トニーは周囲を見渡した。今までいた部屋ではなくなっている。座っていた椅子も、手を伸ばした机も消えていた。かつての部下が開発していたホログラムの技術を思い出させる。
近くの机の表面へ指を滑らせた。硬さも、わずかなざらつきもある。ホログラムというよりどこか別の空間に飛ばされた、というほうが正しいのかもしれない。
オーパーツというだけあって何か起こるだろうことは予想していたが、またどこかに飛ばされるとは想像していなかった。
そんな空間で、少女が一人机に突っ伏していた。今まで見てきたどの生徒よりも幼い。空色の髪の上には、やはり光る輪がある。
「むにゃ……カステラにはぁ……バナナミルクのほうが……」
トニーは少女へと近づいた。起きる様子はない。気持ちよさそうに眠っている。
「えへ……まだ、たくさんありますよ……」
とんとん、と指先で机を叩く。
「休憩中のところ悪いが、話があるんだ」
「んむ……もう少し……」
少女の肩が揺れた。ゆっくりと顔を上げ、眠そうな目でトニーを見る。数秒、動きが止まった。
「……先生?」
次の瞬間、勢い良く椅子から立ち上がった。
「せ、先生!? この空間に入ってきたということは、まさかスターク先生!?」
「ああ、トニー・スタークだ。君は僕を知っているようだが、こちらは分からないことだらけでね。まず、名前を聞かせてくれ」
「えっと、その、……落ち着いて、落ち着いて。まず自己紹介から……」
少女は胸元を整え、姿勢を正した。
「私はアロナです。このシッテムの箱に常駐するシステム管理者であり、メインOS。そして、これから先生をお手伝いする秘書です!」
「OS? それにしては随分と人間らしいな。お昼寝機能もついているのか?」
「い、いえ、あれはその……待っている時間が長かったので、うとうとしてしまって……」
人間らしい、というより幼い子供そのものだ。開発者は何を考えてこのアロナを作ったのだろうか。
「次に聞きたいのはこの教室についてだ。ここはどこなんだ?」
「ここはシッテムの箱の中です。先生が箱に触れてこっちに来ようとすれば、いつでも来れますよ」
あのタブレットの中ということだろうか。そうすると、実際に移動したわけではなく、意識だけが接続されているのかもしれない。それなら、座っていたのにここに来たときは立っていたことにも説明がつく。トニーが考察している間もアロナはにこにことしていて、機嫌が良さそうだった。
「やっと会うことができました。私はここで先生をずっと、ずっと待っていたんですよ。も、もちろんたまに居眠りしたりしたこともあるけど……」
アロナは頬を赤く染めた。よく見ると頭上の輪が、表情に合わせて形を変えている。
トニーはそばにあった椅子を引いて、腰を下ろした。ここからが本題だ。
「次が一番重要なことだ。連邦生徒会長について知っていることはあるか?」
アロナの表情が変わった。
「会長が僕を呼んだと聞いた。何故外の世界の僕が呼ばれたのか、分かっていない。何でもいい、知ってることがあったら教えてほしい」
「……ごめんなさい。私はキヴォトスのことなら色々知っていますが、連邦生徒会長については、ほとんど知らないんです。外の世界のことも……」
「なら、僕の名前は誰から聞いた? 僕を待ち始める前は、何をしていたんだ?」
「それは……あれ? 何で知っていたんでしょう? 待っている前……」
そう言ったきり、うーんと唸りながら考えこんでしまった。本当に知らないらしい。
少し期待しすぎていたのかもしれない。落胆のため息を抑えることはできなかった。それを見たアロナはハッとして顔を上げた。
「ええっと、その……連邦生徒会長についてはこれから調べてみます! 外の世界の情報も探します! このスーパーアロナちゃんに任せてください! 先生の力になれるように頑張りますので!」
「頼むよ、スーパーアロナちゃん。僕にも手伝えることがあったら教えてくれ」
アロナは胸を張った。
「はい、お任せください! では早速調べて……っと、その前に、先生の生体認証をしないといけないんでした」
アロナが人差し指を差し出した。
「先生の指を、こちらへ」
「指紋か?」
「はい!」
トニーも指を伸ばした。最後にこの手へ集まった光と熱を思い出しかけ、一瞬止まった。
「どうかしましたか?」
「映画好きの少年が喜びそうなシチュエーションだと思ってね」
「? 映画ですか?」
「ああ、外の世界のことは知らないんだったな。気にしなくていい」
言うことを聞かない高校生のことを思い出しながら、アロナと人差し指を合わせた。
「ありがとうございます。少々お待ちくださいね」
アロナは何もない空間を覗き込み、目を細めた。
「どれどれ……んー……」
「何をしているんだ?」
「先生の指紋を確認してるんです」
「……アロナは目がいいんだな」
「はい! ありがとうございます!」
皮肉は通じない。それから「見えにくいかも」とか「これでいいですかね」と小さくつぶやいていたのを聞いて、頭を抱えたくなった。
「はい。これで大丈夫です!」
「……それは良かった。取りあえず、君にやってほしいことを話そう」
連邦生徒会長の失踪。サンクトゥムタワーの制御を失ったこと。その結果、キヴォトスの各所で混乱が起きていること。
説明を聞き終えると、アロナは頷いた。
「サンクトゥムタワーへのアクセスなら、私にできそうです」
「制御権を取り戻せるのか?」
「はい。少し待っていてください」
「外部接続には何を使う? 管理者の認証情報は――」
「サンクトゥムタワー、管理者権限の取得を完了しました」
アロナが褒めて欲しそうな顔でこちらを見てきた。
「できましたよ、先生!」
トニーは途中まで開いた口を閉じた。
「……もう?」
「はい。現在、サンクトゥムタワーは私の管理下にあります」
「指紋を確認するのにあんなに時間がかかったのに、タワーの管理権限はそんな簡単に取れるのか?」
「先生!? 目がいいって褒めてくれてたんじゃないんですか!?」
「目はいいんだろう。指紋一つ確かめるより、タワーを一つ動かす方が早いとは思わなかったが」
アロナはぷくっと頬を膨らませた後に説明を続けた。
「先生が承認してくだされば、連邦生徒会へ制御権を移せます」
「そうしてくれ」
「いいんですか? 今なら、先生がタワーを管理することもできますよ?」
「僕は今日、この街の名前を知ったばかりだ。組織を運営した経験はあるが、都市の管理はやったことがない」
視線をアロナへ戻す。
「リンたちへ渡してくれ」
「……分かりました。制御権を連邦生徒会へ移管します」
今度も、長くはかからなかった。
完了を告げるアロナの声を聞きながら、トニーは机に置いた自分の手を見た。
これで、都市の混乱がいくらか収まる。あの四人が今日のように駆り出されることも、減るだろうか。
そう思いながら、トニーは立ち上がった。
「さて、そろそろ戻るとしよう。帰るにはどうしたらいい?」
「帰りたいと先生が思えば、帰れます。……その、先生。私はお役に立てましたか?」
不安そうに、アロナが聞いてくる。質問に答えられなかったことを気にしているのだろう。
「ああ、間違いなく役に立った。君がいなければタワーにアクセスできずに、僕はクビになっていたかもしれない」
「なら、良かったです」
アロナはほっと息をついた。それでも、まだ何か言いたそうにしていた。置いて行かれるのを寂しがる子供のように。ずっと待っていた、と彼女が言っていたのを思い出す。
「……今度ここに来たときは、カステラに何のミルクが合うのか議論でもしようか」
アロナは一瞬固まった後、これまでで一番の笑顔を見せた。
「はい! 約束ですよ!」
*
瞬きをすると、地下室の机が目の前にあった。
手元にはシッテムの箱。画面の中で、アロナがこちらへ手を振っている。トニーは指先でその頭を撫でるように画面をなぞり、椅子の背へ身体を預けた。
入口にいたリンが近づいてきた。手にした端末へ目を落とし、届いた報告を確かめている。
「サンクトゥムタワーの制御権が復旧しました。各部署からも、接続が戻ったとの報告が来ています。これで、行政機能を回復させられます」
リンの肩から、わずかに力が抜けた。
「お疲れ様でした、先生。キヴォトスの混乱を収めるためにご尽力いただいたこと、連邦生徒会を代表して感謝いたします」
「僕は端末を起動しただけだ。働いたのは、護衛してくれた四人と、この中の僕の秘書だよ」
画面の中で、アロナが胸を張った。
「外はどうなった? ワカモは捕まったのか?」
「拘束した生徒たちは、矯正局へ引き渡します。ワカモはまだ逃走中ですが、引き続き追跡します。必ず捕まえますので、ご心配なく」
リンは微笑んだ。声は穏やかだったが、最後の一言には妙な力がこもっていた。
「君は怒らせないほうが良さそうだな」
「いえ、怒ってはいません」
笑顔は変わらなかった。
「では、最後にシャーレの施設をご案内します。ついてきてください」
リンが出口へ向き直る。トニーはシッテムの箱を手に取り、その後へ続いた。
*
エレベーターが地下を離れ、上へ昇っていく。
外から見ても大きな建物だとは分かっていたが、リンの説明を聞く限り、設備も一通り揃っているらしい。
案内されたのは、窓の大きな部屋だった。机と椅子、書棚。机の上には端末と、書類の束が置かれている。
「こちらがシャーレの部室です。先生には、ここを拠点にお仕事をしていただくことになります。必要な備品は揃えていますが、不足があればお知らせください」
トニーは部屋を見回した。
「ずいぶん準備がいいな」
「先生をお迎えする予定でしたので」
リンは机の脇で足を止めた。
「ただ、シャーレには権限こそありますが、明確な活動目標は定められていません。必ず取り組まなければならない任務も、今のところはありません」
「捜査部なのに、捜査対象も決まっていないのか?」
「その点について、会長からの説明はありませんでした。活動内容は先生の判断に委ねられている、ということです」
「箱だけ用意して、中身は全部僕に任せたわけだ」
「会長の意図を直接確かめられればよいのですが、依然として行方は分かっていません」
トニーは机に手を置いた。ようやく、落ち着いて動ける場所ができた。情報を集め、設備を整え、あの地下の装置も調べたい。
リンの視線が、机の上へ移った。トニーも書類の束を見る。
「連邦生徒会には、今も様々な要請が届いています。支援物資の手配、施設や周辺環境の改善、成績不振の生徒への補習、部活動への支援などです」
「それが、この山か」
「はい。私たちは連邦生徒会長の捜索に力を割いているため、各地で起きる問題すべてに対応する余裕はなく……活動予定がまだ決まっていないシャーレであれば、対応できるものもあるかもしれません」
トニーは一番上の書類を持ち上げ、その下にも同じような用紙が続いているのを見た。
「自由にしていい、という話だったな?」
「ええ。対応するかどうかも含めて、先生の自由です。お時間のあるときに、目を通していただければ」
「断りにくくするのが上手いな」
「ご検討いただけるようで何よりです」
リンは一礼し、出口へ向かった。
「では、私はこれで失礼します。必要なときには、またご連絡いたします」
扉の前で足を止め、振り返る。
「改めて、ようこそキヴォトスへ。先生を引き受けてくださり、ありがとうございます」
その笑顔は、確かに怒っていないとわかるものだった。扉が閉まると、部屋は静かになった。
シッテムの箱を机に置き、椅子へ深く腰を下ろす。身体のあちこちに、忘れていた疲れが戻ってきた。
落ち着きはしたが、片づけなければならない問題は、机の上の書類だけではない。確かめなければならない。帰る方法を探さなければ。でも、今は少しだけ休もうと目を閉じた。
脳裏に浮かんできたのは、先ほどまで話していたリンとアロナの姿。そして、自分を守るために前へ出た四人の生徒。
それでも意識を手放す間際に見たのは、ともに戦った仲間たちと、家族の笑顔だった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。これにてプロローグは終了です。
思いつきから書き始めた作品ですが、こんなにも多くの方に読んでいただけるとは思っていませんでした。ブルアカとMCUが、多くの方に愛されている作品なのだと改めて実感しています。
感想、お気に入り登録、評価もありがとうございます。引き続き、スターク先生の物語をお届けできればと思います。これからもよろしくお願いします。