目を開けるより先に、誰かがいる気配がした。もっとも、そんなものはここ最近ずっと同じだった。
薄く目を開いた。カーテンの隙間から入り込んだ朝の光が、部屋の中を淡く照らしている。その光を背負うようにして、ベッドの脇に小さな少女が立っていた。
白銀の髪。金色の瞳。古めかしい衣装。
ミコトだった。
「……おはよう」
「うむ。おはよう、悠真」
見慣れた姿だった。見慣れすぎて、もはや彼女が人間ではないことの方が現実味を失いつつある。
目覚めた瞬間に銀髪の少女が部屋に立っていれば、それだけで一日の始まりとしては十分異常だったはずだ。それが今では、いない方が違和感を覚えるかもしれない。そう考えてから、昨夜のことを思い出した。
ミコトの向こう側に、一瞬だけ見えた何か。後ろではなかった。上でも下でもない。奥行きとも違う。人間が普段使っている言葉のどれを当てはめても間違っていると分かる、存在しない方向へ伸びていく何か。
昨夜は疲れているのだと思うことにした。今、目の前にいるミコトはいつも通りだ。
「何じゃ」
見つめていたらしい。ミコトが首を傾げた。
「いや」
「先ほどから妾の顔を見ておる」
「見ちゃ悪いのかよ」
「悪いとは言うておらぬ」
むしろ、その返答にはほんの少しだけ満足そうな響きがあった。
悠真は身体を起こし、枕元のスマートフォンへ手を伸ばした。七時十二分。いつもの時間だった。
「……考え、まとまった?」
画面を見ながら尋ねる。何についてか説明する必要はなかった。ミコトは一瞬だけ黙った。
「まだじゃ」
その言葉を聞いて、スマートフォンから目を離した。
昨夜、他人と関わるから人間は変わるのだと話した。嬉しいことばかりではない。喧嘩もする。傷つけることもあれば、傷つけられることもある。そのたびに考え方が変わり、知らなかったものを知り、昨日までとは少し違う自分になる。
そして、それはミコト自身も同じだった。
俺に出会わなければ、今のミコトは存在していない。プリンが好きなことも、漫画の続きを読みたがることも、ゲームで負けて悔しがることも、自分を笑ったことに腹を立てることも、全部、誰かと関わった結果だ。他者との関係など必要ないと言って悠真の周囲から人間を遠ざけながら、現在のミコト自身が俺との関係によって生まれた。そこを指摘した時、ミコトは初めて何も言い返せなくなった。
「じゃあ」
ベッドから降りた。
「まだ戻してないんだな」
ミコトの金色の瞳が、わずかに横へ動いた。
「……うむ。戻しておらぬ」
「そっか」
怒鳴る気にはならなかった。昨日散々話したのだ。それでもミコトが戻せないと言うなら、同じ言葉を繰り返しても仕方がない。ただ、納得したわけではない。
「早く戻してくれよ」
「分かっておる」
「本当に?」
「……分かろうとしておる」
妙な返事だった。けれど、以前ならまず出てこなかった言葉でもあった。俺はそれ以上言わず、制服へ着替えるためクローゼットを開けた。
*
「悠真、今日学校だった?」
味噌汁を飲もうとしていた手が止まった。
「……は?」
向かい側で母さんが不思議そうな顔をした。
「何?」
「いや、今なんて?」
「今日、学校だったっけって」
「平日なんだけど」
「ああ」
母さんは時計を見た。
「そうだったね」
それだけ言って、何事もなかったように自分の朝食へ戻る。箸を持ったまま母親を見た。テーブルの横には父さんの弁当が置かれている。母さんは朝からいつも通り弁当を作り、父親が家を出る時間も覚えていた。なのに、自分が学校へ行くかどうかだけ曖昧だった。
「昨日も行ったけど」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
「最近ちょっと忙しくてねえ」
そう言って笑った。普通の物忘れと言われれば、それまでだった。以前ならそう考えただろう。しかし今は、その理由を知っている。俺と母さんを結んでいたものが薄くなっている。親子だという事実そのものが消えたわけではない。名前も分かる。息子だとも分かる。ただ、その間を埋めていた無数の細かいものだけが、少しずつ抜け落ちている。
「悠真」
横から声がした。顔を向けると、ミコトが立っていた。
「その顔は好かぬ」
「どんな顔だよ」
「ひどく悲しそうじゃ」
「当たり前だろ。母さんに忘れられてんだから」
言ってから、少し空気が止まった。ミコトは何も返さなかった。以前なら、そこで何か言ったかもしれない。妾なら覚えておる。妾ならそなたの好きなものも知っておる。妾だけでよいではないか。少なくとも昨日までのミコトなら、そんな言葉へたどり着いても不思議ではなかった。けれど今日は何も言わない。ただ、母さんと俺を交互に見ていた。
「……行ってきます」
「はいはい。気をつけて」
普通にそう答えた。昔から何千回と繰り返してきたような挨拶なのに、その一言だけが妙に遠かった。
*
家を出て十分ほど歩いたところで、足を止めた。
「どうした?」
隣を歩いていたミコトも止まる。
「いや……」
横断歩道の向こう側にコンビニがある。毎日通学路で見ている店だ。赤と緑を使った看板。その横にクリーニング店。二階には小さな学習塾。いつもの風景だった。
信号が青になり、一歩踏み出した。その瞬間、コンビニの看板が変わった。
「……え?」
青い看板。知らない名前。ガラス張りの店内には、コンビニではなく書店の棚が並んでいる。
けれど同時に、その店を知っていた。小学生の頃からここにある本屋。中学生の時、参考書を買った。店主は眼鏡を掛けた老人で――
「悠真?」
ミコトの声がした。瞬きをすると、コンビニだった。赤と緑の看板。雑誌の棚。レジ横に並ぶホットスナック。
「……今の何だ?」
「何の話じゃ」
「ここ」
俺は店を指した。
「今、本屋じゃなかった?」
ミコトがコンビニを見る。
「最初からあれであろう」
「だよな」
自分でもそう思う。ここにはずっとコンビニがあった。それなのに、ほんの数秒前まで、ここには昔から本屋があった。そういう記憶が確かに存在していた。
「寝ぼけてんのかな」
「目は覚めておろう」
「そういう意味じゃなくて」
信号が点滅し始める。首を傾げながら道を渡った。その数分後、今度は自動販売機の前で足を止めた。見慣れない缶が並んでいる。黄色いパッケージの炭酸飲料。知らない商品だ。だが、高校へ入ってから何度も買った。夏には友人とどちらが早く飲めるか競争した。味も分かる。妙に甘く、後味だけ酸っぱい。そこまで考えたところで、缶が消えた。正確には、別の商品へ変わった。
「……は?」
驚いて自動販売機へ顔を近づけた。
「どうしたのじゃ」
「今ここに黄色い炭酸あったよな?」
「知らぬ」
「俺、あれ何回も飲んで――」
言葉が止まる。飲んだことなどない。そんな商品は知らない。でも、飲んだ記憶がある。
ない。ある。頭の中で二つの答えが重なり、気持ち悪さに眉をひそめた。
「……ミコト。これ、お前がやった?」
金色の瞳が俺を見る。
「何をじゃ」
「分かんないけど。縁とか触ったせいで、なんか変になってない?」
ミコトはすぐには答えなかった。周囲を見回す。その視線は人間の少女のものとは違う。建物でも道路でも人でもない何かを見ている時の目だった。やがて、ミコトは口を開いた。
「……今のところは、何も見えぬ」
「今のところって」
「学校へ行くぞ。遅れる」
珍しく、ミコトの方から話を切った。
*
「久世……」
担任が名簿から顔を上げた。一秒、二秒と間が空く。
「はい」
「お前、昨日休んでただろ」
教室が少し静かになった。
「え?」
「昨日のプリント、後で取りに来い」
「いや、俺いましたけど」
担任が眉を寄せる。
「昨日?いましたよ」
「……そうだったか?」
周囲を見る。前の席の男子と目が合った。
「久世、昨日いたよな?」
「いた……と思うけど」
別の生徒が横から言った。
「いや、休んでなかった?」
「え?」
「昨日、久世の席空いてた気がする」
「いやいたって」
「どっちだよ」
教室に小さな笑いが起こった。普通ならそれで終わる程度の話だった。悠真だけが笑えなかった。
担任の手元の出席簿。昨日の日付。久世悠真。丸。出席になっている。
「先生。そこ、俺出席になってますよ」
「あ?」
担任が出席簿を見る。
「欠席だろ」
「え?」
悠真も見る。欠席。確かにそう書いてある。背中が冷えた。もう一度瞬きをすると、丸。出席。
「……」
「久世?」
担任が怪訝そうな顔をする。
「いえ……何でもないです」
そのまま席に座った。心臓が少し速い。机の横にミコトが立っていた。普段なら教師の机に座ったり、黒板の前を歩いたり好き勝手しているのに、今日はそこから動いていない。
「ミコト」
声を潜める。
「今の、お前じゃないよな?」
「違う」
「本当に?」
ミコトの顔が険しくなった。
「妾がしたことではない」
強い声だった。何も言えず口を閉じた。ミコトがここまで明確に否定するなら、おそらく嘘ではない。問題は、それなら今起きているものは何なのかということだった。
*
昼休み、ミコトを連れてほとんど使われていない校舎裏へ移動した。
「昨日の夜さ。お前、変だった」
「今朝も言うておったの」
「いや。見た目が」
ミコトは自分の袖を見る。
「何か付いておるか?」
「そうじゃなくて」
どう説明すればいいのか分からない。
「お前の後ろに……お前がいたみたいな」
「妾は一人じゃ」
「分かってる」
「なら何を言うておる」
「だから俺も分かんねえんだよ」
頭を掻きながら言う。自分で言っていて馬鹿みたいだった。しかし、ミコトは笑わなかった。
「……続けよ」
「なんかさ。お前の身体から、別の方向に何か伸びてた」
「別の方向」
「上とか下とかじゃない。右でも左でも、奥でもなくて……」
言葉を探しているうちに、それは起きた。ミコトの輪郭が揺れた。
「――」
息を呑む。白銀の髪と金の瞳。いつものミコト。
なのに、その向こうに何かがある。巨大だった。そう思った直後、大きいという表現すら違うと分かった。
距離がない。奥行きがない。近いとも遠いとも言えない。ミコトという少女の輪郭から、人間が認識できない方向へ、無数の何かが伸びている。視界へ入っているのに、目では見ていない。耳で聞いていないのに、何かが軋む音がしたような気がした。
「……ミコト」
「何じゃ?」
本人は平然としている。気づいていない。反射的に顔を逸らして、校舎の壁を見る。そして数秒後、恐る恐るミコトへ視線を戻すと、元に戻っていた。
「悠真?」
ミコトがこちらを見る。
「今、また……」
俺は答えなかった。代わりに、一つ思いついたことがあった。偶然かもしれない。確かめよう。
ミコトから目を逸らす。何も起きない。もう一度見る。銀髪の少女がいる。何も起きない。
「何をしておる?」
「ちょっと黙ってて」
「何故妾が――」
「ミコト」
名前を呼んだ。ただ見るのではなく、目の前にいる存在を、銀髪の少女、自分と一緒にゲームをした奴、プリンを食べて喜ぶ奴、腹を立てる奴、嫉妬する奴、自分が名前を付けた――ミコトだと、強く意識する。
その瞬間、背後の木から乾いた音がした。枝が折れる。しかし折れていない。折れた枝と、何事もなく伸びている枝が、一瞬だけ同じ場所へ重なった。校舎裏を歩いていた生徒が二人に見えた。同じ顔。同じ制服。一人は右足を踏み出し、もう一人は左足を踏み出している。瞬きをすると、一人に戻った。
「……」
俺はゆっくりミコトを見た。ミコトも、今度は異常を感じ取ったらしい。金色の瞳から、いつもの余裕が消えている。
「今の、俺がお前を見た時だったよな」
ミコトは答えなかった。俺は自分の喉が妙に乾いていることに気づいた。
昨夜から起きていたもの。存在しない店と存在しない記憶。昨日いたはずの自分といなかったことになっている自分。そして今、ミコトを見た瞬間に重なった、二つの世界。偶然ではない。少なくとも、そう思えるだけのものは揃っていた。
俺は目の前にいる少女を見る。いつもと同じ白銀の髪。いつもと同じ金色の瞳。自分が名付けた、一人の少女。その輪郭の内側に、本来ここには存在できない何かを押し込めているように見えた。
「……なあ、ミコト。もしかして」
一度言葉を切った。
「俺がお前を見てること自体が、まずいんじゃないか」
ミコトは答えなかった。ただ、その金色の瞳だけが、初めて明確な不安を帯びていた.
ミコトは、しばらく何も言わなかった。
さっきまで俺を見ていた金色の瞳が、どこか別のものを見るように僅かに動く。
「……確かめる」
やがて、それだけ言った。
「どうやって?」
「先ほどと同じことをする。妾を見よ」
「今も見てるけど」
「そうではないのであろう?」
ミコトは自分の胸元を指した。
「先ほどそなたは、ただ妾へ目を向けたのではない。妾を『ミコト』として見た。その時に起きた」
「……分かるの?」
「妾にも、完全には分からぬ。じゃが、先ほどだけ因果の形が変わった」
嫌な顔をしてしまった。
「それ、もう一回やって大丈夫なのか?」
「分からぬ」
「分からないのにやんの?」
「分からぬから調べるのじゃ」
「研究者みたいなこと言いやがって」
「そなたを最初に見つけた時から、妾はそうしておったぞ」
「あれ俺が実験動物側だったのかよ」
思わずいつもの調子で返した。けれど、笑えるような状況ではない。ミコトも何も言わなかった。俺たちは校舎裏から場所を移した。さすがに人がいるところで、さっきみたいに人間が二人に増えるような現象を起こしたくはない。昼休みの残り時間を使って、校舎から少し離れた旧体育倉庫の裏へ回る。古い用具が積まれているだけで、普段はほとんど誰も来ない場所だ。
「ここならいいか」
「よかろう」
「じゃあ……やるぞ」
「うむ」
向かい合い、俺はミコトを見る。
やわらかな光を放つ白銀の髪。見つめていると引き込まれそうになる深い金色の瞳。強く掴めば簡単に折れてしまいそうな小柄な身体。
毎日のように見てきた少女。まずは、それだけを見る。
何も起こらない。
「どう?」
「何もない」
「じゃあもう一回」
一度目を逸らす。体育倉庫の錆びた壁を見て、それからもう一度ミコトへ視線を戻す。
やっぱり何も起こらない。
「なんか間抜けだな、これ」
「妾の顔を見て間抜けとは何事じゃ」
「いや、お前じゃなくてこの状況が」
「ならばもっと真面目に見よ」
「真面目に見るって何だよ」
「先ほどと同じようにせよ」
簡単に言う。でも、俺にもさっきとの違いは何となく分かっていた。ただ視界へ入れるだけじゃなく、目の前にいるものを、一人の誰かとして意識する。
名前を持っている奴として見る。
「……ミコト」
「うむ」
名前を呼ぶ。世界の中にいくらでも存在するものの中から、目の前にいるこいつだけを切り取るみたいに。
ミコト。
プリンが好きで、ゲームでは負けるたびに再戦を要求する。眠るのは好まない。俺が他人と話していると露骨に機嫌が悪くなる。自分勝手で、面倒で、とんでもない力を持っているくせに、知らないことばかり。
俺が名前を付けて、俺だけが知っている。一人の少女。
空気が軋んだ。
「っ……」
反射的に周囲を見る。本来は一つしかないはずなのに、体育倉庫の壁に扉が二つあった。片方は赤錆に覆われている。もう片方は比較的新しく、青い塗料が残っていた。どちらも昔からそこにあった気がする。なのに、どちらか一つしかなかったことも分かる。矛盾した二つの認識が、頭の中で同時に成立していた。
「ミコト」
「まだ妾を見ておれ。あと少しじゃ」
声が硬い。俺はもう一度ミコトを見る。その瞬間、倉庫の隅に置かれていたサッカーボールが転がった。
いや――転がらなかった。
一つは風に押され、壁際まで転がっていく。もう一つは最初の場所に置かれたまま動かない。二つの光景が重なり合い、どちらを見ているのか分からなくなる。だが次の瞬間には、一つに戻っていた。変わらずボールは倉庫の隅にある。
「見えた」
ミコトが短く答え、俺はすぐに目を逸らした。それだけで、周囲が急に静かになったような気がした。
「やっぱり俺がお前を見ると起きる」
「正確ではない。そなたの眼が妾へ向いているだけでは何も起きぬ」
ミコトが自分の手を見る。
「そなたが妾を、妾として認識した時じゃ」
「何が違うんだよ」
「妾にも調べねば分からぬ」
「それ便利な逃げ方になってない?」
「ならばそなたが説明せよ」
「できるわけないだろ」
「なら黙っておれ」
「理不尽だな」
返事はなかった。ミコトの金色の瞳は何もない空間へ向けられている。俺にはそこに何も見えない。でも、こういう時のミコトが、俺たちとは違う何かを見ていることはもう知っている。
「……何見てる?」
「縁じゃ」
「俺の?」
「違う」
少し間が空く。
「世界の」
*
午後の授業が終わっても、ミコトはほとんど喋らなかった。
普段なら授業中だろうがお構いなしに俺の机へ座ったり、教師の前を歩いたり、暇になれば勝手に話しかけてくる。それが今日は窓際に立ったまま、ずっと何かを追っていた。
放課後、俺たちはそのまま学校を出た。
「で?」
「まだじゃ」
「さっきから何時間見てるんだよ」
「そなたらの因果は単純ではない」
「いつも未来とか一瞬で見てるじゃん」
「未来を見ておるのではない」
ため息をつく。少しだけ、いつものミコトに戻ったような気がした。けれど、次に出てきた声は低かった。
「妙じゃ。多すぎる」
ミコトが足を止める。駅前へ続く歩道だった。夕方の人波が俺たちの横を通り過ぎていく。当然、その誰もミコトの存在には気づかない。
「何が多い?」
「過去じゃ。本来、そなたらの言う過去は既に形が定まっておる」
ミコトは通行人の一人へ目を向けた。
「あの男は今朝七時四十分に家を出た。駅で電車を一本逃し、八時十九分に会社へ着いた」
「急に知らないおっさんの一日教えんなよ」
「黙って聞け」
「すまん」
「あの男が今朝乗れなかった電車に乗った過去は、本来存在せぬ。可能性としてはあった。じゃが選ばれなかった時点で、それはそなたらの言う過去にはならぬ」
「まあ……そうだな」
「だが、今はある」
男を見る。普通の会社員にしか見えない。
「電車へ乗り遅れた過去と、間に合った過去が両方存在しておる」
「そんなことあるの?」
「ないから妙なのじゃ」
ミコトの声が低くなる。
「それだけではない。あちらの女は三年前に今の職場へ入った。じゃが五年前から同じ職場にいる因果も混じっておる」
「矛盾してんじゃん」
「うむ」
「じゃあ、あの学生は?」
適当に近くを歩いている制服姿の男を指す。
「今日、数学の小テストを受けた」
「普通じゃん」
「じゃが受けておらぬ」
「どっちだよ」
「両方じゃ」
背中に嫌な汗が流れる。今朝から俺に起きていたことと同じだ。
あった。なかった。本来どちらか一つしか残らないはずの出来事が、両方とも過去として存在している。
「未来は?」
ミコトが黙った。
「……うむ」
「どうなってる?」
「それまで存在していた枝が、途中から別の過去へつながっておる。ある出来事の原因が、その出来事より後に存在しておる。まだ生まれておらぬ人間の行動が、既に別の者の生へ影響しておるものもある」
「……それって」
どう考えても滅茶苦茶だった。ミコトは少し考えるように黙ってから、首を横へ振った。
「説明できぬ」
ミコトは今まで、人間には理解できないものを前にしても大抵平然としていた。分からないのはいつも俺の方で、こいつはそれを俺にどう説明すればいいのか面倒そうにしていただけだ。そのミコトが今は、上手く説明することすらできないと言っている。
「これって……どれくらい広がってる?この街だけ?」
「違う」
「全国?」
「それも違う」
嫌な予感がした。
「……世界?」
ミコトは答えなかった。でも、それで十分だった。
*
人通りの少ない河川敷まで移動した。夕日が川面を赤く染めている。ミコトはさっきからずっと黙ったままだ。
「なあ。ミコト」
「今、見つけようとしておる」
「何を?」
「始まりじゃ」
今起きている異常が、どこから生まれているのか。過去と未来、出来事同士の関係。それらをつないでいる何かを、ミコトは逆向きにたどっているらしい。俺には、何をどうやって見ているのかすら想像できない。何も言わないまま、夕日だけが少しずつ沈んでいく。
やがて、ミコトの眉が寄った。
「……おかしい。全てここへ戻ってくる」
「ここ?」
足元を見る。
「この辺?」
ミコトが自分の胸へ手を置いた。
「違う、妾じゃ」
一瞬、意味が分からなかった。
「どこからたどっても、最後は妾へ戻る」
「でも、お前は何もしてないって」
「しておらぬ」
「じゃあ」
「妾の意思ではない」
声がいつもより僅かに弱く聞こえた。
「妾が何かを変えておるのではない」
夕日を背負った少女を見る。
「妾がここにおること自体が、変えておる」
言葉が出なかった。
「どういうこと?」
「……考えれば、当然であったのかもしれぬ」
ミコトが自分の手を見る。指を曲げて、開く。そして河原に落ちていた小石を拾った。それを普通に手のひらへ載せる。軽く投げれば、小石は放物線を描いて川へ落ちた。
「最初、妾は何にも触れられなかった。そなたも妾へ触れられなかった」
「そうだったな」
「じゃが、今は違う」
ミコトが俺の袖を掴んだ。そこには、布が引かれるはっきりとした力があった。
「妾はこちらへ近づきすぎた」
ミコトに聞いた話を思い出した。本来のミコトに、少女の姿なんて存在しない。白銀の髪も金色の目も、この小さな身体も、最初は全部、俺が理解できる形へ変換された結果にすぎなかった。
俺が見て、何度も話しかけた。名前を付けて、ミコトとして扱った。そうやっているうちに、ただの翻訳みたいなものだった姿が、一人の人格として固まっていった。
「つまり……人間になってきてるってこと?」
「違う。妾は人間にはなっておらぬ」
「じゃあ…」
「中身が変わらぬまま、形だけがこちらへ固定されておる」
「……分かりにくいな」
ミコトは少し考えると、しゃがみ込んで足元の砂へ一本の線を引いた。
「以前、線の上に住むものの話をしたのを覚えておるか?」
砂に引かれた一本の線。
「この線の中にしか存在できぬ者がおるとする。そこへ、線の外側にあるものを入れようとする」
ミコトが線の上へ手のひらを置く。
「全部は入らぬ。ならば、線の上から理解できる一部分だけを見せればよい」
「影みたいな?」
「それが近い」
最初のミコトは、それだった。本体そのものではなく、俺が世界で理解できる部分だけが少女の姿になって見えていた。
ミコトの指が、砂の上の線をなぞる。
「そなたが妾を見続けた」
名前を呼び、ミコトとして扱った。触れようとした。喜ばせ、そして怒らせた。そして、いつの間にかミコト自身も、この姿を自分として扱うようになった。
「影であったものが、自分を本体だと思い始めた」
ミコトが呟く。
「そして、こちら側へ重くなりすぎた」
「つまり……」
「本来そなたらの世界へ収まらぬものが。妾という形で、無理に収まろうとしておる」
その瞬間、夕日に染まっていた川が、夜になった。
「――っ」
水面に星空が映っている。けれど次の瞬間には、元の夕方へ戻った。対岸の建物が一棟だけ消え、すぐに現れる。遠くを走っていた車が、一瞬だけ進行方向とは反対側の位置から現れたように見えた。
「因果が耐えきれなくなり始めておる」
ミコトの横顔を見る。いつもの余裕はなかった。
「妾のようなものを、この形のまま存在させ続けるために、周囲の方が合わなくなっておる」
「待てよ」
頭を押さえる。
「なんで急に今なんだよ。俺、お前のことずっと見てたじゃん」
「それだけではない」
ミコトが少し黙った。
「恐らく、妾が触りすぎた」
聞いた瞬間、自分でも答えが分かった。
「縁じゃ」
やっぱりだった。凛との映画、友人や家族や学校。俺と周囲の人間との関係そのものへ手を出した。
「そなたと他者を結ぶ因果を、広く薄く変えた。その時、妾自身をこの世界の因果へ深く結びつけすぎたのであろう」
今までは世界の外側から触っていた。でもミコトは、自分自身まで世界の中へ突っ込んで、俺と他人のつながりをいじった。そんな感じなのかもしれない。
「戻せば?」
すぐに言った。
「俺とみんなの縁。元に戻したら」
「戻すが、それだけでは足りぬ」
言葉が止まる。
「既に始まっておる」
ミコトは空を見上げた。
「一度、こちらへ固定されすぎた」
「じゃあどうする?」
「……」
「ミコト?」
返事がない。
「直せるんだろ?」
ミコトなら。未来を見て、因果に触れる。俺には何をやっているのかすら理解できないようなことを、ずっと当たり前みたいにやってきたこいつなら、何とかできると思っていた。
「……止める方法はある」
その言葉を聞いて、少しだけ肩から力が抜けた。
「あるんじゃん。なら早く――」
「嫌じゃ」
「……は?」
ミコトはこちらを見ていなかった。夕日の沈みかけた空を見たまま、もう一度言う。
「嫌じゃ」
何を言っているのか、すぐには理解できなかった。もう世界が壊れ始めている。だが、それを止める方法はある。それなのに。
「何で?」
返事がない。
「何で嫌なんだよ」
長い沈黙のあと、ようやく金色の瞳が俺へ向いた。そこに何が浮かんでいるのか、俺にはまだ正確には分からなかった。こんな顔をしたミコトを、俺は今まで一度も見たことがなかった。
「何で嫌なんだよ」
そう尋ねても、ミコトは答えなかった。
河川敷を吹き抜ける風が、白銀の髪を揺らしている。沈みかけた夕日はすでに対岸の建物の陰へ半分ほど隠れ、川面には細長い光だけが残っていた。いつもなら、答えを急かせば何かしら言い返してくる。けれど今は黙ったままだ。
「止める方法、あるんだろ?」
「……ある」
「だったら教えてくれよ」
「嫌じゃ」
「だから、それじゃ分かんないって」
苛立ちより困惑の方が大きかった。こいつが自分の都合で人間関係を変えることなら、これまで何度もあった。凛との映画を邪魔した時も、俺と周りの人間を遠ざけた時も、身勝手ではあってもミコトなりの理由はあった。でも、今起きていることはそれどころじゃない。過去と現在が食い違い、存在しなかったはずの記憶が混ざって、世界規模で因果そのものが壊れ始めている。
「このままだと、どうなる?」
「分からぬ。どこまで崩れるかは、妾にも見えぬ」
「でも未来は見えるんだろ?」
「その未来そのものが壊れ始めておるのじゃ」
何も言えなくなった。ミコトが見ている未来は、占いみたいに予想しているものじゃない。本人の言い方を借りれば、そこにあるものを見ているだけだ。こいつに未来が見えない。つまり、霧に隠れているとかじゃなく、見るべき未来そのものが形を失い始めている。
「だから、教えて」
ミコトの金色の瞳が僅かに揺れた。
「……簡単なことじゃ。そなたが、妾を見るのをやめればよい」
一瞬、意味を取り違えた。
「目を閉じるってこと?」
「違う」
「じゃあ、しばらく離れてればいい?」
ミコトが首を横へ振った。
「そなたが目を閉じても、妾はミコトのままじゃ。どれほど遠くへ離れようとも、そなたの中に妾がおれば固定は続く」
「じゃあ、どうするんだよ」
ミコトは自分の胸へ手を置いた。
「これをやめる」
「これ?」
「妾を、ミコトとして見ることじゃ」
「……」
「そなたが最初に妾を見た時、本来の妾にこのような姿はなかった。そもそも姿と呼べるものすらなかった。それを、そなたが理解できる形へ落とした。その結果がこれじゃ」
自分の銀髪を指で摘み、次に金色の目を指差す。
「そして、そなたが妾へ話しかけた。名を与えた。妾として扱った。妾自身も、それを妾だと思うようになった。ならば逆にすればよい」
嫌な予感がした。
「そなたが、この形を妾であると認識することをやめる。それだけじゃ」
つまり、俺が「ミコト」という人格を認識するのをやめる。ただ、人間には理解できない高次元の何かとして捉え直す。そうすれば、人間世界へミコトを固定しているものがなくなり、本来の場所へ戻る。世界の歪みも止まる。それだけ聞けば、答えは簡単だった。
「じゃあ、それやればいいじゃん」
「……そうじゃな」
「それでお前も元に戻るんだろ?だったら――」
「悠真」
ミコトに遮られた。
「そなたは、何を元と呼んでおる?」
「何って……」
「妾の本体とでも呼ぶべきものは残る。じゃが…」
ミコトが自分の胸元を掴んだ。
「これは残らぬ」
何も言えなかった。
「プリンを好むことも」
初めて食べた時、もう一口よこせと言われた。
「そなたとの遊戯で勝ちたいと思うことも」
負ければ何度でも再戦を要求してきた。
「そなたが他の者を見れば、気に入らぬと思うことも」
そこでようやく、言っている意味が分かった。
「……消えるの?」
「人間の言う消滅とは少し違う。元のものへ戻る」
「だから、その元って」
自分でも分かるくらい声が強くなった。
「今のお前じゃないんだろ?」
ミコトは答えなかった。それで十分だった。
「名前は?」
「必要なくなる」
「俺のことは?」
「認識はできよう」
「そういうこと聞いてない」
一歩近づく。
「俺と思い出とか、そういうのは?」
「出来事としては残るかもしれぬ。が、少なくとも、今の妾のように思い返すことはない」
「それ、ほとんど消えるのと同じじゃん」
「人間から見れば、そうなのかもしれぬ」
「お前から見てもだろ」
ミコトの顔が上がった。
「お前が残るなら、何でそんな顔してんだよ」
「……」
「元に戻るんじゃない」
言葉にしてしまえば、ひどく単純だった。
「ミコトじゃなくなるんだ」
長い沈黙のあと、ミコトが小さく答えた。
「……そうじゃ」
*
空が暗くなり始めていた。帰った方がいい時間なのに、俺たちはまだ河川敷に立っていた。
何度考えても、結論は同じだった。今のミコトを残すと、その代わりに世界が壊れる。
ミコトの固定を解けば、世界は助かる。その代わり、ミコトという人格が消える。
比べること自体がおかしい。俺一人の気持ちと、世界全部。
答えなんて最初から決まっている。
「……やるしかないだろ」
口に出した声は、自分で思っていたより低かった。ミコトの肩が僅かに動く。
「悠真…」
「このままにできるわけない。世界がどうなるか分かんないんだろ?」
「うむ」
「俺の親も、友達も、凛もいる。それだけじゃない。知らない奴だって何十億人もいる」
「知っておる」
「だったら」
「知っておる!」
突然声を張り上げられ、思わず黙った。ミコト自身も驚いたように口を閉じる。
「……知って、おる」
「なら」
「嫌じゃ」
「ミコト…」
「嫌じゃ」
理屈を説明している声じゃない。ただ拒んでいる。
「俺がお前を嫌いだからやるんじゃない」
「分かっておる」
「消えてほしいわけでもない」
「それも分かっておる」
「なら――」
「分かっておるから嫌なのじゃ!」
ミコトが俺を見上げた。
「そなたが正しいことも分かっておる!今のままではいけぬことも、世界が崩れ始めておることも、全部分かっておる!じゃが嫌なものは嫌じゃ!」
完全に言葉を失った。こんなミコトを見るのは初めてだった。今までだって自分勝手だった。でも、必ずこいつなりの理屈があった。俺には理解できなくても、ミコトの中では筋が通っていた。だが今は違う。正しくないと理解していて、それでも嫌だと言っている。
「……最初のお前なら、こんなこと、気にしなかっただろ」
ミコトの表情が止まる。
「俺に会う前のお前。名前もなくて、誰にも見られなかった。でも、それで寂しいとか思ってなかったんだろ?」
「……そうじゃな」
「元に戻っても、お前の本体は困らないんじゃないの?」
「そうじゃろう。じゃが」
ミコトが自分の手を見る。
「妾はもう、知っておる」
*
ミコトは、自分の指先を見つめていた。初めて名前を与えられた時も、同じように自分の手を眺めた。
あの頃には、そこに意味などなかった。悠真に見られることも、名を呼ばれることも、隣にいることも。どれもただの未知の現象であって、失いたくないものではなかった。
「見られること」
ミコトは呟いた。
「名を呼ばれること」
ミコト。
悠真が何気なく与えた、彼女を他の何かと区別するための名前。
「好きなものがあること、望んだ結果にならず、悔しいと思うこと」
悠真が他人と関わるとき、胸の奥に生まれた不快感。
「誰かへ腹を立てること」
そのほとんどは悠真が相手だった。
「誰かと一緒にいたいと思うこと」
そこで、言葉が僅かに止まった。以前の彼女には何もなく、だから何も失わなかった。誰にも見られなくても、それを孤独とは思わない。
「何も知らぬ頃なら、何も失わぬ」
自分の胸へ手を当てる。
「妾は誰にも見られずとも、それを不幸とは思わなかった。名前がなくとも、寂しいとは思わなかった。誰かと話したいとも、何かを食べたいとも、勝ちたいとも思わなかった」
「……うん」
「じゃが、今は違う」
ミコトは悠真を見た。
「知ってしまった」
一度得たものを、得る前の自分へ戻せばよい。理屈だけなら、それで終わる。だが彼女には、それが同じことだとはもう思えなかった。
「一度知ったものを、知らなかったものへ戻すことは」
言葉が続かない。
「妾には、戻るようには思えぬ」
悠真は何も言わなかった。その沈黙の中で、ミコトはようやく自分の中にあるものへ目を向けた。
それは怒りではない。嫉妬とも少し違う。
悠真が凛を見ると腹が立った。友人と過ごせば気に入らなかった。家族を大切にすれば、自分だけを見ればよいと思った。だから、それらを遠ざけた。そうすれば安心できると思っていた。
「……怖いの?」
悠真の声がした。ミコトの思考が止まる。
「ミコトじゃなくなるのが」
答えられない。
「俺に見られなくなるのが」
風が吹き白銀の髪が舞い上がる。
胸の奥にあったものへ、初めて名前が付いた。
悠真が他の誰かを見るたび、なぜあれほど苛立ったのか。凛を遠ざけても満足できなかったのはなぜなのか。友人も家族も遠ざけ、それでも悠真が自分だけを見続ける保証を欲しがったのはなぜなのか。
悠真には、自分以外にも大切なものがあって、これからも増えていく。悠真の未来だけは見えない。
明日もミコトを見る未来。
一年後も隣にいる未来。
そんなものは、彼が選択するまでどこにも存在しない。
だから、確かめられない。いつか、悠真が別の何かを選ぶかもしれない。
大切な誰かを見つけて、自分を見なくなるかもしれない。
「……怖い」
ミコトの口から、その言葉が漏れた。
*
ミコトは自分でも驚いたみたいな顔をしていた。
「妾は」
胸元の衣装を握る。
「そなたが他の者を見ておると、気に入らなかった。凛を見るのも、友を見るのも、家族を見るのも。ずっと、妾の方を見ておればよいと思っておった」
「……うん」
「じゃが、違ったのかもしれぬ」
ミコトは項垂れた。俺は何も言わず、続きを待った。
「そなたが他のものを見ることが嫌だっただけではない。そなたには、妾以外にも大切なものが増えてゆく」
「……」
「これからも増えるのであろう」
ミコトの声が震えた。
「ならば、いつか妾より大切なものができるかもしれぬ」
反射的に何か言おうとした。でも、その前にミコトが続けた。
「妾を見なくなるかもしれぬ」
「そんなこと――」
「未来が見えぬのじゃ。そなたが明日も妾を見るという未来は、どこにもない」
ミコトが自分の胸を押さえ、一歩こちらへ近づく。
「明後日も」
もう一歩。
「一年後も」
そして俺の背中に腕をまわした。
「妾には分からなかった」
指に力が入る。
「いつかそなたが、妾を見なくなるかもしれぬ」
胸元で顔が上がる。その金色の瞳を見た瞬間、ようやく分かった気がした。あれだけ何でも知っているこいつが、自分には決して知ることのできない未来を怖がっている。
声が掠れた。
「ただ……ずっとそなたのそばに居たい。妾の望みはそれだけじゃ……」
背中に回された腕から、思っていた以上に強い力を感じた。
何を返せばいいのか分からなかった。
凛との予定を潰したことも、友達や家族を遠ざけたことも、やったことが許されるわけじゃない。俺の周りから他人を消して、自分だけを残そうとした。その考えが間違っていることは、昨日散々話した。
でも、ようやく分かった気がする。こいつは俺以外を嫌っていたんじゃない。自分以外のものを大切にする俺が、いつか自分を必要としなくなるのが怖かったんだ。
「でもさ。俺、お前を見なくなるなんて言ってないだろ」
「言われておらぬ。じゃが、そなたには他にもおる」
俺から身体を離したミコトが、金色の目で見上げてくる。
「家族がおる。友がおる。凛がおる。それだけではない。これから先、まだそなた自身も知らぬ者と出会うのであろう。その者を大切に思うこともある」
「あるかもしれない」
「妾にはない」
返す言葉が止まった。
「妾には、そなたしかおらぬ」
叫んだわけじゃない。ただ事実を確認するような声だった。
「そなたに見つけられるまで、妾には誰かという考えすら必要なかった。そなたが妾を見た。話しかけた。名をつけた。妾というものを、妾に教えた」
俺には、ミコトと出会う前から人生があった。父さんと母さんがいて、学校に行って、友達がいて、凛がいた。その中に、ある日突然ミコトが入り込んできた。でも今のミコトにとっては違う。こいつが「ミコト」になってからの全部に、俺がいる。
「俺にとってお前は、大事だよ」
「知っておる」
「必要だとも思ってる」
「それも聞いた。じゃが、そなたの全てではない」
否定できなかった。
「そなたにとって妾は、そなたの世界の一部じゃ」
ミコトが自分の胸へ手を置いた。
「妾にとってそなたは、妾が妾であるための全部なのじゃ」
その瞬間、目の前から川が消えた。
「――っ?」
一面の住宅街が広がっている。見覚えのない家。その間の細い道を、制服姿の俺が歩いていた。向こうの俺と目が合いそうになった瞬間、景色が弾ける。普通の河川敷に戻っていた。
「何だ、今の……」
ポケットのスマートフォンが震える。午後六時四十二分。次の瞬間には午前十一時三分。さらに数字が乱れ、見たこともない日付が表示されたあと、今日の日付へ戻った。対岸を見ると、さっきまで建っていたビルが工事途中の姿になっていた。鉄骨だけだった建物の上へ壁が現れ、窓がはまり、また鉄骨へ戻る。ジョギングをしていた老人の姿も一瞬だけ若返った。次には子供になり、また老人へ戻る。
「ミコト」
「崩壊が……速くなっておる」
声が強張っていた。
「もう時間がない」
「恐らくな」
ミコトを見る。そして、息が止まった。白銀の髪の向こうに、またあれが見えていた。
今度は一瞬じゃない。
少女の背後にあると言えばいいのか、内側から出ていると言えばいいのかすら分からない。上下でも左右でも前後でもない、人間には存在しない方向へ何かが伸び続けている。巨大な何かを、小さな人間の形へ無理やり押し込めている。その器が、もう耐えられなくなっているように見えた。
俺は歯を食いしばった。
「……やる」
「悠真?」
「やっぱり、このままにはできない」
ミコトが俺の袖を掴む。
「待て」
「待ってたら世界が壊れるんだろ」
「待て」
「ミコト」
「待てと言うておる!」
悲痛な声だった。でも、俺は目を閉じた。視界からミコトが消える。当然、それだけじゃ足りない。目を閉じていても頭の中にはいる。
綺麗な髪。吸い込まれそうな瞳。やわらかな身体。心地よい声と喋り方。
それを一つずつ、自分の中から切り離していく。これは少女じゃない。白銀の髪なんてものも、本当は存在しない。金色の瞳もない。名前もない。ミコトという人格も、本来存在しなかった。ただ、人間には理解できない高次元の何かがある。俺が勝手に理解できる形にしただけだ。
「悠真」
声が聞こえる。反応するな。これは声じゃない。俺があれをミコトだと思っているから、そう聞こえるだけだ。
「悠真」
誰かが俺を呼んでいるわけじゃない。
「……やめよ」
頭の中から白銀の髪を消す。
「悠真」
金色の目を消す。
「やめてくれ」
プリンを食べた時の顔が浮かぶ。違う。これは、人間の少女が喜んでいたわけじゃない。
「嫌じゃ」
ゲームに負けてむきになっていた顔。違う。
「嫌じゃ……」
漫画を読んでいた姿。俺の袖を掴んだ手。笑った顔も怒った顔も。
「嫌じゃ!」
腕に衝撃が走った。反射的に目を開ける。
すぐ目の前にミコトがいた。俺の腕へ両腕を回して、必死にしがみついている。
「……ミコト」
名前を呼んだ瞬間、その姿が急にはっきりした。
そして世界全体が大きく軋んだ。
「名前を呼ぶでない!」
「は?」
「呼べば妾になる!嫌じゃ、呼んでくれ!」
「どっちだよ!」
「妾にも分からぬ!」
ミコトが叫んだ。
「嫌じゃ! 嫌じゃ、嫌じゃ、嫌じゃ!」
俺の胸へ額を押しつけてくる。最初に出会った頃なら、こんなことはできなかった。こいつに触れようとしても、手はその身体をすり抜けた。ミコトの方から俺へ触ることもできなかった。それが今は、痛いくらいに俺を掴んでいる。
世界に存在できるようになった身体で、そばに居るために俺へしがみついている。
「でも、このままだと世界が――」
「知るものか!」
思わず黙る。
「世界など知らぬ!何故妾が消えねばならぬ!何故妾が戻らねばならぬ!」
顔を上げる。
「妾はようやく妾になったのじゃ!ようやく好きなものができた!嫌いなものができた!悔しいことも、腹立たしいことも知った!そなたと話せるようになった!」
滅茶苦茶だった。世界が壊れると分かっていて、それでも嫌だと言っている。
「世界には人間が何十億といるのであろう!そなたには家族がおる!友もおる!凛もおる!」
「妾は!」
声が詰まる。ミコトが俺を見る。
「そなたのそばに居たいだけなのに!」
河川敷に声が響いた。その直後だった。
ミコトの目元に、小さな水滴が浮かんだ。頬を伝い、俺の手の甲へ落ちる。
「……何じゃ、これは」
ミコトが自分の頬へ触れた。
「何故、水が出ておる?」
できるだけ優しい声で伝える。
「泣いてるんだよ」
「……妾が?」
「お前以外に誰がいるんだよ」
頬へ触れた指先を、ミコトは不思議そうに見つめている。
「これが……」
「涙」
「……」
また頬を伝った。
「……止まらぬ」
「そういうもんだよ」
「止めよ」
「俺に言うなよ」
「そなたが妾をこうしたのであろう!」
「涙まで俺のせいにすんな」
「そなたのせいじゃ!」
「はいはい」
「適当に返すでない!」
泣きながら怒っている。こんな状況なのに、いつものミコトだった。初めて会った頃、自分が腹を立てていることすら分からなかった奴が、俺のそばに居たいと泣いている。
それを見てしまった。もう一度目を閉じて、これをただの「理解不能な何か」に戻す。さっきまでなら、それしかないと思っていた。世界とミコト、一人と何十億人、比べるまでもない。
「……ちょっと待って」
「何じゃ…」
「お前を消さないで済む方法を考える」
ミコトが目を見開いた。
「ない」
「即答すんなよ」
「妾が見た。ないものはない」
「でも、さっき未来自体が壊れて見えなくなってるって言っただろ」
「それとこれとは――」
「同じじゃないの?」
ミコトが黙る。
「俺がお前を見るのをやめれば世界は助かる。俺がお前を見続ければ、お前は残る。でも世界が壊れる」
「そうじゃ」
「選択肢はその二つだけ?」
「二つだけじゃ」
「未来を全部見ても?」
「何度見ようとも他にはない」
「じゃあさ」
一つだけ、引っかかった。
「俺がどっちを選ぶかは?」
「……」
「見える?」
ミコトの口が閉じた。その沈黙で答えが分かった。
「見えないんだろ」
世界がまた歪んだ。川の向こうが夜になる。俺たちのいる場所はまだ夕方だ。橋が消え、見知らぬ形の橋が重なって、また戻る。ミコトの背後には、もう隠しきれないほど巨大な何かが押し出されていた。
もう残された時間はないだろう。それでも、さっきより頭は冷えていた。
「俺、お前を消すの嫌だ」
ミコトが俺を見る。
「世界が壊れるのも困る」
「ならば、どちらかを――」
「だから、どっちも選ばない」
「……は?」
今まで泣いていたとは思えないくらい、間の抜けた声が返ってきた。
「何を言うておる」
「そのまんまだよ」
「そのような未来は――」
ミコトの言葉が止まった。
「ないんだろ?だったら――」
俺は、まだ制服を掴んでいるミコトの手へ自分の手を重ねた。
「作ればいい」
金色の瞳が大きく開く。
「そなたは……」
「お前が言ってたじゃん」
普通の人間には未来がある。いくつか存在している未来の中から、どれかを選ぶ。でも俺だけは違う。俺が選ぶまで、その先が存在していない。だからミコトにも見えない。
「ないなら、作る」
「簡単に言うでない」
「簡単だなんて思ってない」
「失敗すれば世界も壊れる」
「かもしれない」
「何の保証もないぞ」
「俺の未来なんて、元からお前にも保証できないんだろ」
ミコトが黙った。
「だったら一緒だよ」
「一緒ではなかろう」
「似たようなもんだって」
「全く違うわ!」
「細かいな」
「細かくない!」
泣いた跡を残したまま、本気で怒られた。少しだけ笑いそうになる。
「欲張りじゃな、そなたは」
「お前にだけは言われたくない」
ミコトの口元が僅かに動いた。笑ったように見えた。
その直後。世界が大きく揺らいだ。川の水が、重力を無視したみたいに空へ伸びる。真昼の青空と星のない夜が同じ場所へ重なった。対岸の街が消え、知らない街が現れ、また消える。
視界いっぱいに、ミコトではない何かが広がっていく。もう少女の形だけでは抑え込めない。
「悠真」
ミコトが俺の体を抱きしめ、胸元に顔をうずめる。
「何?」
「もし……」
そこまで言って、口を閉じた。
「何だよ」
「いや」
「言えよ」
ミコトは首を横へ振る。
「未来のことをそなたに尋ねても、妾には分からぬのであったな。本当に不便な男じゃ」
「お前にとってはな」
「妾にとって不便なら十分に不便じゃ」
「基準がお前なんだよな、全部」
「当然であろう」
世界がまた軋む。俺の知っている河川敷と、知らない場所が何重にも重なって見えた。
それでもミコトは離れなかった。
「……ならば」
「うん」
顔を上げたミコトと目が合う。頬にはまだ涙の跡が残っている。
「妾を、見失うでないぞ」
俺はその姿を見た。世界を壊せるような力を持っているくせに、自分が泣いていることすら知らなかった。
俺が名前を付けた少女。ミコト。
「当たり前だ」
そう答えた瞬間。世界が、音を立てて割れた。