◇ ペネロピー(レネ)
マーレで暮らすエルディアの血を引く少女。
差別に苦しみ、祖父母が暮らすパラディへと渡る。
◇ メーガン(メグ)
ペネロピーの母。ミカサとジャンの娘。
幼い頃の体験から、ある葛藤を抱えている。
◇ ロバート
ペネロピーの父。マーレ人。孤児院で育つ。
◇ ミカサ、ジャン
ペネロピーの祖父母。戦後結婚し、娘をもうけた。
マーレからやってきた孫娘のペネロピーを預かる。
◆ エレン
世界の八割の命を奪った男。
ペネロピーと出会い、自分の選択の結果を視ることになる。
7. それでも
ペネロピーは文章を指でなぞりながら、唇をかすかに動かした。絵や写真も入念に確認していく。現代の頁まで進んだところで、深い溜息を吐いた。歴史は何一つ変わっていなかった。
ペネロピーは、歴史書から顔を上げた。椅子に座ったまま部屋を見渡し、チェストの上のマーレから持ってきた家族写真に目を留めた。もし、過去が変わっていたら、こうではなかったはずだ。
エレンの言う通り、歴史は変わらないのかもしれない。――変えるべきでも、ないのかもしれない。
ペネロピーはデスクライトに掛けた、エレンから返されたリボンを見つめた。
本当に、これで終わりなのだろうか。
ほんの一瞬、リボンを返される直前に見た、エレンの表情が脳裏によぎった。
ペネロピーは歴史書を閉じると、クローゼットの奥へ押し込み、静かに扉を閉めた。
翌日、マーレの両親から電話があった。
「……メグ?」
母の名を呼ぶ祖母の声に、はっとして振り返ると、祖母が受話器を握りしめ、泣きそうな顔で頷いていた。
「そう……よかった」
断片的な返事から、良い知らせらしいと感じた。祖母が小さく手招きし「お母さんよ」と受話器を渡してくれた。
「……もしもし、お母さん?」
「レネ。なかなか連絡ができなくてごめんね」
久しぶりに聴く母の声に、目頭が熱くなった。
メーガンは、ようやく新しい家が決まったこと、仕事に就けそうなことを説明した。
「もう少しそっちで待っていてくれる? 落ち着いたら、お父さんと迎えに行くから」
電話を切って祖父母を見ると、二人は穏やかに頷いた。
ミカサは、墓標を囲む人々を遠巻きに眺めていた。淡く澄んだ空には雲一つない。春の陽気の中、泣き崩れる者はいなかった。
「いい見送りだな」
隣に立っているジャンの呟きに、ミカサは頷いた。
サシャの父が営んできたブラウス厩舎は、長年多くの身寄りのない子供たちの面倒を見てきた。死を悼む人たちの多くは、そういった人々に違いなかった。
人々の間をかき分けるようにして、コニーがこちらへやってきた。
「ニコロは、もうすっかりここの長だよ」
ニコロは、墓標の側で夫人の隣に立っていた。彼は戦後、家族を捜すと言って、多くの捕虜とともにマーレへ帰国した。だが一年も経たずに、パラディへ戻ってきたという。
「ところで、聞いたか? ライリーが亡くなったって」
駅へ向かう途中、コニーが少し声を低くして言った。
「ライリーが? まだ、若かっただろう?」
ジャンが眉をひそめて聞いた。
「ああ、病気だったんだ。あっという間だったらしい。白血病って病気だ」
コニーは少し歩いてから続けた。
「地鳴らしの後、マーレで大勢死んだ病気、あっただろ? それと同じようなものらしい」
確かに以前そんな話があったのを、ミカサは思い出した。その病には、巨人の蒸気が関係しているのではないかという噂があった。だが、それが本当だとしたら、とっくに自分たちがその病気になっているはずだった。
「それが今になって、パラディでも増えてるらしいんだ」
「戦争や飢餓で死ぬ奴がいなくなって、目立つようになっただけなんじゃないのか?」
ジャンの問いに、コニーは顔をしかめ、言いづらそうに口を開いた。
「……ほら、なんかよくわからねえけど、エルディア人は巨人の不思議な力で守られてたって話があっただろ? 巨人が消えて無防備になったって、復古主義の連中が騒いでやがるんだ」
ミカサは足元に視線を落とした。
来る時に見かけた駅前の菓子店を思い浮かべた。あそこで焼き菓子でも買って帰ろう。
「そんなもん言わせとけばいい。……コニー、ベティが男を連れてくるって話はどうなったんだ? もう連れて来たのか?」
「ああ……あれはひどい奴だった。ひょろひょろで、ぶかぶかの服を着てるんだ。あんなので、いざって時にベティ守れんのかって」
ジャンが笑った。
「まだ学生同士の付き合いだろ? 口煩くしてると娘に嫌われるぞ」
「おいおい、ジャン。そんなこと言ってられるのも今のうちだぞ。メグもそのうちぶかぶかひょろひょろ男を連れてくるんだからな」
「馬鹿言え。……あと十年は早い」
ミカサは隣を歩くジャンの横顔を見上げた。耳が少し赤くなっているのに気づき、口元がわずかに緩んだ。
メーガンは廊下に響く足音にはっとして、慌てて大学からの手紙を白衣のポケットに押し込んだ。
「やあ」
ロバートは両手に珈琲のカップを持ち、器用に扉を開けて入ってきた。メーガンはロバートに微笑み返した。彼を見ると、自然と笑顔になる自分がいる。
「帰ったんじゃなかったの?」
メーガンは珈琲の礼を言うと、ロバートからカップを受け取りながら訊いた。彼は目尻にしわを作って微笑んだ。
「帰ろうと思ったんだけど、まだ仕事が残っててね」
メーガンが首を傾げると、ロバートは向かいの席に座り、デスクの書類の束に手を伸ばした。
「ほら、貸して。半分もらうよ」
「……ありがとう」
珈琲を啜っていると、ちらりと視線を上げたロバートと目が合った。
「すっかりここの物に慣れたみたいだね」
メーガンは頬を緩め、手元の珈琲に目を落とした。
「ええ。もうここへ来て、一年近く経つもの。……でも、この珈琲を飲む時は、まだ気合が必要だわ」
「そうかい? しょっちゅう飲んでるじゃないか」
「……まあ、味は正直いけてないけど、すごく目が覚めるのよ。だから、当直の時にちょうどよくって」
肩をすくめて控えめに笑うと、ロバートは同意するように頷いた。
「言えてるね。そういえば前に、ウォッカは消毒液の味がするって言ってただろう? これは? どんな味がする?」
「そうね……」と、メーガンは考えるふりをした。
「……泥の味がするわ」
ロバートは噴き出した。
「泥? 君は泥を飲んだことがあるのかい?」
「ないわ。でも想像上の泥の味がするの。……もう、そんなに笑わなくてもいいじゃない」
メーガンはペンを持ち、書類に目を落とした。
「あなたと一緒にいたら、笑いすぎて呼吸困難になっちゃいそう」
「それは光栄だね」
メーガンはロバートの手元を盗み見た。相変わらず汚い字だ。ペンの持ち方まで、なんだかぎこちない。ペンを走らせるたび、額にかかったくるくるとした髪が、わずかに揺れる。
「……大学から、十月で帰ってこいって連絡があったの」
ロバートは手を止め、顔を上げてメーガンを見つめた。彼女は自分の手元を見つめたまま、言った。
「派遣をやめることにしたみたい。でも、私はまだここにいたいの。大学に掛け合うつもりよ。……私には、まだなんの償いもできていないから」
メーガンは返ってこない言葉を待つ間、持て余したペンを指先で小さく弄った。やがて、ロバートは小さく息を吐き、口を開いた。
「本当は、残ってほしいと言いたい。……でも、君は戻るべきだ」
メーガンは顔を上げ、ロバートを見た。ロバートは目を伏せていた。引き留めてくれるものだと、どこかで期待していた。
「こんなことで、人生を棒に振るべきじゃない。……君はこれから何十年も医者として生きるんだから」
ロバートは目を伏せたまま、少しの間黙っていた。再びメーガンと視線を合わせると、静かに言った。
「君がここへ来た理由に嘘があるとは思っていない。でも、それだけじゃないだろう?……家族に関係してる?」
メーガンは、鼻の奥が熱くなるのを感じた。俯くと、鼻先を手で擦った。
「……どうしてわかるの?」
「当てずっぽうだよ」
そう言うと、ロバートは微かに頬を緩めた。
メーガンは唇を噛み、両親のことを考えた。誰にも打ち明けたことはなかった。けれど、目の前のロバートには、全てを聞いてもらいたいような気がした。
その時、電話のベルが鳴った。急患の呼び出しだった。
「……行かなきゃ。……珈琲、ご馳走様」
メーガンはロバートを一度だけ見て、医局を後にした。
エレンは、フロックに渡された上着に腕を通しながら、集まった兵士たちに視線を向けた。薄明の空の下、部隊も所属も違う若者達が、揃えて口を結んで立っている。
「よくこれだけの兵士を集めたな」
「大したことはないさ。今の司令部に不満を持っている者は多い。この国を守れるのは兵団じゃないとみんな思っているんだ。エレン、お前しかいないってな」
エレンは兵士の中に、まだあどけない顔をした少年少女がいるのを見つけた。今年入団したばかりの新兵に違いなかった。曇りのない瞳から、エレンは目をそらした。
「顔色が悪いな。大丈夫か?」
フロックは控えている兵士たちから少し離れると、声を低くして訊いた。
「問題ない」
エレンはブーツの紐を結び直しながら言った。
「俺たちの望みは叶う」
「……どうしてそう言い切れる?」
フロックは眉をひそめた。エレンは返事をしなかった。立ち上がると、答える代わりに質問を返した。
「ジークはどうなっている?」
「まだ音沙汰なしだ。リヴァイ兵士長がついているから、身動きがとれないのかもしれない。俺たちが出向く必要がありそうだ」
「居所は?」
「まだ掴んでいない。だが、俺たちが脱獄した直後、ピクシス司令が伝令を出した。わざわざ腹心の部下を使ってな。行き先はリヴァイ兵士長の元に違いない。それで居所はわかるはずだ」
「時間がかかるな。……他にはないのか?」
フロックは肩をすくめた。
「ハンジ団長直々に案内してもらうしかないだろうな。知ってる者は限られている。今は緊急の招集がかかっているから、接触するとすれば本部から出てきた後だろう。だが、素直に言うことをきくと思うか?」
フロックは背中の小銃に一瞬目を向けた。
「……心配ない。向こうも争いは望まないだろう。それに、ハンジさん達が俺たちに従う他ないのは、お前もわかっているはずだ」
そう言うと、フロックは含み笑いを浮かべ、小さく頷いた。
「いずれにせよ、今は連絡を待つしかない。エレン、まずはここから移動しよう」
歩き出すと、太陽が地平線から顔を出した。エレンはその白い光に思わず目を細めた。
「長い一日になりそうだ」とフロックが呟いた。