◇ ペネロピー(レネ)
マーレで暮らすエルディアの血を引く少女。
差別に苦しみ、祖父母が暮らすパラディへと渡る。
◇ メーガン(メグ)
ペネロピーの母。ミカサとジャンの娘。
幼い頃の体験から、ある葛藤を抱えている。
◇ ロバート
ペネロピーの父。マーレ人。孤児院で育つ。
◇ ミカサ、ジャン
ペネロピーの祖父母。戦後結婚し、娘をもうけた。
マーレからやってきた孫娘のペネロピーを預かる。
◆ エレン
世界の八割の命を奪った男。
ペネロピーと出会い、自分の選択の結果を視ることになる。
5. エレン
庭先で薪を割る音が止み、ミカサは縫い物をしていた手を止めた。窓から外の様子をうかがうと、斧を切り株に立てかけ、額に手をかざしているジャンが見えた。
「ジャン、どうかした?」
外へ出ると同時に、馬車が近づいてくる音が聞こえた。
「誰かが、こっちに向かってるようだ」
それは、家の前でゆっくりと停車した。カーテンが引かれ、中の様子は見えない。だが、質素な馬車と、御者には見覚えがあった。
「……珍しい客だな」
扉が開き、一人の女性が降り立った。
「突然ごめんなさい。二人とも、元気そうね」
ヒストリアは二人の顔を見ると、穏やかに微笑んだ。
ヒストリアだけが家へ入り、扉が静かに閉まった。束の間、懐かしい空気と紅茶の湯気が三人を包んだ。
「今日は伝えたいことがあって来たの」
ヒストリアはカップを置くと、静かに口を開いた。
「二人の耳にも入っているかもしれないけれど、軍の再編がようやく終わったわ。……イェーガー派の残党も、やっと整理がついた。スルマやヒッチたちが、本当によく頑張ってくれたの。キース教官が命を懸けて守った子たちが、今の軍を支えている」
ジャンは小さく息を吐いた。
「……そうか」
ヒストリアは頷くと、窓の外へ視線を向けた。ミカサもつられるようにその先を見た。エレンが眠る丘の方角だった。
「それからもう一つ。地鳴らしを止めた人たちへ、正式に勲章を授与することになったの」
彼女は視線を戻すと、祈るようにゆっくりと瞬きをした。
「ハンジさんにも。キース教官にも。亡くなった人たちも含めて」
ミカサは小さく息をつき、目を閉じた。ともに戦った日々。飛行艇から見た、最期の姿。しばしの後、隣のジャンが溜息をついた。
「やっとか」
「……ええ、長かった」
ヒストリアはそう言うと、二人の前に一通ずつ封筒を差し出した。
「授与式の招待状よ。二人にも来てほしいの」
ミカサは視線を上げ、問いかけるように彼女を見た。
「ミカサ。あなたの名前は、公には残っていない。エレンを……連れて帰ってきてくれたから」
ヒストリアは一瞬唇を固く結んだ。そして小さく息を吐き、微笑んだ。
「今度は、あなたが報われる番」
ミカサはヒストリアの真っ直ぐな瞳から目をそらすように、封筒に目を落とした。そしてまた、窓の方へ目をやった。淡く澄んだ空が見えた。
「……ありがとう」
ミカサが紅茶を入れ直そうと立った時、ヒストリアも立ち上がった。並んで台所に立つと、彼女は少し小さな声で言った。
「ねえ、ミカサ。私に遠慮しなくていいからね」
ヒストリアの方を向くと、彼女は上目遣いでいたずらっぽく微笑んだ。ミカサは、ヒストリアが子どもを授かった時のことを思った。軍内外で心ない噂があった。
しばらく黙ったまま、視線を落とす。
そして、自身の下腹部にそっと手をやった。
「……赤ちゃんが、いるの」
ヒストリアが小さく息を呑む音が聞こえた。彼女の顔は見れなかった。数秒の後、腕に彼女の掌の温もりを感じた。顔を上げると、ヒストリアは泣きそうな顔で微笑んでいた。
「せっかく、来てくれたのに……」
ミカサの言葉を遮るように、彼女は首を横に振った。
「……いいんだよ、そんなこと。ミカサはミカサのままでいいんだから。どんな選択でも応援する」
ヒストリアは、腕から滑るようにしてミカサの手を優しく包んだ。
「私は、あなたの味方」
メーガンとロバートは白衣を脱ぎ、マスクをつけて外へ出た。少し風のある夜だった。街を囲う壁の向こうから、容赦なく粉塵が運ばれてくる。だが、霞んだ空気の中に灯る人々の生活の営みは、温かく夜道を照らした。
「さあ、足元に気をつけて」
ロバートが店の扉を開けて、マスク越しでもわかる笑顔を彼女に向けた。中へ入ると、賑やかな人々の喧騒に包まれた。彼は慣れた様子で小さなテーブルに着くと、カウンターの向こうの女主人に、料理を数品とウォッカ二杯を注文した。
「私は、水割り――」
「二つともストレートで」
すかさず訂正した彼に、メーガンは訝しむような視線を送った。ロバートは、リュックを開けて中のボトルを見せると、小声で言った。
「……ここの生水は、ちょっと良くないんだ」
メーガンは、まるで消毒液のような匂いがするウォッカとボトルの水を交互に飲みながら、マッシュポテトと、干し肉をつまんだ。ロバートは、ひどく硬そうな黒パンを、ウォッカに浸しながら食べている。周りの客も同じようにして食べているところを見ると、それがティベリス流なのだろうと彼女は思った。
「メグ、君はどうして医者に? しかも、こんなところで」
ロバートはマッシュポテトを口に運び、一口ウォッカを飲んでから訊いた。
「私がハイスクールに上がってすぐの頃、父が病気になったの。白血病だった。戦後、あの病気になる人はパラディでも珍しくなかった」
メーガンは手元のグラスに目を落とした。
「幸い、父は最先端の治療を受けられたし、私の骨髄も移植できた。だから、今もピンピンしてる」
彼女は肩をすくめて、小さく微笑んだ。
「医者になろうと思ったのは、きっとそれがきっかけだと思う。……ここへ来たのは、たぶん罪滅ぼし」
ロバートは否定も肯定もしなかった。ただ、メーガンの話を静かに聞いていた。
店を出ると、彼は病院とは反対の方へ彼女を連れて歩いた。
プレスクールのような施設の隣で、ロバートは立ち止まった。この辺りでは珍しい、重厚な石造りの建物だった。ポーチの階段を登り、木製の分厚い玄関扉を開けて、中へ入った。微かな蝋燭の匂いが漂っている。正面の壁の高い場所に、淡いオレンジの光に照らされた女神の姿が見えた。女神と玄関を結ぶ、真っ直ぐな通路の両脇には、ベンチが並んでいる。
ロバートは通路の中央でひざまずくと、何かを囁くように唱え、祈りを捧げた。
「ここは、教会?」
メーガンは誘われるまま、ベンチに腰かけると、彼に訊ねた。
「そう、教会。パラディにはないんだっけ?」
「ええ。昔はあったらしいけれど、壁がなくなってからはね。今はもうほとんど見かけないわ」
彼女は、薄く照らされた女神の横顔を見た。ウォール教の象徴と似ていると思った。
「あなたは、神を信じているの?」
ロバートは肩をすくめて、彼女を見た。
「そうだね。こうやって祈るのは、子供の頃からの習慣さ。ここで育ったんだ」
メーガンには最初ぴんとこなかった。だが、話が進むにつれて、ここというのはティベリスではなく、この教会を指しているのだとわかった。
「前に君は僕に言っただろう? どうしてエルディア人の自分に普通に接するのかって。この孤児院には、パラディから来た人もいたんだ。強面で無口な人だったけれど、皆から慕われていた。僕もよく、膝の上に乗せてもらった」
ロバートは懐かしむように、穏やかに笑った。
「何人かなんて、僕はどうだっていい。人間は肌の色や血の種類で測れるものじゃないよ。皆、グレーなんだ。白よりか、黒よりかってだけさ」
メーガンは、ロバートのブルーとオレンジの揺らめきの混じった瞳を見つめた。気づけば、指先が彼の手に触れていた。
「後悔、か……」
エレンは手にした野球ボールを見つめ、たった今祖父に問いかけた言葉を呟いた。
できることは全てやった。あとは、調査兵団が計画通りに動いてくれるかどうか。だが、ハンジ団長とアルミンなら、間違いなくここへ来る。
エレンはボールを空高く投げた。
未来ってやつは、どうしても俺に地鳴らしをやらせたいらしい。
夜になるたび、未来の記憶が頭を埋め尽くした。それでも、その景色から目を逸らせなかった。ミカサから流れ込んでくる穏やかな感情だけが、身を焼き尽くすような激情を鎮めた。
エレンは虚ろな目で、重力に身を任せ落ちていくボールを眺めた。受け止めようと手を差し出したが、球は手をかすめた。地面に落ちて転がり、こちらに背を向けていた少女の足元で静止した。
少女はボールを拾うと、辺りを見回し、やがてエレンに目を留めた。不安げな表情だったが、探るような目を真っ直ぐにこちらに向けている。背格好に覚えがあった。ファルコたちと同じ年頃だろうか。彼女が着ている白のブラウスと青いギンガムチェックのスカートは、この場所で明らかに浮いていた。周囲に視線を走らせたが、誰も彼女の方を見ている者はいなかった。
エレンは上着からリボンを取り出すと、立ち尽くしたままの少女にそれを見せた。
「前にこれ、落としただろう」
少女はわずかに目を見開き、やがて頷いた。
「お前は、未来から来たのか」
「……わからない。でも、たぶんそう」
エレンは驚かなかった。少女の方も、意外にも落ち着いている。何か問いたげな顔をしていたが、黙ったままだった。
「名前は?」
「……ペネロピー。あなたは?」
エレンは一瞬、逡巡した。ここでの偽名を名乗ろうか、迷った。
「……エレンだ」
ペネロピーは、その言葉の意味を深く考えるように、一瞬目を伏せた。だが、すぐにまたエレンへ目を向けた。
「ただの、エレン……?」
意味を測りかねたが、エレンは「そうだ」と呟いた。彼女の表情は読めなかった。
エレンはベンチに立てかけた松葉杖を手に取ると、隣を空けた。ペネロピーは、ゆっくりと歩み寄ると、そこへ腰掛けた。
沈黙は彼女が破った。
「……ここは、ティベリス?」
ペネロピーはエレンの方に顔を向けたが、エレンは自分の手元を見つめたまま答えた。
「違う。ここはレベリオだ」
「……レベリオ」
彼女は呟くと、病院を見上げた。
「……どうして、私が未来から来たと思ったの?」
エレンは答えなかった。
外の通りが騒がしい。ペネロピーはそちらへ目を向けた。
「何かあるの?」
「……ああ、祭りがある」
ペネロピーはなおもそちらを見つめている。
「……今は、何年?」
「八五四年だ」
エレンは、彼女の顔を見た。彼女はわずかに口を開いたまま、言葉を失っていた。
「……ここは、危険だわ」
ペネロピーは俯いて呟いた。
「もうすぐ……たくさんの人が死ぬ。逃げなきゃ」
彼女は顔を上げ、エレンの方を見た。沈黙が二人の間を流れた。エレンは唇を舐めると、小さく喉を鳴らし唾を飲み込んだ。
「……どこへ行っても、同じことだ」
彼女は首を傾げ、探るような瞳を向けた。
エレンは手元のリボンに目を落とした。
「お前は今、幸せか?」
少女は何も言わなかった。ただ、こちらを見続けている気配だけがした。
ペネロピーが何か言いかけた瞬間、ふっとその姿が消えた。
彼女がいたはずの足元には、野球ボールだけが転がっていた。
エレンはしばらくそこを見つめていたが、やがて懐へリボンをしまうと、ボールを拾い上げ、ゆっくりと立ち上がった。
風が吹き、花壇に咲く花が揺れた。朝露が陽光を浴びて輝いている。
ペネロピーは、いつの間にか現代のパラディへ戻っていた。
あの世界は、もうすぐ進撃の巨人によって壊される。
八五四年。レベリオ。
ヴィリー・タイバー襲撃事件。地鳴らし。
あの人は、まるでこれから起こることを知っているようだった。
そして、エレンという名前。
偶然にしては、出来すぎている。
けれど、信じられなかった。あの人が、世界を踏み潰した進撃の巨人だなんて。
あの夜の血濡れの顔と、港で見せた不安げな表情を思い出す。
確かに、恐ろしい人だった。けれど、人攫いから私を救ってくれた。
足元を小さな蟻が横切ってゆく。ペネロピーは踏まないよう一歩退くと、後ろを振り返った。玄関先では、ジャンがパンジーにハーネスを付けていた。
「おじいちゃん。戦争のこと、訊いてもいい?」
散歩中、ペネロピーは隣の祖父を見上げ訊ねた。
「勿論。それが年寄りの役目さ」
彼女は少し俯くと、言葉を選んだ。
「おじいちゃんは進撃の巨人と戦ったんだよね? ……どんな人だった?」
ジャンはすぐには答えなかった。やっぱり訊いてはいけないことだったかもしれないと不安になった。その時、祖父は独り言のように「エレンか」と呟いた。
「レネはどうして知りたいんだい? ……いや、訊いてはいけないというわけじゃないんだ。ただ、どうしてかと思ってね」
ジャンは少し歩くスピードを落とした。
「……理解、したいと思ったの。どんな人だったのか、なぜ地鳴らしを起こしたのか……」
ジャンは深く頷くと、遊歩道脇のベンチに腰を下ろした。慣れた手つきで、パンジーに水を入れてやった。
「エレンは仲間だった。一緒に飯を食って、一緒に戦った」
ペネロピーは祖父の静かな横顔を見つめた。
「おじいちゃんがレネくらいの頃は、まだ世界がどうなっているのか、この島の誰も知らなかった。ただ、壁の中で外の巨人に怯えて暮らしていた」
「……おじいちゃんも?」
「ああ、そうさ。でも、奴は違った。エレンは、どんなに恐ろしい相手でも、無鉄砲に飛び込んでいく奴だった。壁の外へ行くことばかり考えていた」
ジャンはそこで一呼吸つくと、足元で行儀よく座っているパンジーの頭を撫でた。ペネロピーは祖父の目に何か光るものがあることに気づいた。
「奴がやった地鳴らしは……とんでもない罪だ。これほどの虐殺を行った者は他にいないだろう。だが……未だに考えずにはいられない。私にできることは、本当に他になかったのか……」
ジャンは頭を垂れ、顔を背けた。気づけば、彼女の視界も涙でぼやけていた。
「レネ……、メグもロバートも頑張ってはいるが、なかなかうまくいかないことも多い。レネにも辛い思いをさせてしまっているね。……お前は、簡単な答えじゃ納得しないだろう。だが、これだけは覚えておいてくれ。私もミカサもお前の味方だ。それにな、まだ気づいていないだけで、マーレにも必ずそんな奴がいる。レネのお父さんのようにな」
ジャンは少し微笑むと、ペネロピーの肩を軽く叩いた。
「自分の信念を信じて、真っ直ぐ生きるんだ。そうすれば、誰かはきっと見てくれているはずだ。……でも、本当に辛い時は、遠慮なくここへ来なさい」
ペネロピーは俯いたまま、小さく頷いた。
頭の中に、手元のリボンを見つめ、幸せかと問うた青年の姿があった。あの人は、未来に生きる人の幸せを願っていたように思えた。あの時、何か答えていれば、未来は違ったのだろうか。
もう一度、エレンと会わなければ。
ペネロピーは静かに涙を払った。