◇ ペネロピー(レネ)
マーレで暮らすエルディアの血を引く少女。
差別に苦しみ、祖父母が暮らすパラディへと渡る。
◇ メーガン(メグ)
ペネロピーの母。ミカサとジャンの娘。
幼い頃の体験から、ある葛藤を抱えている。
◇ ロバート
ペネロピーの父。マーレ人。孤児院で育つ。
◇ ミカサ、ジャン
ペネロピーの祖父母。戦後結婚し、娘をもうけた。
マーレからやってきた孫娘のペネロピーを預かる。
◆ エレン
世界の八割の命を奪った男。
ペネロピーと出会い、自分の選択の結果を視ることになる。
9. 未来へ
「ご主人は運がよかったですよ」
ジョーンズ医師は、これまでに見たことのない朗らかな表情で、ミカサとメーガンを出迎えた。
「先の戦いを生き抜いてこられただけのことはある。どうぞこちらへ」
ミカサは曖昧に頷くと、ジョーンズ医師の向かいの席にメーガンと並んで座った。
「あの……まだよく分かっていないのですが、移植をすれば、助かると思っていいのでしょうか」
ミカサは襟元で手を握りしめた。
「勿論、必ず治るとは言い切れません。ですが、新しいプロトコルになってからは、以前よりずっと良い結果が出ています」
ジョーンズは穏やかに言った。
「ご兄弟のあてが外れた時は、僕ももう駄目かと思いましたけれどね。ですが、検査を進めたら、お嬢さんと適合しました。これは本当に幸運でした」
ジョーンズ医師は、一枚の紙をテーブルに出した。小さな文字で、手術の説明が書かれている。医師は口頭で説明をしたが、ミカサは説明書きに目を落とした。『提供者のリスク』の項に目が止まった。
「……あの」
ミカサはジョーンズの話を遮った。
「提供者にも、リスクはあるんですか」
ジョーンズは一瞬目を瞬かせたが、ミカサが指し示した箇所を見ると、小さく頷いた。
「ああ、これですか。よくある定型文ですよ。骨髄移植は、提供者への負担も小さい手術です。これまで大きな問題になったケースはほとんどありません。心配は無用ですよ」
ミカサは頷くと、説明書きにまた目を落とした。ジョーンズの説明は、どこか遠い国の言葉のように、耳を素通りしていった。
「お母さん」
ミカサはメーガンに腕を叩かれ、ふと我に返った。顔を上げると、ジョーンズ医師がこちらを見ていた。
「早ければ来週の水曜日にでもと思ったのですが……不都合でした?」
「………いいえ。……ただ、その。……少し考える時間をいただきたくて」
ジョーンズ医師は困惑したように首を傾げた。
「何かご心配なことでも……?」
その時、控えめなノックの音がした。
「先生、お時間です」
看護師が扉の隙間から顔を覗かせた。
「失礼。キルシュタインさん、少しお待ちいただけます? また後で来ますよ」
ジョーンズは慌ただしく部屋を出ていった。
「どうしたの? 急に」
廊下の足音が遠ざかると、メーガンが口を開いた。
「考えるって、何を考えることがあるの?」
「……手術をしても、お父さんが絶対助かるわけじゃない。先生は、どれくらいの人がこの手術を受けたのかも説明しなかった。そんな手術、簡単には決められないわ」
「何言ってるの? ……お父さんは、この手術を受けなかったら、死んじゃうかもしれないんだよ?」
ミカサはしばらく返事をしなかった。膝の上でスカートを握りしめていた手を、襟元に持っていった。
メーガンは立ち上がると、部屋の中を落ち着きなく歩いた。ミカサはそれでも黙っていた。
「ずっと黙ったままでいる気? いい加減にして」
メーガンは立ち止まり、言った。ミカサは襟元を手で握りしめたまま、首を振った。
「……もう少しだけ待って」
「どうして? せっかく適合したのに。今を逃したら、もう移植できないかもしれないんだよ? お母さんは、お父さんのことはどうでもいいの?」
ミカサはもう一度首を振った。「違う」
「違わない。……私はお母さんのことが理解できない」
メーガンは背を向けた。ミカサは迷いながら、ゆっくりと立ち上がった。だが、言葉が出てこなかった。
「……メグ」
メーガンは振り返ると、充血した目でミカサを睨んだ。そして、襟元の手を見つめ、視線を落とした。
「お母さんはいつもそう。困ったら、いつもそうして黙って、もういない人を求めてる」
ミカサは、襟元を掴んでいた手を下ろした。
「お父さんは、あんな状態でもお母さんを心配しているのに。お母さんはお父さんの気持ちをちゃんと考えたことはあるの?」
メーガンの目から、涙がぽろぽろとこぼれた。ミカサは半歩、娘に近づいた。
「……違うの。私はあなたを失うことが」
最後まで言う前に、メーガンが遮った。
「やめてよ! 今更なんなの? 言い訳はやめて。今でもお母さんの一番はあの人だって知ってる。とっくの昔に死んだ、あの虐殺者だって」
その瞬間、掌に衝撃が走った。ミカサは手を引っ込め、信じられないものを見るようなメーガンに、首を振った。
「……ごめんなさい」
メーガンは何も言わず、部屋を出ていった。掌には、じんじんと熱い感覚だけが残っていた。
メーガンは、資料室の奥でこめかみにハンカチを当てたまま立ち尽くしていた。いつまでも、こんなところに閉じ籠もっているわけにはいかない。だが、フィッシャーの言葉が耳から離れず、このままでは患者の前に立てる気がしなかった。
背後でノックの音がした。メーガンは唾を飲み込んだ。
「すみません。もう少ししたら行きます」
「……メグ、僕だよ。入っていいかい?」
返事はしなかった。だが、しばらくすると扉の開く音がした。
「怪我は大丈夫かい? ソフィから君がここにいると聞いたんだ」
「……平気。大したことないわ」
メーガンはゆっくりとロバートを振り返った。目は合わせられなかった。
「あなたの言う通り、私はここに残るべきじゃなかった。パラディに戻るべきだった」
ロバートは小さく首を振った。
「とりあえず、手当てをしよう」
「私は馬鹿だった。ここへ来れば何かができる、私にしかできないことがあるって……どこかで、自分は特別なんだって思ってた。……でも、違った。現実は、ここの人たちを救えないばかりか、苦しめてただけだった」
「そんなことはないよ」
「そんなことある。……私、聞いたわ。あなたのご両親が病気で亡くなったってこと。私の父が最先端の治療を受けられて今は元気って言った時、どんな気持ちだったの? 憎いと思わなかった?」
ロバートは一瞬目を細めた。だが、静かに首を振った。
「……メグ、落ち着くんだ」
「私は落ち着いてる。今やっと目が覚めたの。何もかも、あの人の言う通りよ。私は思い上がってた」
「メグ」
「やめて。……あなたにそんな目で見られると、自分が一層みじめに思える。自分が恥ずかしい。全部間違ってた。私が何をしようと無意味なの」
「メグ」
ロバートは一歩近づくと、メーガンの腕を掴んだ。メーガンは言葉を失い、ロバートの青い瞳を見つめた。こめかみから流れた血が、ロバートの白衣に小さな染みを作った。
「……血が出てる。手当てをさせてくれ」
メーガンはゆっくりと腕を下ろした。「ごめんなさい……」
ロバートはメーガンを椅子に座らせると、持ってきていた医療セットで、淡々と傷口を消毒し縫合した。
「他に痛む所はない?」
メーガンは小さく頷いた。
「今日はこのまま休んだ方がいい。……大丈夫。もう夕方だからね。みんなもう帰る頃さ、僕は当直だけど」
ロバートは少し冗談めかして言うと、メーガンにタオルを渡した。
「落ち着くまでここにいたらいいよ。どうせ今日は誰もここには来ない」
ロバートはそのまま立ち去ろうとした。その後ろ姿を見つめ、メーガンは思わず呼び止めた。
「待って」
ロバートは足を止め振り返った。メーガンは立ち上がると、少しだけロバートに近づいた。
「……私のこと、嫌いになった?」
「どうして?」
ロバートは首を傾げた。
「……あなたを傷つけることを言った」
「ああ……少しはね」
「ごめん……。私はいつも余計なことを言ってしまう」
「……否定はできないかも」
ロバートは肩をすくめ、メーガンは俯いた。
「誰だって……後悔することはある。結果なんて誰にも分からない。それに、人間には心がある。たとえ結果が分かっていたとしても、いつも正しいことができるなんて限らないよ」
顔を上げると、ロバートが微かに微笑んだ。
「まあ……人の受け売りだけどね」
メーガンはロバートを見つめた。
「さあ、今日はもう十分頑張った。続きは明日にしよう」
ロバートは、小さく片手を上げると部屋を出ていった。メーガンは、ロバートに渡されたタオルを胸に抱きしめた。
エレンは丘の頂に立ち、これから向かうシガンシナを眺めた。ミカサとアルミンとの最後の会話を思い出していた。
俺の言葉は、未来に何か影響を与えただろうか。ミカサが、俺を背負わずに生きてゆける世界に、少しはなっただろうか。
風が吹き、頭上から葉擦れの音がした。少し離れた場所では、若い兵士がエレンを待っている。ここから離れるのは、名残惜しい気もした。だが、近いうちに自分がこの場所に戻ってくることをエレンは知っていた。
立ち去ろうとした時、不意に風が変わった。見上げると、枝葉が随分高い場所まで茂っている。
「……エレン?」
振り返ると、ペネロピーが胸を上下させて立っていた。エレンはゆっくりと瞬きをした。
ふと足元に目をやると、自分の墓標がそこにあった。真新しい切り花が供えられていた。
「ミカサや、お前たちの未来を見た。……俺がやったことに、意味はあったのか」
風が草木を揺らす音だけがしていた。
やがて、ペネロピーが一歩、エレンに近づいた。彼女は髪に結っていたリボンを解いた。
「わからない。……でも、私はこれまでの日々をなかったことにしたいとは思わない。この世界には、大好きな人たちがいるから」
エレンは、ペネロピーの緑の瞳を見つめた。その瞳がシガンシナの街の方に向けられ、エレンはその視線を追った。
壁のない、美しい街がそこにあった。
エレンは小さく息を吐いた。
「これ、持ってて」
エレンは、ペネロピーの手を見つめた。生成り色のリボンがかけられていた。エレンはそれをそっと指先で受け取った。その時、誰かの声が聞こえた。
「レネ」
――エレン。
エレンは、こちらに向かってくる人影に目を見開いた。
「……ミカサ」
ペネロピーは登ってきた女性に歩み寄った。
「おばあちゃん……ごめんなさい」
「どうして謝るの? ちょっと探しに来ただけよ」
「……でも、ここはおばあちゃんの秘密の場所でしょ?」
エレンは呆然と、そのやりとりを眺めた。ペネロピーが困惑したように、こちらに目を向けた。ミカサには見えていないらしい。エレンは自分の墓標の傍らで、木に背を預けた。
「……あなたにも、さみしい思いをさせてしまったのね。ここへ連れてこなかったのは、あなたの為だと思ってた」
自分の近くにミカサがやってくる気配がした。ミカサは、墓標の前でかがみ込んだ。
「……ここにはね。おばあちゃんの大切な家族が眠っているの」
ミカサの話を、エレンは目を閉じて聞いていた。エレンは唇を噛んでいた。涙が何度も頬を伝った。
やがて、ミカサの話が終わると、穏やかな沈黙が流れた。ミカサとペネロピーの気配だけがあった。
「おばあちゃん。あのね、私……」
ペネロピーは思い出したように口を開いたが、そこで言葉を止めた。
エレンはゆっくりと瞬きをした。
「……どうしたの?」
風が吹き、切り花から花弁が一枚離れた。
「あれ……何を言おうとしてたんだっけ」
轟音。砂埃。火薬。血の匂い。
それらが一瞬で消え去った。
濁流のように、大量の記憶が流れ込む。自分のものではない記憶。――遙か未来の、誰かの記憶。
不安気な少女の瞳があった。
誰かは、その少女を抱きしめた。
小さな鼓動。温もり。
エレンは小さく息を吐いた。
もう、この記憶は必要ない。
そして、自分自身と少女から全ての記憶を消し去った。