『やはり俺の青春ラブコメは、性別が違っていてもまちがっている。』   作:ケーケーケー

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第三話 どう見ても戸塚彩加のほうが、比企ヶ谷八幡より少女らしい。

 

 かわいさとは、相対的な概念である。

 

 たとえば、小さくて丸いものはかわいいとされる。目が大きい、声が高い、仕草が控えめといった要素も、一般には好意的に受け取られやすい。

 

 しかし、それらを備えていれば必ずかわいいというわけではない。

 

 外見が幼くても、目が腐っている。

 

 声が高くても、口から出るのは皮肉ばかり。

 

 華奢な身体でも、近づけば全力で威嚇する。

 

 以上の特徴を備えた生物は、かわいいのではない。ただ扱いづらいだけだ。

 

 つまり、私のことである。

 

     *

 

「八幡。口を開けなさい」

 

「嫌だ」

 

「なぜ?」

 

「人前だから」

 

 昼休みの教室。

 

 私は自分の席に座り、雪ノ下雪乃と向かい合っていた。

 

 雪ノ下の手には、猫の形をしたクッキーが一枚。その先端が私の口元へ差し出されている。

 

「人前でなければいいの?」

 

「そういう意味じゃない」

 

「では、どういう意味かしら」

 

「自分で食べられると言ってるんだ」

 

「先ほどから本を読んでいて、まったく手をつけていないでしょう」

 

「あとで食べる」

 

「せっかく持ってきたのだから、感想くらい聞かせなさい」

 

 私は教室の周囲を見回した。

 

 案の定、クラスメイトたちの視線がこちらへ集まっている。

 

 普段ほかの教室へ足を運ぶことのない雪ノ下が、わざわざ私のところまで来たのだ。しかも手作りのクッキーを持参し、目の前で食べさせようとしている。

 

 目立たないはずがない。

 

「場所を変えよう」

 

「あら。二人きりになりたいの?」

 

「人目を避けたいだけだ」

 

「同じことではないかしら」

 

「まるで違う」

 

 私がクッキーを取り上げようと手を伸ばす。

 

 しかし雪ノ下は、その手をひょいと持ち上げた。

 

 届かない。

 

「……お前、今わざと高くしただろ」

 

「気のせいよ」

 

「渡せ」

 

「欲しいのなら取りなさい」

 

 立ち上がって腕を伸ばす。

 

 それでも指先がわずかに届かない。

 

 雪ノ下は涼しい顔をしているが、目元だけが楽しげに緩んでいた。

 

「性格悪いな、お前」

 

「あなたに言われたくないわ」

 

「ゆきのん、ヒッキーで遊ぶのやめなよ」

 

 隣から由比ヶ浜結衣が苦笑した。

 

 先日の依頼以降、由比ヶ浜は休み時間にも話しかけてくるようになった。

 

 教室内の力関係を考えれば、私へ近づくことに利点はない。それどころか、下手をすれば自分まで周囲から浮きかねない。

 

 にもかかわらず、由比ヶ浜は気にする様子がなかった。

 

「遊んでなどいないわ。ただ、この子には食事を忘れる悪癖があるから」

 

「この子って言うな」

 

「でもヒッキー、今日のお昼もパン一個だけじゃん」

 

「十分だろ」

 

「全然足りないよ。だから小さいんじゃないの?」

 

「身長と昼食の量を安易に結びつけるな」

 

「八幡。成長期に栄養を取ることは重要よ」

 

「お前ら、いつから私の栄養管理担当になったんだ」

 

 私が反論すると、二人は同時にため息をついた。

 

「こういうところ、頑固だよね」

 

「ええ。もう少し素直なら、さらにかわいらしいのだけれど」

 

「素材はいいもんね」

 

「本人に聞こえるところで品評会を始めるな」

 

 私が机に突っ伏すと、由比ヶ浜が笑った。

 

 雪ノ下は私の頭へ手を置き、そのまま髪を撫で始める。

 

「八幡。拗ねていないで、こちらを向きなさい」

 

「拗ねてない」

 

「では口を開けて」

 

「その流れはおかしいだろ」

 

 顔を上げると、すぐ目の前にクッキーがあった。

 

 雪ノ下は腕を下げるつもりがないらしい。

 

 周囲からの視線に耐えきれず、私は仕方なく端をかじった。

 

 甘さは控えめで、バターの香りがする。

 

「……うまい」

 

「そう」

 

 雪ノ下は満足そうに微笑んだ。

 

 たったそれだけのことなのに、教室の空気が揺れた。

 

 雪ノ下雪乃が笑うところなど、同じクラスの生徒でさえ滅多に見たことがないのだろう。

 

「ね、ねえ。今の見た?」

 

「雪ノ下さんが比企谷さんに食べさせてた……」

 

「二人ってどういう関係?」

 

 聞こえてくる小声を無視して、私は残りのクッキーを奪い取った。

 

「これで満足だろ。あとは自分で食べる」

 

「ええ。きちんと残さず食べなさい」

 

「母親かよ」

 

 雪ノ下が隣の席へ腰掛ける。

 

 由比ヶ浜も、その向かいへ椅子を運んできた。

 

 完全に逃げ道を塞がれた。

 

「おい。なんで二人ともここで昼を食べるんだ」

 

「一緒に食べたほうが楽しいじゃん」

 

「私は八幡がクッキーを残さないか見届けるためよ」

 

「昼休みくらい一人にしてくれ」

 

「駄目」

 

 二人の声が重なる。

 

 息ぴったりだった。

 

 こうして私の平穏な昼休みは失われた。

 

 ぼっちにとって、孤独とは苦痛ではない。安息である。

 

 そこへ勝手に入り込んでくる人間は、善意であろうと侵略者に等しい。

 

 なのに、以前ほど不快ではなかった。

 

 それが少しだけ腹立たしい。

 

     *

 

 放課後。

 

 奉仕部の扉を開けると、雪ノ下はいつもの席で本を読んでいた。

 

 私に気づくと、向かいではなく、自分の隣に置かれた椅子を指す。

 

「こちらへ」

 

「それ、定位置にするつもりか?」

 

「ええ」

 

「嫌だ」

 

「そう」

 

 雪ノ下は本を閉じた。

 

 私が警戒するより早く腕をつかみ、そのまま隣へ座らせる。

 

「強引だな」

 

「毎日同じやり取りをするのは非効率的でしょう?」

 

「だったら私が入口側に座ることで統一しろよ」

 

「却下するわ」

 

「なんでだ」

 

「遠いから」

 

 雪ノ下は平然と言い、本を開いた。

 

 私も諦めて鞄から文庫本を取り出す。

 

 しばらく、静かな時間が流れた。

 

 以前なら誰かの隣で本を読むなど落ち着かなかったはずなのに、雪ノ下とは不思議と苦にならない。互いに話しかけずとも、沈黙を埋めようとしなくていいからだろう。

 

 ただし、雪ノ下の肩がたまに私へ触れる。

 

 そのたび少し離れるのだが、しばらくすると元の距離へ戻っている。

 

 無意識なのか、わざとなのかはわからない。

 

「やっはろー!」

 

 勢いよく扉が開いた。

 

 由比ヶ浜が片手を上げて入ってくる。

 

「やっはろー……?」

 

 私は本から顔を上げた。

 

「何だ、今の」

 

「挨拶だよ。やっはろー!」

 

「聞き取れなかったわけじゃない。意味を聞いてる」

 

「だから挨拶!」

 

「独創的ね。由比ヶ浜さんらしい知性を感じるわ」

 

「それ絶対褒めてないよね、ゆきのん!」

 

 由比ヶ浜は頬を膨らませながら、私たちの正面に座った。

 

 そして机の上に、小さな袋を置く。

 

「昨日教えてもらったクッキー、もう一回作ってみたんだ。二人にも持ってきたよ」

 

「一人で作ったの?」

 

「うん!」

 

「そう。努力したのね」

 

 雪ノ下が袋を受け取る。

 

 由比ヶ浜は嬉しそうに笑った。

 

「ヒッキーも食べてみて」

 

「また焦げてないだろうな」

 

「焦げてないし! ちゃんと見てたもん!」

 

 袋から一枚取り出す。

 

 今度のクッキーは少し形が歪んでいるものの、きちんと焼き色がついていた。

 

 かじってみると、砂糖の塊らしき部分が不意に現れた。

 

「……甘い」

 

「おいしい?」

 

「前よりは」

 

「もっと普通に褒めてよ!」

 

「八幡にそれを求めるのは酷よ」

 

「ゆきのんが言う!?」

 

 騒がしい。

 

 だが、不思議と嫌ではない。

 

 そんなことを思っていると、再び扉が叩かれた。

 

 三人の視線が入口へ集まる。

 

「失礼します」

 

 入ってきたのは、小柄な男子生徒だった。

 

 柔らかそうな薄茶色の髪。白い肌。大きく澄んだ瞳。制服は男子用だが、下手な女子よりも遥かに少女らしい。

 

 というか、私より確実にかわいい。

 

 おかしくない?

 

 こちらは女として生まれ、十六年かけて成長してきたというのに、なぜ男子に女子力で負けているのか。

 

「あっ、戸塚だ」

 

 由比ヶ浜が声を上げる。

 

「由比ヶ浜さん。こんにちは」

 

 戸塚彩加は、ふわりと微笑んだ。

 

 その瞬間、教室に花が咲いたような錯覚を覚える。

 

 男子である。

 

 危ない。

 

 現実を見失うな、私。

 

「比企谷さんも、いるんだね」

 

「……私を知ってるのか?」

 

「うん。同じクラスだから」

 

「そうだったのか」

 

 知らなかった。

 

 いや、存在は知っていた。体育の授業で見かけたこともある。

 

 しかし私の中では「たまに教室にいる、やたらかわいい謎の生物」という認識で止まっていた。

 

「ひどいなあ。毎日同じ教室にいるよ」

 

 戸塚は困ったように笑う。

 

 その笑顔までかわいい。

 

 私は自分の胸に手を当てた。

 

 落ち着け。相手は男子だ。

 

「八幡」

 

「何だ」

 

「随分と戸塚君を見つめているけれど」

 

 雪ノ下の声が冷たい。

 

「見てない」

 

「見ていたわ」

 

「人の顔をまじまじ見るのは失礼だよ、ヒッキー」

 

「お前もさっきまで私の顔を見てただろ」

 

「ヒッキーはいいの」

 

「どういう基準だ」

 

「ヒッキーだから?」

 

「まったく説明になってない」

 

 戸塚が小さく笑った。

 

 私は妙に恥ずかしくなり、顔を逸らす。

 

「それで、戸塚君。依頼があるのかしら」

 

「あ、うん」

 

 雪ノ下に促され、戸塚は空いている席へ座った。

 

「ぼく、テニス部に入ってるんだけど――」

 

「知ってる」

 

 つい即答してしまった。

 

 戸塚が嬉しそうに目を輝かせる。

 

「知っててくれたんだ」

 

「体育の授業でラケットを持ってるのを見たからな」

 

「そっか。比企谷さん、よく周りを見てるんだね」

 

「友達がいないと、観察する時間だけは余る」

 

「それ、そんなに堂々と言うことじゃないよ……」

 

 由比ヶ浜が引きつった笑みを浮かべた。

 

 雪ノ下は慣れた様子で私の頭を撫でる。

 

「かわいそうに」

 

「哀れむな」

 

「一人でも強く生きていて偉いわね」

 

「だから子供扱いするな!」

 

 私は雪ノ下の手を払った。

 

 戸塚は私たちを驚いたように見つめている。

 

「雪ノ下さんと比企谷さんって、仲がいいんだね」

 

「違う」

 

「ええ」

 

「また答えが反対になってるよ、二人とも」

 

 由比ヶ浜が苦笑した。

 

「雪ノ下が勝手に構ってくるだけだ」

 

「八幡が放っておけないから仕方がないのよ」

 

「何で放っておけないの?」

 

 戸塚が首を傾げる。

 

 その仕草に、雪ノ下は少し考えるような表情をした。

 

「小さくて危なっかしいから、かしら」

 

「小学生への感想だろ、それ」

 

「でも、わかるかも」

 

 戸塚まで同意した。

 

「比企谷さん、いつも一人でいるから。ちゃんとご飯を食べているのかなって、ちょっと心配だったんだ」

 

 なんだ、この空間。

 

 ここには私を自立した高校生として扱う人間はいないのか。

 

「戸塚。私のことは気にしなくていい。自分の依頼を話せ」

 

「う、うん。ごめんね」

 

 戸塚は姿勢を正した。

 

「実は、テニス部をもっと強くしたくて。今の部員は練習にあまり熱心じゃないんだ。ぼく一人が頑張っても、なかなか雰囲気を変えられなくて……」

 

「それで、私たちに練習を手伝ってほしいと?」

 

「うん。外から見てもらえば、みんなの意識も変わるかもしれないと思って」

 

 雪ノ下は腕を組み、静かに考え込む。

 

「あなた自身が上達し、実力で部員を引っ張るという方法もあるわ」

 

「ぼくが?」

 

「ええ。周囲を直接変えることが難しいなら、自分が変わることで影響を与えればいい」

 

「なるほど……」

 

「そこで、私たちがあなたの練習に付き合う。それなら奉仕部の活動としても妥当でしょう」

 

「本当? ありがとう、雪ノ下さん!」

 

 戸塚が明るく笑う。

 

 眩しい。

 

 直視できない。

 

「八幡も手伝うのよ」

 

「なんで私まで」

 

「同じ部員だから」

 

「テニスなんてできないぞ」

 

「八幡。できるかできないかではないわ。やるのよ」

 

「そういう根性論、一番嫌いなんだけど」

 

 すると戸塚が、申し訳なさそうに私を見た。

 

「迷惑かな?」

 

「…………」

 

 上目遣い。

 

 小さく揺れる瞳。

 

 断ったら泣いてしまいそうな儚さ。

 

「……別に、暇だからいいけど」

 

「ほんと? ありがとう、比企谷さん!」

 

「八幡」

 

 雪ノ下が低い声で私を呼んだ。

 

「何だよ」

 

「私が頼んでも断ったのに、戸塚君に頼まれると引き受けるのね」

 

「頼み方の問題だ」

 

「そう」

 

 雪ノ下が私の頬をつまむ。

 

「いひゃい。何ふんだよ」

 

「別に。ただ、少し腹立たしいだけよ」

 

「八つ当たりじゃねえか」

 

「ゆきのん、もしかして嫉妬?」

 

 由比ヶ浜がにやにやと笑う。

 

「違うわ」

 

「でもヒッキー、戸塚にだけすっごく優しかったよ?」

 

「気のせいだ」

 

「声もいつもより柔らかかったし」

 

「気のせいだ」

 

「顔も赤いよ?」

 

「暑いだけだ」

 

「今日は涼しいよ」

 

「由比ヶ浜、黙れ」

 

 由比ヶ浜がますます楽しそうに笑う。

 

 戸塚は話についていけない様子で、申し訳なさそうに首を傾げていた。

 

 かわいい。

 

 男子だけど。

 

     *

 

 翌日の放課後。

 

 私たちは戸塚の案内で、テニスコートへ向かった。

 

 雪ノ下は体操服姿。由比ヶ浜も同様だ。

 

 そして私も体操服へ着替えていた。

 

 問題はサイズである。

 

 少し大きめのものを買ったせいで、袖が余っている。

 

「八幡。袖を折りなさい。ラケットに引っかけたら危ないわ」

 

「自分でやる」

 

「動かないで」

 

 雪ノ下は私の返事を無視し、両袖を丁寧に折り始めた。

 

「どうしてお前は毎回、私の身支度を整えようとするんだ」

 

「見ていると気になるのよ」

 

「わかる! ヒッキーって、世話焼きたくなるんだよね」

 

 由比ヶ浜まで背後へ回り、私の髪をまとめ始めた。

 

「おい、由比ヶ浜」

 

「そのままだと邪魔でしょ? 結んであげる」

 

「自分でできる」

 

「もうやってるから、じっとしてて」

 

 前から雪ノ下に袖を直され、後ろから由比ヶ浜に髪を結われる。

 

 逃げられない。

 

「比企谷さん、人気者だね」

 

 戸塚が楽しそうに笑っている。

 

「戸塚。見てないで助けろ」

 

「ご、ごめん。でも、二人とも楽しそうだから」

 

「本人はまったく楽しくない」

 

 由比ヶ浜が髪を結び終えた。

 

「できた! ツインテール!」

 

「何してんだ、お前!」

 

「だってヒッキー、絶対似合うと思ったから」

 

「ええ。悪くないわね」

 

 雪ノ下まで私の髪を確認し、うなずいている。

 

「戻せ」

 

「かわいいのに」

 

「戻せ」

 

「写真撮っていい?」

 

「絶対に駄目だ!」

 

 私が髪留めを外そうとすると、雪ノ下が手首をつかんだ。

 

「運動中に髪が邪魔になるでしょう」

 

「一本にまとめればいいだろ」

 

「せっかく由比ヶ浜さんが結んだのだから、このままでいいのではないかしら」

 

「お前も楽しんでるだろ」

 

「そんなことはないわ」

 

 そう言いながら、雪ノ下は私の頭を撫でた。

 

 わずかに口元が緩んでいる。

 

 絶対に楽しんでいる。

 

「練習を始めようよ」

 

 戸塚の一言で、ようやく二人は私を解放した。

 

 ただし髪型はそのままだった。

 

     *

 

 練習が始まると、雪ノ下の運動能力は圧倒的だった。

 

 初めて握るラケットだというのに、戸塚の説明を一度聞いただけで正確にボールを打ち返している。

 

「すごい、雪ノ下さん!」

 

「基本的な動作を再現しているだけよ」

 

「それが普通はできないんだけど……」

 

 戸塚は苦笑している。

 

 一方、由比ヶ浜はボールを空振りし、私はラケットの縁に当てて見当違いの方向へ飛ばしていた。

 

「ヒッキー、危ない!」

 

「え?」

 

 私が打ち損ねたボールが、由比ヶ浜の顔へ向かう。

 

 由比ヶ浜は慌てて頭を下げた。

 

 ボールはそのままコートの外へ飛んでいく。

 

「悪い」

 

「び、びっくりした……」

 

「八幡」

 

 雪ノ下が近づいてきた。

 

 怒られるかと思ったが、彼女は私の手からラケットを取り、背後へ回る。

 

「握り方が違うわ」

 

「近い」

 

「指導するためには仕方がないでしょう」

 

 雪ノ下は後ろから私の手へ自分の手を重ね、グリップを握り直させる。

 

「力を入れすぎよ。もっと軽く持ちなさい」

 

「これくらい?」

 

「ええ。それから、ボールを最後までよく見て」

 

 身体が密着する。

 

 雪ノ下の髪から、ほのかに甘い香りがした。

 

 私は落ち着かず、少し前へ逃げようとする。

 

 しかし雪ノ下の腕に囲まれているため、身動きが取れない。

 

「八幡。集中しなさい」

 

「これじゃ集中できない」

 

「どうして?」

 

「近いんだよ」

 

「今さらでしょう」

 

 雪ノ下は気にした様子もなく、私の腕を動かして素振りをさせた。

 

「ゆきのん、楽しそうだね」

 

 由比ヶ浜の声が飛んでくる。

 

「指導しているだけよ」

 

「ヒッキー、顔真っ赤だよ」

 

「暑いんだ!」

 

「今日は涼しいって、昨日も言ったじゃん」

 

「運動したから暑いんだよ!」

 

 戸塚がタオルを持ってきた。

 

「比企谷さん、大丈夫? 無理しないで休んだほうがいいよ」

 

「ああ。戸塚は優しいな」

 

「八幡」

 

 また雪ノ下の声が低くなる。

 

「今度は何だよ」

 

「私もあなたを心配しているのだけれど」

 

「拘束してる人間の言葉じゃないな」

 

 雪ノ下は不満そうに私を解放した。

 

 私は戸塚からタオルを受け取る。

 

「ありがとう」

 

「ううん。髪型、似合ってるよ」

 

「……そ、そうか」

 

 戸塚に褒められると、なぜか素直に受け取ってしまう。

 

 由比ヶ浜が呆れた顔をした。

 

「ヒッキー、戸塚には本当に弱いね」

 

「うるさい」

 

「私が髪を褒めても、迷惑そうな顔をするのに」

 

 雪ノ下まで不機嫌になっている。

 

「お前の場合、私で遊んでるだけだからだ」

 

「心外ね。私は心からかわいいと思っているわ」

 

 雪ノ下は私のツインテールの片方を持ち上げた。

 

「持つな」

 

「ほどけかかっていないか確認しただけよ」

 

「絶対に嘘だ」

 

 そんなやり取りをしていると、コートの入口から声が聞こえた。

 

「ずいぶん楽しそうだな」

 

 振り返る。

 

 そこには葉山隼人、三浦優美子、海老名姫菜、そして数人のクラスメイトが立っていた。

 

 葉山は爽やかな笑顔。

 

 三浦は不機嫌そうな顔。

 

 海老名は、なぜか私と雪ノ下と戸塚を順番に見ながら、眼鏡を怪しく光らせている。

 

「結衣。あんた、こんなところで何やってんの?」

 

 三浦が由比ヶ浜へ声をかける。

 

「戸塚の練習を手伝ってるんだ」

 

「ふーん」

 

 三浦の視線が私へ向く。

 

 正確には、私の髪型と、その片方を持ったままの雪ノ下へ。

 

「で、それ何?」

 

「比企谷八幡よ」

 

「人を物みたいに紹介するな」

 

「知ってるし。そうじゃなくて、なんで雪ノ下がそいつの髪持ってんのって聞いてんの」

 

「ほどけていないか確認していたのよ」

 

「雪ノ下さんが、他人の髪を?」

 

 葉山も珍しく驚いている。

 

 雪ノ下は私の髪を離し、平然と答えた。

 

「問題があるかしら」

 

「いや。ただ、君が誰かの世話を焼くのは珍しいと思ってね」

 

「八幡が手のかかる子だから仕方がないのよ」

 

「同い年に向かって言う台詞じゃない」

 

 海老名が眼鏡の位置を直した。

 

「なるほど。小柄で無愛想な比企谷さんを、完璧超人の雪ノ下さんが溺愛していて、そこへ天使系男子の戸塚君が現れた結果、禁断の三角関係が――」

 

「何一つなるほどじゃない」

 

「姫菜、また始まってる」

 

 三浦が呆れたように止める。

 

 葉山は苦笑しながらラケットを持ち上げた。

 

「俺たちも練習に混ざっていいか? 人数が多いほうが戸塚のためにもなるだろ」

 

 正論だ。

 

 爽やかな笑顔。

 

 誰にでも分け隔てなく接する態度。

 

 非の打ち所がない。

 

 だからこそ、私は葉山隼人のような人間が苦手だった。

 

 善意に悪意がないから、拒絶するこちらが悪人に見える。

 

「コートの使用権は戸塚君にあるわ。彼が許可するなら、私たちが拒否する理由はないでしょう」

 

「ぼくは大丈夫だよ」

 

 戸塚がうなずく。

 

「よし。じゃあダブルスでもやろうか」

 

 葉山の提案に、三浦たちが同意する。

 

 私だけが小さくため息をついた。

 

 面倒なことになりそうだ。

 

 雪ノ下が私の隣へ立ち、その頭へ手を置いた。

 

「心配しなくても、あなたは私と組ませてあげるわ」

 

「別に心配してない」

 

「一人だけ余るのではないかと不安そうな顔をしていたでしょう」

 

「それは通常運転だ」

 

「そうね。あなたはいつも不安そうで、警戒心の強い顔をしているものね」

 

「褒めてないよな、それ」

 

「安心しなさい。少なくともここでは、あなたを一人にはしないわ」

 

 雪ノ下はそう言って、私の乱れた前髪を指先で整えた。

 

 葉山たちが来たことで生まれた居心地の悪さを、見抜かれていたらしい。

 

「……余計なお世話だ」

 

「ええ。知っているわ」

 

 雪ノ下は穏やかに笑った。

 

 私はその手を振り払わなかった。

 

 こうして、戸塚のためのテニス練習は、クラスの中心人物たちを巻き込んだ試合へ発展した。

 

 ただ戸塚を手伝うだけのはずだった。

 

 それなのに、どうしてこうなるのか。

 

 やはり集団行動は面倒である。

 

 そして、ツインテールのまま葉山たちと試合をする羽目になったことだけは、一生忘れない。

 

 由比ヶ浜がこっそり写真を撮っていたことを知るのは、もう少しあとの話だ。

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