『やはり俺の青春ラブコメは、性別が違っていてもまちがっている。』   作:ケーケーケー

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第四話 たとえ性別が変わっても、比企ヶ谷八幡の戦い方はまちがっている。

 

 勝負において、正々堂々という言葉ほど信用できないものはない。

 

 そもそも人間は、生まれた時点で平等ではない。

 

 体格、容姿、運動能力、家庭環境。持っているものが違う人間同士を同じ場所へ並べておきながら、「同じ条件で競いましょう」と言う。

 

 何が同じなのだろう。

 

 だから私は、努力すれば必ず勝てるとは思わない。

 

 強者には強者の戦い方があり、弱者には弱者の戦い方がある。

 

 正面から殴り合って勝てないのなら、相手が見ていない場所から石を投げればいい。

 

 もっとも、それを口にすると大抵の人間から性格が悪いと言われる。

 

 実際、否定はできない。

 

     *

 

「それじゃ、軽くダブルスでもやろうか」

 

 葉山隼人の提案に、三浦優美子が長い金髪をかき上げた。

 

「いいんじゃない? どうせ遊びでしょ」

 

 遊び。

 

 その一言に、戸塚の表情がわずかに曇った。

 

 この練習は、戸塚にとって遊びではない。部員を引っ張れるだけの実力を身につけようと、本人なりに真剣に取り組んでいる。

 

 けれど、三浦に悪意はない。

 

 自分たちはテニス部ではない。放課後の暇つぶしとしてラケットを握るのだから、遊びという認識で間違ってはいない。

 

 だから厄介なのだ。

 

 悪意のない人間は、自分が誰かを傷つけたことに気づかない。

 

「遊びではないわ」

 

 雪ノ下が静かに告げる。

 

 三浦の眉が動いた。

 

「戸塚君は真剣に練習しているの。参加するなら、少なくともそれを尊重してもらえるかしら」

 

「は? 別に馬鹿にしてないんだけど」

 

「そう。なら問題ないわね」

 

 雪ノ下は淡々としている。

 

 だが、その物言いは相手の反感を買うには十分だった。

 

 三浦の周囲の女子たちが、気まずそうに顔を見合わせる。

 

 葉山が二人の間へ入った。

 

「まあまあ。せっかく人数が集まったんだ。楽しみながら真剣にやればいいだろ?」

 

「隼人がそう言うなら、いいけど」

 

 三浦は不満そうにしながらも引き下がった。

 

 葉山隼人。

 

 集団の空気を読み、対立が生まれればすぐに間へ入り、誰の顔も潰さない形で収める。

 

 さすがはクラスカースト最上位。

 

 私が同じことをすれば、両方から嫌われて終わる。そもそも止めに入ろうとも思わないが。

 

「組み合わせはどうする?」

 

 由比ヶ浜が尋ねる。

 

 葉山は少し考え、周囲を見回した。

 

「まずは俺と優美子で組もう。雪ノ下さんと……」

 

 視線が私へ向く。

 

 嫌な予感がした。

 

「比企谷さんでどうかな」

 

「妥当ね」

 

 雪ノ下が即答した。

 

「待て。なんで私なんだ」

 

「先ほど約束したでしょう。あなたは私と組ませてあげると」

 

「約束じゃなくて、お前が勝手に決めただけだ」

 

「八幡。私以外の誰かと組めるの?」

 

「…………」

 

 反論できなかった。

 

 由比ヶ浜は運動が得意ではない。戸塚は依頼人だから、まずはこちらの試合を見てもらったほうがいい。

 

 残りの人間とは、ろくに会話をしたこともない。

 

「消去法で組んでやる」

 

「素直ではないわね」

 

 雪ノ下は微笑み、私の頭を撫でた。

 

「人前で撫でるな」

 

「緊張をほぐしているのよ」

 

「緊張してない」

 

「そう? 尻尾を膨らませて威嚇する子猫のような顔をしているけれど」

 

「そんな器用な顔できねえよ」

 

 私が手を払いのけると、三浦が呆れたような視線を向けてきた。

 

「ていうかさ、雪ノ下ってそういうキャラだったわけ?」

 

「どういう意味かしら」

 

「他人にベタベタするタイプじゃないと思ってた」

 

「ベタベタなどしていないわ」

 

「してんじゃん」

 

 三浦の視線が、私たちの距離へ落ちる。

 

 気づけば雪ノ下は私のすぐ隣に立っていた。肩が触れ合うほど近い。

 

 雪ノ下は私を見下ろし、少しだけ考える。

 

「……八幡は例外よ」

 

 周囲が静まった。

 

「いや、そこで私を見るなよ」

 

「八幡について尋ねられたのだから、見るのは当然でしょう」

 

「そういう意味じゃない」

 

「ゆきのん、今の言い方だと誤解されるよ?」

 

 由比ヶ浜が苦笑している。

 

「事実を述べただけよ」

 

「もういいから、さっさと始めようぜ……」

 

 これ以上続けると、妙な噂が増えそうだ。

 

 私はラケットを持ち、コートへ向かった。

 

     *

 

 試合前の練習が始まる。

 

 葉山の球は速かった。

 

 運動部に所属しているだけあり、身体の使い方が私とは違う。軽く打っているように見えるのに、ボールは低い軌道でネットを越えてくる。

 

 対する雪ノ下も、正確なフォームでそれを打ち返した。

 

「すご……」

 

 由比ヶ浜が感嘆の声を漏らす。

 

 戸塚も目を輝かせていた。

 

「雪ノ下さん、さっきより上手くなってる」

 

「相手が打ちやすい場所へ返してくれるからよ」

 

「いや、雪ノ下さんの順応が早いんだよ」

 

 葉山が爽やかに笑う。

 

 雪ノ下は特に反応を示さず、次の球を打った。

 

 一方、私は飛んできた球にラケットを振る。

 

 空振り。

 

 遅れて髪が揺れた。

 

「…………」

 

「ヒッキー、ドンマイ!」

 

「余計に惨めになる応援はやめろ」

 

「八幡。ボールを最後まで見なさい」

 

「見てる」

 

「目を閉じていたわ」

 

「ボールが顔に当たりそうだったから反射的に」

 

「あなた……」

 

 雪ノ下は深いため息をつき、こちらへ歩いてきた。

 

「何だよ」

 

「ラケットを持つ位置から直すわ」

 

「さっき教わった」

 

「身についていないから、もう一度教えるのよ」

 

 雪ノ下は私の背後へ回ると、両腕を包むようにしてフォームを修正する。

 

 またこれか。

 

「もう少し腰を落として」

 

「近い」

 

「今はそれどころではないでしょう」

 

「耳元で話すな。くすぐったい」

 

「じっとしていなさい」

 

 三浦の顔が引きつっている。

 

「……何あれ」

 

「指導じゃないかな」

 

 葉山が苦笑する。

 

「いや、どう見てもそれだけじゃないっしょ」

 

「ゆきのん、ヒッキーのことになると距離感おかしくなるから」

 

「由比ヶ浜。聞こえているわよ」

 

「ご、ごめん!」

 

 雪ノ下は私の腕を動かし、素振りをさせた。

 

「この形を覚えなさい。あなたは腕だけで打とうとしすぎよ」

 

「わかったから離せ」

 

「本当に?」

 

「たぶん」

 

「信用できないわね」

 

「なら最初から聞くな」

 

 ようやく解放される。

 

 次の球が飛んできた。

 

 私は雪ノ下に教えられたとおり、腰を落としてラケットを振った。

 

 今度は中心に当たる。

 

 ただし、ボールは真上へ飛んだ。

 

 私の頭上から、ぽすんと落ちてくる。

 

「……当たった」

 

「ええ。大きな進歩よ」

 

 雪ノ下が拍手をした。

 

「園児を褒める先生みたいな反応するな」

 

「ヒッキー、すごい!」

 

「由比ヶ浜まで拍手するな!」

 

 戸塚だけは純粋な笑顔を向けている。

 

「でも、ちゃんとラケットの真ん中に当たってたよ。すぐ上手くなると思う」

 

「戸塚……」

 

「八幡。顔が緩んでいるわ」

 

「緩んでない」

 

「私が褒めても、そのような顔をしないのに」

 

「褒め方の問題だ」

 

 雪ノ下は不満げに私の頬をつまんだ。

 

 本当に理不尽である。

 

     *

 

 練習を終え、試合が始まった。

 

 葉山と三浦のペア。

 

 こちらは雪ノ下と私。

 

 技量だけを比較すれば、結果は見るまでもない。

 

 雪ノ下は葉山と対等に打ち合えるが、私は初心者以下。こちらへ球を集められれば、すぐに崩れる。

 

「八幡。あなたは無理に打たなくていいわ」

 

 雪ノ下がネットの向こうを見たまま言う。

 

「一人で全部返すつもりか」

 

「そのほうが勝つ可能性は高いでしょう」

 

「正論だけど、それじゃダブルスの意味がない」

 

「怪我をするよりましよ」

 

「怪我する前提で話すな」

 

「先ほど顔に当たりそうになっただけで目を閉じていたでしょう」

 

「あれは練習だから気を抜いてたんだ」

 

「本番なら避けられると?」

 

「当たっても死にはしない」

 

「そういう問題ではないわ」

 

 雪ノ下の声に苛立ちが混じった。

 

 私を信用していないというより、本気で心配しているらしい。

 

「大丈夫だ。自分にできることくらいはわかってる」

 

「……そう」

 

 雪ノ下はしばらく私を見つめ、やがて小さくうなずいた。

 

「危ないと思ったら、すぐに避けなさい」

 

「わかったよ」

 

「本当に?」

 

「お前、さっきから同じことばかり聞くな」

 

「あなたが信用できないからよ」

 

 心配性にもほどがある。

 

 私が前衛、雪ノ下が後衛につく。

 

 最初のサーブは三浦だった。

 

「じゃ、いくよ」

 

 高く投げたボールを、三浦が力強く打つ。

 

 ボールはこちらのコートへ鋭く突き刺さった。

 

 雪ノ下が追いつき、正確に返す。

 

 葉山が前へ出てボレー。

 

 雪ノ下はそれにも反応したが、返球は浅い。

 

 三浦が打ち込んだ球が、私の横を抜けた。

 

「まず一点」

 

 三浦が得意げに笑う。

 

「ヒッキー、気にしないで!」

 

 由比ヶ浜の声援が聞こえる。

 

 気にはしていない。

 

 最初から私が足を引っ張ることはわかっていた。

 

 続く二点目も、私のミスで失った。

 

 三点目は雪ノ下が葉山とのラリーを制して取り返す。

 

 しかし四点目。

 

 葉山が私の足元へ打ったボールに、反応が遅れた。

 

 それでも、なんとかラケットを出す。

 

 ボールはフレームに当たり、ネットのすぐ向こうへふわりと落ちた。

 

「えっ」

 

 三浦の声。

 

 偶然のドロップショット。

 

 誰も追いつけず、こちらの得点になった。

 

「ナイス、ヒッキー!」

 

「今のは狙ったの?」

 

 戸塚が尋ねる。

 

「当然だ」

 

「嘘ね」

 

 雪ノ下が即座に否定する。

 

「何でわかる」

 

「打った本人が一番驚いた顔をしていたもの」

 

「味方の功績を素直に認めろよ」

 

「偶然でも得点は得点よ。よくできました」

 

 雪ノ下の手が頭へ伸びてくる。

 

「試合中に撫でるな」

 

「ご褒美よ」

 

「いらない」

 

 そう言いながらも、今は振り払っている時間がない。

 

 その様子を見ていた三浦が、わずかに苛立ったように眉を寄せた。

 

「優美子。落ち着いて」

 

「わかってるし」

 

 葉山に声をかけられ、三浦がボールを握る。

 

 次のサーブ。

 

 今度は私を狙っている。

 

 当たり前だ。弱い場所を攻めるのは勝負の基本である。

 

 私はラケットを構えた。

 

 飛んできた球へ腕を伸ばす。

 

 当たった。

 

 返球は高く浮き、葉山の前へ飛ぶ。

 

 葉山がスマッシュの体勢に入った。

 

「八幡、下がって!」

 

 雪ノ下の声。

 

 葉山が打った球は、私のすぐ横へ落ちた。

 

 避けようとして足がもつれる。

 

 そのままコートへ尻もちをついた。

 

「いっ……」

 

「八幡!」

 

 雪ノ下が駆け寄ってくる。

 

 試合中とは思えないほどの速さだった。

 

「どこか痛めたの?」

 

「尻打っただけ」

 

「足は?」

 

「何ともない」

 

「立てる?」

 

「これくらいで大げさだ」

 

 自分で立ち上がろうとすると、雪ノ下は私の腕を肩へ回した。

 

「本当に大丈夫だって」

 

「確認するまで信用しないわ」

 

「試合はどうするんだよ」

 

「棄権する」

 

「は?」

 

 雪ノ下は迷いなく言った。

 

「続ける必要はないわ」

 

「ただ転んだだけだぞ」

 

「怪我をしてからでは遅いでしょう」

 

「だから怪我してないって」

 

「八幡」

 

 雪ノ下が強い声で私の名前を呼んだ。

 

 その目は、怒っているというより怯えているように見えた。

 

 たかが転倒だ。

 

 しかし雪ノ下にとっては違うらしい。

 

 私は小さく息を吐き、両足で立ってみせた。

 

「ほら。平気だ」

 

 軽く跳ぶ。

 

 どこにも痛みはない。

 

 雪ノ下は私の腕をつかんだまま、足元を確認する。

 

「……本当に?」

 

「本当だ」

 

「無理をしていない?」

 

「してない」

 

「なら、頭を撫でさせなさい」

 

「何の確認だよ」

 

「嫌がる元気があるかどうかよ」

 

「嫌に決まってるだろ」

 

 そう答えると、雪ノ下はようやく肩の力を抜いた。

 

「なら、続けてもいいわ」

 

「お前の許可が必要なのか」

 

「必要よ」

 

 当然のように言い切られた。

 

 何を言っても無駄そうだった。

 

「葉山」

 

 私はネットの向こうへ声をかけた。

 

「今の球、わざとじゃないのはわかってる。謝らなくていい」

 

 葉山は口を開きかけていた。

 

 先に言っておかなければ、必要以上に責任を感じるだろう。

 

「ああ。でも、悪かった。少し強く打ちすぎた」

 

「八幡が避けられなかっただけよ」

 

「お前はどっちの味方だ」

 

「事実を述べたまでよ。ただし、次に八幡の顔を狙った場合は許さないわ」

 

「狙ってないよ……」

 

 葉山が困ったように苦笑した。

 

 雪ノ下は冗談を言っている顔ではなかった。

 

     *

 

 試合を再開する。

 

 実力差は変わらない。

 

 ただし、相手の攻撃には一つの偏りが生まれていた。

 

 三浦は私を狙う。

 

 葉山も勝負を成立させるため、必然的に弱い私へ球を送る回数が増える。

 

 つまり、相手の打つ場所を予測しやすい。

 

「雪ノ下」

 

「何?」

 

「次の球も私に来る」

 

「でしょうね」

 

「だから、私の後ろを任せる」

 

「あなたは?」

 

「できるだけ高く返す」

 

 速い球は打てない。

 

 正確なコースも狙えない。

 

 ならば時間を稼ぐ。

 

 私が高い球を上げれば、相手が打ち返すまでに雪ノ下が位置を整えられる。

 

「ずいぶん消極的な作戦ね」

 

「弱者には弱者の戦い方がある」

 

「そう」

 

 雪ノ下はわずかに笑う。

 

「悪くないわ」

 

 葉山のサーブ。

 

 予想どおり、私の側へ来る。

 

 ラケットを下から振り上げる。

 

 返球は高い弧を描き、相手コートの奥へ落ちた。

 

 葉山が追いつき、雪ノ下へ返す。

 

 雪ノ下はすぐに三浦の逆を突いた。

 

 得点。

 

「やった!」

 

 由比ヶ浜が声を上げる。

 

 戸塚も大きく拍手をしていた。

 

「今の、ヒッキーとゆきのんの連携すごかった!」

 

「ほとんど雪ノ下だけどな」

 

「あなたが時間を作ったから打てた球よ」

 

 雪ノ下は珍しく素直に評価した。

 

 私は少しだけ驚く。

 

「何よ、その顔は」

 

「いや。お前でも人を褒めることがあるんだなと」

 

「あなたがまともな働きをすれば、私だって褒めるわ」

 

「じゃあ、もっと褒めろ」

 

「調子に乗らないで」

 

 頭を軽く小突かれた。

 

 痛くはない。

 

 むしろ手加減しすぎて、触れただけに近かった。

 

 試合は少しずつ競り合いになった。

 

 私が相手の攻撃を予測し、どうにか高く返す。

 

 雪ノ下が決める。

 

 役割分担は明確だった。

 

 やがて、あと一点でこちらが勝つところまで来る。

 

 三浦の表情から余裕が消えていた。

 

「なんで……」

 

 自分たちのほうが上手い。

 

 運動能力も高い。

 

 それなのに、私のような初心者を相手に負けかけている。

 

 納得できないのだろう。

 

「優美子。焦らなくていい」

 

「わかってる!」

 

 三浦がサーブを打つ。

 

 強い。

 

 しかも私の正面。

 

 反射的にラケットを出したが、ボールは真上へ上がる。

 

 浅い。

 

 三浦が前へ出た。

 

 スマッシュ。

 

 今度は完全に、私のいる場所へ向かってくる。

 

「ヒッキー!」

 

 由比ヶ浜の叫び声。

 

 避ければ失点する。

 

 受ければ、顔か身体に当たるかもしれない。

 

 ほんの一瞬の判断だった。

 

 私はしゃがんだ。

 

 ボールが頭上を通過する。

 

 後ろにいた雪ノ下が、その球を打ち返した。

 

 三浦と葉山は、私に当たると思って動きを止めている。

 

 返球は二人の間を抜け、コートの奥へ落ちた。

 

 試合終了。

 

「……勝った?」

 

 由比ヶ浜が呟く。

 

 戸塚が嬉しそうに跳び上がった。

 

「勝った! 雪ノ下さん、比企谷さん、すごいよ!」

 

 私は立ち上がろうとする。

 

 しかし、その前に雪ノ下が肩をつかんだ。

 

「八幡!」

 

「何だよ。今度は転んでないぞ」

 

「なぜもっと早く避けなかったの!」

 

「最後まで球筋を見てただけだ」

 

「当たったらどうするつもりだったの?」

 

「そのときはそのときだ」

 

「そのときでは済まないでしょう!」

 

 雪ノ下の声がコートへ響いた。

 

 全員が黙り込む。

 

 雪ノ下は私の前に膝をつき、頬や額を確認するように触れた。

 

「当たっていない?」

 

「見てただろ。どこにも当たってない」

 

「本当に?」

 

「本当だ」

 

 雪ノ下の指が、私の頬をなぞる。

 

 その手はわずかに震えていた。

 

「……よかった」

 

 小さな声。

 

 その表情を見て、私は何も言えなくなった。

 

 雪ノ下は決して感情を表へ出す人間ではない。

 

 毒舌で、冷静で、何でも一人でできる。

 

 そんな彼女が、私にボールが当たりかけただけで、本気で取り乱している。

 

「悪かった」

 

 気づけば、そう口にしていた。

 

「次からはもっと早く避ける」

 

「次などないわ。八幡はもう前衛禁止よ」

 

「極端だな」

 

「返事は?」

 

「……はいはい」

 

「一回よ」

 

「はい」

 

 雪ノ下はようやく私から手を離した。

 

 代わりに立ち上がると、頭を強く抱き寄せる。

 

「おい」

 

「少しだけ、このままでいなさい」

 

「みんな見てる」

 

「関係ないわ」

 

 胸元へ顔を押しつけられ、周囲が見えなくなる。

 

 雪ノ下の心臓の音が聞こえた。

 

 普段の彼女からは考えられないほど速い。

 

 本当に心配させたらしい。

 

 私は抵抗するのをやめた。

 

「……苦しい」

 

「我慢しなさい」

 

「心配した罰か?」

 

「ええ」

 

 頭を撫でられる。

 

 いつもならすぐに振り払う手を、そのときだけは受け入れた。

 

     *

 

 試合が終わると、三浦はこちらへ歩いてきた。

 

 不機嫌そうな顔は変わらない。

 

「さっきの、悪かった」

 

 意外な言葉だった。

 

「別に。勝負なんだから、弱いほうを狙うのは当然だろ」

 

「そうじゃなくて……最後の球。ちょっと熱くなった」

 

「当たってないからいい」

 

「あんた、もうちょっと怒ったりしないわけ?」

 

「怒ったところで、何か得するのか?」

 

「そういう問題じゃないっしょ」

 

 三浦は納得できない様子だったが、やがて大きく息を吐いた。

 

「あーしは、あんたみたいなタイプ、苦手」

 

「奇遇だな。私もだ」

 

「でも……思ってたより根性あんじゃん」

 

「そりゃどうも」

 

 それだけ言うと、三浦は踵を返した。

 

 葉山も近づいてくる。

 

「いい試合だった。完敗だよ」

 

「実力ではそっちが上だった」

 

「でも、試合に勝ったのは君たちだ」

 

 葉山は爽やかな笑顔で手を差し出した。

 

 私はその手を見る。

 

 握手。

 

 こういうときの正解はわかっている。

 

 けれど、素直に応じると葉山の物語に取り込まれるような気がして、少しだけ抵抗があった。

 

 すると横から雪ノ下が私の手を取った。

 

 そのまま葉山の手の上へ重ねる。

 

「八幡。挨拶くらいしなさい」

 

「自分でできる」

 

「できていないでしょう」

 

「無理にさせなくてもいいよ」

 

 葉山が困ったように笑う。

 

 私は仕方なく、その手を軽く握った。

 

「どうも」

 

「ああ。またやろう」

 

「もうやらない」

 

「即答なんだね」

 

「八幡にテニスは危険すぎるもの」

 

 雪ノ下まで同意した。

 

 戸塚が残念そうに眉を下げる。

 

「比企谷さん、もう練習に来てくれないの?」

 

「……球拾いくらいなら」

 

「本当? ありがとう!」

 

「八幡。先ほど、もう前衛には出ないと約束したでしょう」

 

「球拾いは前衛じゃない」

 

「コートの外にもボールは飛んでくるわ」

 

「どこまで過保護になるつもりだ」

 

「あなたが自分を大切にすることを覚えるまでよ」

 

 雪ノ下は当然のように告げる。

 

 私は返す言葉を失った。

 

 自分を大切にする。

 

 そんなことを考えた経験は、あまりなかった。

 

 一人でいる人間は、最初から誰にも心配されない。

 

 自分が多少傷ついたところで、困る人間はいない。

 

 だから無茶をしても構わない。

 

 ずっと、そう思っていた。

 

 けれど今日、雪ノ下は明らかに動揺していた。

 

 由比ヶ浜は叫び、戸塚も心配そうに駆け寄ろうとしていた。

 

 私が傷つけば、嫌な顔をする人間がいる。

 

 それは少しだけ、私の計算を狂わせる。

 

「……善処する」

 

「信用できない返事ね」

 

「これ以上は譲歩しない」

 

「仕方がないわ。しばらくは私が見張ることにする」

 

「常に一緒にいる気かよ」

 

「不満なの?」

 

「非常に」

 

「そう」

 

 雪ノ下は私の頭に手を置き、ゆっくりと撫でた。

 

「では、不満そうな顔をしながら我慢なさい」

 

「理不尽だ」

 

「知っているわ」

 

 彼女は小さく笑った。

 

 夕暮れのテニスコート。

 

 その中で、由比ヶ浜が携帯電話をこちらへ向けていることに気づく。

 

「由比ヶ浜」

 

「えっ?」

 

「何をしてる」

 

「な、なんでもないよ?」

 

「携帯を見せろ」

 

「やだ!」

 

 由比ヶ浜が逃げ出す。

 

 私はすぐに追いかけた。

 

「消せ! 今撮っただろ!」

 

「だって、ゆきのんに撫でられてるヒッキーがかわいかったから!」

 

「ふざけるな!」

 

「八幡、走ると転ぶわよ」

 

「誰のせいだと思ってる!」

 

 三浦たちが呆れた顔で見ている。

 

 戸塚は楽しそうに笑っていた。

 

 そして雪ノ下は、私たちを見つめながら、どこか穏やかな表情を浮かべていた。

 

 結局、由比ヶ浜が撮った写真を消すことはできなかった。

 

 それどころか、雪ノ下へ送信済みだったことが判明する。

 

 その日の夜。

 

 雪ノ下の携帯電話の待ち受けが、その写真へ変わっていたことを、私はまだ知らない。

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