目を開けると、ミコトがいた。
いつもの場所だった。ベッドの脇、手を伸ばせば届きそうな距離に腰を下ろし、金色の瞳で俺を眺めている。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、腰まで伸びた白銀の髪に重なっていた。
「起きたか」
「ああ」
まだ眠気の残る頭で答えながら天井を見ると、昨日の夜のことが嫌でも浮かんできた。友人との予定が消え、凛へのメッセージが届かず、学校行事が延期され、父さんと母さんまで家を空けた。そのうえスマートフォンまで壊れた。
全部、ミコトだった。正確には、すべての出来事を一から作ったわけではないらしい。元々存在していた可能性を傾けて、俺と周囲の人間が関わる機会を減らした。それを本人は、大したことだと思っていなかった。
――妾には、そなたしかおらぬ。昨日聞いた言葉がやけに頭に残っている。俺は横目でミコトを見た。
「何じゃ。先ほどから妾の顔を見ておる」
「見ちゃ悪いのかよ」
「妾はむしろ好ましいが」
あまりにも平然と言われて、返事に困った。昨日までなら軽口として流せていたかもしれない。でも今は、その言葉がミコトにとってどういう意味を持つのか知っている。今のミコトを、ミコトとして見ることのできる人間は俺しかいない。単に好きな相手が一人しかいない、という話じゃない。こいつは俺に見られたことで、今のような姿になった。俺が名前をつけ、話しかけ、ひとりの相手として接したことで、今ここにいる「ミコト」ができた。
「……昨日言ったこと、覚えてるよな」
「どれじゃ。そなたとは昨日も随分と長く喋っておったぞ」
「俺の友達とか家族とか、凛とか。勝手に縁いじるなって話」
ミコトが一度瞬きをした。
「覚えておる。妾はそなたほど物忘れが激しくはない」
「そこじゃなくて」
俺は上半身を起こした。
「今日は何もするなよ」
ミコトが少しだけ首を傾ける。
「何も?」
「そう。何も」
「呼吸もか?」
「お前呼吸してないだろ」
「そうであった」
「揚げ足取るなよ」
ミコトが小さく笑った。最近、こういう表情が増えた。最初に会った頃なら、そもそも冗談を言う理由すら理解していなかったはずだ。それが今では、わざと俺の言葉の穴を見つけて遊ぶことまで覚えている。
その変化を嬉しいと思う気持ちは、今でもある。だからこそ厄介だった。
「とにかく、俺の周りを勝手に変えるな」
「分かっておる」
「本当だな?」
「くどいのう」
ミコトは立ち上がると、ベッドの端へ一歩近づいた。
「そなたが誰を見るかは、そなたが決めるのであろう?」
「……そうだよ」
「誰と話すかも、誰と遊ぶかも?」
「そう」
ミコトは満足したように頷いた。
「ならば妾も理解した」
少しだけ肩の力が抜けた。昨日はどうなることかと思ったが、少なくとも話は通じたらしい。
「そなたの選択を、妾が変える必要はない」
「……ん?」
何かが引っかかった。
「今、なんて言った?」
「そなたの選択を変える必要はない、と言ったのじゃ」
俺は眉を寄せた。
「俺の周りの人に何もしないって話だよな?」
「朝から細かい男じゃな」
「細かくもなるだろ。昨日の今日だぞ」
ミコトは答えず、代わりにカーテンへ顔を向けた。
「支度せぬと遅刻するぞ」
「誤魔化した?」
「八分後に家を出れば、いつもの時間の電車に間に合う」
「おい」
「七分五十二秒」
「秒数更新すんな」
しばらくミコトを睨んでいたが、時計を見て諦めた。本当に時間がなかった。制服へ着替えて鞄を持ち、階段を下りる。ミコトも当然のようについてきた。
*
「おはよう」
台所へ入ると、母さんが振り返った。
「おはよ」
いつも通りだった。母さんはフライパンから卵を皿へ移しながら、テレビの朝番組を見ている。その光景を見て少し安心しながら、俺は椅子を引いた。
「今日、弁当ないからね」
「知ってる」
「購買で買って」
「だから昨日俺が言ったじゃん。今日昼までだから弁当いらないって」
母さんの手が止まった。
「そうだった?」
「そうだったって……昨日言っただろ」
「そうだっけ」
母さんは笑いながら首を傾げた。
「ごめんごめん。最近ちょっと忘れっぽくて」
それだけだった。別に珍しい会話じゃない。親が子供の予定を一つ忘れるくらいなら何もおかしくないし、俺だって母さんから頼まれたことを忘れるなんていくらでもある。
「まあ、いいけど」
皿へ手を伸ばしかけて、俺は止まった。目玉焼きと焼いたベーコンが載っている。
「これ、逆じゃない?」
「何が?」
「父さん目玉焼きで、俺スクランブルエッグじゃん」
母さんがこちらを見る。
「そうだっけ?」
「ずっとそうだろ」
「あんた目玉焼き嫌いだった?」
「嫌いじゃないけど」
「じゃあいいじゃない」
「……まあ、そうだけど」
母さんはもう気にしていなかった。テレビへ視線を戻し、ニュースに相槌を打っている。俺は目玉焼きを箸で割った。半熟の黄身が皿へ流れていく。別にまずくはないのに、なぜか落ち着かなかった。向かいに立っているミコトを見ると目が合った。
「今のそなたは、不快というほどではないが、少し気に入らぬことがあったという顔じゃな」
「……よく分かるな」
「毎日見ておるからの」
何でもないことみたいに言う。母さんは当然、その声には反応しない。テレビを見たままだ。俺は目玉焼きを口へ運びながら、もう一度母さんを見る。
「……気にしすぎか」
急いで朝食を食べ終え、家を出ることにした。
*
外へ出ると、朝の空気はもう湿っていた。昨日までの出来事が嘘みたいに、住宅街にはいつもの景色が広がっている。自転車で駅へ向かう高校生がいて、犬を散歩させている老人がいて、ゴミを出して家へ戻る近所の人がいる。
その中を、ミコトが俺の横について歩いていた。誰もミコトを見ない。前ならその光景だけでも異常だったのに、今ではすっかり見慣れてしまった。
「なあ。本当に何もしてないよな」
「朝から三度目じゃぞ」
「母さん、なんか変だった気がする」
「母親というものは、息子の朝食を間違えれば異常なのか?」
「そういう意味じゃないけど」
「では気のせいであろう」
正論だった。こいつに正論を言われると、なぜか余計に不安になる。
「お前に正論言われると不安になるんだよ」
「理不尽じゃな」
「昨日までの実績考えろ」
駅へ続く道へ出たところで、前方に見覚えのある後ろ姿を見つけた。同じクラスの友人だった。前に一緒にゲームセンターへ行った二人のうちの一人だ。
「おーい」
声をかけると、そいつが振り返った。
「あ、悠真」
普通だった。その反応を見て、俺は無意識に息を吐いていた。
「何だよ、先行くなよ」
「え?」
「いや、いつもこの辺で会ったら一緒に行くだろ」
「あー……そうだっけ」
友人は笑った。ただの軽口に聞こえる。
「寝ぼけてんの?」
「いや、なんか今日急いでてさ」
俺はそいつの横へ並んだ。普段ならここから、昨日見た動画だとかゲームだとか学校だとか、どうでもいい話が自然に始まる。それなのに今日は何もなかった。友人はスマートフォンを眺めながら歩いている。仕方なく俺から話を振った。
「昨日の英語の課題やった?」
「やった」
「マジで? 珍しい」
「昨日暇だったし」
「あれ最後の問題意味分かんなくなかった?」
「そう?」
「お前、あそこ解けたの?」
「まあ」
そこで会話が途切れた。数秒くらい黙って歩くことなら今までもいくらでもあったし、毎朝ずっと喋っているわけでもない。それでも何かが変だった。こいつの方から、俺へ何も返ってこなくて、話を続けようという感じがない。前から別の男子生徒が歩いてきた。
「あ、おはよ」
友人が自分から声をかける。
「昨日のあれ見た?」
「ああ、見た見た」
途端に会話が始まった。さっきまで黙ってスマートフォンを見ていたのに、今度は普通に話している。歩く速度も少し上がり、気づけば二人が横に並び、俺だけが半歩ほど後ろになっていた。別に仲間外れにされたわけじゃない。一歩速く歩けば、すぐに追いつける距離だ。なのに俺は数秒、そのまま二人の背中を見ていた。
「悠真」
隣から声がしたので振り向く。ミコトがいた。いつもと同じように、俺だけを見ている。
「何じゃ、その顔は。置いていかれたような顔をしておるぞ」
「置いてかれてねえよ」
「そうか?」
「普通だって」
「ならばよかろう」
ミコトはそれ以上何も言わなかった。俺は少し歩調を速め、友人たちに追いついた。
*
教室へ入った瞬間、また小さな違和感があった。俺の机の上に鞄が置かれている。さっきとは別の友人のものだった。
「おい」
「ん?」
「それ俺の席」
そいつは机を見てから、俺を見る。
「あ」
すぐに鞄を持ち上げた。
「悪い」
「いや、別にいいけど」
「そこ悠真の席だったな」
「毎日座ってるだろ」
「そうなんだけどさ」
友人は笑いながら自分の席へ戻っていった。俺はしばらく机を見下ろした。昨日まで毎日同じ場所に座っていた。席替えをしたわけでもない。
「……何なんだよ」
「今日は随分と独り言が多いのう」
ミコトが机の横へ立つ。
「お前のせいじゃないよな」
「またその話か」
「だって変だろ」
「何が?」
「母さんもそうだし、あいつらも」
「朝食を間違えた。一緒に登校しなかった。机へ鞄を置いた」
ミコトは指を折るように数えていく。
「偶然が重なったのであろう」
「その台詞、お前が言うと最悪なんだよ」
ミコトが不思議そうな顔をした。
「お前が偶然を重ねられるからだよ!」
思わず声が大きくなった。近くにいたクラスメイトがこっちを見る。
「久世、どうした?」
「いや……何でもない」
「そう?」
そいつはそれだけ言うと、すぐに友人との会話へ戻った。俺は小さく息を吐き、席へ座った。ミコトが机の端へ腰掛ける。
「授業が始まるぞ」
「分かってる」
担任が教室へ入ってきて、ホームルームが始まった。いつものように、出席番号順に名前が呼ばれていく。
「相川」
「はい」
「伊藤」
「はい」
何度も繰り返してきた朝だった。
「久……」
担任の声が止まった。一瞬名簿へ視線を落とし、それから顔を上げる。
「久世」
「……はい」
返事をすると、担任は何事もなかったように次の名前を呼んだ。
俺の名前を忘れたわけでもない。顔だって分かっている。誰にでもある一瞬のど忘れ、それだけのはずだった。なのに背中を、冷たいものがゆっくり這っていくような感覚がした。横を見るとミコトがいた。近くに立って俺を見ている。
目が合うと、ミコトは静かに微笑んだ。何度も見た笑顔だった。ただ今日は、それがなぜか妙に穏やかに見えた。まるで俺の周りで何が起きていようと、自分には何一つ心配することなどないとでもいうようだった。
*
一時間目が始まってからも、朝から続いている違和感を頭の隅から追い出せなかった。
母さんが朝食を間違えたことも、友人がいつものように話しかけてこなかったことも、別の奴が俺の席を忘れていたことも、担任が名前を呼ぶ時に一瞬詰まったことも、一つずつなら大したことじゃない。たまたま同じ朝に重なっただけだと言われれば、それまでだ。でも俺のすぐ近くには、その「たまたま」を意図的に重ねられる奴がいる。
黒板の前では数学教師が二次関数について説明していて、その少し横にミコトが立っていた。教師が時折ミコトの身体と重なっているのに、当然そちらは何も気づかない。俺が見ていると、ミコトはすぐにこちらを向いた。
「……何じゃ」
声には出さず、口の動きだけで聞いてくる。俺は首を振った。授業中に会話すれば、周りから見れば一人で喋っているだけだ。ミコトは少し不満そうな顔をしたものの、それ以上は話しかけてこなかった。
ミコトは、俺が嫌がったことを何でも無視するわけじゃない。授業中に話しかけるなと言えば一応守るし、風呂場から出ろと言えば出ていく。俺に怒られたことだって覚えている。人の言うことを理解できないわけじゃない。理解したうえで、どうしてか俺とは全然違う答えに辿り着く。それが一番厄介だった。
*
昼休みになって、違和感はもっと分かりやすい形になった。
「なあ、今日どこで食う?」
いつも一緒に昼飯を食べている二人へ声をかけると、二人とも普通に振り返った。
「ああ、悠真。俺らここで食うけど」
「じゃあ俺もここでいいや」
「うん」
拒絶されたわけではなかった。俺が椅子を持って近づいても嫌な顔なんてされない。でも、二人の机だけが向かい合っていて、俺が座る場所は用意されていなかった。普段なら何も言わなくても三人で机を寄せる。誰がどこに座るかなんて決めたこともない。それでも自然と三人分の場所ができていた。今日は自分で机を動かして、二人の横につなげた。
「……俺、邪魔?」
「え?」
「いや、なんでもない」
二人とも、本気で俺が何を言っているのか分からない顔をしていた。購買で買ったパンを食べながら話を聞いていると、話題が最近出た格闘ゲームになった。
「そういや、駅前のゲーセンに新しい筐体入ったらしいぞ」
「マジ? 今度行こうぜ」
「いいな」
俺は思わず二人を見た。
「俺も行く」
「ああ、いいよ」
すぐ返事は来た。でも、その返事がおかしい。いつもの三人で行こうという話ではなく、たまたま近くで聞いていた奴に「俺もいい?」と言われて受け入れたような感じだった。
「……なあ」
「何?」
「俺ら、この前も三人で行ったよな」
箸を持っていた友人の手が止まった。
「何が?」
「ゲーセン」
「ああ」
「この前行ったじゃん。駅前の」
「行ったっけ?」
一瞬、冗談かと思った。
「いや、行っただろ。三人で」
二人が顔を見合わせる。
「あー……行ったような気はする」
「俺もいた?」
「いたよ。お前が一番ゲームやってただろ」
「そうだっけ」
「格ゲーで俺にボロ負けしてたじゃん」
「いや、それはないだろ」
笑いながら返されたので、少しだけ安心した。でも、そのあと友人が何気なく言った。
「てか俺、悠真と対戦したことあったっけ?」
「……は?」
「学校で話してるのは分かるんだけど、ゲーム一緒にやった記憶があんまないんだよな」
もう一人まで首を傾げる。
「俺はゲーセン行ったのは覚えてる」
「だろ?」
「でも誰と行ったっけ」
「俺だよ」
二人を見る。
「俺と、お前ら二人」
「ああ……」
返ってきたのは、妙に曖昧な相槌だった。俺がそう言うから、一応そうだったことにしておこう。そんな顔に見えた。
「本当に覚えてないの?」
「なんとなくは……」
「なんとなくって何だよ」
「そんな怒るなって」
「怒ってねえよ」
自分でも分かるくらい声が低くなった。教室の端を見ると、ミコトが窓際に立って、俺を見ている。目が合っても、逸らそうとしなかった。
「……そうだ」
俺は友人へ向き直った。
「スマホ見せて」
「何で?」
「この前、ゲーセンで写真撮っただろ」
「撮ったっけ?」
「撮ったよ。お前が勝手に」
不審そうにしながらも、そいつはスマートフォンを取り出した。写真一覧をしばらく遡ったところで指が止まる。
「あった」
「見せて」
受け取って画面を見る。三人で撮った写真が、ちゃんとそこに残っていた。ゲームセンターの筐体を背景に、俺が真ん中にいて、その左右に今目の前にいる二人がいる。
「ほら」
画面を二人へ向けた。
「俺いるだろ」
「あ、本当だ」
その一言で、背中が冷たくなった。
「本当だ、じゃねえよ」
「いや、だって覚えてなかったし」
「写真まで撮ってんだぞ」
「そうみたいだな」
そいつは画面を拡大して、本当に初めて見る写真みたいに眺めている。
「ああ、これ俺だ」
「当たり前だろ」
「こいつもいるな」
「だから三人で行ったって言ってんだろ!」
思ったより大きな声が出た。周囲の何人かがこっちを見る。
「どうしたんだよ、悠真。今日なんか変だぞ」
「変なのはお前らだろ」
「何が?」
その問いに、すぐ答えられなかった。写真は残っていて、三人でゲームセンターへ行った事実も消えていない。二人ともゲームセンターへ行ったこと自体は覚えている。なのに、その中から俺だけが抜けている。いや、完全に消えているわけじゃない。写真を見れば「いた」と分かる。でも、それだけだった。
「……返す」
スマートフォンを机に置いて立ち上がる。
「悠真?」
「悪い。ちょっと出てくる」
そのまま教室を出た。振り返らなくても、ミコトがついてきているのは分かっていた。
*
人の多い廊下を抜け、あまり使われていない階段の踊り場まで来てから振り返る。
やっぱりミコトがいた。数段上に立って、いつもと変わらない顔で俺を見ている。
「お前だろ」
なるべく声を抑えた。
「朝からずっと変だった。母さんも、あいつらも、先生も。今度はゲームセンターのことまで忘れてた」
「そうか」
「そうかじゃねえよ。写真に俺が写ってんのに、俺と行ったこと覚えてないんだぞ」
ミコトは黙っている。
「何した?」
「妾はそなたには何もしておらぬ」
「またそれかよ。俺じゃなくて、周りにだよ」
「そなたの母も友人も、そなたを忘れてはおらぬではないか。名を知っておる。顔も分かる。そなたが話しかければ返事もする」
「でも一緒に遊んだことは忘れてただろ」
「忘れた、という表現は正確ではない」
俺は一瞬、言葉を失った。今のは否定じゃなかった。
「……やっぱり何かしたんだな」
ミコトは答えなかったが、それで十分だった。
「何した」
「そなたが昨日言ったことを考えた」
「俺が?」
「そなたの眼は、そなたのもの。誰を見るかはそなたが決める、と。妾も理解した。故に、そなたが誰を見るかも、誰へ話しかけるかも、誰と過ごしたいと思うかも変えておらぬ」
ミコトは少しだけ間を置いた。
「これまでは、そなたが他の者と会う機会を減らしておった」
「それをやめろって言ったんだろ」
「しかし、それでは足りなかった」
ぞっとする言い方だった。
「会えぬなら、そなたは会おうとする。予定が潰れれば別の日を選ぶ。話せぬなら、また話そうとする」
凛との映画もそうだった。予定が一度潰れたって、凛との関係がなくなるわけじゃない。友達との予定が流れたって、また遊べばいい。それは当たり前のことだ。ミコトは、その当たり前を理解したらしい。
「そなたにとって関係とは、一つの出来事ではないのじゃな」
「……だから?」
「故に」
ミコトは俺を見たまま言った。
「少し、ほどき始めた」
背筋に冷たいものが走った。
「何を」
「そなたと、他の者たちとの間にあるものを」
「縁を、切ったのか?」
「切ってはおらぬ。それでは急すぎる」
「じゃあ何だよ」
ミコトはまるで大した違いだとでも言うように答えた。
「薄くしておるだけじゃ」
俺はしばらく何も言えなかった。ゲームセンターへ行ったという出来事は残っている。写真だってある。なのに、その思い出の中で「俺と一緒だった」という部分だけが意味を失い始めている。
「それ……記憶消してるのと同じだろ」
「違うの」
返事はすぐだった。
「妾は誰の記憶にも触れておらぬ」
「同じだよ。俺とのこと思い出せなくなってんだぞ」
「出来事は残っておる。先ほども、写真を見れば認識できたであろう?」
「それを忘れてるって言うんだよ!」
ミコトは少し考えるように俺を見た。
「そなたらの言葉では、そう呼ぶのかもしれぬな」
「だったら――」
「だが、妾がしていることとは違う」
静かな声で言い切った。
「妾はただ、そなたと他の者を結ぶ縁を薄くしておるだけじゃ」
その言葉を聞いて、ようやく朝から感じていた違和感の正体が分かった気がした。みんな俺を知っている。でも、俺を思い出さなくなっている。そこにいることは分かっているのに、自分から俺を見る理由だけが、少しずつ消えている。
そして俺の目の前には、その逆みたいな奴がいる。朝起きた時から今まで、一度だって俺を見失わなかった奴が。
「……戻せよ」
そう言うと、ミコトは俺の顔を見たまま、静かに首を横へ振った。
「嫌じゃ」
あまりにも迷いのない返事だった。
「……何でだよ」
「今の方がよいからじゃ」
「誰にとって」
「妾にとって」
即答だった。俺が何も言えずにいると、ミコトはいつもの落ち着いた声で続ける。
「そなたが朝起きれば、最初に妾を見る。学校へ行く時も妾がおる。教室でも、先ほどのように妾を見る。他の者がそなたを呼ばねば、その分そなたは妾を見るであろう?」
「だから何だよ」
「妾は、それを好ましいと思う」
ようやく分かった。これが朝からこいつが妙に穏やかだった理由だ。昨日までは俺が凛と話せば不機嫌になり、友達と遊べば間に入ってきた。でも今日は違う。そもそも向こうから俺へ寄ってこないのだから、割り込む必要がない。
「……最悪だな、お前」
口からそのまま出た。一瞬だけミコトの表情が止まったように見えたが、怒りはしなかった。
「そうかもしれぬな」
静かに答える。
「だが、妾は今、とても穏やかじゃ」
その言葉を聞いたところで、昼休み終了の予鈴が鳴った。
*
放課後、俺はわざと誰にも声をかけずに帰り支度をした。普段なら誰かが「帰る?」くらいは聞いてくる。特に予定がなくても駅まで一緒に行ったり、途中でコンビニへ寄ったりすることもある。だが今日は誰も来なかった。
朝一緒に歩いてきた奴は別の男子と話しながら教室を出ていき、昼休みに写真を見せてもらった奴も別の友人と笑いながらいなくなった。俺は鞄を持ったまま少し待った。誰か一人くらい、俺がまだいることに気づくかもしれない。
結局、誰も振り返らなかった。
「帰らぬのか?」
横からミコトの声がする。
「……帰るよ」
教室を出て、階段を降り、昇降口まで歩く。それでも誰からも声をかけられなかった。別に嫌われているわけじゃない。目が合えば普通に会釈されるし、俺から話しかければ返事も来る。ただ、誰も自分から俺を選ばない。透明人間になったわけじゃなく、ちゃんと見えているのに、視界に入った次の瞬間にはどうでもいいものとして頭の外へ押し出されているようだった。
*
家へ帰ると、母さんが居間で洗濯物を畳んでいた。
「ただいま」
「あ、おかえり」
いつもの返事だった。それだけなら安心できたはずなのに、今は何を言われても疑ってしまう。
「母さん」
「ん?」
「今日、俺早く帰るって言ったの覚えてる?」
母さんは少し考えた。
「ああ……そうだったわね」
朝にも同じ話をしたばかりなのに、思い出すまでに間があった。
「昨日、夕飯カレーにするって言ってなかった?」
「私が?」
「言ってたよ」
「そうだったっけ」
悪びれる様子もなく笑っている。胸の奥がざわついた。
「小学生の時、家族で海行ったの覚えてる?」
「急にどうしたの?」
「いいから。俺、そこで何した?」
「何って……」
答えが出てこない。俺は覚えている。小学四年生の夏、父さんと沖まで泳ごうとして足がつかなくなった。父さんに助けてもらって、母さんには本気で怒られた。その夜は日焼けした背中が痛くてほとんど眠れなかった。
何年も家族の笑い話になっていたことだ。
「俺、溺れかけただろ」
「そうだった?」
「父さんが助けてくれて、母さんめちゃくちゃ怒ったじゃん」
「……そうだったかなあ」
「写真あるだろ」
棚からアルバムを取り出してページをめくると、すぐに写真が見つかった。海辺で、子供の俺が父さんと母さんの間に立っている。
「ほら」
「ああ、本当だ」
母さんは写真を見て笑った。
「懐かしいね」
思い出せないわけじゃない。証拠があれば、起きたことは分かる。でも、昼休みの友人と同じだった。俺と一緒に経験した出来事として、自分から思い出せなくなっている。顔を上げると、居間の入口にミコトが立っていた。
「……お前」
「何?」
母さんがこっちを見る。
「いや、何でもない」
アルバムを閉じて、自分の部屋へ向かった。
*
「母さんにまでやる必要あったか」
部屋へ入るなり聞くと、ミコトは窓際で俺を見た。
「必要かどうかで言えば、あった」
「父さんも?」
「同じじゃ」
額を押さえる。
「お前さ、家族って分かってる?」
「そなたを生んだ者と、その配偶者であろう」
「そういう意味じゃねえよ」
家族が何なのか説明しようとして、少し困った。毎日顔を合わせて、飯を食って、くだらないことで怒られる。昔の失敗をいつまでも覚えていたり、体調が悪ければ心配されたりする。結局それも、これまでミコトに話してきた「関係」の積み重ねだった。
「俺が何好きだったとか、昔何したとか、そういうの覚えてるのも家族なんだよ」
「ならば妾が覚えておる。昨日そなたが夕飯を温めすぎたことも、ゲームで妾に負けた時に操作が悪いと言い訳したことも覚えておるぞ」
「してねえよ」
「した」
「いや、あれはコントローラーが――」
言いかけて止まった。ミコトの口元が少し上がっている。
「ほれ、妾は覚えておる」
「そういう問題じゃないって」
「そなたの母が忘れるなら妾が覚えておればよい。父が忘れるなら、それも妾が覚えておる」
「母さんの代わりにお前が覚えてても、母さんが俺を忘れたことはなくならないだろ」
ミコトは少し考えてから、まるで簡単な解決策を見つけたように言った。
「では、妾がもっと多く覚えればよい」
「……違うって」
「そなたの過去を妾は知らぬ。だが、これからならすべて見ておける」
ミコトが俺の前まで来る。
「明日も、その次の日も、その先も。これまでを知らぬなら、これからのそなたをすべて妾が見ればよいではないか」
とんでもないことをしているはずなのに、その声は優しかった。ミコトは本当に、それで俺の失うものを全部埋められると思っているらしい。
*
翌日の二時間目、教師が言った。
「じゃあ四人組作って」
一斉に机が動き始める。俺もいつもの二人の方を見たが、もう遅かった。二人とも別の奴らと机を寄せていた。周りにも次々と四人組ができていき、俺だけがその場に残る。
教師が教室を見回して、ようやく俺に気づいた。
「あれ、久世余ってるのか。そこの班、五人でやって」
「あ、はい」
指定された班の奴らは嫌な顔もせず、普通に場所を空けてくれた。
「悠真、ここ座れば?」
「ありがと」
優しかった。だから余計にきつかった。俺が一人で残っていることに、教師から言われるまで誰も気づいていなかった。
*
放課後、俺はすぐに教室を出た。
「どこへ行くのじゃ」
追ってくるミコトには答えなかった。凛を探していた。友達ですらここまで薄くなっている。母さんも、昔の思い出を自分から思い出せなくなった。でも凛は違う。幼稚園からずっと一緒だった。小学校も、中学も、今の高校も同じで、人生の大半にこいつがいる。それまで薄くなるなんて、さすがにないと、そう思いたかった。
昇降口へ向かう途中で、別の女子と歩いている凛を見つけた。
「凛!」
振り返って、目も合った。でも、そのまま少し黙っている。いつもなら「何?」とか「急に大声出さないでよ」とすぐ返してくるのに、今日は俺が誰なのか確かめるように顔を見ていた。
「……どうしたの?」
声はいつもの凛だった。でも遠い。
「今日、一緒に帰らない?」
「今日?」
「うん」
「あ、ごめん。今日はこの子と寄るところあって」
「そっか」
それで会話を終わらせようとする。
「凛、土曜」
「土曜?」
「映画」
凛の表情が止まった。
「映画?」
「約束しただろ。この前行けなかったから、今度こそって」
「ああ……」
しばらく考えてから頷く。
「なんか、そんな話した気がする」
指先が冷たくなった。
「気がするって何だよ」
「ごめん。私もなんか変で」
「何が」
「悠真のこと」
名前を呼ばれたのに、安心できなかった。
「俺?」
「昔から知ってるのは分かってるの。一緒の学校だったのも覚えてる。でも……なんでこんなに知ってるんだっけっていうか」
「は?」
「写真とか思い出すと、確かにいるんだよ。悠真が」
「俺はずっといただろ。幼稚園からだぞ」
「そうなんだよね」
「小学校も中学も一緒だっただろ」
「分かってる。でも、なんか……人の話みたいで」
凛は困ったように笑った。
「自分の記憶って感じがしない」
何も言えなかった。背後にミコトが来た気配がした。
「凛、俺のこと、誰だと思ってる?」
「誰って……悠真でしょ」
「それだけ?」
「それだけって?」
「幼馴染だろ」
「あー……」
その一音だけで十分だった。即答できなかった。
「ごめん。なんか今日、本当に変で」
「……いいよ」
「悠真……」
凛はそこで一度言葉を止めた。
「悠真……君?」
胸の奥から、何かが抜け落ちたような気がした。十年以上一緒にいた凛が、俺を君付で呼んだ。俺は少しの間何も言えず、結局、
「……そっか」
としか返せなかった。
凛が友人と一緒に歩き去り、廊下の角へ消えるまで見送ったあと、俺は振り返った。そこには、やっぱりミコトがいた。
「戻せ」
「何をじゃ」
「全部だよ。友達も、家族も、凛も」
ミコトの目を見る。
「全部戻せ」
ミコトは俺から視線を逸らさなかった。
「嫌じゃ」
また同じ答えだった。
「凛が俺のこと分かんなくなってんだぞ」
「名も顔も分かっておった」
「そういう問題じゃないだろ。幼馴染だったことすらすぐ出てこなかったんだぞ」
「その結びつきが薄くなったのであろうな」
他人事みたいな声だった。
「何でそんな普通に言えるんだよ」
「妾にとっては困ることではないからじゃ」
「俺が困ってる!」
「それも知っておる」
「だったら戻せよ!」
ミコトは俺の目を見たまま、静かに首を振る。
「そなたには何もしておらぬ」
「だから、それが――」
「そなたは自由じゃ」
思わず黙った。
「水瀬凛へ話しかけることもできた。友人へ話しかけることも、家族と話すこともできる。そなたが誰を見るかも、誰と過ごすかも、妾は変えておらぬ」
「向こうが俺を忘れていったら意味ないだろ」
「それでも、そなたの選択はそなたのものじゃ」
こいつは本気で言っている。昨日俺が言った「俺の目は俺のものだ」という言葉を、守っているつもりなんだ。
「何も奪っておらぬよ」
「奪ってるだろ。俺を見てくれる人を」
ミコトが一度瞬きをした。
「ならば、妾がおる」
「……は?」
「妾はそなたを見る」
ゆっくり俺へ近づいてくる。
「朝起きた時も、学校にいる時も、家へ帰った時も、眠る時も。そなたが何を言ったかも、何を好むかも、何を嫌うかも、妾は忘れぬ」
「だからって」
「父が忘れるなら妾が覚えておる。母が忘れるなら妾が覚えておる。友人がそなたを必要とせぬなら、妾が必要とする」
「凛は?」
「同じじゃ。水瀬凛が忘れても、妾は忘れぬ」
ミコトの手が俺の袖へ伸びた。白い指先が制服の布を摘む。最初に会った頃なら、その指は俺の身体も服もすり抜けていた。物を持つだけでも不安定だったはずなのに、今はしっかり掴んでいる。
「それでよいではないか」
「よくないだろ」
「何故じゃ?」
「何度言わせるんだよ」
「妾には分からぬ」
見上げてくる顔は、本当に不思議そうだった。
「皆がそなたから離れれば、妾は誰かがそなたを奪うのではないかと考えずに済む」
そこで気づいた。ミコトは笑っていた。
凛と俺が話している時に見せていた不機嫌さも、友達と遊んでいる時の苛立ちもない。今までで一番と言っていいくらい、穏やかな顔だった。俺の周りから人がいなくなっていくほど、こいつは安心している。
「二人だけなら」
袖を掴む指に少し力が入った。
「誰にも邪魔されぬ」
脅しているようには聞こえなかった。本当に、それが一番幸せな形だと思っている声だった。
*
それから数日が経った。俺は世界から消えてはいなかった。
学校へ行けば席も出席番号も残っている。先生は名簿を見れば俺の名前を呼ぶし、コンビニへ行けば店員は普通に会計をしてくれる。道を歩いていても、向こうから来た人はぶつからないように避ける。誰にでも見えている。ただ、誰の中にも残らない。友達は同じクラスの奴として俺を知っているけど、休み時間に向こうから話しかけてくることはほとんどなくなった。俺から話を振れば普通に笑うのに、次の日には昨日何を話したのか自分から思い出そうともしない。
凛も同じだった。廊下ですれ違えば、俺の顔を見て軽く会釈する。それだけだ。嫌われているわけじゃないのが、逆につらかった。家でも少しずつ俺の場所が薄くなっていった。父さんも母さんも俺が息子だということは分かっている。それでも帰宅時間を気にされたり、夕飯の好みを聞かれたりすることは減っていった。
ある日、学校から帰ると母さんが出かける準備をしていた。
「おかえり」
「ただいま。どっか行くの?」
「お父さんと外で食べてくるの。遅くなるから」
「そうなんだ」
「じゃあ、行ってくるね」
玄関まで行った母さんが、一度振り返った。
「あれ?」
「何?」
「……何でもない」
そのまま扉が閉まった。嫌な予感がして冷蔵庫を開けた。俺の夕飯はなかった。
「……マジか」
「何もないのか?」
隣からミコトが冷蔵庫を覗く。
「見れば分かるだろ」
「卵があるぞ。肉も野菜もある」
「全部材料な」
「ならば作ればよいではないか」
「誰が?」
「そなたが」
「お前は?」
「妾は見ておる」
「一番楽な立場取るな」
文句を言うと、ミコトは少し考えた。
「では妾もやろう」
「料理できんの?」
「知識はある」
「嫌な予感しかしないな」
*
予感は当たった。
「待て待て待て!」
玉ねぎを切ろうとしているミコトの手首を慌てて掴んだ。
「何じゃ」
「何で指まで一緒に切ろうとしてんだよ!」
「切れてはおらぬ」
「今止めたからな!」
「止めずとも切れておらぬ」
「未来見ながら料理すんな!」
「便利ではないか」
「料理で使う能力じゃないだろ!」
包丁を取り上げ、代わりにフライパンを任せる。
「油入れて」
「これか?」
「それ醤油だ」
「似たようなものであろう」
「全然違うわ」
「人間の調味料は多すぎるのじゃ」
「高次元存在が醤油に負けんなよ」
「妾の存在次元と調味料の識別に何の関係があるのじゃ」
「……ないな」
自分でもおかしくなって、笑った。
「何がおかしい」
「いや、お前、最初に会った時よりだいぶアホになったなと思って」
「無礼な!」
ミコトが頬を膨らませる。その顔を見て、また笑ってしまった。出来上がった野菜炒めはかなり塩辛かったけど、二人で文句を言い合いながら食べた夕飯は、悔しいくらい楽しかった。
そのあとゲームもした。最初の頃はコントローラーの持ち方さえ怪しかったミコトが、今では普通に俺を負かしてくる。
「これで七勝六敗じゃ」
「数えてんのかよ」
「当然じゃ」
「最初の頃の連敗も数えろよ」
「過去の栄光に縋るとは見苦しいのう」
「誰が教えてやったと思ってんだ」
ミコトは得意そうに胸を張った。
「妾は努力というものを覚えたのじゃ」
「ゲームで?」
「勝ちたかったからの」
その言葉に、少しだけ引っかかった。
勝ちたい。
悔しい。
もう一度やりたい。
最初に会った頃のミコトには、そんなものはなかった。
「……そっか」
「何じゃ?」
「いや、何でもない」
その時は、それ以上考えなかった。
*
夜になって、今度はミコトがプリンを食べたいと言い出した。二人でコンビニへ行き、帰り道に高台の公園へ寄った。夜景の見えるベンチへ座ると、ミコトが買ったプリンの蓋を開ける。
「静かじゃな」
「車めちゃくちゃ走ってるけど」
「そういう意味ではない」
ミコトは街を見た。
「妾たちの周りが、じゃ」
言われてスマートフォンを見る。何の通知もない。
友達からゲームに誘われることも、母さんから帰宅時間を聞かれることも、凛からどうでもいいメッセージが来ることもない。確かに静かだった。
そのまま夜景を見ていると、肩に何かが触れた。ミコトが頭を預けていた。
「重い」
「嘘をつけ。ほとんど重さなど感じぬであろう」
「雰囲気だよ」
「ならば我慢せよ」
どかそうとは思わなかった。夜風は気持ちいいし、隣ではミコトがプリンを食べている。誰かに予定を合わせなくていい。誘いを断って気まずくなることも、約束を忘れて怒られることもない。
ミコトは俺を忘れない。何を言っても聞いているし、どこへ行ってもついてくる。俺がどれだけくだらないことを言ったって、こいつにとっては意味がある。
――これでもいいんじゃないか。
ほんの一瞬、本気でそう思った。
「どうした?」
「……何でもない」
少し前のミコトなら、俺が別の誰かを見ただけで不機嫌になっていた。でも今は、ひどく穏やかだった。
「なあ、ミコト」
「何じゃ」
「お前、今幸せ?」
ミコトは少し考えた。
「今日はそなたと飯を作った。ゲームもした。プリンも食べておる。そして今も、そなたが妾を見ておる」
満足そうに目を細める。
「おそらく、これがそなたらの言う幸福なのであろうな」
「友達がいなくなっても?」
「妾がおる」
「家族が俺のこと気にしなくなっても?」
「妾は気にする」
「凛が俺を忘れても?」
「妾は忘れぬ」
全部、同じ答えだった。
「俺に必要なもの、全部お前が代わりになれるって思ってる?」
「なれぬか?」
本気で分かっていない顔だった。
「……俺はさ、他人と関わりたいんだと思う」
「妾も他人じゃぞ」
「お前だけって意味じゃない」
うまく説明できるか分からなかったけど、言葉を探した。
「友達に知らなかったゲーム教えてもらったり、父さんと喧嘩したり、母さんに怒られたり、凛に助けてもらったり。知らない奴と話して嫌な気分になることだってある」
「嫌なことまで必要なのか?」
「それも含めてだよ。誰かと関わったら、何かしら変わるだろ。自分が間違ってたって気づくこともあるし、傷ついたり、逆に誰か傷つけて謝ったりもする」
そこで、さっきのゲームの会話を思い出した。
「……お前だってそうだろ」
「妾?」
「最初のお前、プリン好きだった?」
「いや」
「ゲームで負けて悔しがった?」
「そのようなものはなかった」
「漫画の続き気にしたり、俺に怒ったり、勝ちたいから練習したりした?」
ミコトが黙る。
「全部、俺と会ってからだろ」
金色の目を見る。
「お前だって、俺と関わったから変わったんじゃん」
しばらく返事がなかった。
「俺がお前を見なかったら、今のお前はいなかった」
ミコトから聞いた言葉を思い出す。俺があいつを見つけたわけじゃない。俺に見られたものが、ミコトになった。
「俺がお前を見て、名前をつけて、話して、ゲームして、喧嘩して、それで今のお前になったんだろ」
「……そうじゃ」
「だったら俺も同じだよ」
街へ目を向ける。
「友達も、父さんも母さんも、凛も、先生も。もっとどうでもいい奴らも、全部関わって今の俺になったんだよ」
名前も覚えていない奴との会話や、昔の喧嘩だって、多分どこかには残っている。
「それを全部なくして俺だけ残しても、それって今までの俺と同じなのか?」
ミコトは答えなかった。こいつがこんなに長く黙るのは珍しかった。
「そなたは……妾がおるだけでは、そなたではなくなると言うのか」
「お前も必要だよ」
ミコトが顔を上げる。
「お前と会わなかった俺と、今の俺は違う。お前がいなかったことには、もうできない」
「では、妾はそなたにとって何なのじゃ?」
「俺を変えた奴の一人」
「……妾も、そなたに必要か?」
「必要だと思う」
その瞬間だけ、ミコトの顔が少し明るくなった。
だからこそ、そのまま続けた。
「でも、お前だけじゃない」
表情が止まる。
「俺はお前を見るよ。これからも見る」
「……うむ」
「でも、お前だけを見ることはできない。それはお前を大事にしてないからじゃない」
今はほとんど俺とつながっていない街を見た。
「俺が俺でいるために、他の奴も必要なんだよ」
長い沈黙のあと、ミコトは自分の手へ目を落とした。
「……関わることで、変わる。そなたが妾を変えたように、他の者もそなたを変えた」
「うん」
「そして、これからも変える」
「多分な」
否定は返ってこなかった。
「戻してくれる?」
しばらく待った。
「ミコト」
「……今は、嫌じゃ」
俺は小さく息を吐いた。
「そっか」
「妾にも……考える時間が要る」
「未来全部見える奴が?」
「これは未来の話ではない」
そう言って、ミコトは胸元へ手を置いた。それ以上は何も言わなかった。俺も黙って夜景を見る。すぐに何かが変わったわけじゃない。それでも、さっきまでとは少し違う沈黙だった。
その時だった。視界の端で、ミコトの姿がおかしくなった。
「……え?」
慌てて隣を見る。白銀の髪も、金色の目も、いつも通りだった。なのに一瞬だけ、その輪郭の向こうに何かが見えた。
奥ではない。上でも下でも、右でも左でもない。そんな言い方しかできなかった。
この世界には存在しないはずの方向へ、ミコトの身体が伸びていた。人の形に収まっていた何かが、一瞬だけ外へはみ出したように。
「……ミコト?」
「何じゃ?」
ミコトがこちらを見る。もう何もなかった。
「今……」
「どうした?」
俺はしばらくその輪郭を見つめた。
「いや……何でもない」
「そうか」
ミコトはまた夜景へ顔を向けた。それを見て俺も前を見る。
街は変わらず光っていて、車も走っている。遠くでは誰かが笑っている。
何も壊れていないはずなのに、その時だけは、この世界の形そのものがどこかで小さく軋んだような気がした。