◇ ペネロピー(レネ)
マーレで暮らすエルディアの血を引く少女。
差別に苦しみ、祖父母が暮らすパラディへと渡る。
◇ メーガン(メグ)
ペネロピーの母。ミカサとジャンの娘。
幼い頃の体験から、ある葛藤を抱えている。
◇ ロバート
ペネロピーの父。マーレ人。孤児院で育つ。
◇ ミカサ、ジャン
ペネロピーの祖父母。戦後結婚し、娘をもうけた。
マーレからやってきた孫娘のペネロピーを預かる。
◆ エレン
世界の八割の命を奪った男。
ペネロピーと出会い、自分の選択の結果を視ることになる。
3. 祖父母の秘密
暗い空から、また冷たい雨が降り出した。だが、体中についた血を洗い流してくれるほどではない、弱い雨だった。
エレンは黒い外套の袖で顔を拭うと、熱い息を吐いた。傷ついた拳は、すっかり修復されている。この汚れも、傷と一緒に消え去ってくれればどんなに良いだろうかと彼は思った。
路地裏の寂れた狭い宿に足を踏み入れると、入り口のすぐ側にカウンターがあった。その奥で、男が煙草を咥えて新聞を読んでいる。男は彼を一瞥しただけで、立ち上がることもなく壁の貼り紙を指し示した。身分証の提示を促す注意書きと、料金表だった。
エレンは、先刻殴り殺した男から盗み出した身分証に目を落とした。そこには、自分とは似ても似つかない男の荒い顔写真が貼り付いている。
エルディア人を警戒する当局の目は厳しい。たとえ路地裏の吹き溜まりに生きるあのような悪党でさえ、この街で身分証を持たずにうろつくリスクは冒さないらしい。
だが、これほど顔が違えば、出してもすぐに怪しまれるだけだ。エレンは身分証をポケットの奥へ戻した。
「身分証はなくした」
男は面倒くさそうに、もう一度貼り紙を指し示した。
エレンは構わず札を取り出し、規定料金の倍の金をカウンターに出した。男は訝しげにエレンの顔を見上げた。
「身分証がねえ奴は、お断りだ」
「……一日だけでいい」
エレンはさらに懐から札を出し、カウンターに置いた。男は血で汚れているその金をまじまじと見つめた。だが、やがてそれを引ったくるように手に取ると、懐に収めて鍵を一つカウンターに放り出した。
客室の狭い洗面台で汚れた顔と頭を洗うと、硬いベッドに寝転がった。連日の野宿は、さすがに堪える。
イェレナがあらかじめ用意していた潜入ルートは、どれも使い物にならなかった。街の監視は、二年前よりさらに厳しくなっているようだった。
なんとしてもレベリオに潜り込み、ジークと接触する必要がある。そのためには、何でもやるつもりだ。だが、なにも必死になる必要はないのかもしれない。どうせ、すべては決まっている。抗うことのできない、一本のレールの上だ。
エレンは薄いシーツにくるまり、身を縮めた。まだ先程の戦闘で気分が高ぶっている。
思わずまた、馬鹿をやってしまった。あの少女も、いずれ自分が踏み潰すことになるというのに。
だが、彼女はこの世に実在する人間なのだろうか。話している途中で、その姿は忽然と消えた。
エレンはズボンのポケットから、現場で拾い上げた生成り色のリボンを取り出し、指に掛けてじっと眺めた。間違いなく、あの少女のものだ。
「おじいちゃん」
最後に彼女はそう呟いた。まるで、どこからか聞こえた声に答えるかのように。
彼は瞼をきつく閉じ、深く息を吐いた。あの受付の男が、当局に通報しないとも限らない。早く眠り、夜が明ける前にここから出よう。
意識が闇に落ちていく寸前、少女が纏っていた緑の服が、なぜか酷く胸をざわつかせた。
ペネロピーは自分の頭へ左手を伸ばした。昨日、ほんの少しの時間だけあったリボンの感触を指先に感じ取ろうとしたが、そこには何もない。
祖父は「また新しいリボンを買おう」と言ってくれたが、雑踏に踏み荒らされる生成りのリボンの想像が、彼女の頭を離れなかった。
「レネ、こいつに乗ってみるかい」
ペネロピーは、弾かれたように顔を上げた。気づけば、掃き集めた藁の前で立ち尽くしていた。
「いいの?」
「ああ、勿論さ。リリーも、退屈して機嫌を損ねているところだ」
馬の背は想像以上に高く、ペネロピーは思わず足元からリリーの頭部へ視線を移した。ピンと立つ白い耳が、せわしなく動いている。
「……重くないかな?」
すぐ側で、リリーの顔を優しく撫でてやっている祖父は笑った。
「こいつは俺を乗せても平気で走る。大丈夫だ。遠くを見てごらん」
リリーが歩き始めると、視界が大きく揺れ、彼女は思わず鬣にしがみついた。歩みは緩やかだったが、それでも落ちやしないかと身体がすくんだ。
それでも、家の周りを一周する頃には心地よさを感じるほどに慣れ、彼女の頭にはまたあの出来事がもたげていた。
「レネ、大丈夫かい?」
隣を歩く祖父が、目を細めて見上げている。リリーから降りて厩舎に戻った後、馬の世話をする祖父の背中に彼女は問いかけた。
「おじいちゃんは、突然別の世界に行ったことある?」
ジャンのブラシがけする手の動きが、ぴたりと止まった。彼はすぐには振り向かなかった。やがて、ゆっくりと立ち上がりペネロピーの方を向くと、眉をひそめて彼女をじっと見つめた。その視線から、彼女は思わず目を背けた。
「……あのね、昨日おじいちゃんとはぐれた時、突然違う場所にいたの。昼間だったのに、そこは夜だった」
ペネロピーは、少し汚れた靴のつま先を見つめた。祖父はまだ黙ったままだ。
こんなおかしな話を打ち明けるなんて、どうかしている。
なにか取り繕う言葉を口に出そうとした時、頭上から静かな声が降ってきた。
「……おじいちゃんも昔、そんなよく分からない体験をしたことがある」
彼女は顔を上げた。
「……本当?」
祖父は小さく頷いた。その表情はひどく硬い。
「誰かと会ったかい?」
その問いに、ペネロピーは瞬きをした。
「え?」
「その場所でだよ」
ジャンの視線が、じっと彼女を見つめている。いつもの穏やかな祖父とは少し違っていた。
無理やり身体を拘束され、連れ去られそうになった感覚。人の頭部に何度も振り下ろされた拳。血にまみれた顔と、獣のような瞳。
口を開きかけたが、祖父の皺が刻まれた顔を見ると、不思議と言葉が出なかった。
ペネロピーは小さく首を振った。
「……誰とも会ってない」
ジャンはまたしばらく黙っていた。
やがて、短く息を吐き出した。
「そうか」
それだけ言うと、再びリリーの脚元へしゃがみ込んだ。
「おじいちゃんは?」
今度はペネロピーが訊いた。
「その時、誰かと会ったの?」
ジャンはリリーの脚をそっと抱えるようにして蹄に目を落としたまま、微かに口元を緩めた。
「……昔の友人だ」
「友人?」
「ああ」
それ以上、何ひとつ語ろうとはしなかった。
ペネロピーも、それ以上は訊けなかった。
祖父の横顔を見ていると、その友人はきっと、もう会えない人なのだろうと思えた。
ペネロピーは祖父の隣にしゃがみ込み、リリーの蹄の手入れを習った。
あの不思議な体験への恐怖が消えたわけではない。
けれど今は、祖父が多くを語らなかったその友人の影が、彼女の心に居座っていた。
丘の頂にある、一本の大樹に向かって歩いている。見覚えのある木だ。だが、少し大きいようにも見える。
エレンは、歩いているのは自分自身ではないことに気づいていた。この感覚を彼はよく知っている。
その人物は、木の側に近寄ると、手に持っていた花を根元にそっと置いた。そこには、両腕で抱えられるほどの大きさの石があった。何か文字が刻まれている。
深い悲しみ。孤独。
大きな感情の波が、エレンの胸に押し寄せる。
ベッドの上で、彼は息を詰まらせた。
何千回、それを見たか分からない。同じことが何度も何度も繰り返された。
少しずつ、だが確実に、周りの景色は変わってゆく。けれど、この人物の行動は変わらなかった。
いつの間にか、目線が低くなっている。左手は誰かに握られていた。
少し退屈だが、心は軽い。
あちらこちらに視線がゆく。
その人物は、少し息を切らして、丘を登った。一本の大樹。大きな石。
隣の誰かを真似て、途中で摘んだタンポポを、意味もわからずその石の傍らに置く。
そして、その視点は不意に上方に向けられた。隣の人物に焦点が合った。
「……ミカサ」
その名を口にした瞬間、エレンは目を覚ました。ひどく汗をかいている。
カーテンの隙間から、わずかに空が見えている。まだ暗く、日の出前のようだ。
ひどい夢を見た。こんな寂れた宿で眠ったせいかもしれない。彼は重い身体を無理やり起こし、乱れた呼吸を整えた。
その時ふと、自分の手に何かが絡んでいることに気づいた。昨夜拾った、生成り色のリボン。それを持ったまま、眠ってしまったらしい。
そのリボンを、彼はしばし見つめた。そして、ズボンのポケットの奥深くに、それを仕舞い込んだ。
ペネロピーはダイニングの窓から、青い花柄の傘を差して歩く祖母の背中を見つめた。その傘の先で、小さな花束が揺れている。
今日は朝から雨が降っていた。
祖父は朝早くに、かしこまったジャケットを着て出かけていった。今日は夜まで帰ってこない。
午前中は、祖母と一緒にリリーや他の動物達の世話をした。祖母の手つきは、祖父と同じくらい手慣れていて、それが彼女には意外に思えた。
昼食も二人でとり、退屈そうなパンジーにブラッシングをかけた。
祖母が林に続く、一本道を歩いている。祖母は決まってこの時間になると、必ず一人で出かけた。ペネロピーを連れて行くことは決してなく、何をしに行ってるのかも彼女には教えなかった。
青い傘が林の奥に消えてゆく。あの先には一体何があるのか、ペネロピーは気になっていた。だが、それを尋ねて祖母を困らせるようなことは、彼女はしたくなかった。
先日の、祖父の硬い表情が脳裏をかすめる。この豊かで穏やかな世界の影に、重苦しい何かが横たわっているように、彼女には思えた。
完全に祖母の姿が見えなくなると、ペネロピーは窓から離れた。
「パンジー、二人っきりになっちゃったね」
パンジーに声をかけたが、彼女は部屋の隅で気持ちよさそうに眠っていた。
彼女はふと思いついて、地下室に降りた。地下室には、物を取りに何度か入ったことがある。そこに大きな本棚があるのを、彼女は知っていた。
そこから本を取り出し、ぱらぱらとめくっては棚に戻した。パラディの文字はほとんど読めない。マーレとは話す言葉は同じなのに、文字は違うのだ。
彼女はふと頁を繰る手を留めた。それは昔、母が使っていた歴史の教科書のようだった。見覚えのある写真が載っている。この世界を救った人物たちの写真だ。
そこに添えられた文字を彼女は指でなぞった。何が書かれているか彼女は知っている。
アルミン・アルレルト。ジャン・キルシュタイン。コニー・スプリンガー。ライナー・ブラウン。アニ・レオンハート。ピーク・フィンガー。
誰もが知っている、この世界の英雄たち。
この六人だけは、何度も授業で聞かされた名前だった。
これまで、その一人が自分の祖父であるということに現実感がなかった。だが、今ではあの穏やかな祖父が、進撃の巨人を倒し世界を救った英雄であるということの方が、リアリティに欠けているように思える。
ペネロピーはその写真と同じ頁の文章の一部に目を留めた。乱雑に黒く塗りつぶされた箇所がある。彼女はその部分に異様に興味を引かれた。
辞書を引いて前後の単語を読み解くと、そこには人名が入っていることに気づいた。それは間違いなく「エレン・イェーガー」だった。黒いインクの染みは、その名前を完全に隠しきれていないように思えた。
ペネロピーは母のことを考えた。この平和なパラディを捨て、マーレで医師として働くことを決めた母。母からその理由を聞いたことは彼女は一度もない。
世界を滅ぼしかけたあの人物を生み出した国に、嫌気が差したのだろうか。「エレン・イェーガー」の名を塗り潰すという行動と、母親がうまく結びつかない。
ペネロピーはしばしそれを見つめていたが、元の場所へそっと戻した。
祖母はじきに戻ってくるはずだ。彼女は後ろ髪を引かれる思いで、地下室をあとにした。