◇ ペネロピー(レネ)
マーレで暮らすエルディアの血を引く少女。
差別に苦しみ、祖父母が暮らすパラディへと渡る。
◇ メーガン(メグ)
ペネロピーの母。ミカサとジャンの娘。
幼い頃の体験から、ある葛藤を抱えている。
◇ ロバート
ペネロピーの父。マーレ人。孤児院で育つ。
◇ ミカサ、ジャン
ペネロピーの祖父母。戦後結婚し、娘をもうけた。
マーレからやってきた孫娘のペネロピーを預かる。
◆ エレン
世界の八割の命を奪った男。
ペネロピーと出会い、自分の選択の結果を視ることになる。
4. 丘の木へ
波のざわめき。生ぬるい潮風が吹いている。
海は青というより、藍色に近かった。
ペネロピーはフェンスに手を掛け、水平線を見つめた。
遠くに浮かぶ一隻の船。それ以外は何もなかった。
彼女は海辺のウッドデッキに立っていた。背後のベンチでは、祖母が荷物の番をしている。
彼女が振り返るたび、ミカサは麦わら帽子の下で目を細めた。
空は、白に一滴の青を垂らしたように柔らかい色をしている。波は穏やかだった。
不意に、水面で羽を休めていたカモメが、激しく翼の音を立てて飛び立った。ペネロピーから二十メートル程離れた場所に、白髭をたくわえた老人がベンチに腰掛けている。カモメはその足元に集まっていた。
老人が紙袋から何かを取り出し、地面に撒いた。カモメはそれを無心でつついている。
ペネロピーはその様子をじっと見つめた。潮の匂いが鼻をつく。どこかで嗅いだことのある匂いだと、先程から気になっていた。
地面をつつくのをやめた鳥の目が、こちらを見ていた。
雨に濡れた夜の路地。拳を振るう青年。
――そうだ。あの時の匂いだ。
「おーい」
振り向くと、祖父が眩しそうに目を細めて、アイスクリームを両手に歩いてくるところだった。
「さあ、カモメに横取りされる前に食べてしまおう」
ペネロピーは、甘く冷たいアイスクリームを舌の上に乗せながら、辺りを見渡した。
人は少ない。建物はどれも白く、まるで塩で作ったような街だと彼女は思った。
ふと、教科書で見た古い写真を思い出した。たくさんの人々が行き交う、かつてのティベリスの港街。
再び海に視線を戻したときには、あの船はもう見えなくなっていた。
「どうだい、初めての海は」
ジャンが訊いた。
「すごく広くて……」
彼女は祖父母の顔を見た。目元に帽子の影が落ちている。彼女は喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「……綺麗だね」
「……そうか」
二人は、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。彼女は目を伏せて、アイスクリームを一口食べた。
突然、周囲の空気が変わった。くぐもったような喧騒と、人混みの匂い。
弾かれたように顔を上げた瞬間、目の前を人が横切った。
周囲の音と視界が鮮明になっていく。人混みにもまれ、前のめりになった時、別の誰かにぶつかった。
「ごめんなさい」
顔を上げると、白塗りの奇妙な風貌の男が、カラフルなキャンディを片手に立っていた。
「大丈夫かい?」
ペネロピーは悲鳴を上げそうになるのを堪え、首を横に振ると、踵を返しその場を離れた。
心臓が激しく鼓動を打つ。
足元を探るように歩きながら、辺りを見回した。
華やかで、どこか古めかしい装いの人々。黒光りしているクラシックカー。停泊している豪奢な船。
不意に頭上から甲高い声がして、彼女は視線を上げた。街灯に留まっている鳥が、奇妙に首を振りながら通りを見下ろしている。
その足元で揺れる旗に、ペネロピーは目を止めた。あの夜の路地で見たものと同じ紋章。――思い出した。あれは、かつてのティベリスの市章だ。
途端に、賑やかな人々の声も、どこかから聞こえてくる楽しげな音楽も、何かで覆われたように遠のいた。振り返ると、先程のピエロが小さな子どもにキャンディを渡しているのが見えた。
数年後か、数十年後か。いつかこの街はなくなる。今、目の前で笑っている人々も。
ペネロピーはふと、彷徨わせていた視線を一点に留めた。
数人の若い男女が立っている。特に目を引くような格好ではない。それなのに、その中の一人から目が離せなかった。その立ち姿が、あの夜に出会った青年を思い起こさせた。
不意に、青年がペネロピーの方へ顔を向けた。彼女はどきりとしたが、その視線は別の場所を向いていた。一人の女性が彼に話しかけたのだ。
やがて周囲から人がいなくなると、青年は静かにその場を離れた。フェンスに背を預け、帽子を脱いだ。
ペネロピーは、その青年の横顔を遠くから見つめた。
やはり、あの人に似ている。だが、あの日の狂気は微塵もなかった。どこか不安そうで、不器用な、どこにでもいる青年に見えた。
そして、誰もが浮かれているこの華やかな場所で、彼だけには全く別の景色が見えているように彼女には思えた。
ペネロピーの爪先は、いつのまにか青年の方に向いていた。一歩ずつ、導かれるように、彼に近づいていく。
青年がふと、何かに気づいたように視線をそちらへ向けた。
彼女は立ち止まり、視線の先を見た。
先程の女性が、青年の側に歩み寄ってくるところだった。その手にはアイスクリームが握られている。
ペネロピーは、その女性の横顔を見た。上気した頬に引っ掻いたような傷跡が見えた。
「エレン――」
「レネ」
彼女は名を呼ばれ、我に返った。
波のさざめきが聞こえる。目の前には、いつもと変わらない表情の祖父母がいた。
「アイス、溶けちゃうわよ」
ペネロピーは手元のアイスクリームに目を落とした。そして再び祖母を見た。
目が合うと、ミカサは目を細めて微笑んだ。彼女は祖母の頬にある、古い微かな傷跡を見つめた。
溶けたアイスクリームが、彼女の手を伝い、ぽたりと地面に落ちた。
生き生きと葉を茂らせた植物の中に、ミカサは艷やかな何かを見つけた。葉の陰に、青い実がいくつも覗いている。ミカサは、昔母親がやっていたことを思い出しながら、周辺の葉をいくつか切り落とした。
あと数日もすれば、収穫できるだろう。
腰を上げると、視界の隅に何かが映った。誰かがこちらへ向かって歩いてくる。その誰かの来訪に、彼女は微かに喜びを感じた。来訪者にも、彼女が見えたのだろう。彼は片手を大きく上げ、手に持った帽子を振った。
ミカサは、エレンの墓にジャンが花を供えるのを少し離れたところで見ていた。墓石に手を当てたまま動かない彼から、目を逸らした。野花に蝶が止まり、再び舞う様子を彼女は見つめた。
やがて、彼が立ち上がる音が聞こえた。ジャンは彼女と短く視線を交わすと、帽子を被り直して丘をくだり始めた。ミカサは、残された墓石にもう一度目をやった。そして、少し駆け寄るように、ジャンの広い背中を追った。
「こっちで働くことになった」
ジャンは紅茶のカップを静かにテーブルに置くと言った。
「マーレにはアルミンが残るし、ライナー達もいる。俺とコニーはお役御免ってわけだ」
彼は皮肉交じりに言ったが、本心ではないと思った。彼とコニーには、この島に家族がいる。それが当然の成り行きのように、ミカサには思えた。
「二人が帰ってくるのは、心強い」
「お前ももう、俺たちと同じ普通の人間なんだろう? 男手が必要な時は、いつでも呼べよ」
ジャンはそう言うと、紅茶をあおった。
夕焼けが、狭い部屋の中を赤く染める。彼は薪を割り、少し立て付けの悪い椅子を直すと帰り支度をした。
「じゃあな」
残された二人分のカップから、ジャンに視線を移すと目が合った。彼はすぐに視線を外し、外へ出た。ミカサも一歩、後を追うように外へ出ると、遠ざかる背中に声をかけた。
「トマト」
ジャンは足を止め、振り返った。
「……トマトが今年は沢山できそうなの。食べ切れないくらい」
逆光で、彼の表情は分からなかった。返事の代わりに、彼は軽く片手を上げた。
メーガンは、薄く消毒液の匂いが漂う休憩室の椅子に腰掛けると、配給のサンドイッチを懐から取り出した。パンにかじりつくと、彼女は咳込んだ。パサパサの黒パンと塩辛いハムは、疲れた身体には向いていない。彼女はパンとハムを袋の中で分けた。パンを小さくちぎっては、ミルクもどきに浸しながら、少しずつ口に運んだ。母の作るサーモンとチーズのサンドイッチが恋しかった。
食事をとっていると、休憩室の扉が開いた。若いマーレ人医師と目が合った。先客がいることに気づいた彼は、一瞬足を止めた。
「ドクター・キルシュタイン、ご一緒しても?」
「ええ、もちろん」
彼女は隣の椅子に視線を送った。狭い休憩室だ。隣に座るか、向かいに座るか、どちらかしかない。彼は遠慮がちに隣の椅子に腰掛けた。
「ロバート・ステイシーです」
彼は澄んだブルーの瞳をまっすぐに彼女に向け、目尻に皺を作った。もう三度目の自己紹介だった。
「あなたが来てくれて、本当に助かっています」
彼はそう言いながら、何でもないように、黒パンを頬張った。
「まだ私、何の役にも立っていないわ」
メーガンは公衆衛生の専門医として、このティベリスに派遣されてきた。だが、パラディで学んだ専門知識など、この実情を前に何の役にも立たなかった。最善を尽くす余裕は、この街にはない。医者も物資も、何もかもが足りていなかった。
「とんでもない。あなたは立派だ。誰も来たがらない、こんな辺鄙な場所で患者と向き合っている」
その言葉に嫌味はなかった。彼女はパンを頬張る彼の横顔を盗み見た。少し癖のあるダークブロンドの髪が目に入った。どこか見慣れた色だと思った。
「そんな辺鄙なところに、あなたはどうして?」
メーガンは首を傾げた。
「もしかして、変わってる人?」
彼は表情を崩し、朗らかに笑った。
「ああ、そう。僕は変わってる。ここで生まれたんだ」
「……ごめんなさい。無神経なことを言ったわ」
「いやあ、全然。みんなにそう言われるから、気にしてないよ。別にここに残る必要はないんだ。ただ、この街の人達の役に立ちたい」
彼は屈託のない瞳を彼女へ向けた。彼女は見つめ返し、ぎこちなく微笑んだ。
「ドクター、よかったらこの街を案内しますよ。観光名所はないけど、なかなか味のある街です」
彼は口元に、形の良い白い歯を覗かせた。
「……メグでいいわ。よろこんで」
エレンは、列車の貨物室で目を覚ました。天井の薄暗い豆電球が揺れている。彼は自身の左側の目と脚に手をやった。まだ再生していない。安堵した直後、鈍い痛みが全身を走り、顔を歪めた。
車内には、負傷したエルディア人兵士が詰め込まれていた。あちらこちらから呻き声が聞こえ、むせ返るような血と排泄物の匂いが満ちている。エレンのように身体の一部を失った兵士が大勢いた。既に虫の息の奴もいる。普通の兵士ならここで終わりだ。だが、エルディア人にはもう一つ使い道がある。
彼は、死んだ兵士から盗んだ腕章を身につけていた。まんまとマーレ軍に潜り込むことに成功した。レベリオに着けば、簡単にとは言えないが、ジークに接触することも叶うだろう。
エレンは蠅がたかっている電球を虚ろな目で見つめながら、先程見た夢について考えた。あれは夢なのか。それとも、未来の記憶なのか。あの少女に会ってからだ。こんなものを見るようになったのは。
彼は呻き声を上げながら、背を預けた壁へ、頭の横で拳を激しく叩きつけた。鉄板が大げさな音を立て、隣で眠っていた男がびくりと肩を震わせた。何度も何度も叩きつけていると、隣の車両からマーレ兵がやってきた。
「おい、うるさいぞ。静かにしてろ」
男は小銃を構え、怒鳴りつけた。
エレンは拳を叩きつけるのをやめた。彼は身動き一つせず、ぼんやりと光る豆電球を見つめ続けた。
天気のよい午後、ペネロピーは家のポーチに座って、目の前で眠っているパンジーをぼんやり眺めていた。膝の上には画用紙、右手には鉛筆が握られている。パンジーの絵は半分も仕上がっていなかった。
賑やかな港街。風に揺れるティベリスの古い市章。
エレンと呼ばれた青年と、頬に傷のある女性。
鉛筆が彼女の手を離れ、ポーチの石畳の階段を転がった。はっとして手を伸ばしたが、鉛筆はパンジーの尾に当たって静止した。パンジーは迷惑そうに起き上がると、体を短く振って、どこかへ去っていった。
パラディへやってきて、まだ十日しか経っていない。けれど、もうずいぶん長く、ここで暮らしているような気がする。
お母さんの頬の痣は、もう治っただろうか。また、ひどい目にあっていないだろうか。
お父さんは、ちゃんと休めているだろうか。きっと仕事をしながら、新しい家を探しているはずだ。
気づけば、目頭が熱くなっていた。画用紙の上に、ぽたりと染みが落ちた。
ペネロピーは画用紙を置いて立ち上がると、庭先を意味もなく歩いた。パンジーはどこへ行ってしまったのか、姿が見えなかった。ふと、窓の方を見た。祖母は窓の近くにはいない。祖父は今日もどこかへ出かけている。
彼女は祖母がいつも消えていく林の方を見た。もう一度家の窓を振り返ると、早足に林へ続く小道を歩いた。
林を抜けた時、ペネロピーは足を止めた。小道は丘の頂に立つ、一本の木に伸びている。風が吹き抜け、葉擦れの音が辺りに響いた。
彼女は、丘の頂上の大樹を見上げた。坂道を登ってゆく。幹は太く、枝葉は四方八方に伸び、まるでドーム状の屋根のようだ。
彼女は木の根本に立ち、大樹を見上げた。こんなに立派な木を、彼女は見たことがなかった。
けれど、なぜだろう。頭上で血管のように伸びる枝に、どこか見覚えがあった。
前にも、こんな風に見上げたことがあったような気がする。
幹の周りを巡りながら、ふと足元に視線を落とした。木の根元に小さな石板のようなものがあった。石板の前には、真新しい切り花があった。かがんで、石板に目を凝らす。何か文字が彫られているようだ。それを手でなぞってみた。ほとんど理解できなかったが、数字だけは読めた。
「八、五、四……」
口に出してようやく、この数字の並びに見覚えがあることに気づいた。
彼女の故郷にも、この数字が刻まれた石碑がある。
墓参りの経験はなかった。それでも、このひっそりと置かれた石が、誰かの墓石なのだと分かった。そしてその誰かは、祖母にとって大切な誰かなのだと。
風が吹き、切り花の花弁が揺れた。
ペネロピーは花に触れようとしたが、手を止めた。そして、そっとその場をあとにした。