◇ ペネロピー(レネ)
マーレで暮らすエルディアの血を引く少女。
差別に苦しみ、祖父母が暮らすパラディへと渡る。
◇ メーガン(メグ)
ペネロピーの母。ミカサとジャンの娘。
◇ ロバート
ペネロピーの父。マーレ人。
プロローグ
地平線に、どこまでも続く壁があった。
見渡す限りの緑の先に、世界を隔てる巨大な構造物。壁を越えてゆく鳥が、影さえ落とさず消えてゆくのを、ペネロピーは目を細めて追いかけた。
靴越しに伝わる、柔らかな土と草の感触。青い草の匂いが彼女の鼻腔をくすぐった。
ペネロピーは小高い丘の頂に立っていた。壁まで続く緩やかな斜面には、白や黄色の小さな花が咲いている。風が吹くたびそれは揺れて、光を帯びて波立った。こんなに広々とした世界を、彼女は見たことがなかった。
不意に風が強まり、彼女の髪を乱した。頭上から葉擦れの音が降ってくる。顔を上げると、背後に見上げるほどの大きな樹が立っていた。無数に伸びる枝を、彼女はゆっくりと視線でなぞった。
その時、足元で人の気配がした。少年が樹の根元に座り、眠たげに目を擦っている。後ずさりすると、少年は顔を上げ、ペネロピーを見つめた。硝子色の大きな目が彼女を捉えた。
少年の唇が小さく動いた。だが、何と言ったかは聞き取れなかった。ただ、誰かの名前を呼んだのだということだけはわかった。
1. 灰色の街から
遠くで自分の名を呼ぶ声がして、ペネロピーは目を覚ました。窓から差し込む光から逃げるように、布団の中へと潜り込む。誰かが部屋の扉を叩いている。やがて、しびれを切らしたようにドアが開いた。
「レネ、もう起きなさい」
母・メーガンの近づく気配に、ペネロピーは息を潜めた。
「もう三日目よ。これ以上学校を休んだら、もっと行きづらくなる。それでもいいの?」
「……わかってるけど、行きたくない」
キルトの中綿が影を作る、淡いグリーンの世界をじっと見つめた。やがて、頭上から重い溜息が落ちてきた。
「……わかったわ」
母の気配が遠ざかり、再びドアが音を立てた。やがて、玄関扉が開閉する音が聞こえた。階段を降りる足音が、乾いた振動となって消えた。ペネロピーは、ようやく布団から這い出た。すぐそばの出窓から路地を見下ろすと、大きな茶色の鞄を肩に提げ、バス通りに向かう母の背中が見えた。
小花柄の色褪せた壁紙には不似合いな、立派な壁掛け時計がカチカチと時を刻んでいる。午前七時。その秒針が一周するのをじっと見届けると、彼女はようやく身支度を始めた。
合板のダイニングテーブルには、平積みの書物の影に、一欠片の黒パンと、わずかな野菜に塩漬肉の浮いたスープが置かれていた。ペネロピーはそのパサパサとした硬いパンを、冷めたスープで流し込むようにして飲み込んだ。
ジャケット姿で仕事へ急ぐ大人たちの群れを縫うように、歩道を進む。途中、スクールバスが排ガスを撒き散らしながら彼女の横を走り去った。
まもなく校門が見えた。前の道路にバスが停車し、生徒たちが続々と降りてくる。その様子をポプラの木陰で見守り、全員が校舎へ入ったのを確認してから、彼女もその後を追った。
スチールの引き戸を開けると、教室の後方で一人の少女を囲んでいたクラスメイトたちが、一斉にペネロピーへ視線を向けた。その視線と交わらないよう、窓際の一番後ろにある自席へと向かう。
「もう来ないかと思ったのに」
誰かの嘲笑が聞こえた。鞄を机の脇に掛け、椅子に座って本を広げる。細かい活字を目で追うが、一文たりとも頭に入ってこない。
クラスメイトの騒ぎ声が頂点に達したとき、背中と頭に衝撃を受けた。囲まれていた少女が突き飛ばされ、ぶつかってきたのだ。少女の硬い三つ編みが、ペネロピーの頬をちくりと刺した。
「大丈夫……?」
声を潜めて問いかけると、少女は弾かれたように顔を上げた。その瞳には、恐怖と嫌悪が浮かんでいた。
少女は震える声で一言吐き捨てると、まるで汚らわしいものに触れた場所を振り払うように、必死にスカートの砂埃を払って教室を走り去った。
それを合図に、教室中がどっと沸いた。ペネロピーはまた、文字の滑る本に視線を落とした。少女の「けがれる」という言葉が耳に残っていた。
放課後、ペネロピーは図書館へと向かった。街の中心、ポプラの木に囲まれた一角。役所と病院、そして図書館。大小三つのコンクリートの箱が、狭い石畳の広場を囲うように建っている。彼女は一番小さな建物に入り、本棚から数冊の図鑑を見繕うと、いつもの窓際の席に着いた。
人は疎らで、静かだった。机に図鑑を一冊広げる。この街で見かける植物と言えば、背ばかりが高いポプラと、学校の中庭に植えられたニセアカシアくらいだろう。二階の教室に通っていた頃、窓から見える鬱蒼と繁ったあの丸い葉を、彼女はよく数えたものだった。あとは、ひび割れたアスファルトに咲く、タンポポやナズナ、名もない雑草だけだ。
ペネロピーは頁をめくり、華やかな花弁を持つ花々を一つずつ眺めた。これほど多くの花が、本当に実在したのだろうか。図鑑に並ぶ美しい植物の多くは、五十五年前の地鳴らしで失われたのだという。巨人が世界を蹂躙し去っていったあとも、その爪痕は今なお、この世界を冷たく支配している。
不意にパトカーのサイレンが聞こえた。一台ではない。それらは広場へと滑り込み、向かいの病院の前で止まった。ペネロピーは汚れで曇った窓ガラスの先に目を凝らした。それまで静まり返っていた館内が、一転してざわめきに包まれた。
「殺人があったんだって」
「エルディア人の女医が関わっているらしい」
誰かの話し声を聞くやいなや、彼女は居ても立っても居られず、広げていた本を棚に戻すと図書館を飛び出した。出窓から見送った母の背中が、脳裏をよぎる。
パトカーの向こう、病院の玄関には規制線が張られ、野次馬が集まっていた。彼女は人混みの隙間からガラス扉の向こうを覗き込んだ。夕日が反射して、よく見えない。ショルダーバッグのベルトを握りしめ、爪先立ちで踵を上下させた。
——お母さんは、きっと関係ないはずだ。
祈るように見つめていると、不意に扉が開き、制服警官たちが誰かを取り囲むようにして出てきた。その瞬間、パッとフラッシュが焚かれ、鮮やかな青の医療服がペネロピーの瞳に映った。
「お母さん!」
彼女の声は、野次や警笛、無数のシャッター音に掻き消された。だが、メーガンにはその声が届いたのか、彼女はペネロピーの方を向くと、小さく首を振って唇を動かした。大丈夫——そう言ったように、ペネロピーには見えた。
父・ロバートから連絡があったのは、その夜更けのことだった。部屋に響き渡るけたたましい音に、ペネロピーはびくりと肩を震わせた。その日三度目のベルに、恐る恐る受話器を取ると、送話口から父の声が聞こえた。
「レネかい」
薄闇の中で彼女は頷き、溢れそうな嗚咽を飲み込んだ。
「お父さん、お母さんが……」
ロバートは落ち着いた声で、メーガンを迎えにティベリスからこの街の留置所に向かうことを説明した。
「レネ、よく聞くんだ。お母さんは何も悪いことはしていない。何か、よくない勘違いがあったんだ。でも、すぐに疑いは晴れるよ。ちゃんと戸締まりをして。困った時は、隣のウィルソンさんを頼るんだ、いいね」
愛している——その言葉を最後に通話は切れた。流れる涙を袖で拭い、ペネロピーはまた布団にくるまった。つま先が凍えるほどに冷たい。温もりが微かに残る耳元に、熱い雫が伝ってゆく。カチカチと時を刻む針の音が、次第に自身の鼓動と重なっていくのを感じながら、彼女は眠りについた。
それからまる二日が経った夜半、両親は帰宅した。メーガンは充血した目に涙を浮かべ、ペネロピーを抱きしめた。母の腕がゆっくりと解かれると、今度はロバートが彼女を抱きしめた。
母の頬の腫れが引かぬうちに、ラジオから事件の結末を告げる淡々とした声が流れてきた。病院での毒殺事件は、真犯人である看護師の逮捕によって幕を閉じたという。
自室の窓の、真新しい傷を人差し指でなぞる。
電話のベル。押し殺した母の声。やがて、がちゃりと受話器を置く音が響いた。両親のひそひそと話す声が、扉の隙間から漏れ聞こえてくる。
「しばらくは病院に戻れないみたい。最悪、退職になるかも。迷惑をかけてごめんなさい」
「メグ。君が悪いわけじゃない。君は被害者なんだ。大丈夫、なんとかなるよ」
窓の外から、騒がしい笑い声が聞こえてきた。路地を見下ろすと、少年たちがこのアパートメントを見上げ、自分たちの部屋を指している。
彼女はさっと窓から離れた。慌てて窓台に箱を積み上げ、わずかに残る隙間から外の様子を窺った。石が飛んでこないことを祈りながら、少年たちが去るのを待った。
翌朝、ペネロピーはいつものように母に起こされた。親子揃っての朝食。淹れたてのスープは温かかった。メーガンは髪を頬に垂らし、腫れの引かない顔に無理やり笑窪を作った。
「バス停までお父さんが送っていこう」
「……大丈夫。すぐそこだから」
彼女はロバートの方には目を向けず、微かに笑みを浮かべて玄関を出た。扉に刻まれた傷や落書きを見ないように努め、いつものバス停を早足で通り過ぎる。
誰とも視線を合わせぬよう廊下を歩き、教室へと入った。彼女の机と椅子だけが、不自然に離れた場所に置かれていた。元の場所に引き寄せると、隣の席の男子生徒が、わずかに自身の机を遠ざけた。忍び笑いが聞こえてくる。
「やっぱり血って争えないんだね」
「うちのおばあちゃん、もうあの病院は怖くて行けないって言ってた」
「うちも。いつまた、エルディア人に毒を盛られるか分かんないもん」
ペネロピーは唇が震えるのを感じたが、いつものように本を開いて耐えた。すると、誰かが飛ばした紙飛行機が、彼女の身体に当たって床に落ちた。そこには、彼女を揶揄する言葉が、はっきりとした文字で書かれていた。
ペネロピーの脳裏に、今朝見た母の腫れた頬が蘇った。
「……お母さんは、やってない」
絞り出すように、ペネロピーは言った。一瞬、嘲笑が消えて静まり返った。
「お母さんはやってない、だって」
一人の声を皮切りに、教室中が再び嘲笑に沸く。
「どうして被害者ぶるの」
「やってないんじゃなくて、やってないことにしただけでしょ。エルディア人だもん」
本を持つ指は震え、文字は歪んでいた。込み上げる衝動を、必死に喉の奥に押し込める。あの子たちの頬を引っ叩いてやりたい。けれど、できなかった。
やがて、こらえていた涙が溢れ出した。彼女の涙は、彼らのさらなる嘲笑を誘った。
そのとき、前方の引き戸が開き、担任がいつもの快活な声を上げながら入ってきた。それを合図に、皆が自分の席へと引き上げてゆく。ペネロピーは慌てて涙を拭うと、落ちていた紙飛行機をくしゃくしゃに丸め、懐に仕舞った。
彼女は俯いていたが、視線を感じて少しだけ顔を上げた。担任と目が合った。だが、彼は何事もなかったかのように視線を逸らし、ホームルームを開始した。
校門を出ると、ポプラの木を背にして、父・ロバートが買い物袋を片手に立っていた。
「お父さん、いつまで家にいるの」
ペネロピーは、足元に二つ並んだ影を眺めながら訊いた。
「あと十日くらいはいる予定だよ。たくさん休みをもらったからね。お父さんがいるのは嫌かい」
「ううん」
アスファルトの裂け目から、タンポポの葉が顔を出している。ロバートのズックは、それをステップを踏むようにして避けた。
「お父さん、どうしてお母さんは疑われたの?……エルディア人だから?」
ロバートは、一瞬歩くテンポを乱したが、足を止めずに言った。
「それは違うよ、レネ。お母さんは、エルディア人だから疑われたんじゃない。お母さんの荷物から、殺害に使われた薬が見つかったんだ。……でも、それはお母さんのものじゃなかった。だから疑いは晴れたんだ。そこに人種なんて関係ないんだよ」
父の言葉は、どこか自分自身に言い聞かせているように聞こえた。
「じゃあ、どうして誰かがお母さんに罪を着せたの。お母さんのロッカーを開けられるのは、同じ病院の人たちだけなのに」
「……そうだね。お父さんにも分からない。お母さんは、同僚にも患者さんにも慕われていた。……でも、人の心は分からない。誰かに恨まれてしまうことだってある」
「……お母さんが仕事に戻れないのはどうして?」
ペネロピーは父の顔を見上げた。ロバートは前方を向いたまま、歩みを止めた。人気のない狭い路地裏は、二人の影を飲み込んだ。
「レネ……わかるよ。でも、人は一度抱いた不安を、簡単には忘れられない。……どうにもならないこともあるんだ」
ロバートは口を噤むと、地面に視線を落とした。ペネロピーは目の縁に涙を溜めた。
「どうして……? お母さんは何も悪いことをしていないのに。なぜ警察で殴られなきゃならなかったの。間違えて捕まえたのに、どうしてちゃんと謝ってもらえないの。こんなの、絶対におかしいよ」
ペネロピーの頬は濡れていた。ロバートは買い物袋を地面に置くと、静かに彼女を腕の中へと抱き寄せた。
コツン、と窓を小石が叩く音がした。少し前から、下の路地で騒がしい声がしている。
ペネロピーは、自室に敷かれた、端のほつれた深いグリーンのラグに座っていた。膝を立て、歴史の教科書を眺める。
この世界は、たった一人の巨人の力を持つエルディア人——エレン・イェーガーによって、八割の人口と土地が踏みならされた。残りの二割は、数人のエルディア人によって救われたのだという。
ペネロピーは、巨人が人を喰らい、あるいは踏みつけている凄惨な挿絵から目を背け、頁をめくった。
頁の三分の一を占める、白黒の集合写真。画質は粗く、顔の判別さえままならないが、そのなかの最も背の高い男性が自分の祖父であることを、彼女は知っている。
「レネ。あなたには、英雄の血が流れているのよ」
幼い頃、母にそう言われたことを思い出す。かつてそれは、ペネロピーにとって誇りだった。けれど、それを学校の教室で、誇らしげに話してしまった日のことを思い出すたび、自身の口を塞ぎたくなる。
また、コツンと音がした。積み上げた箱と窓枠の隙間から、夕日が差し込んでいる。カチカチと時を刻む時計の音を遮るように、彼女は教科書を閉じた。
アパートメントの管理人が帰っていく足音を確認して、ペネロピーは物音を立てないよう、自室のドアを細く開いた。
ダイニングでは、母がテーブルに肘をつき、顔を覆うようにして額を押さえている。そこへ、重い足取りで玄関から戻ってきた父の姿が横切った。
ペネロピーがゆっくりとドアを押し開くと、古びた蝶番が耳障りな高い音を立てた。両親が彼女を振り返る。メーガンの目は、赤く充血していた。
「ここ、出て行かなきゃいけないの?」
絞り出すように訊ねると、ロバートがゆっくりと首を振った。
「大丈夫だよ。そんなことにはならない」
「やめて、ロバート」
メーガンの拒絶に、父は一瞬言葉を詰まらせ、諦めたようにペネロピーを見つめた。
「今すぐ立ち退けってわけじゃない。でも、こんな部屋にいつまでも住む必要はないだろう? ——ああ、クソったれが」
彼女は、ただ控えめに頷くことしかできなかった。学校へ行かなくなってから三日が経つ。この街に執着などない。けれど、どこへ行ったところで、この世界は自分たちにはあまりに狭すぎるのだ。
「とにかく、もっとまともな部屋を探そう。メグ、君の職場だってすぐに見つかるさ。君がこの国にどれだけ尽くしてきたか、分かってくれる人はきっといる。大丈夫、なんとかなるよ。いつだってそうだっただろう?」
必死に明るい言葉を重ねる父と、ただ俯き顔を覆っている母を見つめた。ペネロピーは自室に一歩下がり、静かにドアを閉めた。
翌日の朝食後、逃げるように自室へ戻ろうとした彼女を、父が呼び止めた。
「レネ。少し状況が落ち着くまで、パラディ島のおじいちゃんとおばあちゃんの所でしばらく暮らすというのはどうだろう」
彼女は父の顔を、呆然と見つめ返した。母は、部屋の隅に積まれた、中身の詰まっていない空の箱へ視線を落としている。
「新しい部屋が見つかるまでの、短い間だ」
「……私だけ? お父さんとお母さんは、一緒じゃないの」
ロバートは答えず、助けを求めるようにメーガンを振り返った。メーガンは椅子から立ち上がると、ペネロピーへと視線を向けた。
「レネ。私たちはここで生きていくの。あなたをパラディのおじいちゃんとおばあちゃんに預けるのは、私たちがここでやり直せるようにするためなのよ。お父さんが新しい家を見つけ、お母さんが新しい職場を見つけるまでの間。それまで、おじいちゃんたちの所で待っていてくれる?」
母の腕に抱きしめられ、彼女はその胸の中で、一度だけ小さく頷いた。