◇ ペネロピー(レネ)
マーレで暮らすエルディアの血を引く少女。
差別に苦しみ、祖父母が暮らすパラディへと渡る。
◇ メーガン(メグ)
ペネロピーの母。ミカサとジャンの娘。
幼い頃の体験から、ある葛藤を抱えている。
◇ ロバート
ペネロピーの父。マーレ人。
◇ ミカサ、ジャン
ペネロピーの祖父母。戦後結婚し、娘をもうけた。
マーレからやってきた孫娘のペネロピーを預かる。
2. パラディ島での出会い
どこまでも平らな土地が続いていた。舞い上がる粉塵の向こうに、四角い壁に囲まれた街が見える。ペネロピーは、自分の吐息で曇った小窓をそっと拭った。
「お父さん、あそこがティベリス?」
振り返って尋ねると、隣の席で手すりを握りしめていたロバートが薄く目を開き、一瞬だけ視線を窓の外へ向けた。
「ああ、そうだよ」
機体がわずかに揺れ、ロバートの顔から血の気が引く。
「お父さん、顔白いけど、大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。……気圧で耳が、ちょっと、ね」
彼女は小さく首を傾げ、再び地上を見下ろした。飛行機の薄い影が、街並みに重なりながら進んでいく。
かつての首都ティベリスは、五十五年前、真っ先に地鳴らしの被害に遭った場所だという。砂塵と化した土地から再建されたこの街は、復興の象徴として教科書にも載っている。だが、実際には未だに衛生環境は悪く、定住しているのは貧しい人々ばかりだと父から聞いていた。
やがて街の境界を越えると、唐突に、深い青の滑らかな大地が現れた。初めて目にする、果てしない自然。それは大地ではなかった。
「お父さん、海だよ」
興奮気味に声を上げると、ロバートは「ああ、そうだね」と呻くように答え、固く目を閉じたまま微かに微笑んだ。
パラディ島までの空路は、あっという間だった。
整備された滑走路と、陽光を反射して輝く白亜の建物。あまりに眩い景色に、ペネロピーは目を細めた。
そこからは、排気ガスを出さないバスと、白い蒸気を吐き出す汽車を乗り継いだ。街ゆく人々の中で、彼女のよそ行きのワンピースと、ロバートの一張羅のスーツだけが妙に浮いている気がした。彼女は父に促されるまま、乗り降りを繰り返した。
目的地は、郊外にある小さな駅だった。黄色い石畳の階段を降りた先に、艶やかなブラックグリーンのオープンカーが止まっている。運転席に座る老齢の男性が、こちらに気づいた。ロバートが彼女の手を引いて近づくと、男性が静かに車を降りた。
「やあ、ロバート」
「ご無沙汰してます、キルシュタインさん」
二人はほぼ同時に声をかけ、短い抱擁を交わした。
「レネ、こんにちは。大きくなったね。おじいちゃんのことを覚えているかな?」
祖父は彼女の前で腰を落とすと、グレーの中折れ帽を軽く持ち上げた。
「あんまり……」
首をすくめて正直に答えると、祖父は目尻の皺を深くして笑った。
ペネロピーの祖父——ジャン・キルシュタインは、高齢とは思えないほど身のこなしが軽く、手際よく荷物をトランクへ積み込んだ。
「ペネロピーを、どうぞよろしくお願いします」
ロバートの言葉に、彼女は後部座席から父を見上げた。
「ロバート、帰りの便は早いのかい?」
祖父の問いに、父は少しだけ視線を泳がせた。
「いいえ……夜です」
「顔色が三日前のパンより悪いな、ロバート。空の旅はそんなに快適だったかい? ならば君も一緒に家まで来るんだ。その方が妻も喜ぶ」
美しい車は、白や赤茶のタイルが並ぶ街並みを抜け、のどかな田園地帯へと入った。風に乗って、香ばしい草木の匂いが運ばれてくる。助手席のロバートは祖父と何やら話し込んでいたが、ペネロピーは流れていく景色を、ただ夢中で追いかけた。
やがて急な坂道を上りきると、周囲を豊かな緑に囲まれた、木組みの美しい白い石造りの家が見えてきた。温かみのある朱色の屋根には、一本の煙突が立っている。
車がその家の前でゆっくりと停車した。すぐそばの花壇には、マーレでは見たこともないオレンジやピンク、紫の花々が咲き乱れている。
ロバートとジャンが荷物を下ろすのを待っていると、わずかに黄みがかった白い毛並みの、大きな犬が近寄ってきた。ペネロピーが小さく悲鳴を上げると、犬は驚く様子もなく祖父の元へ歩み寄り、舌を出して尻尾を振った。
「パンジーっていうんだ」
その名が可憐な花の名前であることを、彼女は知っていた。
「パンジー」
恐る恐る名を呼んでみたが、パンジーは一度だけこちらを振り返っただけで、それ以上寄ってくることはなかった。
「すぐに慣れるさ」
祖父が玄関の扉を開けてくれた。中からは、食欲をそそる匂いが漂ってくる。
「ミカサ、ペネロピーが来てくれたよ」
一歩足を踏み入れた先は、ダイニングだった。厚みのある木製テーブルには、すでに五人分の食器が並べられている。床が軋む音とともに、奥のキッチンから祖母が姿を現した。
祖母は細身で背が高かった。もし髪が白くなければ、後ろ姿を母と見間違えたに違いない。彼女は誰かを探すように、一瞬だけペネロピーの背後へ視線を送ってから、少し戸惑うような目で彼女を見つめた。
「……今日から、よろしくお願いします」
掠れた細い声で挨拶をすると、祖母はゆっくりと膝をついて目線を合わせ、彼女の両腕を包み込むように掴んだ。潤んだ黒い瞳が、ペネロピーの目元から胸元まで流れる毛先を、なぞるように動く。それから壊れ物を扱うような手つきで、静かに彼女を抱き寄せた。
ほんのりと甘い、清潔な匂いがした。これまで一度も会ったことがなく、話に聞くことさえなかった祖母の体温に、彼女は身を預けた。その抱擁は、永遠のようでもあり、一瞬のようでもあった。
やがて、背後でわざとらしい咳払いの音がした。
「ミカサ、それくらいにしておいてやりな。レネも戸惑っているし……何より、ロバートがそろそろ限界なんだ」
ミカサの腕が、ペネロピーからそっと離れた。
「ああ、そうね。ごめんなさい。レネ、食事にしましょう。さあ、手を洗っていらっしゃい」
ミカサは立ち上がると、洗面所へと続く戸口を指し示した。ペネロピーはダイニングを出る前に、一度だけ振り返った。祖母がテーブルから一組の食器を静かに下げるところだった。
「僕だけがここに来てしまって……すみません」
ロバートの絞り出すような言葉に、ミカサは小さく首を振った。
「謝らないで。あの子が来られないのは、私のせいなのだから。……あの子の頑固なところは、私に似てしまったのかもね」
その口調には、自分自身を静かに断罪するような、深い自責の響きが混じっていた。ペネロピーは誰とも目が合わないうちに、そっとその場を離れた。
厩舎の中は、乾燥した草と、動物特有の温かな匂いに満ちていた。
「ほら、レネ。やってみるか?」
ジャンが差し出したのは、使い込まれた木製のブラシだった。目の前にいるのは、パンジーと同じく白に近い毛並みをした、穏やかな目つきの馬だ。
「……噛まない?」
「こいつは賢い。お前が優しくすれば、ちゃんと分かってくれるさ」
ジャンはそう言って、大きな手で馬の鼻先を撫でた。ペネロピーはおずおずと手を伸ばし、硬く滑らかなその背にブラシを当てる。
「そうだ。力を入れすぎず、毛の流れに沿って……。よし、上手いもんだ」
ジャンの褒め言葉に、ペネロピーの頬が少しだけ緩む。意識のすべてを、ただそこにある生命の温もりに注いだ。
「よし、そろそろ引き上げよう。ミカサが昼飯を冷ましながら、今か今かと待ち構えてるはずだ」
ジャンは空になったバケツを手に取ると、厩舎の入り口で空を見上げた。ペネロピーも祖父につられて同じように空を仰ぎ見た。砂塵でくすんだ空は、そこにはなかった。
「やあ、サーモンのサンドイッチか。ミカサの作るサンドイッチはどれも絶品だが、これも美味いぞ、レネ」
「口に合うと良いのだけど」
サーモンは、今のマーレでは高級品だ。昔はマーレ料理と言えば海鮮が定番だったというが、地鳴らし以降、近海で魚はほとんど捕れなくなっていた。
ペネロピーは、祖父母の視線を感じながら、白く柔らかなパンを両手で掴んで齧りついた。脂の乗ったサーモンとクリーミーなチーズの組み合わせは、彼女の口にもよく合った。
「美味しい」と呟くと、二人はにっこりと微笑んだ。その温かな眼差しが、不意に両親の姿と重なった。二人は今日も、黒パンと冷めたスープだろうか。瞬きをしないようにして、彼女は残りのサンドイッチをただひたすらに口に運んだ。
午後は、祖父と買い物に行く約束だった。
祖母と一緒に食器の片付けを終えると、ペネロピーはミカサに連れられて二階の部屋へ上がった。かつては母が使い、今はペネロピーに与えられた部屋だ。
「せっかく街へ行くのだから、お洒落しないとね」
ミカサはチェストの引き出しから小さな鍵を取り出すと、部屋の隅に置かれた大きな木箱を開けた。豊かなハーブの芳香が、ふわりと鼻腔をくすぐる。
それは古い衣装箱だった。中を覗き込むと、丁寧に畳まれた、見たこともないような美しい色合いの洋服が並んでいた。
「素敵な服……!」
ペネロピーは感嘆の声をあげた。
「お母さんが昔着ていたものだから、少し古臭いかもしれないけれど」
ミカサは静かに微笑み、何着かの洋服をペネロピーの身体に合わせた。やがて、モスグリーンのワンピースを手に取った。全体に繊細な花柄が施され、襟と袖口には白いレースがあしらわれている。
「貴方の目には、グリーンがとてもよく似合うわ」
そっと髪を撫でる祖母の微笑みには、どこか遠いところを見つめるような、微かな切なさが混じっていた。
白い石が敷き詰められた、美しい歩道。通り沿いには、仕立屋や本屋、お洒落なカフェが並んでいる。
ペネロピーは雑貨屋のショーウィンドウに目を留め、足を止めた。花があしらわれた飾り棚には、可愛らしい動物の置物や、美しい茶器などが並んでいる。
「ちょっと中を見ていくかい?」
ジャンの言葉に頷いて入った店の中には、まるでおとぎ話に出てくるような雑貨が所狭しと並んでいた。どれも精巧で、マーレの殺風景な街で育ったペネロピーには、手に取ることさえ憚られるほど貴重な物のように思えた。
やがて、店の奥の方からジャンが彼女を呼んだ。祖父は先ほどの文房具店で購入したスケッチブックと鉛筆の入った紙袋を片手に、棚の品を吟味している。
近づくと、ジャンは生成り色の艷やかなリボンを指先に掛け、彼女に見せた。
「お嬢さん、これを適当な長さに切ってくれるかい。この子の髪飾りにしたいんだ」
カウンターの奥から店員が笑顔で応じると、ジャンの声を聞きつけたのか、奥のカーテンから店主らしいブロンドの女性が現れた。
「やあ、クレア。ヒッチは元気かい」
「ええ、元気すぎて困ってるくらいよ。どうして貴方達の世代って、みんなあんなにもパワフルなのかしら」
呆れたように肩をすくめたクレアに、ジャンは声を立てずに笑った。クレアの視線が、ジャンの隣に立つ少女へと移る。
「ところで、ジャン。この可愛らしい子は? もしかして、メギーの……」
「ああ、そうだ。今、うちに遊びに来ててね」
「そう……」
クレアは深い溜息をつくと、少し目元を赤らめ、慈しむようにペネロピーを見つめた。母の友人だというその店主は、慣れた手つきで、ペネロピーのブルネットの髪をリボンで優しく結った。
「さあ、どうぞ。ペネロピー」
手鏡に映し出された、新調した緑のワンピースに生成り色のリボンを飾った見慣れない自分を、彼女はじっと見つめ返した。
「レネ、他に足りないものはないかな?」
店を出ると、ジャンが言った。
「うん、もう十分だよ。ありがとう、おじいちゃん」
見上げると、祖父は一拍置いて頷いた。
「そうか。じゃあ最後に、ミカサの好物の林檎のタルトを買って帰ろう」
ペネロピーははぐれないように、祖父の隣を歩きながら街を眺めた。行き交う人々は皆、身なりがよく洒落ている。薄汚れたスクールバスも、排気ガスを撒き散らす車も一台もなく、静かな駆動音だけを残して美しい車が通り過ぎてゆく。
ショーウィンドウに映る彼女の姿は、パラディ島へやってきた日のように、この街で妙に浮いているわけではなかった。だが、自分だけが薄いベールに包まれ、別の世界から隔離されているような奇妙な感覚があった。
母のメーガンは、この豊かで平和な国で生まれ育った。そして、決して孤独ではなく、優しい両親とクレアという陽気な友人がいた。それなのに、なぜこの街を捨てたのだろう。
『あの子が来られないのは、私のせいなのだから』
祖母の言葉が脳裏をよぎる。メーガンは、祖父の話はよくしたが、祖母の話は決してしなかった。母が暮らした部屋を使い、母の服を着てみても、その理由の欠片さえ浮かんでこなかった。
不意に、冷たい空気がペネロピーの肌を刺した。
昼間だったはずの街が、瞬きの間に夜へと沈む。
「おじいちゃん……?」
隣にいたはずの祖父の姿はない。賑わっていた通りは静まり返り、気づけば彼女は見知らぬ路地に立っていた。
雨の匂いに、どこか生臭い匂いが混じっている。
ペネロピーは辺りを見回した。誰もいない。ふと、街灯の下の旗が目に入った。オレンジの光にぼんやりと照らされたその紋章には、どこか見覚えがあった。
ペネロピーは、背後から聞こえた車の駆動音に振り返った。車はライトも灯さずゆっくりと近づいてくる。ペネロピーは、速度を落とした車を見つめた。道の先にも、人の気配はない。まばらに建つ街灯が、濡れた地面をぼんやり照らしている。
車はペネロピーを少し過ぎた所で停車した。後部座席が開き、二人の男が降りてきた。片方の男と目が合い、ペネロピーは息を呑んだ。二人組が大股で近づいてくる。逃げる間もなく、身体を拘束され、口を塞がれた。闇雲にもがき、声を上げようとした。だが、どうしても抜け出せない。
車に押し込まれそうになった時、祖父母の温かい家と両親の顔が頭に浮かんだ。ペネロピーはこもる声を張り上げ、一層激しく抵抗した。
「静かにしろ」
「抵抗するな」
その時、こちらに近づいてくる足音が聞こえた。
「何をしてるんだ?」
押し殺した男たちの声とは違う、静かな低い声が聞こえた。
「なんだお前。さっさと失せろ」
ペネロピーは体をよじり、助けを求めるように声のした方を見た。帽子を被った青年の姿が見えた。表情の分からない、影が落ちた顔を懸命に見つめた。
目が合ったような気がした。その瞬間、彼は視界から消え、ペネロピーは地面に投げ出された。体を起こし顔を上げると、帽子を被った青年が、二人の男と激しく揉み合うシルエットが見えた。
ペネロピーには、何が起きているのかよく分からなかった。いつの間にか、男の一人は地面に倒れている。帽子の青年がもう一人を壁に叩きつけた時、車が走り去った。
不意に鈍い金属光がペネロピーの目を射た。地面に倒れていた男が懐からナイフを取り出し、突然立ち上がった。
「危ない……!」
ペネロピーは叫んだ。青年は振り返り、外套を翻して刃先を避けた。その拍子に、頭から帽子がひらりと外れ、地面の水溜まりへと転がった。
帽子の主は、それが落ちたことなど目もくれず、男を殴り倒した。倒れた男に馬乗りになると、その頭部へ拳を振り下ろした。
ペネロピーは思わず目を伏せ、転がった帽子を見つめた。悲鳴と、鈍い打音だけが路地裏に響いている。
今のうちに逃げるべきだろうか。だが、どこへ行けばいいのか分からない。
ペネロピーは、転がった帽子から壁際の男へと視線を移した。男は頭を垂れ、不自然な体勢のまま動かない。
やがて、音は途絶えた。ペネロピーは恐る恐る顔を上げた。青年は振り上げた拳を無造作に下ろすと、肩で息をしながら、ゆっくりとこちらを振り返った。
闇のなかで、そのふたつの瞳が獣のように光った。
「大丈夫か」
低いひび割れた声だった。ペネロピーはしばらく声が出せず立ちすくんだ。震えを抑え、やっとの思いで小さく唾を飲み込み、頷いた。
「その人たちは? ……死んでるの?」
青年はペネロピーの顔をじっと見つめた。その視線が、彼女の髪に結ばれた生成り色のリボン、そしてモスグリーンのワンピースへと移った。鋭い眼光が、微かに揺らいだように見えた。
「……いいや、生きてる」
彼はぴくりとも動かない男から離れると、水溜まりに落ちていた帽子を拾い上げ、ゆっくりとペネロピーの方へ歩み寄ってきた。
街灯の明かりが青年の顔を照らした。その顔には生々しい返り血が飛び、黒く光っていた。ペネロピーは思わず一歩後ずさった。
「お前、どこから来た?」
青年は淡々とした声で訊ねた。ペネロピーは回らない頭で、何と答えたら良いのかを考えた。
「……マーレ」
絞り出すように答えると、青年は小さく首を傾げ、不審そうに彼女を凝視した。
「一人でここに来たのか?」
彼女は小さく首を振った。青年はそれ以上何も言わず、視線を外した。
ペネロピーは青年の顔を見つめた。どこかで見たことがあるような、奇妙な既視感があった。
その時、背後から彼女の耳を打つ声があった。
「レネ……! どこだい? レネ……!」
それは、紛れもない祖父の声だった。
「おじいちゃん……!」
ペネロピーは弾かれたように振り返り、声のする方へと一歩を踏み出した。次の瞬間、冷たい雨の匂いは消え去り、視界は元の明るい街並みへと塗り替えられた。
駆け寄ってきたジャンが、ペネロピーの身体を強く抱きしめた。
「良かった……。急に姿が見えなくなるから心配したよ」
祖父の体温に、ペネロピーはようやく胸をなで下ろした。ゆっくりと祖父から離れると、後ろを振り返った。
そこにはもう、あの血まみれの青年も、雨の残滓も、何一つ残っていなかった。