑り落ちる。
「そなたが妾を見た。そなたが話しかけた。そなたが名を与え、妾として扱った。その中で、妾はこのようになった」
「それは昨日聞いた」
「ならば分かるであろう?」
ミコトは一歩近づいた。
「そなたはこの宇宙で唯一、妾を妾として見ることのできる者じゃ」
俺は何も答えなかった。それは、昨日聞いた話から考えれば間違っていない。仮に俺と同じような人間がどこかに現れても、そいつが見る高次元存在が今のミコトになるとは限らない。俺が見たからこの姿になり、俺が名前をつけたからミコトになった。だからこそ、今のミコトにとって俺は代わりがいない。
「凛には、そなた以外の者がおる。あの娘には父も母もおる。友もおる。そなた以外とも話し、笑い、これから先も多くの者と出会うであろう」
何を言い出したのか分からず、黙って聞く。
「そなたの友も同じじゃ。そなたがおらずとも、他の友がおる。父も母も互いがおり、仕事があり、知人がおる。教師に至っては、そなた以外にも数え切れぬほどの生徒がおる」
ミコトの言葉は淡々としていて、誰かを憎んでいるようには聞こえない。むしろ、人間同士の関係をただ事実として並べているだけだった。
「皆、そなた以外にも多くを持っておる」
「だから何だよ」
「妾には、そなたしかおらぬ」
思わず息を止めたが、ミコトは悲しそうにはしなかった。孤独を訴えているわけではない。
「昔から寂しかったって話なら、それは違うっていってただろ」
「そうじゃ。そなたと出会う以前の妾は、誰にも見られぬことを何とも思うておらぬかった。そもそも妾という一個の存在として見られたいなどという望みすらなかったからの」
「じゃあ――」
「今は違う」
言葉を遮られた。静かな声だった。
「そなたが妾を見つけ、妾というものを生じさせた。妾に名を与え、好きというものを教え、怒りも、悔しさも、見られていたいという望みも生じた」
ミコトはもう一歩距離を詰めた。
「今さら、そなたがおらぬ頃へ戻れと言われても、妾にはできぬ」
金色の瞳が俺の目を覗き込む。
「その妾にとって唯一のそなたが、一日の大半を妾ではないものへ向けておる」
「……だからって」
ミコトの瞳に、俺の姿が映っている。
「そなたはこの宇宙でただ一つ、妾を妾として見ることのできる者じゃ。ならば、その眼を他のものへ向けさせる理由がどこにある?」
ぞくりと背中が冷えた。
ようやく分かった。こいつが凛に嫉妬しているだけなら、まだ理解できた。俺が凛と二人で映画へ行くことが気に入らないというだけなら、面倒ではあっても人間の感情として考えられる。だが違う。こいつにとっては凛だけではなく、友達も、家族も、学校も、俺が見るものすべてが同じ場所に並び始めている。
「それ、本気で言ってんの?」
「無論じゃ」
迷いはなかった。ミコトは俺の目の前まで来ると、ほんの少し顎を上げた。
「妾だけを見ておれ」
命令するような言葉なのに、その声は穏やかだった。
「無理だ」
考えるより先に答えていた。ミコトの表情が止まる。
「……何故じゃ」
「さっきから言ってるだろ。俺には家族も友達もいる。凛もいるし、学校だってある。お前だけ見て生きていくなんて無理だ」
「妾が嫌いだからか?」
「違う」
即答すると、ミコトの目が僅かに動いた。
「お前を見ないって言ってるんじゃない。俺はお前とも話すし、ゲームだってするし、プリンだって買ってやる」
「では何故」
「お前だけじゃないからだよ」
ミコトは黙った。
「俺は他の奴とも話したい。遊びたいし、一緒に飯も食いたい。それをお前が勝手に減らすのは違う」
「妾といる時間が減ってもか?」
「それを決めるのも俺だ」
「……そなたが?」
「そうだよ」
何度言えば伝わるのか分からなかったが、ここだけは譲れない。
「俺の目は俺のものだ」
ミコトの瞳が僅かに見開かれた。
「誰を見るかは俺が決める。お前を見るか、凛を見るか、友達を見るか、それをお前に決められたくない」
言い終えると、リビングは急に静かになり、冷蔵庫の作動音だけが聞こえた。ミコトは怒りも反論もせず、しばらく俺を見つめてから、ゆっくり視線を下げた。
「……そうであったな」
その声は、今までより少し小さかった。
「そなたの眼は、そなたのものじゃ」
この前も似たようなことを言っていた。あの時のミコトは、ただ新しい事実を理解したような顔をしていたが、今は違う。初めて自分の欲しいものが、自分だけのものではないと知らされたような顔だった。
胸の奥が少し痛んだ。
「別にさ、お前を見ないって言ってるわけじゃないから」
ミコトが顔を上げる。
「俺はお前を見るよ」
「……本当か?」
「何でそこで確認するんだよ」
「答えよ」
「見るって。明日も多分いるんだろ、お前」
「おる」
「じゃあ普通に見るよ」
するとミコトの表情がほんの少し緩んだ。それだけで機嫌が変わるのだから単純な奴だと思いかけて、すぐに考え直す。単純なのではなく、こいつにとってそれほど重大なのだ。
「でも、お前だけを見るのは無理だからな」
念を押すと、緩んだ表情が元へ戻った。
「……分かっておる」
本当に分かっているのかは怪しかった。
*
結局、その日の夕飯は冷めていた。途中まで温めていたことすら忘れて口論していたのだから当然だ。もう一度電子レンジへ入れ直していると、ミコトが冷蔵庫を指差した。
「プリンは?」
「この状況でよく要求できるな」
「プリンと今の話に何の関係がある」
「ないけどさ」
冷蔵庫を開けると一個だけ残っていたので、仕方なく渡す。
「一個しかないからな」
「妾の分じゃな」
「俺が買ったんだけど」
「そなたは今、食べたいのか?」
「別に」
「ならば妾のものじゃ」
「どういう理屈だよ」
いつもと同じ会話だった。ミコトはいつもと同じようにスプーンを持ち、いつものようにプリンを食べている。ほんの少し前までなら、それを見て呆れるだけだったと思う。今はどうしても、別のものまで一緒に見えてしまう。
目の前にいるのは、人間みたいな好みを覚えた少女であると同時に、俺が気づかないまま友人との予定を消し、家族を遠ざけ、学校の予定まで変えられる存在でもある。
そして何より、こいつは本気で俺だけいればいいと思い始めている。
*
夜、ベッドへ入ってからもなかなか眠れなかった。壊れたスマートフォンは机の上に置いたままだった。明日になれば修理へ持っていけばいいし、学校へ行けば友達にも凛にも会える。父さんも数日で帰るし、母さんも明日の夕方には戻ってくるのだから、今のところ何も失ってはいない。ミコトの言った通りだ。なのに、自分の周りにあるものがいつでもこいつの都合で遠ざけられると知ってしまうと、同じ日常には思えなかった。
「ミコト」
窓辺にいたミコトが振り返る。
「何じゃ」
「明日は何もすんなよ」
「何も、とは?」
「俺の友達とか家族とか、凛とか。勝手に縁いじるな」
「……うむ」
「本当だな?」
ミコトは少し考えたあと、俺を見る。
「そなたへは、何もせぬ」
「俺へは?」
「寝るのであろう。早う寝よ」
「いや、今の言い方――」
「おやすみ、悠真」
強引に会話を終わらされた。引っかかったものの、眠気もあってそれ以上追及する気力がなく、俺は布団へ潜り込んだ。目を閉じる直前、最後に見えたのは、いつものようにこちらを見ている金色の瞳だった。
*
悠真の呼吸が一定になるまで、ミコトは動かなかった。
眠った悠真から自分が見えていないことは、以前なら強い不安を生んだ。しかし今は、目を開ければ再び自分を見ると知っている。
「そなたの眼は、そなたのもの……か」
小さく呟きながら、ミコトは眠る悠真を見つめる。
悠真が誰を見るかは彼自身が決める。そしてその選択を奪えば、悠真は嫌がる。言われたことは理解できるのだから、それならば選択を奪わなければよい。
「妾だけを見ろと命じるから、嫌なのじゃな」
悠真へ何かをする必要も、心を変える必要も、誰を見るかという選択を奪う必要もない。悠真は好きなものを見ればいい。ただ、もし友が忙しくなれば会う機会は減り、家族に別の生活があれば同じ時間を過ごさなくなる。学校で誰も悠真への用がなくなれば話しかける者も減る。あの娘が悠真との関係を必要としなくなれば、悠真が彼女を見る理由もやがて少なくなる。
今日まで行ったことは、ただ一時的に遠ざけただけだった。関係そのものは残っているからこそ、悠真はそれを追いかけようとした。ならば、どうすればいいのか。
ミコトは窓の外へ目を向けた。
夜の街には数え切れないほどの灯りがあり、その一つ一つに人がいる。誰かと誰かが関わり、その小さな出来事がまた別の出来事へつながっていく、人間には見えない無数の因果が、ミコトには巨大な構造として見えていた。
無数の縁からある条件のものを探す。いくつかの縁が、互いに絡まり合いながら久世悠真とつながっていた。
「なるほどの」
ミコトは静かに呟いた。
「そなたが妾だけを見るよう強いる必要など、なかったのじゃ」
悠真自身は変えなくていい。自由でいればいいし、誰を見るかも、誰と話すかも、自分で決めればいい。ただ、その周りから少しずつ選ぶ必要のあるものがなくなり、最後に自分だけが残っていれば、それでいい。そうすれば悠真は、自分の意思でこちらを見る。
「それならば、そなたの眼はそなたのものじゃ」
ミコトは満足したように小さく頷くと、眠る悠真へ視線を戻した。
「妾は何も奪わぬよ」
金色の瞳が静かに細められる。
「そなたが、妾以外を見る必要のないようにすればよいだけじゃ」
悠真へと伸びる縁を眺めながら、ミコトはどこからほどくべきかを考え始めた。