目を開けたとき、最初に見えたのは錆びた鉄骨だった。
天井の隙間から、細い光が差し込んでいる。その中を砂埃が漂っていた。
トニーは体を動かそうとして、眉をしかめた。頭の奥に鈍い痛みがある。
背中に当たる硬い感触を確かめ、ようやく自分が椅子に座らされていると分かった。
両腕は背もたれの後ろへ回され、手首を縛られている。試しに腕へ力を込めると、縄が皮膚へ食い込み、椅子が小さく軋んだだけだった。
体のどこにも、撃たれたときのような痛みはない。窓も座席も穴だらけになっていたはずなのに、自分の身体には、その痕跡がなかった。彼女が守ってくれたのだろうか。
「……アロナ?」
「あ、起きた」
返ってきた声は、聞きなれた声ではなかった。
声のほうを向くと、ヘルメットをかぶった少女が木箱に腰掛けていた。
「おーい。こいつ、起きたよ」
「やっと? 死んだのかと思ったじゃん」
入口の方から、もう一人が現れた。こちらも同じようなヘルメットをかぶっている。
周囲に目を向けると、積み上げられた木箱の向こうに、動かなくなって久しいらしい作業機械が並んでいる。ここは倉庫か、放棄された工場の一角だろう。
「ドローンを作る工場にしては、ボロボロだな」
「何言ってんの?」
「頭、打ったんじゃない?」
「頭は打ってる。君たちのおかげでね」
軽口を叩く間に、もう一度、自分の呼吸を確かめた。
砂漠で襲われ、意識を失い、知らない場所で目を覚ます。覚えのある状況だった。胸に穴が開いていないだけ、前回より状況はいいと言える。
そう考えても、背中ににじむ冷たい汗は引かなかった。
「何が目的だ? 僕はまだ、この都市で誘拐されるほどのことはしていないと思うんだが」
「さあ? 私たちは雇われただけで、何も知らないよ?」
「誰に雇われた?」
「そんなの、あんたに教えるわけないでしょ」
「カイザーに雇われたんだろう? 僕がここに来るのを待ち伏せして、襲撃しろと言われた。君たちカタカタヘルメット団がアビドスの生徒にちょっかいをかけてることも知ってるぞ」
二人が顔を見合わせた。
口にした言葉への反応を、トニーは黙って見ていた。少なくとも、見当違いのときに浮かべる顔ではない。
元の世界なら、候補を絞るだけでも一仕事だっただろう。自分を恨んでいる相手にも、技術を欲しがる相手にも、事欠かなかった。
ただ、カイザーがこうも早期に暴力的な手段を取ってくるとは思ってもいなかったが。
「で、いつまでこうしていればいいんだ? 午後にも予定があるんだが」
「迎えが来るまで。そこで大人しくしてなよ」
「もっと静かに車を止めてくれたら、僕は喜んでそうしただろうな」
「ちょっと車を攻撃したくらいで、気絶するとは思わなかったんだって」
彼女は唇を尖らせていた。加減を間違えたというより、面倒なことになったとでも言いたげだった。
ちょっと、か。
銃弾や爆弾が一発でもまともに当たっていれば、今こうして文句を言うこともできなかったはずだ。あの様子だとヘリでも容赦なく撃墜してきたかもしれない。
銃口を向けることと人を殺すことが、トニーの知る世界ほど近くにない。それは前々からわかっていた。銃撃戦が日常茶飯事なのも、子供の喧嘩のようなものだと思えば理解は出来た。
しかし、その頑丈さを当てにして、銃口を向ける相手を選び、引き金を引かせている者がいる。この都市は、生徒たちが動かしている。だが、それを利用する大人がいるというわけだ。
「とにかく、変なことしないでよ。逃げようとしたら撃つから」
そう言って、一人が銃口を向けてきた。それを意に介さずトニーは口を開いた。
「ああ、最後に一つ。僕の荷物を勝手に売ったことは、雇い主にどう説明するつもりだ?」
「はあ? 荷物は全部回収して――」
「おい! ばか!」
隣の少女に怒鳴られ、もう一人はハッとして言葉を止めた。
「……いいか。余計なことはするなよ」
銃口が額に押しつけられた。
冷たい感触に、椅子の背で握った手が強張る。それでも、トニーは少女から目をそらさなかった。
やがて少女の方が、苛立たしげに息を吐いた。銃口が離れる。
二人が入口の方へ戻っていく。靴底が砂を踏む音が遠ざかり、やがて小声の会話が聞こえてきた。
トニーはこわばっていた身体の力を抜いて、目を閉じた。
あの洞窟で目覚めたときも、手元には何もなかった。それでも、隣には話しかけてくれる男がいた。自分を救ってくれた恩人のことを、今も忘れてはいない。
絶望的な状況だが、車が横転する直前、イーディスへ救難信号を出すよう指示しかけた。
信号が届いているかは分からない。届いていたとしても、ここまで捜索してきてくれるかは分からない。
「今回は、ビデオレターを残せそうにないな……」
しかし、何もない宇宙空間を漂流していた時よりかは、助かる可能性はあるはずだ。
そして、アロナもきっと──無事のはずだ。
*
昼下がりのヴァルキューレ警察学校には、電話の呼び出し音と、廊下を行き交う足音が絶えず響いていた。
尾刃カンナは、部下の報告を聞いて仕事の手を止めた。
「救難信号?」
「はい。アビドス自治区からのものです」
報告に来た生徒が端末を差し出す。地図に表示された赤い印を確かめながら、カンナは尋ねた。
「他に分かっていることは?」
「通信が途中で切れたようで、位置情報以外は何も。こちらからの呼びかけにも応答がありません」
道路沿いの一点だった。付近に、人の住んでいそうな建物は見当たらない。
カンナは机の端の書類に目を向ける。そこには今朝届いたばかりの通達があった。
アビドス自治区で発生した事案については、連邦生徒会防衛室の承認が下りるまで、独自の部隊派遣を行わないこと。
不知火カヤ、防衛室長の名で出された指示だった。
「防衛室への照会は?」
「済んでいます。現在、確認中とのことで……出動は待つようにと」
報告する生徒の声が、最後だけ小さくなった。
自治区内の問題は、原則としてその学園が対処する。ヴァルキューレが介入することもあるが、よほどのことがない限りは動けない。
それにしても、自治区を指定して一律に出動を止めるのは違和感を感じていた。そして、実際に救難信号が出たとなると、何かあるのではないかという疑いはより強固なものになった。
「通常、自治区内で起こった問題は、その学校が対処することになっている。この通達にも、何か事情があるのだろう」
「……はい」
部下はそう返事をしたものの、納得はしていないようだった。それを意図的に無視して、カンナは言葉を続ける。
「報告は分かった。業務に戻れ。状況が変わったら、私に報告するように」
部下は一礼して出ていった。
カンナは書類を引き寄せ、もう一度目を通した。
独断で部隊を出せば、命令違反になる。
自分が叱責を受けるだけなら、まだいい。同行した部下まで責任を問われれば、彼女たちに何と説明する。今後の捜査や出動にまで制限が掛かれば、別の現場にも支障が出る。
局長という立場の人間が、上からの指示を無視して動くわけにはいかない。組織とは、決まりを守ることで成り立つものだ。
カンナはその書類を置き、作業の途中だった報告書へ手を伸ばした。
別の場所にも、対応を待っている者がいる。アビドスの件は正規の手続きで照会は済ませた。返答が来るまで、ほかの仕事を進めるべきだ。
そう思ってペンを持ち直し、書類に向き合っても、内容が頭に入ってこない。
「私は……どうすればいいんだ?」
葛藤の末に、椅子の背もたれに身を預けた。
気持ちを整理するためにコーヒーを入れようと席を立つと、指名手配、要注意人物のポスターが目に入ってきた。
*
砂漠化の進む街では、人の住んでいる家を探すほうが難しかった。
この建物も、住人が出ていって久しい。窓には砂が積もり、扉の鍵も壊れている。もっとも、最近居着いた四人組にとっては、雨風をしのげて家賃も請求されない、申し分のない物件だった。
その一室で、陸八魔アルは端末を耳に当てたまま固まっていた。
通話はとっくに切れている。それでも腕を下ろせずにいるのは、今聞いた話に、まだ何か続きがあると信じたかったからだ。例えば、冗談だとか。振り込みは明日だとか。
「どうしたの、アルちゃん? また面白い顔になってるよ?」
そのアルの顔を覗き込むようにして、ムツキが問いかけてきた。
「報酬……踏み倒されたわ……」
「えー、また? というか、アビドスに来てから全然稼げてなくない?」
「うっ。ま、まだ挽回はできるはずよ。私たちが本気で戦えば、次こそは──」
「また、あのピンクのちっちゃい子と戦うの?」
ようやく下がりかけていたアルの腕が止まった。
ピンク色の髪の少女が脳裏に浮かぶ。
気の抜けたような雰囲気で、まったく強そうには見えなかった。数でもこちらが優勢だったはずだった。それなのに、あの少女が前へ出てきた途端、頼みのドローンが次々と煙を噴いた。
最後には、こちらの銃撃を盾で受けながら、まっすぐ歩いてきた。思い出すと、今も後ずさりしたくなる。
「社長、依頼はまだ続いてるの? このまま同じ相手の仕事ばかり受けてたら、いいように使われるだけだと思うけど」
カヨコが訝しげに問いかけてきた。
「で、でも、ほかにまともな依頼もないし……」
「報酬を払わない依頼は、まともなの?」
アルは口を開きかけ、閉じた。
反論を探して視線を泳がせても、見つかるのは剥がれた壁紙と、床に置いた四人分の荷物くらいだった。仕事は失敗。報酬はなし。使った弾薬だけは戻ってこない。
「ねえ、アルちゃん。お腹すいたし、ラーメン食べに行こうよ」
ムツキが、話はまとまったとでもいうように手を合わせた。
「あのお店。また行きたいなー」
「……またサービスしてもらうつもり?」
「してくれるなら、嬉しいけど?」
悪びれない顔を前に、アルはようやく端末を下ろした。このままではいけない。社長として、ここは一つ、毅然としたところを見せるべきだった。
「駄目よ。あのお店に甘えてばかりでは、アウトローとしての威厳が──」
腹が鳴った。
何もない部屋は、こういう音ばかりよく響く。ムツキの視線がアルの腹へ下がり、ゆっくりと顔へ戻ってきた。
「威厳が?」
「今のは忘れなさい」
「で、でしたら……」
ハルカがおずおずと手を上げた。何か思いついたらしく、先ほどまでうつむいていた顔に、ひたむきな決意が浮かんでいる。
「お店がなくなれば、甘えることもなくなるんじゃ……」
「え?」
「爆破、してきましょうか?」
「ちょっ、ちょっと落ち着いて、ハルカ。爆破なんて──」
その時、端末が鳴った。
ハルカへ伸ばしかけた手を止め、アルは端末の画面を見た。非通知の電話がかかってきている。依頼だろうか。それとも、先ほどの雇用主が考え直したのだろうか。
どちらでもいい。今度こそ、まともな仕事の話であってほしかった。
「とにかく、何もしないで待ってて!」
ハルカへ念を押してから、姿勢を正し、仕事用の微笑みを作った。相手に見えていなくても、こういうところは大切だ。
「はい。便利屋68、陸八魔です。どんな依頼でも──」
『仕事を頼みたい。ただ、名乗ることはできない。それでも構わないか』
口上を遮ったのは、低く落ち着いた女性の声だった。
アルはわずかに目を細めた。名乗れない依頼人。わざわざ非通知で掛けてくるほどの事情。
「……もちろん。余計な詮索はしないわ。それが、この稼業の流儀ですもの」
窓辺へ歩み寄り、空いた手で髪を払う。先ほどまでただの空き家だったこの場所が、秘密の仕事を請け負う隠れ家として、急にふさわしく思えてきた。
依頼は、アビドス自治区での救難信号の調査だった。要救助者がいれば、可能な範囲で救出する。報酬と必要経費は依頼人が負担し、支払いは仕事を終えてから。
『人命に関わる可能性がある。急いでほしい。ただし、危険だと判断したら、接触する前に報告してくれ』
「ご心配なく。こちらもプロですもの」
『……頼んだぞ』
通話が切れた。
アルはしばらく端末を耳に当てたまま、砂に煙る街並みを眺めていた。今度は、切られた現実を受け入れられなかったからではない。
最後の「頼んだぞ」が、なかなかよかった。
「アルちゃん、その感じだと、いい依頼」
「……ええ、次の仕事よ。現場の調査と、必要なら人命救助。でも、ただの依頼ではなさそうね」
アルは意味ありげに目を伏せた。
「警察を動かせない事情があるそうよ。きっと、表沙汰にはできない何かが──」
「ふうん。じゃあ、事情は分からないんだ」
「依頼人の秘密を守るのも、便利屋の仕事でしょう?」
「そういうの、好きだもんね。アルちゃん」
「……仕事を選り好みしているわけではないわよ?」
ムツキから目をそらし、全員へ位置情報を送った。
カヨコはそれ以上追及せず、地図を拡大して経路を確かめ始めた。ハルカもすぐに荷物を背負い、銃のベルトを肩へ掛け直す。
三人の準備が整うのを見届け、アルは端末をしまった。
名を明かせない依頼人。警察を頼れない事情。そして、自分たちに託された仕事。
こういう依頼を待っていたのだ。
コートの裾を払い、扉へ向かう。先ほどまでの情けない顔は、もう誰にも見せない。社長らしく、堂々と三人を振り返った。
「この依頼を片づけたら、今度こそ、きちんとお金を払ってラーメンを食べに行くわよ!」