ホシノは、人通りの多い街を歩いていた。
アビドスから少し離れただけで、景色はずいぶん変わる。歩道に砂は積もっていない。店先には商品が並び、制服姿の生徒たちが足を止めていた。
端末で場所を確かめ、指定された建物へ入る。
受付で名前を告げると、すぐに奥へ通された。廊下を進んだ先で、黒いスーツの男が待っていた。
「お待ちしておりましたよ、暁のホル……。いや、ホシノさんでしたね。どうぞ、こちらへ」
ホシノは足を止めたまま、男を見た。
「……黒服の人、今度は何の用なのさ?」
「ふふ、状況が変わりましてね。アビドス最高の神秘をお持ちのあなたに、改めてご提案をしようと思いまして」
「提案? ふざけるな! それはもう……!」
黒服はホシノの声にも動じず、部屋へ入っていった。追いかけるように中へ入ると、机の上には書類が用意されていた。
「お気に入りの映画の台詞がありましてね。今回は、それを引用しましょう」
黒服は椅子へ腰を下ろした。
「あなたに、決して拒めないであろう提案をひとつ」
書類が、ホシノの方へ差し出された。
受け取らずにいると、黒服はそのまま机へ置いた。向きを変え、記載された金額へ指を添える。
「アビドス高等学校を退学し、私共の企業に所属する。その条件を呑んでいただければ、今アビドスが背負っている借金の半分近くを、こちらで負担しましょう」
ホシノは、思わず数字を見た。
半分。
それだけ減れば、毎月の返済はどれほど楽になるだろう。後輩たちが、学校のために働く時間も減らせるかもしれない。
「クックック……さあ、お答えを聞きましょう。もしイエスならば、こちらにサインを」
黒服がペンを置いた。しかし、ホシノは手を伸ばさなかった。
「何度も言ったはずだよ。断るって」
入学した頃から、この手の勧誘は何度も受けていた。差し出される条件が変わっても、求められるものは同じだ。
自分を、学校から連れ出すこと。何を企んでいるのかは分からないが、学校を離れるつもりはない。
「そうですか。残念です。ですが、気が変わったら、いつでもご連絡ください。私共は待っておりますので」
そう言いながらも、黒服は書類を片づけようとしなかった。ペンも、ホシノの手が届く場所に置かれたままだった。
「気が変わることはないよ」
「クックック……本当は、分かっているのでしょう? この提案を受ける以外に、道はないと」
ホシノは黒服を睨んだ。黒服は椅子の背へ身体を預け、こちらを見返していた。
「アビドス高等学校を付け狙う集団がいるのでしょう? そのような状況で、これまでどおり返済を続けられるのですか?」
ホシノの指が、銃のベルトを握った。あの光景が脳裏に浮かぶ。
割れた窓。崩れた外壁。後輩たちに巻かれた包帯。
修繕にも、弾薬の補充にも金がかかる。何度襲われて、追い返しても、返済の日が延びるわけではない。
「……問題ないよ。シャーレの先生が、支援してくれてるから」
そう口にすると、少しだけ落ち着いた。
先生は物資を届けてくれた。セリカがいなくなったときにも、力を貸してくれた。まだ借金のことは話せていないが、学校の事情を気にしていたと、アヤネから聞いている。
あの人の助けがなければ、目の前の数字から目を離せなかったかもしれない。
それでも、カイザーの手を取るくらいなら、先生を頼りたかった。
「先生ですか。なるほど……クックック……あの方は、実に面白いですね。私も、もう一度お会いしたいものです」
ホシノは顔を上げた。
「……先生と、会ったことがあるの?」
「ええ。カイザーの本社で、ご挨拶をしただけですが」
黒服の声が、わずかに弾んだように聞こえた。
「あなたのような神秘はお持ちではない。しかし、それと同等……いえ、それ以上の何かを内に秘めている。実に興味深い方です」
ホシノは黙って聞いていた。
神秘だとか、内に秘めた何かだとか。そういう話は、どうでもよかった。
カイザーの本社に先生がいた。
「先生は、カイザーで何をしていたの?」
「おっと。少々、話しすぎましたね」
黒服は机の上で手を組んだ。
「私がお話ししたのは、個人的な関心からです。先生のご用件について、私からお話しすることはありません」
「……何も知らないってこと?」
「答えるのは控えさせていただきます」
ホシノは唇を結んだ。
学校へ物資を運んできた機体と、襲撃に使われた機体。それが似ているというだけで、先生を疑うべきではない。
昨夜も、そう考えた。だが、目の前の男は先生と会っている。その場所は、アビドスが借金を返し続けている相手の本社だった。
「カタカタヘルメット団に、ゲヘナの便利屋。ドローンまで、アビドスを襲ってきた」
ホシノは一歩、机へ近づいた。
「昨夜の工場にも、同じ機体があった。何か知っているなら、言って」
「仮に知っていたとしても、他者との取り決めに関わる情報を、勝手にお話しすることはできません」
黒服は、机の上の書類を再び差し出した。
「こちらにサインしていただけるのでしたら、お話しできることも増えるかもしれませんが」
ホシノは、その書類を見下ろした。結局、そこへ戻るのだ。
何を尋ねても、何に困っていても、この男は同じものを差し出してくる。
「もういい。私が、自分で調べるから」
書類には触れず、踵を返した。
呼び止められる前に扉へ手を掛ける。だが、黒服は席を立とうともしなかった。
「どうか、お気をつけて。また、お会いしましょう」
その声は、こちらが戻ってくることを疑っていないように聞こえた。
*
トニーは人通りの多い歩道を歩いていた。
シャーレへ戻った翌日。休むという約束は、守れなかった。
連邦生徒会からは、昨夜の事件について説明を求められていた。端末には何度も連絡が入ったが、後回しにしてカイザーの本社へ向かった。
結果は、喜ばしいものではなかった。
誘拐も、シャーレへの襲撃も、関与を否定された。トニーが何を尋ねても、担当者は同じ説明を繰り返すばかりだった。その一方で、ドローンが制御不能になった責任はこちらにあるとして、契約の破棄を通告してきた。
こちらも、取引を続けるつもりはなかった。それより気になったのは、カイザーが運用していた輸送用のドローンまで、どこかへ飛び去ったという話だ。
イーディスだろう。
そう考えても、手の打ちようがなかった。こちらからの通信には応じない。残された記録を調べても、行き先は分からなかった。
アロナがいれば、何かできたかもしれない。
だが、そのアロナも手元にいない。
シッテムの箱は、外部からの干渉をことごとく拒む。頼もしいはずの性質が、今は所在を調べる妨げになっていた。カイザーがどこへ持ち去ったのか分からなければ、取り戻しようがない。
仮に場所が分かっても、スーツは使えないままだった。イーディスの接続経路を調べ、安全を確かめるには時間が要る。
どこから手をつけても、別の問題にぶつかった。
だから、二度と会いたくなかった相手を頼ることになった。
トニーは端末に送られてきた住所を確かめ、建物へ入った。
*
「お待ちしておりました、先生。まさか、あなたの方から会いに来てくださるとは。嬉しい限りです」
黒服は、そう言って右手を差し出した。
トニーはその手へ目を落とし、軽く頭を下げた。
「キヴォトスでは、こうやって挨拶するのが一般的らしいぞ」
前に握ったときの感触は、まだ覚えている。こちらが放そうとしても、指は緩まなかった。今度は、触れさせるつもりはない。
「これは失礼。私も、まだこちらの習慣に馴染んでおりませんので。どうぞ、中へ」
黒服は何事もなかったように手を引き、部屋へ案内した。
「僕以外にも、この都市の外から来ている者がいるとはね。地元は違うみたいだが」
勧められた椅子へ座りながら、トニーは男の顔を見た。黒い表面に走る亀裂。知り合いの宇宙人にもこういうタイプはいなかった。
「クックック……ええ。私たちも、あなたと同じくキヴォトスの外部の者です。ただ、あなたとはまた異なる領域の存在ですが」
「私たち?」
こんなような輩が、まだいるらしい。
「私たちは、観察者であり、探究者であり、研究者です。ゲマトリア、と名乗っております。いかがでしょう。先生も、私たちと一緒に――」
「残念ながら、今日は勧誘を受けに来たんじゃない。本題に入っていいか?」
黒服は向かいの席へ腰を下ろした。
「どうぞ」
「カイザーについてだ。ついさっき、本社への出入りを禁止された。だが、あちらには返してもらわなければならない物がある」
「おや。以前お持ちだったタブレットが見当たらないとは思っていましたが」
「盗まれた。そのありかを知りたい」
「それは、お困りでしょうね」
「とぼけるな。観察者を名乗るくらいだ。シッテムの箱についても、知っているんだろう? カイザーで君の名前を出したら、担当者が急に口を閉ざしたぞ」
「クックック……」
「笑ってないで、答えてくれ」
「失礼しました。ええ、シッテムの箱も存じています。ただ、私が関心を持っているのは、むしろあなたの方です」
黒服は机の上で手を組んだ。
「連邦生徒会長に指名され、突如として現れた不可解な存在。あのオーパーツの主であり、連邦捜査部シャーレの先生」
「不可解なのは、君の顔と笑い方だろう」
「クックッ……おっと。お気に障るのでしたら、控えましょう」
言葉とは裏腹に、楽しんでいるようにしか見えなかった。
「シッテムの箱は、サンクトゥムタワーさえ動かすことのできる力を持っている。もっとも、誰にでも扱える物ではないようですが」
「ああ、もし使える者がいて、悪用されたら大変なことになるな。僕も無くしたと連邦生徒会にばれたら、大変なことになる」
「ええ。そして、ご推察のとおり、私はその所在を知っています」
トニーは背もたれから身体を起こした。
「そうか。なら――」
「ですが、何もなしに情報をお渡しするわけにはいきません。相応の対価をいただくべきかと」
黒服の右手が、机の上に置かれていた。トニーはその指先へ視線を落とした。
「……もう一度、手を握れって?」
「それは、魅力的なご提案ですね」
黒服は少し考えるように黙った。
「ただ、私もあなたと敵対したいわけではありません。いかがでしょう。アビドス高等学校、ひいては小鳥遊ホシノから、手を引いていただくというのは」
トニーは顔を上げた。
「ホシノ……? なぜ、ここでその名前が出てくる?」
セリカを救出した朝、気の抜けた調子で話していた少女を思い出す。自分をおじさんと呼び、後輩の肩へ手を置いていた。
借金について調べた資料にも、その名前はあった。だが、この男が彼女を名指しする理由は分からなかった。
「おや? ……そうですか。もう、ご相談を受けているものと思っていましたが」
「何の話だ」
黒服は答えず、こちらをじっと見つめていた。前に手を握られたときと同じ、不快な感覚がした。
「あなたは先生である以前に、何か別の存在であろうとしているのかもしれませんね」
「さっきから何を言っている? 天才、金持ち、博愛主義者とでも答えてほしいのか?」
「いえ、独り言です」
黒服はゆっくりと首を振った。
「ただ、ここは学園都市キヴォトス。あなたが元いた場所とは違います。先生であることをお忘れになれば……捻じれて歪んだ終着点が待っているかもしれません」
「説教か? 最近は先生なのに、説教されることが多くて困るね」
軽口を返しても、黒服は黙っていた。
トニーは椅子へ座り直した。
箱の所在は、この男が握っている。機嫌を損ねれば、また手掛かりを失うかもしれない。
それでも、差し出せる対価ではなかった。
「なら、先生として忠告しておく。僕の生徒に手を出したら、ただでは済まないぞ」
黒服の指が、机の上でわずかに動いた。沈黙の後、低い笑い声が漏れた。
「クックック……ブラックマーケットです」
「何?」
「シッテムの箱の所在ですよ」
トニーは黒服の顔を見た。何を考えているかは読み取れなかった。
「カイザーは、あなたの兵器による報復を恐れています。使い方も分からない物を手元に残し、取り返しに来られるのは避けたいのでしょう」
「それで、売り払ったのか」
「ええ。手元になければ、調べられても出てきませんからね。あの素敵なお召し物は、今日は着ていらっしゃらないのですか?」
「毎日、同じ服は着ないだろう」
トニーは端末を取り出した。黒服が告げる店の名と、所在を書き留める。聞き終えても、すぐには立ち去る気にはならなかった。
「……何を企んでいる?」
「何のことでしょう」
「対価が必要だと言ったばかりだ。僕は、君の条件を断ったぞ」
「先ほど申し上げたとおり、先生と敵対するつもりはありませんので」
黒服は組んだ手を解いた。
「それに、あなたがブラックマーケットへ向かわれる間、アビドスへ足を運ぶことはできないでしょう?」
端末を持つ手が止まった。
「いい性格をしている」
「お褒めにあずかり、光栄です」
トニーは立ち上がった。
ホシノに何を持ちかけているのか。カイザーとどこまで関わっているのか。聞きたいことは増えたが、この男が素直に答えるとは思えなかった。
今は、アロナを取り戻す。その後で、アビドスへ行く。
「必要なことは聞けた。今度こそ、二度と会わないで済むことを願っているよ」
「先生。このままブラックマーケットへ?」
扉へ向かいかけたところで、声が掛かった。
「ああ。アビドスへは、その後に行く」
「あの兵器なしで、問題ないのですか?」
トニーは足を止めた。
「それに、あなたは……大人のカードをお持ちではないでしょう?」
また、知らない言葉が出てきた。クレジットカードのことだろうか。
だが、それでもやらなくてはならないことに変わりはない。たとえ手元に何もなくてもだ。
「スーツなしで何もできないなら、スーツを着る資格はない」
黒服の返事を待たず、トニーは扉を開けて出て行った。