◇ ペネロピー(レネ)
マーレで暮らすエルディアの血を引く少女。
差別に苦しみ、祖父母が暮らすパラディへと渡る。
◇ メーガン(メグ)
ペネロピーの母。ミカサとジャンの娘。
幼い頃の体験から、ある葛藤を抱えている。
◇ ロバート
ペネロピーの父。マーレ人。孤児院で育つ。
◇ ミカサ、ジャン
ペネロピーの祖父母。戦後結婚し、娘をもうけた。
マーレからやってきた孫娘のペネロピーを預かる。
◆ エレン
世界の八割の命を奪った男。
ペネロピーと出会い、自分の選択の結果を視ることになる。
6. 返されたリボン
また、果てしなく長い時間が流れた気がした。レベリオで喰った戦鎚の人生が、身体の中に濁流のように押し寄せた。
エレンは、地下牢の硬い寝床に腰掛け、床の一点を見つめていた。
戦鎚の記憶の中で、自分自身を見た。街を破壊し、女子供も関係なく、大勢を殺した怪物。それは、かつて憎み続けた存在そのものだった。
汚れた掌を見つめた。涙が込み上げ、乾いた笑いが低い天井に反響した。
未来のためだった。そう思ってきた。サシャが死んだのも、仕方ない犠牲なのか。
リボンを握りしめた拳を額に押しつけた。
自分のいない未来でも構わない。ミカサが、自分ではない誰かと生きていく未来でも構わない。ただ、穏やかな未来の光景を見せてほしかった。
自分の選択が、マシな未来に繋がっていると信じたかった。
ペネロピーはふと目を覚ました。カーテンの隙間から月明かりが差し込んでいる。
何かに呼ばれたように彼女は窓に近づくと、そっと外を覗いた。
暗い林の向こうに何か影が見えた。丘の頂に立つ大樹に違いなかった。
まだ夜中だった。ペネロピーは音を立てないように扉を開閉すると、明かりもつけずに階段を下りた。外に出ると、林に続く小道の方に足を向けた。その小道は街灯はなく真っ暗だったが、彼女は迷わず林に入った。
暗闇は異常に道のりを長く感じさせた。いつの間にか駆け足になっていた。ようやく林を抜けた時、ペネロピーは思わず足を止めた。
真っ黒な木のシルエットが丘の上に浮かんでいる。その背後に冷たく光る月が、巨木の影を彼女の足元まで伸ばしていた。
ペネロピーは丘の頂に続く、その影の道を登った。木に近づくにつれて、どこか奇妙な違和感に襲われた。木の根元に、人影があった。男の子が木にもたれ掛かり、眠っている。
ペネロピーは足音を立てないように近づき、顔を覗き込んだ。見たことがない少年のはずだったが、どこかで会ったことがあるような気がした。
「……エレンなの?」
問いかけた時、少年の閉じた左目から一筋の涙がこぼれた。その瞬間、強烈な悲しみが胸を突いた。ペネロピーは無意識に、その頬に手を伸ばした。だが、その手は少年の顔をすり抜け、その姿は跡形もなく消えた。
ペネロピーは目を覚ました。不意に伸ばした手が、ベッドの上に開いたままの歴史書に触れた。辞書も転がっている。部屋の中はまだ暗く、カーテンの隙間から、夜明けの白んだ空が覗いていた。
祖父母はまだ眠っている時間だった。音を立てないようにして外へ出た。昨晩雨が降ったのか、少し地面が濡れていたが、彼女は構わず駆け足で丘へ向かった。
あんな夢を見たのは、きっとあの人のことばかり考えていたせいだ。どうしたらまたあの世界へ行けるのか、自分はなぜ、あの世界へ呼ばれたのか。
ペネロピーは木の下に立ち、胸を上下させた。息を切らしながら、木の根元を見る。夢で見た少年が眠っていた場所に、小さな墓石があった。
『最愛のあなた ここで永遠の居眠りにつく 八五四』
ペネロピーは、供えられた切り花に目を落とした。以前ここへ来た時も、新しい花が供えられていた。
過去の港街で見た、頬に傷のある女の人。林の向こうへ消えてゆく、祖母の背中。
時を超えて自分とエレンが出会ったのは、きっと何か意味があるはずだ。
でも、一体何ができるというのだろう。
後悔を語った祖父の横顔が、脳裏を過ぎった。
祖父が長年出せなかった答えを、自分が見つけられるはずがない。でも、諦めたくなかった。
ペネロピーはそっと地面に触れ、木の根元に腰を下ろした。遠くに朝焼けの街が広がっている。昔はここから、どんな景色が見えたのだろう。
不意に、湿った冷気にペネロピーは身震いした。薄暗い場所だった。目の前に鉄格子が現れ、その向こうの闇に人影が見えた。
彼女は息を呑んだ。自分が檻に入れられているのだろうかと思ったが、そうではなかった。次第に薄闇に目が慣れ、人影の輪郭がはっきりしてきた。頭を垂れ、リボンを握りしめた拳を額に押しつけている。乱れた髪の間から、食いしばった口元が覗いていた。
ペネロピーは立ち上がり、鉄格子に近寄った。
エレンはその気配を感じ取ったのか、ゆっくりと顔を上げた。汚れた顔に、涙の筋が見えた。
ペネロピーは口を開いたが、言葉が出なかった。
エレンは再び俯くと、絞り出すように言った。
「大勢殺したんだ。罪のない人々をこの手で殺した。大事な仲間も、俺のせいで死んだ。……そうするしかなかった」
弱々しい震えた声だった。ペネロピーは自分の胸の中央をぎゅっと掴んだ。
「ここで、やめることはできないの?」
「……できない。未来は最初から決まっている」
ペネロピーは口を開いて、また閉じた。目の前の冷たい鉄格子を、両手で握りしめた。
「……わからない。どういうこと?」
「時間は一本道で、お前が来た未来と繋がっているということだ。……未来は決して変わらない」
「……でも、そんなの」
言葉が続かなかった。
「現に、お前がここにいるじゃないか。ここはお前にとって過去だ。過去は、変えられるのか?」
ペネロピーは黙り込んだ。エレンは頭を垂れ、両掌を顔の前で広げていた。右手には生成り色のリボンがあった。彼女はふと、墓石に刻まれた文字を思い出した。
「何のためにこんなことをするの? ……大事な人のため?」
エレンは肩をぴくりと震わせた。
「未来が決まってるなら……今、苦しんでいるのも、全部決まっていたことなの?」
ペネロピーは返事を待った。だが、エレンは黙ったままだった。彼女は唾を飲み込み、躊躇いながら口を開いた。
「……あなたは、操り人形なんかじゃない。だって、そうでしょ? 何て言ったらいいか、わからないけど……エレンの心は、エレン自身のものだよ」
エレンは顔を上げ、ペネロピーを見つめた。通路の灯りが、灰色の目に映った。やがて、ゆっくりと立ち上がり、鉄格子越しに彼女の前に立った。ペネロピーはエレンの顔を見上げた。
「……前は、返し損ねた」
彼女は、差し出された掌を見つめた。血と泥で汚れた手だった。だが、生成り色のリボンは綺麗なままだった。ペネロピーはエレンの手から、リボンをそっと受け取った。
「もう、こっちには来るな」
そう言って、エレンは目を伏せた。
それを合図に、彼女は元の場所に引き戻された。朝日が街を照らし、手にはリボンが握られていた。ペネロピーはそのリボンを呆然と見つめ、やがてポケットの奥に仕舞った。
もう、祖父母も起き出す頃だろう。彼女は急いで丘を駆け下りていった。
ミカサは、メーガンがようやく眠りについたことを確認すると、窓の方を見た。すっかり日は落ち、窓ガラスには部屋の調度品が映り込んでいる。
もう、何日もエレンの所へ行けていなかった。ミカサは自分の首元を掴み、視線を彷徨わせた。マフラーを着けなくなって久しい。ジャンと結婚し、メーガンをもうけた。エレンは若い姿のまま、遠くなりつつある。
ミカサは時計に目をやり、再びバスケットで眠る娘の顔を見た。ジャンが帰ってくるまで、まだ時間がある。メーガンが起き出す前に戻って来られれば、問題ないはずだ。
ミカサは上着を羽織り、バスケットを一瞥してから、そっと扉を閉めた。
丘から戻ると、家の前にジャンが通勤で使っている自転車が置いてあるのが見えた。ミカサは急いで家の中へ入った。
ジャンがジャケット姿のままメーガンを抱き、あやしていた。メーガンは泣いていたのだろうか。ジャンはいつ帰って来たのだろうか。娘のそばにいなかった理由を探した。メーガンがバスケットの中で眠りにつくまで、ミカサは扉の前に立ったままでいた。
「メグの声、外まで聞こえてたぞ」
ジャンは立ち上がると、娘の方を見たまま言った。ミカサは視線を落とした。
「……ごめんなさい」
ジャンはすぐには何も言わなかった。時計の針の音がいつもより大きく聞こえた。
「ミカサ。この子はまだ小さいんだ。一人で放っておくのはまずい」
ミカサは俯いたまま、頷いた。途端に視界が歪み、涙が溢れた。ジャンがこちらへ近づいてくる気配がした。
「お前が思ってることはわかる。でも今は、メグを一番に考えてほしいんだ。……わかるよな?」
「……ごめんなさい」
少しの沈黙の後、小さな溜め息が聞こえた。やがて、ジャンが離れる気配がした。一瞬足音が止まり、ミカサは思わず顔を上げかけた。だが、そのまま階段を上がってゆく足音が聞こえた。
ミカサはバスケットに近づき、メーガンの温かい額を撫でた。頬にわずかに涙の跡が残っていた。その頬に、涙がぽたりと落ちた。
手を引かれて歩く、丘までの道のり。
自分の墓に刻まれた文字。
遠ざかってゆく、ミカサの背中。
背後で「メグ」と呼ぶ、ジャンの声。
エレンは頭を振り、冷水を顔に浴びせた。独房の洗面台に手をつき、鏡を見る。
悲しみ。怒り。
そこには、ミカサとよく似た少女の歪んだ顔が映っていた。
見覚えのある、グリーンの花柄のワンピースを着ていた。
「メグ」
扉の向こうから、ミカサのくぐもった声が聞こえた。
「……ごめんね」
水滴が自分の顔に伝うのを、エレンは見つめた。
ミカサは、買い物に出かけるジャンとペネロピーを見送ると、そっと屋根裏の収納庫へ上がった。何十年も仕舞い込んだままだったが、彼女は迷わず目当てのものを見つけ出した。
そのトランクは、埃をかぶり、金具は錆びついていた。錠は少し抵抗があったが、問題なく開いた。そっと蓋を持ち上げると、古びた布と、微かに残る防虫剤の匂いが鼻をついた。
中身は、エレンが兵舎に残していったわずかな私物だった。たった数点の品が、トランクの底に綺麗に収まっている。その一番上に、古いリボンがあった。
ミカサはそのリボンを手に取った。一部が焼け焦げ、血の染みがついている。だが、間違いなくそれは生成り色だった。
今朝、ペネロピーが慌てた様子で家に帰ってきたことを思い出す。彼女がいないことに気づいて、ジャンと二人で探しに出ようとした時だった。
「ちょっと、早く目が覚めちゃって……」
ペネロピーはそう言って、そっと手元を自分の背に隠した。だが、じっと見つめてしまったからだろうか、彼女は悪戯が見つかったように、気まずそうに手を差し出した。その手には、生成り色の綺麗なリボンがかけられていた。
ミカサは自分の手にあるリボンを見つめた。ペネロピーが持っていたリボンと似ている。彼女が持っていたのは、ジャンに買ってもらい、なくしたはずのリボンで、この古いリボンは、巨人が消滅した時にミカサが拾ったものだった。超大型巨人に踏みならされた場所にもかかわらず、それはミカサの足元に落ちていた。
エレンの頭部を抱き、荒野をさまよい歩いた数日間は、五十年以上経った今でも、鮮烈な記憶として残っている。
ミカサは首を振り、胸を押さえた。
そんなことがあるはずがない。ただ似ているだけに過ぎない。考え過ぎだ。
けれど、今朝エレンの元へ行く途中で見つけた、誰かの足跡が気がかりでならなかった。ペネロピーは、あの丘の木へ訪れていたのだろうか。
メーガンとの苦い記憶が蘇る。自分の行動のせいで、娘を深く傷つけた。でも、自分ではどうしようもなかった。
エレンの記憶はもう、古びたフィルムのように断片的で、擦り切れてしまっている。
私はどうしようもなく臆病で、新たな家族に記憶や思いが上書きされていくことが、とても怖かった。娘と夫を愛おしく思うほど、エレンを裏切っているようで、辛かった。
ミカサは古びたリボンを見つめ、ペネロピーのことを考えた。
あの子まで、同じ苦しみを背負わせてはいけない。
ミカサは、トランクの奥底に誰にも見つからないようにリボンを仕舞い込んだ。