◇ ペネロピー(レネ)
マーレで暮らすエルディアの血を引く少女。
差別に苦しみ、祖父母が暮らすパラディへと渡る。
◇ メーガン(メグ)
ペネロピーの母。ミカサとジャンの娘。
幼い頃の体験から、ある葛藤を抱えている。
◇ ロバート
ペネロピーの父。マーレ人。孤児院で育つ。
◇ ミカサ、ジャン
ペネロピーの祖父母。戦後結婚し、娘をもうけた。
マーレからやってきた孫娘のペネロピーを預かる。
◆ エレン
世界の八割の命を奪った男。
ペネロピーと出会い、自分の選択の結果を視ることになる。
8. もう一度
夕焼けの中、ミカサは一人バスを降りた。立ち尽くしたまま、バスのエンジン音が遠ざかっていくのを聞いていた。ようやく歩き出すと、地面に伸びた自分の影を見つめながら、自宅へと続く坂道を登った。
「お母さん、帰ったの?」
キッチンの方からメーガンの声が聞こえた。返事もしないまま洗面所へ向かい、鏡の前で立ち尽くしていると、足音が近づいてきた。
「お母さん、お父さんは? ……病院、どうだったの?」
メーガンが隣に立っていることに気づき、ミカサは溢れてきた涙を手で払った。
「……そんなに、悪いの?」
ミカサは頷くのが精一杯だった。みるみるメーガンの瞳が潤んだ。
「……嘘」
ミカサは言葉にならず、ただ首を振った。ごめんなさいと言いたかった。だが、その言葉さえ口にできず、メーガンを残したまま寝室に入った。
扉を閉めた瞬間、嗚咽が漏れ、口元を押さえた。
また、家族を失ってしまうかもしれない。
必死に呼吸を整えようとした。だが、嗚咽は何度も込み上げ、涙は止まらなかった。
メーガンは耳から聴診器を外した。「大丈夫ですよ」と微笑みかけたが、フィッシャーは一言も返さず、ただ俯いたままだった。
「フィッシャーさん、どうかされましたか?」
そう尋ねると、フィッシャーはゆっくりと白く濁った瞳をメーガンへ向けた。
「……お前、パラディから来たエルディア人だったんだってな」
聞いたことのない低くしわがれた声に、メーガンは思わず動きを止めた。視界の端で、隣の患者がこちらに目を向けた。病室に一瞬、沈黙が落ちた。
「……ええ」
メーガンはフィッシャーを見つめたまま、短く答えた。
「どうしてここへ来た?」
フィッシャーの声は震えていた。控えていた看護師に目をやると、彼女は戸惑ったように首を振った。
「……フィッシャーさん」
「何のつもりでここへ来た!」
フィッシャーは点滴台を掴んだ。メーガンは反射的に身を引いた。だが、倒れた点滴台がこめかみをかすめ、鋭い痛みが走った。台が倒れる音が病室に響き、足元には薬液とガラスが散乱した。
「お前らのせいで……家族は死んだ。親も親戚も踏み潰されて死んだ。レオはようやく歩けるようになったばかりだった。なのに、飢餓で死んだ。エマは原因もわからない病気で死んだ。……俺だけが生き残った」
メーガンはフィッシャーから目を離せなかった。
「何が支援だ、英雄だ。お前らがやったことだろうが。偽善者め。俺の目の前から、とっとと失せやがれ」
フィッシャーは手当たり次第、掴んだものをメーガンへ投げつけた。
騒ぎを聞きつけた医師や看護師が、病室へ駆け込んできた。
「キルシュタイン先生、一旦下がってください」
誰かに肩をたたかれたが、その場から動けなかった。ただ呆然と立ち尽くしていた。
エレンは、床に落ちた自分の影をじっと見つめていた。窓はなく、廊下に繋がる扉の小窓だけが唯一の明かりだった。
ミカサたちの目に映った光景が見え、耳の奥では、地鳴らしで家族を失った男の叫びが響いていた。
ノックの音がして、エレンは顔を上げた。返事をしないうちに扉が開き、フロックが入ってきた。
「二つ連絡だ。一つは兵団から、俺たちの計画に乗ると申し出があった。ご丁寧にジークの所まで案内してくれるそうだ」
「罠だろう」
「ああ、間違いない。だから、断っておいた。二つ目はハンジ団長に動きがあった。アルミンたちを連れて、本部から西の方角へ馬で移動しているらしい」
「……俺たちを探しているのか?」
「おそらく違う。単独での行動だろう。目的地はまだ不明だが、接触できるとすればそこしかない。連絡があり次第移動するぞ」
エレンは頷いた。
「……フロック。頼みがある」
部屋を出ようとしていたフロックが振り返った。エレンは視線を落とした。
「できれば、ミカサとアルミンに、少し話をさせてくれないか」
フロックは鼻で笑った。
「……なんだ、別れでも言いたくなったのか?」
「ただ……邪魔をしないよう釘を刺すだけだ」
エレンは俯いたまま言った。フロックはすぐには何も言わなかった。やがて一歩近づく気配がした。
「エレン」
フロックは静かに口を開いた。
「お前は悪魔だ。……だが、お前だけじゃない。地獄に落ちるとしたら、俺も同じ所に落ちるだろう」
ペネロピーは、一番赤く熟れたトマトをそっと包み込むと、ヘタに指を添え、おそるおそる上へ持ち上げた。パキンと音がして、トマトは綺麗に枝を離れた。
「上手」
隣で見守っていた祖母がにっこりと微笑んだ。
昨夜、両親から電話があった。マーレへ帰れる日がついに決まった。
祖母と二人で、収穫したばかりの野菜を使って、サラダとサンドイッチを用意した。みずみずしいトマト。濃厚なチーズ。やわらかな白いパン。温かいキッチン。
ここでの暮らしは、毎日が豊かだった。けれど、いつも頭の隅に両親のことがあった。早く会いたかった。それでも、あの灰色の毎日へ戻ることには、少しためらいがあった。
「……レネ?」
祖母に呼ばれ、ペネロピーは自分の手が止まっていたことに気がついた。ミカサは心配そうにペネロピーを見つめた。
「おばあちゃん、私……」
言葉がうまく出てこなかった。
「帰るのが、不安?」
ペネロピーが頷くと、祖母は眉を下げたまま微笑んだ。
「もしね……あなたが望むなら、ここに居てもいいのよ」
ペネロピーは俯いた。
「私、ここでの暮らしが好き。……でも、お母さんが心配なの。そばにいたいの」
ミカサは手をタオルで拭うと、そっとペネロピーを抱き寄せた。
「レネは、お母さんのことが本当に大好きなのね」
「うん……。でも、おばあちゃんのことも、おじいちゃんのことも、大好きだよ」
ペネロピーは祖母の顔を見上げた。
「また、遊びに来てもいい……?」
ミカサは返事の代わりに、ペネロピーを強く抱きしめた。
午後、ペネロピーはパンジーを連れて丘へ向かった。頭の後ろでは、祖母に結わえてもらったリボンが揺れている。リボンを返してもらった日から、一度も過去とつながることはなかった。
林を抜け、丘を登り始めると、頂に立つ大樹の下に人影が見えた。ペネロピーは思わず息を呑んだ。導かれるように駆け出し、息を切らして立ち止まった。
「……エレン?」
その背中がゆっくり振り返った。
メーガンは病室の前で立ち止まると、一度だけ深呼吸をし、笑顔を作ってノックした。扉を開けると、ビニールカーテンの向こうで、ジャンが軽く片手を上げた。
「お父さん。新刊、買ってきたよ」
ベッドに歩み寄ると、ジャンはラジオのスイッチを消した。ジャンが何か呟いたが、厚いカーテンと機械の作動音で聞き取れなかった。
「読み聞かせてあげようか?」
幼い頃、よく絵本を読んでもらったことを思い出し尋ねると、ジャンは笑って手を振った。
「学校の帰りか? クラブは?」
ジャンは視線だけをメーガンへ向けた。
「今日は休みなの」
メーガンは視線をそらし、椅子に腰掛けた。
「ミカサは?」
「お母さん? いつもの所じゃない? そのうち来るよ」
ジャンは頷いた。メーガンは父の白い顔を見て、少し棘のある言い方をしたことを後悔した。
「メグ」
鞄から教科書やノートを出しながら、「何?」と返した。
「言っておきたいことがあるんだ」
メーガンは手を止め、父に向き直った。思いつめたような表情に、心臓が強く打った。
「なんなの? ……早く言って」
ジャンはゆっくり息を吐いた。
「お母さんのことだ」
少しだけ考えるように目を伏せた。
「……いや。……お母さんと、俺と、あの木の下で寝てる奴の話だ」
メーガンは父の横顔を見つめた。
「今まで、お前にこの話をするのを、ずっと避けてきた。でも、ちゃんと話しておいた方がいいと思ってな」
「どうして今、そんな話をするの?」
「……わかるだろ。お前ももう、十五なんだから」
メーガンはジャンの胸がひどく上下しているのを見て、視線をそらした。
「ある程度は知ってるよ」
ジャンは驚いた様子もなく、ただ頷いた。
「あそこに眠ってるのが、エレン・イェーガーだってことも、お母さんの……一番だってことも……。私はあれが虐殺者の墓だなんて知らずに、ずっとお母さんと一緒にお花を供えてた。今だってこんな時なのに、あの人のところに行ってる」
言ってから、言わなくてもよかったと、また後悔した。メーガンは、父の顔から目をそらしたまま黙っていた。不意に、膝に何かが当たった。見ると、父の手がカーテン越しに触れていた。
「メグ……、悪かった」
メーガンは口が曲がり、涙が込み上げてくるのを感じた。
ジャンは、メーガンが落ち着くのを待ってから、昔の話をした。母も兵士だったことは、なんとなく気づいていた。だが、地鳴らしを止めた一人であったことは知らなかった。
「ミカサは、お前の母親として生きることを選んだ。だが、エレンのことを過去にはできなかった。……俺は、それでもいいと思っていた」
ジャンは息を整えると、ゆっくりメーガンに視線を合わせた。
「あいつは、不器用な生き方しかできないんだ。でも、お前のことを一番に愛している。……お母さんのことを許してやってくれ」