紅茶の香りが、穏やかな風に混じっていた。
ナギサはカップを持ち上げ、テラスの向こうへ目を向けた。庭の手入れは行き届き、遠くから聞こえる生徒たちの声も、今日は静かだった。
テーブルには、読みかけの書類が置かれている。
エデン条約に関する調整は、まだ終わっていない。ゲヘナとの交渉だけでなく、トリニティの内部でも、考慮しなければならないことは多かった。
「失礼します。ナギサ様、少しお時間をいただけますか?」
顔を上げると、ヒフミがテラスの入口に立っていた。
両手に箱を抱えている。その上には、封筒が一通載っていた。
「大丈夫ですよ、ヒフミさん。どうされました?」
「シャーレから、お届け物です。こちらへ運んでほしいと頼まれまして」
「まあ。ありがとうございます。どうぞ、こちらへ」
ナギサは書類を脇へ寄せた。
ヒフミが箱をテーブルへ置く。さほど重くはなかったようだが、落とさないように気を張っていたのだろう。手を離してから、小さく息をついた。
「ヒフミさんも、お茶はいかがですか?」
「あ、ありがとうございます。それでは、少しだけ……」
ヒフミが向かいへ座るのを待って、ナギサは封筒を手に取った。
差出人は、トニー・スターク。便箋には、先日の協力に対する礼が書かれていた。
そして、課外授業にかかった費用はシャーレで補填するので、明細を送ってほしいと続いていた。
ナギサは、その一文で目を止めた。費用を支払い、礼を述べる。明快で、誠実な申し出だった。
だが、それですべて精算されてしまうのは、少々惜しい。
今後、エデン条約を進めるうえで、どちらの学園にも属さないシャーレの立場が役に立つ場面はあるだろう。今回の費用を回収するよりも、必要なときに話を聞いてもらえる関係を作る方が、得られるものは大きい。
もちろん、露骨に見返りを求めるつもりはない。
まずは、生徒たちの無事を喜ぶ返事を送る。費用については、もともと予定していた授業なのでお気遣いなく、としておけばいい。
そのうえで、近いうちにお茶へ招くのも悪くなかった。
追伸もあった。同封の品は、授業に参加してくれた生徒にも見せてほしい。お茶菓子ではないので、食べないように。
ナギサは箱へ目を向けた。わざわざ書くということは、食べ物に見えるものなのだろうか。
「こちらも、開けてみましょうか」
包装を外し、蓋を持ち上げる。
中には、透明なケースに収められた小さな車が入っていた。
艶のある車体は、模型でも高級品だと分かるほど丁寧に作られている。そのオープンカーの運転席に、白い鳥のようなものが座っていた。
大きな目と、妙に目立つ口。車よりも、そちらに視線を奪われる。
これは、どう受け取ればよいのだろう。ナギサが手紙へ目を戻しかけたとき、向かいで息をのむ音がした。
「……えっ」
ヒフミが、ケースを見つめていた。カップへ伸ばしかけていた手が止まっている。
「ヒフミさん?」
「そ、それ……ペロロ様ドライブフィギュアの限定版じゃないですか?」
「ご存じなのですか?」
「はい! 車のメーカーとコラボしたもので、新車を購入した人しかもらえない限定品なんです!」
ヒフミは椅子から少し身を乗り出した。
目が、先ほどとは比べものにならないほど輝いていた。
「車も、対象が決まっていて……すごく高い車なんですよ。フィギュアだけでは売っていなくて、私も写真でしか見たことがなくて……!」
ヒフミはケースへ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「あっ、すみません。ナギサ様への贈り物なのに、私ばかり……」
「構いませんよ。お好きなのですね」
「はい。とっても……」
答えながらも、ヒフミの視線はフィギュアへ戻っていた。
なるほど。誰がこれを喜ぶか、差出人には分かっていたらしい。
「ヒフミさん。よろしければ、こちらはお持ちになってください」
「えっ?」
「今回、動いてくださったのはヒフミさんですから。先生も、喜んでくださると思います」
「で、でも、こんな貴重なものを……本当に、いいんですか?」
「ええ。どうぞ」
ケースを向かいへ寄せる。
ヒフミは両手で受け取り、しばらく言葉もなく眺めていた。
それから顔を上げた。
「ありがとうございます、ナギサ様! 大切にします!」
頬を緩めた、曇りのない笑顔だった。
ナギサはカップへ手を伸ばした。
「喜んでいただけて、何よりです」
紅茶を一口含む。
「見てください、ナギサ様。ちゃんとシートベルトもしてるんですよ」
「まあ。本当ですね」
ヒフミがケースの向きを変え、嬉しそうに見せてくれる。
しかし、ナギサが見ていたのはヒフミの笑顔であった。
ナギサは微笑みながら、返礼品の候補を考えた。上質な茶葉と、お菓子の詰め合わせ。それだけでは、少し足りないだろうか。
先生の好みも、一度調べてもらおう。シャーレとの関係を築くのはゆっくりでいい。
ナギサは手紙を、ほかの書類とは別の場所へ置いた。
*
書類を一枚読み終えるたびに、次の一枚が目に入る。
ヒナは署名を済ませ、処理済みの束へ重ねた。隣に積まれた未処理の書類は、なかなか低くならなかった。
アビドスから戻っても、普段の仕事がなくなるわけではない。留守の間の報告に、今回の出動に関する書類まで加わっている。
机の端に置いたお茶は、すっかり冷めていた。
「失礼します、ヒナ委員長」
アコが入ってきた。
手には厚みのある封筒を持っている。
「また報告書?」
「シャーレからです。委員長宛てのお手紙と、書類が届いています」
ヒナはペンを置いた。
封筒には、トニー・スタークの名があった。
中から便箋を取り出すと、先日の協力に対する礼が書かれていた。小鳥遊ホシノは学校に戻り、対策委員会も全員無事だったらしい。
ヒナは続きを読んだ。
アビドスでの風紀委員会の活動にかかった費用は、シャーレが負担する。請求先と、必要な手続きについても記されていた。
「律儀ね」
「先日のアビドスでの件ですよね? 私も目を通してよいでしょうか?」
アコが尋ねた。
ヒナが便箋を渡すと、アコは目を通し、少し考えるように口元へ指を添えた。
「……委員長。こちらは、すぐに請求しない方がよいかもしれません」
「どうして?」
「シャーレに対して貸しを残しておけば、今後のエデン条約の交渉でも役立つはずです。金銭で精算するより、別の形で協力を求めた方が――」
「それは万魔殿の仕事でしょう」
ヒナは椅子の背へ身体を預けた。
「私たちは、連れていかれた生徒を助けるために行ったの。あと、イオリが先生を撃ってしまった件のお詫びも兼ねていたのよ」
大した怪我はしていないと言っていた。イオリもあのアーマースーツに弾をはじかれたと言っていたが、怪我をしていないなら良いということにはならない。
だから、こちらから何かを要求するつもりもなかった。
「もちろん、それは承知しています。ただ、委員長が自ら出向かれたのですから、その働きに見合うものは……」
「出動費用を確認して。請求するかどうかは、それから考える」
アコは何か言いかけたが、便箋へ目を戻して頷いた。
「……承知しました」
ヒナは封筒に残っていた書類を取り出した。こちらも、費用に関するものだろうか。
一枚目の表題を見て、手が止まった。
診断書。
患者名は、トニー・スタークだった。
そういえば、アビドスで会ったときに伝えた。チナツが診断書を出してほしいと言っている、と。
あのときの返事を思い出す。ちょっと撃たれただけ。病院へ行くほどではない。
ヒナは診断書へ視線を落とした。
頭部の負傷と、意識を失った経緯についての記載がある。さらに、背部や肩、手首にも負傷が認められるという。
目を下へ動かす。
安静。経過観察。激しい運動を控えること。
ヒナは胃が痛くなるのを感じた。
「……アコ」
「はい」
「イオリとチナツを呼んで。今すぐに」
*
店の前へオープンカーを停めた。
シートベルトを外すだけで、肩が痛む。トニーは少し顔をしかめ、運転席から降りた。頭と腕には、まだ包帯が巻かれている。
買ったばかりの車だった。
走りは悪くない。砂の多い道でも乗り心地はよく、スーツで飛ぶより、今の身体には優しかった。
車を買ったと知れば、ユウカは何と言うだろう。
仕事にも必要だし、これは自分の金で買ったものだ。そう説明する準備はしておいた方がよさそうだった。
暖簾をくぐり、店の扉を開ける。
「いらっしゃい!」
湯気の向こうから、威勢のいい声がした。
犬の姿をした大将が、麺の湯切りをしていた。醤油とスープの匂いが鼻をくすぐる。奥のテーブルからは、すでに賑やかな声が聞こえていた。
「十一人で予約していた、スタークだ」
「ああ、先生か。お連れさんは、もう来てるよ。こんな大人数の予約は初めてで驚いたが、先生が来ると聞いて納得したよ。今日は、みんなで打ち上げかい?」
「ああ。約束していたんでね。なるべく静かにするように言っておく」
大将が顔を上げ、トニーの姿を見た。
「そんな包帯まみれになるまで頑張ってくれたんだ。こっちもサービスしないとな」
「気にしないでくれ。うちの生徒が世話になったと聞いている」
「こっちも、先生の活躍は生徒さんから聞いたよ。うちの店までカイザーに持っていかれるところだったんだ。世話になったのは、こっちさ」
「なら、少しくらいうるさくしてもいいかな」
「おうよ! ほかの客はいないから、賑やかにやっていってくれ」
「あっ、先生!」
セリカがこちらに気づき、手を上げた。
一つのテーブルには、対策委員会の五人がそろっていた。その隣には便利屋の四人もいる。
「ちゃんと病院には行ってきたんですね」
アヤネが、トニーの包帯を確かめるように見た。
「ああ。ホシノと仲良く行ってきたよ」
「うへぇ。私は大丈夫だって言ったのに」
ホシノが椅子の背にもたれたまま、ぼやいた。
「私が誘拐されたときも、無理やり連れていったでしょ!」
セリカに言い返され、ホシノは目をそらした。
「それはほら、先輩として心配だったから……」
「こっちだって心配してたの!」
「先生、こちらの席が空いていますよ」
ノノミが隣の椅子を示した。
トニーがそちらへ向かおうとすると、別の声がかかった。
「先生。こっちの席も空いてるわ」
アルが隣の椅子を引いていた。机の上にはメニューが並んでいるが、本人は仕事の打ち合わせでも始めそうな顔をしている。
「前から言っていた、会社の福利厚生について話し合いましょう」
「社長。打ち上げで仕事の話をするのはやめない? 先生も疲れてるだろうし」
カヨコが言った。
「あはは。素直に、こっちのテーブルに来てって言えばいいのに」
「む、ムツキ。私は経営者として――」
「わ、私は今のままでも十分だと思います! 先生のおかげで、毎日三食食べられるようになりましたから……!」
ハルカが慌てた様子で言った。
やはり、福利厚生については一度話し合う必要がありそうだった。
「ん。そんなつまらなそうな話より、次の襲撃の話を私とするべき」
シロコが鞄へ手を入れた。
「約束どおり、先生の分も持ってきた」
取り出されたのは、赤い覆面だった。額には、大きく「87」と書かれている。
本当に用意してくるとは思わなかった。
「先生?」
ホシノが身体を起こした。さっきまで眠そうだった目が、まっすぐこちらを向いている。
「おじさんも、ちょっと話したいことができたなぁ。ここに座ってくれない?」
「ああ、いや。あれは、ちょっとした冗談だったんだが……」
「……うへぇ。こっちも冗談だよ。でも、あのときのお礼はちゃんと言いたいからさ。こっちに来てくれない?」
「冗談だったんだ……」
シロコが、手元の覆面へ目を落とした。赤い布が、少しだけ下がる。
「先生! シロコ先輩が落ち込んじゃったじゃない! 早くこっちに来て、慰めてあげてよ!」
「銀行強盗に誘われて断った僕が、悪いことになってないか?」
「アルちゃん、どうする? あっちは泣き落としにかかっちゃったけど、まだ挽回できるかな?」
ムツキが楽しそうに尋ねた。
「う、うーん……あっ、そうだわ! 先生、私たちは約束したじゃない! 無事に帰れたら、みんなでラーメンを食べに行くって!」
「そんな死亡フラグみたいな約束だったっけ?」
ムツキが首を傾げた。
「約束なら、私もしたわよ。バイト先のおすすめを教えるって。ね、先生」
セリカがメニューを持ち上げる。アルは言葉に詰まり、仲間たちを見回した。
「うっ……みんな、何かない?」
「くふふ。先生、あのとき私たちが助け出さなかったら、どうなっちゃってたかな~」
トニーはムツキへ顔を向けた。
「ああ。その件は、あまり大きな声で話さないでほしい。余計な心配をかける」
「えっ、先生。こいつらと何をしてたの? 助け出したって、何の話?」
セリカがメニューを下ろした。
ムツキは笑顔のまま、空いた椅子を軽く叩いた。
「先生がこっちに座ってくれたら、話さないであげるよ?」
「ナイスよ、ムツキ!」
「普通に脅すのはどうかと思うよ……」
カヨコがため息をついた。
「うへぇ。じゃあ、おじさんも先生の秘密を話しちゃおうかな~」
ホシノまで、頬杖をついて笑っている。
「ア、アル様! あっちにも知っている人がいるみたいです。消してきましょうか?」
「やめて! あの人を敵に回したら勝てないわ!」
「大人気ですね、先生♪」
ノノミが笑い、アヤネは少し困った顔で二つのテーブルを見比べていた。
「あはは……時間を決めて、交代にするのはどうでしょうか。それなら、平和的に……」
「ん。なら、先にこっちへ――」
「大将。カウンターは空いてるかな」
シロコの言葉をさえぎって、トニーは二つのテーブルへ背を向けた。
「おう。好きなところへ座ってくれ。人気者も大変だな」
「あっ、先生! そこに座るの!?」
セリカが悔しそうに言う。
「今日は食事に来たんだ。座席の交渉で、ラーメンを冷ましたくない」
カウンターの椅子を引き、腰を下ろす。
背中が少し痛んだが、姿勢を直し目の前のメニューへ手を伸ばした。
「話は、ここからでも聞こえる。できれば、一人ずつ頼む」
「うへぇ。逃げられちゃったねぇ」
ホシノの声に、ノノミが笑った。
「でも、先生らしいですね」
そのとき、店の扉が開いた。
「いらっしゃい!」
大将の声に続いて、静かな足音がした。
「先生。お待たせいたしました」
トニーは声のほうへ振り返った。
狐の面をつけた少女が、入口で丁寧に頭を下げていた。
さっきまで賑やかだった二つのテーブルが、静かになる。
「……誰?」
セリカが尋ねた。
「今回の、陰の功労者だ。そう警戒はしなくて……いや、ほどほどにしてくれ」
「ええ。先生の前で暴れるようなことは、いたしませんわ」
「……狐坂ワカモ?」
カヨコがあからさまに警戒して、銃に手を伸ばそうとしていた。
「ああ、知っていたのか。大丈夫だ。確かに、脱獄した囚人ではあるが――」
「囚人!? ちょっと、アウトローすぎない!? 本当に大丈夫なの?」
アルが椅子から腰を浮かせた。
「私たちもブラックリストに入って銀行口座を凍結されたから、あんまり人のこと言えないけどね」
「ムツキ、今はその話はいいから!」
「少なくとも、最近は暴れていない。ずっとシャーレの周辺にいたらしいからな」
トニーが言うと、ワカモは胸の前で手を重ねた。
「はい。あなた様のことを、ずっと見ておりました」
「それ、別の意味で危なくない? 先生、その子に何をしたの?」
ホシノが尋ねた。
「一度、顔を合わせただけだ。僕も、詳しい説明が欲しいくらいだよ」
トニーは隣の椅子を引いた。
「ワカモは、ここへ座ってくれ」
「わ、私が、先生のお隣に……?」
「ああ。僕が見張っていないといけないからな」
ワカモは椅子を見つめ、それからトニーの顔を見た。
「せ、先生が私を見張って……よ、喜んで……」
慎重に腰を下ろし、両手を膝へそろえる。
背後で、誰かが小さくうめいた。
「……最後に来て、あっさり隣に座ったわね」
「アルちゃんも、もっと素直にお願いすればよかったのに」
トニーは聞こえないふりをして、ワカモへメニューを渡した。
「好きなものを頼んでくれ。今日は、君にも礼をしたかった」
「礼だなんて、そのような……」
「僕がいない間、シャーレを守ってくれたんだろう。ユウカたちから聞いたよ」
ワカモの指が、メニューの端をつかんだ。
「あの方々が、先生の大切なものを壊そうとしていたので……」
「おかげで、生徒たちも助かった。ありがとう」
ワカモは顔を伏せた。狐の面の下から、小さく息をのむ音がした。
「……あなた様のお役に立てたのでしたら、それ以上の喜びはございません」
厨房から出てきた大将が、水を並べながら声をかけた。
「注文、決まったかい?」
途端に、あちこちから声が上がった。大盛りにするか。餃子もつけるか。追加は本当に好きに頼んでいいのか。
セリカが立ち上がりかけたが、大将に手で制された。
「今日は客でいい。座ってな」
「でも、この人数じゃ大変でしょ」
「これくらい、任せとけ」
セリカは少し迷い、それから椅子へ座り直した。隣でノノミが、嬉しそうにメニューを広げる。
トニーも注文を伝え、コップを手に取った。包帯の巻かれた手首を動かすと、少し痛む。
「先生。お持ちしましょうか?」
「水くらいは自分で飲める。ありがとう」
ワカモは差し出しかけた手を戻し、静かに頷いた。
少しずつ、店の中へいつもの騒がしさが戻っていく。
アルは経費の話を始めかけ、カヨコに止められていた。ムツキはその隣で餃子を追加し、ハルカは自分の分まで注文されて慌てている。
対策委員会のテーブルでは、シロコが赤い覆面を広げ直していた。
「先生。これは、どうする?」
「ありがたくもらっておくよ」
シロコが顔を上げた。
「ん。じゃあ、次は――」
「被る機会が来ないことを祈っているがね」
「……銀行強盗以外でも使える」
「シロコちゃん。今はしまっておこうか」
ホシノが手を伸ばし、覆面を畳んだ。
その様子を見て、トニーは口元を緩めた。止める者が、ちゃんと席に戻っている。それだけで、ずいぶん安心できた。
「はい、お待ちどう!」
目の前に、丼が置かれた。
湯気が立ち上り、スープの香りが近づく。二つのテーブルにも次々と料理が運ばれ、歓声が上がった。
彼女たちには、まだ片づいていない問題がある。借金も、砂漠も、ホシノの救出で消えたわけではない。
ただ、カイザーPMC理事が逮捕され契約が見直された結果、借金は今までよりもずっと常識的な金額となった。
背後では五人が笑い、その隣で四人が餃子を取り分けている。ワカモは面を外しかけ、こちらの視線に気づくと、少し恥ずかしそうにうつむいた。
十一人。予約した人数は、全員そろっていた。
本来ならば、もう一人の陰の功労者を呼びたかったが、この中に放り込むのはかわいそうなのでやめておいた。
トニーはラーメンに箸をつけた。
ようやく、肩の荷が下りた気がした。
*
机の上に置かれた荷物を、カンナはしばらく見つめていた。
通販を利用した覚えはない。備品を取り寄せた記憶もなかった。
宛先は、ヴァルキューレ警察学校、公安局長室。自分の名前まで正確に書かれている。
だが、差出人の欄には何もなかった。受付で安全確認は済ませたと言っていたが、不審なことに変わりはない。
「……誰がこんなものを」
カンナは手元の書類を脇へ寄せた。
アビドスで起きた一連の事件について、報告が上がってきていた。カイザーコーポレーションとシャーレの先生が関与した、アビドス高等学校を巡る大きな事件だ。
アビドスと言えば、あの便利屋に依頼したときを思い出さずにはいられなかった。
便利屋とはあの後、一切の連絡が取れなくなった。こちらからつなごうとしても、切れてしまうのだ。救難信号を送った者が助かったかどうかも分からない。
あのとき、命令に従って部隊を引き揚げた自分の選択は正しかったのだろうか。この事件の被害を小さくしたのか、それとも大きくしてしまったのだろうか。
ここ最近は寝つきが悪かったが、アビドスの事件を聞いて更にひどくなった。
カンナは息を吐き、荷物の封を切った。
緩衝材の中から、革張りのケースが出てきた。飾り気はないが、手に取ると作りのよさが分かる。
留め具を外すと、中には眼鏡が収められていた。細いフレームを持ち上げ、光へ透かしてみる。特に変わったものには見えない。
試しにかけると、レンズに度は入っていなかった。
「伊達眼鏡を送られてもな……」
外そうとして、ケースの底に紙があることに気づいた。折り畳まれた手紙だった。
開いて最初の一行を読んだところで、カンナの手が止まった。
”助けてくれてありがとう”
続く文章へ、目を走らせる。
”便利屋への報酬は、僕から支払っておいた。助けられた本人が払うのが筋だろう。君は財布の心配をしなくていい”
「あのときの……」
匿名の依頼だったはずだが、どこかで分かったらしい。
カンナは椅子へ座り直した。手紙は、まだ続いていた。
”上の命令に背いてまで、正しいと思ったことをした君なら、この眼鏡がふさわしいかもしれない”
正しいと思ったこと。
警察として、助けを求める声に応じようとした。それを止められ、結局は犯罪者崩れの組織に任せただけだ。
胸を張れるようなことではなかった。それでも、助けられた本人はこうして礼を送ってきた。
「大げさですよ……」
誰もいない部屋で、カンナはつぶやいた。今日は少しだけよく眠れそうだった。
手紙はさらに続いていた。
”もし、またあのときのように、助けを呼びたくても呼べないことがあったら”
”これをかけて、こう言ってみてくれ――”
カンナは眉を寄せた。手紙の最後に書かれた言葉を、確かめるように口にする。
「……イーディス?」
次の瞬間、視界が変わった。
机の上の書類の文字が浮き上がり、勝手に要約されていく。飲みかけのコーヒーに入っている成分が表示される。
部屋の壁の向こうで、歩いている生徒の姿が透けて見えた。それに、その人物の名前、年齢、所属などの個人情報が文字として浮かび上がってくる。
「なっ! 何だこれは!?」
カンナは身体を起こした。そのとき、誰もいないはずなのに耳元で声が聞こえた。
『虹彩、声紋情報を登録しました。こんにちは、カンナ』
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。これにて対策委員会編は完結です。
感想、お気に入り登録、評価、誤字報告もありがとうございます。
活動報告に長めのあとがきを書いているので気になる方は読んでみてください。
続きは書く予定ですが、少々時間が空くと思います。本作や原作を読み返しながらでも、気長に待っていただけると幸いです。