家族に捨てられた天才少女は、人懐っこい同級生に溺愛される 作:めろんちゃん
朝の空気は少しひんやりとしていた。
リシェルはいつものように学院へ向かい、静かな廊下を歩く。
窓から差し込む朝日を浴びながら、ふと昨日の出来事を思い出していた。
――少しだけ楽しかった。
図書館でエレノアと過ごした時間。
笑ってしまったこと。
図書委員に注意され、慌てるエレノアの姿。
思い返すと、自然と口元が緩みそうになる。
「……変。」
小さく呟き、自分の頬に触れる。
こんな気持ちは初めてだった。
◇
「リシェル、おはよう!」
教室へ入ると、すぐに聞き慣れた声が飛んできた。
「……おはよう、エレノア。」
その瞬間。
教室の空気がぴたりと止まる。
「……え?」
エレノアは目を丸くした。
「い、今……名前で呼んでくれた?」
「……。」
リシェルは少しだけ気まずそうに目を逸らす。
無意識だった。
今まで「あなた」としか呼ばなかった相手を、自然に名前で呼んでいた。
「あっ……。」
エレノアは胸の前で両手を握りしめる。
「嬉しい……!」
その満面の笑顔を見て、リシェルは少しだけ照れくさくなる。
「そんなに喜ぶこと?」
「喜ぶよ!」
「だって、一歩前進した気がするもん!」
その言葉に、リシェルは返事をしなかった。
けれど、否定もしなかった。
◇
昼休み。
いつもの大樹の下。
エレノアは今日も楽しそうに話していた。
「昨日ね、図書館で借りた本を読んでみたんだけど……。」
「うん。」
「やっぱり三ページで寝ちゃった。」
「……ふふ。」
小さく笑うリシェル。
それを見たエレノアも嬉しそうに笑う。
「あ!笑った!」
「笑ってない。」
「今度は誤魔化せないよ?」
二人の間に流れる空気は、以前よりずっと穏やかだった。
沈黙になっても気まずくない。
風の音を聞きながら隣に座っているだけで、不思議と落ち着く。
そんな時間だった。
◇
食事を終えたあと。
エレノアが立ち上がろうとした時だった。
「あっ。」
手にしていた小さなハンカチが風で飛ばされる。
「ああっ!」
ハンカチは風に乗って校舎の方へ飛んでいく。
エレノアが追いかけようとした、その前に。
リシェルが静かに杖を取り出した。
「《ウィンド・バインド》」
柔らかな風がハンカチを包み込み、ふわりと速度を落とす。
そのままリシェルの手元へ戻ってきた。
「はい。」
何事もなかったように差し出す。
「ありがとう!」
エレノアは嬉しそうに受け取った。
「リシェルって本当に優しいね。」
「……そんなことない。」
「え?」
「落とした物を拾っただけ。」
「それでも優しいよ。」
真っすぐな笑顔。
その笑顔を見ていると、不思議と胸が温かくなる。
リシェルは小さく息を吐いた。
「……エレノア。」
「なあに?」
「どうして。」
「うん?」
「どうして、そんなに私に構うの?」
初めて、自分から聞いた質問だった。
エレノアは少しだけ驚き、それから柔らかく笑う。
「うーん……。」
少し考えてから答える。
「一緒にいると楽しいから。」
「それだけ?」
「うん。それだけ。」
迷いのない返事だった。
本心からの言葉。
リシェルはその答えを聞き、静かに目を伏せる。
(……やっぱり、変な人。)
また心の中でそう思う。
でも。
以前のように嫌な意味ではなかった。
◇
放課後。
昇降口で靴を履き替える。
「じゃあ、また明日!」
エレノアが手を振る。
リシェルは少しだけ間を置いてから、小さく頷いた。
「……また明日。」
その一言だけで十分だった。
エレノアは嬉しそうに学院を後にする。
その背中を見送りながら、リシェルは自分の胸に手を当てた。
(少しだけ。)
(本当に少しだけ……。)
(この子といる時間が、嫌じゃなくなってきた。)
まだ人を信じることはできない。
まだ心の傷は消えない。
それでも、凍りついていた心には、小さな春の風が吹き始めていた。