『葛城』をやっています。VTuberってなんですか? 作:とくめい
今までの不調が嘘のように、今朝の結衣の体調はすごく良かった。
マネージャーの木下からは「今日も休むように」と強く止められたが、結衣はどうしてもスタジオへ行くと譲らなかった。
体調はもう大丈夫だし、気持ちのほうも切り替えられている。何より、ずっとリスナーを待たせてしまっていた。
今日こそ、元気な声で復帰配信をしなければ。
家の機材は休む前から、配信のときに限ってトラッカーがあらぬ方向を向いたり、妙なノイズを拾ったりしていた。だから今日は事務所のブースを借りて、スタッフのいるところで配信することにしてある。
洗面所の鏡に向かって軽くメイクを済ませ、いつもより少しだけ明るい色の口紅を選んだ。
カバンを手に玄関へ向かおうとした結衣は、廊下の途中でふと足を止める。
さっきここを通ったときには何ともなかったはずのフローリングに、じっとりと水が広がっていた。靴下の裏が、ひたりと冷たくなる。
「え……?」
どこから漏れているのか辿ってみると、キッチンの冷蔵庫の下から染み出しているらしい。
継ぎ目のあたりから、ジワジワと、少しずつ広がっていく。
「うそ、買ったばかりなのに……保証、効くよね。あとで連絡しないと」
やっと原因不明の体調不良から抜け出せたというのに、今度は家電の故障か。
結衣はため息をつくと、シンク下から雑巾を引っ張り出して水を拭き取り、冷え切った指先を洗面所で洗い流した。石鹸の香りが、ようやく普段どおりの朝を思い出させてくれる。
そして、気を取り直すようにマンションの玄関扉を開けた。
「よし。行ってきます」
パタン、と重い金属扉が閉まる。
主のいなくなった部屋に、冷蔵庫の低い唸りだけが残った。
――ピキッ。
洗面所の鏡の真ん中に、一本の細いヒビが入った。
放射状に広がるでもなく、ただ縦に一本。刃物で引いたように真っ直ぐな線だった。
同時に、さっき綺麗に拭き取ったはずの冷蔵庫の下から、再び透明な水がじわじわと溢れ出す。
今度は誰にも拭き取られることなく、水はフローリングの木目をゆっくりと辿りながら、玄関のほうへ這っていった。
◆
仄暗い和室。線香から立ち昇る煙に、姉が吹かす細い煙草の紫煙が混ざり合う。
『戒』と、姉は生徒に呼びかけるように俺の名を呼んだ。
『私たちが怪異を祓う時、なぜわざわざ【原因】を探るのか、分かるかしら? 憑りつかれた人間の身体から、怪異を力任せに引き剥がしたほうが手っ取り早いのに』
まだ葛城の家にいた頃の記憶だ。
縁側に腰を下ろした姉は、庭のほうへ足を投げ出したまま、気怠げに煙をくゆらせ、幼い俺を冷ややかに見下ろしていた。
『……それだと、また別の人間が狙われるから、ですか』
蛇に睨まれた蛙の心持ちで、俺は答える。
『半分正解で、半分間違いね。本当の理由は、「それだと、すぐにまた同じ穴から湧いてくるから」よ』
姉は細い指先で煙草の灰を落とし、優雅で、どこか酷薄な笑みを浮かべた。
『例えば、怪異が親しい人間の声や姿を真似る理由。あれはね、相手を油断させるためだけじゃない。相手自身の手で、内側から鍵を開けさせるためよ。……家族の声で「ただいま」と呼ばれたら、人は疑いもせずに鍵を開けて、「おかえり」と招き入れてしまうでしょう?』
『自分から……』
『ええ。「名を呼んで、返事をさせる」「問いかけて、同意を得る」。怪異は本来、存在しない。存在しないものは、こちら側に手を出せない。でもね、怪異の言葉に返事をして、誘いに【同意】してしまったら話は別。存在しなかったはずのそれらは、あっという間にこちら側へ越えてくる。死と生の境目は破られて、夢の中にいたはずの呪いが溢れ出すの』
姉はそこで言葉を区切り、ふうっと細い煙を吐いた。
白い糸のような煙が、障子から差し込む光の筋に触れて、ゆらりと形を崩す。
『ただの怨念や浮遊霊には、自我も知恵もないわ。けれど怪異の中には、人の言葉を巧みに操って、罠を張り、自分からこちら側へ手を伸ばしてくるモノたちもいる。そういう存在を何と呼ぶか、分かるかしら?』
俺が答えられずにいると、姉はそのまま続けた。
『ただの悪霊じゃない。神仏から見ればただの巨大な呪いだけれど、人間からすればもう神と変わらない――【祟り神】と呼ばれるものね。そんな格のモノをいくら祓ったところで、また別の呪いが湧いて出るだけ。確実に祓いたいなら……』
今度は俺が、姉の言葉を引き取った。
『……【根】に辿り着いて、それを絶つ必要がある』
『その通り』と姉は快活に笑った。『……じゃあ、戒。神にすら届くその【根】の正体は、何だと思う?』
考えようとした俺を、姉は掌を向けて制した。そして人差し指で天を指し、それをゆっくりと自分の唇の前まで下ろしてくる。
『どんな怪異も、元を辿れば必ず人間から生まれるの。妬み、嫉み、執着。そういう「底なしの悪意」が呪いの形を作って、やがて怪異になる。……行き着く先は、結局のところ「人間の業」なのよ。――だからこそ、気をつけて』
射抜くような姉の視線が、俺を捉えた。
縁側から這い上がってきた冷気が、部屋の空気をぞわりと冷やす。立ち昇っていた線香の煙までが、その場で動きを止めたように見えた。
『怪異は、いつだって理不尽よ。戒、たとえあなたが原因を祓ったと思っても……残酷な結末を止められるとは限らない』
姉は遠くを見るように目を細めた。吐いた煙が、ほどけながら天井へ消えていく。
『――私でさえもね。本当に、ままならないわ』
線香と煙草の匂いまで思い出せる記憶の中で、姉は最後にそう付け加えた。
◆
駅前の喧騒から逃れるように入った喫茶店は、朝だというのに妙に薄暗かった。
天井の照明は半分ほどしか点いておらず、窓際には朝の陽が差しているはずなのに、二人の座る一角だけが、その光から取り残されたように冷え冷えとしている。
磨き込まれた木のテーブルの上で、藤沢の頼んだコーヒーだけがゆっくりと湯気を上げていた。
葛城戒はスマートフォンを机の端に置き、藤沢の話を黙って聞いている。
相槌は少なく、視線は一度も藤沢の顔に向かない。終始、藤沢の肩越しの、何もないはずの空間を見ていた。
藤沢はそれとなく、この青年の素性を尋ねてみた。けれど戒は、ひどく面倒くさそうに視線を逸らしたまま答えた。
「……霊能者とか、そういうのでいいです。シンプルで分かりやすいでしょう?」
あっさりはぐらかされ、藤沢はそれ以上の追及を諦めた。
藤沢が口を噤むと、戒は脱線はここまでだとばかりに、先ほどまで藤沢が必死に説明していた事業内容の話へ戻す。
「要するに、画面にその『あばたー』という架空の絵を映して、何千人もの人間を相手に喋ったり遊んだりしてみせる。しかし、チケットや物を売るわけじゃない。どこから金が出るんです?」
藤沢は思わず苦笑しかけて、すぐに笑みを引っ込めた。
からかっている様子がまるでない。この青年は本気で、配信というものに一度も触れずに生きてきたのだ。
「戒さん。ミーチューブくらいは見たことあるでしょう?」
「……ありますよ。ヒカ〇ンとか、ですよね?」
「ええ、まあ……本当にそれ以外は全くご存じないんですね」
藤沢はカップの縁を指でなぞりながら、少しだけ熱を込めて言った。
「基本は、視聴者からの投げ銭……直接の支援金と、広告収入です。ただ、どれだけ技術を使って可愛い絵を用意しても、それだけじゃ誰も見てくれません。『中』にいる生身の人間が、自分の声や感情や時間を注ぎ込んで、ファンと一緒にキャラクターを育てていくんです。彼女たちにとってあれは、ネットの向こう側で生きる、もう一つの大事な『体』なんですよ」
戒は紅茶に砂糖を落とし、スプーンで混ぜながら低く唸った。かちゃりと、カップの内側で小さな音が鳴る。
「架空の姿を、もう一つの体にする。そこに生きた感情を注ぎ込んで、見返りを求めない大勢から布施を集める……なるほど。仕組みとしては、
「神輿……」
「藤沢さんのその説明で、一つ腑に落ちたことがあります」
戒は低い声で、話を本筋へ戻した。
「藤沢さんが拾ってきた怪異が、なぜあなた自身を『本命』として喰おうとしなかったのか、という疑問です」
ごくり、と藤沢の喉が鳴った。
出勤前らしいスーツ姿の男が二人、窓際でモーニングのトーストをかじっている。カウンターの奥では、店員が洗ったカップを布巾で拭いていた。ラジオからは古い歌謡曲が小さく流れている。
そんなありふれた朝の風景の中で、戒と藤沢の座る席だけが、透明な膜で外から隔てられているようだった。
「人の代わりに呪いや災いを引き受けさせる人形を、
「つまり、うちのタレントと視聴者の関係が、怪異に利用されていると?」
「おそらくは。ただ、それだけなら、アニメや漫画の人気キャラクターでも同じことが起きるはずです。そうならない理由は一つしかない」
戒は紅茶のカップを置き、初めて藤沢の目をまっすぐに見た。
「アニメのキャラクターは、画面の向こうから視聴者の名前を呼んだりしない。コメントに返事もしない。……けれど、あなたの会社のタレントたちは、それをやるんでしょう」
「……ええ。そこが売りですから」
「名を呼んで、返事をさせる。怪異というのは本来、存在しないものです。存在しないものは、こちら側に手出しができない。ただし、人がその言葉に返事をしてしまえば話は別だ。返事をするということは、相手がそこに居ると認めるということですから」
戒は指先で、カップの縁をなぞった。
「認められた瞬間、居なかったはずのものが、居ることになる。怪異はその一瞬をずっと待っている。……何万人もの人間が、毎晩、顔も知らない相手と名前を呼び合っている。奴らからすれば、これ以上都合のいい場所はない」
藤沢は絶句した。
ファンを喜ばせるために、自分たちが手をかけて作り上げてきた居場所。あの温かいやりとりの一つ一つが、怪異をこちら側へ招き入れる扉になっていた。そう突き付けられたのだ。
「こちら側に出てこられただけでは、奴らは満足しません。怪異にとっていちばんのご馳走は、人間の恐怖や不安です」
「じゃあ、トラッカーが誰もいない方向を向くのも、リスナーが見たっていう不気味な影も……!」
「事務所そのものに、呪いが一本の木のように根を張っていると思ってください。枝が伸びすぎて、画面の中だけじゃ収まらなくなった。その分が、現実のほうへ漏れ出しているんでしょう。昨日までのあなたに張り付いていたのは、その木から伸びた『枝葉』です」
戒は冷めた紅茶を一口すすった。
「昨日、俺がその枝葉を切った。その影響で、事務所中に伸びていた枝も一時的に緩んだ。だから今朝は、タレントたちの体調も少しはマシになっているはずです」
「ええ……確かに、今朝の本人はすこぶる元気そうでした。私のほうは、昨日祓っていただいたのに、まだ何か背中にいるというのに」
戒はその言葉に、わずかに眉をひそめた。
「そこです。枝葉を切ったとはいえ、怪異に直接狙われている『本命』の彼女が、巻き込まれただけのあなたより軽いというのは妙ですね。……普通なら、逆のはずだが」
「戒さん?」
戒はそこで口を噤んだ。
枝葉と、根。事務所に根を張る一本の木。
自分の立てた見立てで、事務所に起きていることはひと通り説明がつくはずだった。現にここまでは、藤沢の話とも、症状の重さとも噛み合っている。
それなのに、彼女の体調だけが、どうしてもその見立ての中に収まらない。
手元に並べた札のどこかに、一枚だけ足りない場所がある。そんな感触だけが残っていた。
その一枚が何なのか、いくら考えても掴めないまま、戒は短く首を振った。
「……まあいい。とにかく、いくら枝葉を切っても、大元の『根』を引きずり出さないことには終わらない。今すぐ、そのタレント本人に会わせてください」
それまで戒の話に狼狽えるばかりだった藤沢が、その一言を聞いた瞬間、奥歯を強く噛み締めた。
戒を疑っているわけではない。けれど、にわかには信じがたいオカルトの話に、会社とタレントの命運をまるごと預けられるほど、完全に信じ切れているわけでもなかった。
「……本来なら、それは絶対にお断りしているところです。彼女たちの素顔を……『演者』を外部の人間に会わせるなんて、この業界では最大のタブーですから」
「……」
「もし彼女の情報が漏れて何かあれば、あの子の人生が壊れます。事務所の信用も地に落ちる。身元の保証も、秘密保持の契約もないあなたに会わせるなんて、社長として到底首を縦には……振れません、が……」
藤沢はそこで、苦しげに言葉を詰まらせた。
昨日、自分に憑いていたものを祓ってもらった。この男の力が本物なのは分かっているし、命の恩人だとも思っている。
だが、それとこれとは話が別だった。
テーブルの下で、藤沢の膝が小刻みに揺れている。コーヒーに一度も口をつけていないことに、本人は気づいてもいなかった。
保身ではない。守ると決めた子を、自分の判断で危険に晒すかもしれない。その恐れが、首を縦に振らせずにいた。
戒はシガーケースを指先で弄びながら、淡々と言った。
「怪異がこちら側で肉体を得て――受肉して、充分な力をつけたら、一体何が起こるか。今までのように悪夢にうなされたり、体調を崩したりする程度では済みません。楽に死ねればまだましなほうで、この世には死ぬよりずっと恐ろしいことがいくらでもある。そしてそれは、周りにも広がっていく。……でも、あなたは社員とタレントを守る立派な社長さんだ。俺はただ通りかかっただけの人間です。無理強いするつもりも、その筋合いもありませんよ」
戒はシガーケースを閉じ、藤沢をまっすぐに見た。
「だから、藤沢さんが選んでください。秘密を守り通して呪いに怯えて終わるか、昨日会ったばかりの俺を信じて助かるか」
逃げ場のない二択だった。
「俺は、家を出た半端者です。それでも、葛城家の人間であることに変わりはない。口の軽さは死を意味します。生きていくための最低限の金は頂きますが、無闇に他人の秘密を暴いたりもしない」
「──それもまた、葛城をやるということですので」
戒はそう告げると、あとはご自由にとでも言うように黙ってしまった。
藤沢は、冷めていくコーヒーの表面をじっと見つめた。
事務所の信用も、あの子の顔も、社員たちの生活も、どれ一つ手放せないまま、頭の中をぐるぐると回っている。
「……昨日のことがなければ、絶対に信じませんでした」
ややあって、藤沢は絞り出すように言った。
「それでも、今はあなたを頼るしかない。彼女たちを守れる可能性があるなら、私は社長として、その可能性を選びます」
戒が、頬をすっと緩めた。
「賢明なご判断だと思います」
「ただ、戒さん。彼女には、あなたを霊能者とは伝えられません」
でしょうね、と戒は頷く。
「怯えますし、何より説明が難しすぎる。機材トラブルの調査という名目にします。戒さんはその専門家、ということで」
「……なるほど」
戒はにやりと笑った。
「分かりました。ではそうしましょう。そちらの世界の作法は、藤沢さんに任せますよ」
◆
喫茶店を出てから、戒はほとんど口を開かなかった。
駅前の人波を抜け、オフィス街へ入る。ちょうど出社の時間帯で、歩道は急ぎ足の会社員たちで埋まっているはずだった。
それなのに、事務所の入っている雑居ビルが近づくにつれ、周りの音が一枚ずつ剥がされていくように遠のいていく。
車のクラクションも、すれ違う人の話し声も、水の中で聞いているように輪郭がぼやけていた。
「……ここです」
藤沢が足を止めたのは、駅から少し離れた一角に建つ、古いオフィスビルの前だった。
戒はその外観を下から上まで眺め、目を細める。
「綺麗ですね」
「え?」
「いや。汚れていないなと」
外壁には雨垂れの跡が黒く筋を引き、一階のテナントは半分が空いたままだ。お世辞にも綺麗な建物とは言えない。
何を言われているのか分からず、藤沢は返事に詰まった。
そのとき、視界の隅で何かが動いた。
エントランス脇の植え込みの陰から、黒くて長い脚がゆっくりと伸びてくる。続いて、掌よりも大きな胴体。
昨日、居酒屋で藤沢の足元にいたのと同じ、あの蜘蛛だった。
「……っ、また」
昨日、戒の煙を吸ってからというもの、見えなかったはずのものが、時々こうして目の端に映るようになっていた。
「ああ、そいつですか」
戒は一瞥しただけで、驚いた様子もない。
「
「気にするなと言われても……。何なんですか、それは」
「さあ」
戒は肩をすくめた。
「昔からうろついてるってだけです。少なくとも、あなたを食う側じゃない」
説明になっていない。
それでも戒がまるで意に介さないので、藤沢も追及を諦めるしかなかった。
蜘蛛のほうも二人には目もくれず、植え込みの奥へ音もなく消えていく。
戒はそれきり何も言わず、先にビルの中へ入っていった。
エレベーターの扉が閉まる直前、藤沢は、背後のガラス扉に何かが映った気がして振り返った。
星を散らしたような青い瞳。白い髪。笑っているのか、泣いているのか分からない口元。
けれど扉の向こうには、薄暗いアスファルトが続いているだけだった。
事務所の扉を開けると、見慣れた空間が広がっていた。
壁際に並んだデスク、点けっぱなしのモニター、書類の束が押し込まれた棚、そして奥の収録ブース。何も変わらない。
変わらないはずなのに、普段は気にも留めない空調の音だけが、やけに大きく耳についた。
「藤沢さん。今日来ているそのタレントですが、売れているんですか?」
戒が歩きながら尋ねる。
「ええ。一期生としてデビューした三人のうちの一人です。お恥ずかしい話ですが、会社の売り上げのほとんどを、あの子一人が支えています。事実上、うちの稼ぎ頭でして」
「なるほど」
戒はそれだけ言うと、また口を閉ざした。
いちばん奥の防音扉の前まで来たところで、戒の足がぴたりと止まる。
「……どうしました?」
「いえ」
戒は扉そのものではなく、その向こう側を透かし見ているようだった。
「藤沢さん。開ける前に、一つだけ」
誰かに聞かれるのを警戒するように、戒は声を落とした。
「はい」
「中で、モニターや機材にあり得ないモノが映っても、普段どおりに接してください。アレに、なるべくこっちの不安を悟らせたくない」
藤沢は、ごくりと唾を呑んで頷いた。
◆
「結衣ちゃん、お疲れ様。今ちょっといいかな」
ノックをしてから、収録ブースの扉を開ける。
分厚い防音扉の内側は、廊下よりもさらに空気が重かった。壁一面の吸音材が音を吸い込んでしまうせいで、自分の声すら他人のもののように聞こえる。
それに、妙な匂いがした。
雨上がりの排水溝のような、湿った、どこか生臭い水の匂い。空調は動いているのに、それがブースの中にだけ澱んでいる。
薄暗く光るモニターの前に座っていた少女が、ゆっくりとこちらを振り返った。
大きなゲーミングチェアにすっぽりと収まる小柄な体。大きめのパーカーを着込み、顔の半分を黒いマスクで覆っている。
目の下には、何日も眠れていない人間特有の薄い影が落ちていた。
だが、藤沢が最初に目を奪われたのは、彼女本人ではなかった。
結衣の背後の壁に、影が落ちている。
モニターの光を受けてできた、彼女の影だ。それだけのはずだった。
けれど、その影は椅子に座った小柄な少女のものにしては、あまりにも大きかった。肩のあたりから上が、天井に届くほど伸び上がっている。
そして、結衣が首を動かしていないのに、影の頭だけが、ゆっくりとこちらへ傾いた。
藤沢の喉が、ひゅっと鳴った。
これが、戒の言っていた『根』なのか。
横目で戒をうかがうと、戒もほんの一瞬だけ表情を強張らせ、小さく息を呑んでいた。
戒の忠告を思い出し、藤沢は努めて明るく口を開く。
「こちら、さっきメッセージで伝えた、機材トラブルの専門家の戒さんだ。戒さん、こちらが先ほどお話しした『宵月ましろ』の……結衣ちゃんです」
少女が、椅子の上から小さく頭を下げる。
戒はすぐに表情を取り繕い、軽く会釈を返した。
「……初めまして。名前は、戒。『葛城』をやっています」
短い名乗りだった。
ただの挨拶ではないことを、藤沢は道中で戒から聞かされていた。『葛城』の名を聞いた怪異がどう反応するかを見る、最初の一手なのだという。
少女は「かつらぎ……?」と不思議そうに小首を傾げるだけだった。
背後の影も、逃げるどころかピクリとも動かない。
戒は静かに息を吐き、懐からシガーケースと革の小袋を取り出した。
「一応確認しますが、ここは禁煙ですよね?」
結衣に向けた問いだったが、彼女が答えるより早く藤沢が止めに入った。
「当たり前ですよ! 吸うなら建物の外へ。火災報知器でも鳴ったら大変です」
事務所でボヤ騒ぎでも起きれば、所属している子たちの評判にまで傷がつく。この業界では、評判がすべてだ。
「……ですよね」
「火は絶対にNGですからね?」
必死に両手を振る藤沢を見て、戒は「分かりました」とあっさり引き下がり、シガーケースを上着のポケットにしまった。駄目元で聞いてみただけらしい。
藤沢は胃が痛むのを感じながら冷や汗を拭った。何も知らない結衣からすれば、目の前の男はただの不審者でしかない。
長袖で刺青こそ隠れているものの、気怠げな目つきも、まとっている空気も、どう見てもカタギのそれではない。そんな男が密室でいきなりタバコらしきものを取り出し、火を使えるかと訊いてきたのだ。
結衣は完全に引いてしまい、パーカーの袖口をぎゅっと握り直すと、椅子ごと半歩ぶん戒から距離を取った。
「……社長。この人、本当に専門家なんですか?」
「もちろんだよ結衣ちゃん。ちょっとやり方が古風なだけで、腕は確かだから……」
藤沢が必死に取り繕う横で、戒は結衣の反応など気にも留めず、革の小袋から手のひらサイズの束を取り出した。
神道、仏教、陰陽道と、さまざまな宗派の護符を一枚ずつラミネートし、十枚ひとまとめにリングで綴じたものだ。
「駄目なら仕方ない。煙を使う手は諦めて、このままトラッカーの異常を調べます。さっき藤沢さんから聞いたんですが、誰もいない方向を向くカメラの誤作動があるとか」
言いながら、戒はその奇妙な札の束を掲げてみせた。
「作業道具ですよ。こういう複雑な図形や文字を見せると、機械が人の顔と勘違いして、認識エラーを起こすことがある。……そうですよね、藤沢さん?」
戒がしれっと横目で合図を送ると、藤沢は一瞬ビクッとしてから、慌てて口裏を合わせた。
「そうなんだ結衣ちゃん。トラッカーの顔認識ソフトは、特定の複雑な模様を誤認することがあって……これはその、調査用のテストらしいんだ」
「……テスト」
結衣はもう、訝しむ目を隠そうともしなかった。
戒の手にある札の束を、じっと睨みつける。
「それ……どう見ても筆文字が書いてありますけど。お札か何かにしか見えないし……」
無理もない反応だった。それでもきつい言葉を選ばずにいるのは、社長が同席しているからだろう。
「それはだな、光学的なエラーを直接引き起こすための、特殊な図形で……」
当の藤沢がしどろもどろになっているのを見て、結衣は小さく溜息をついた。
「……大丈夫です」
「結衣ちゃん?」
「正直、全然納得してませんし、すごく胡散臭いです。でも……社長がそこまで言うなら、今は信じます。せっかく体調も良くなったんです。機材のバグさえ直るなら、もうやり方はなんだっていいんです。早く配信を再開したいので。……テスト、手短にお願いします」
早口でそう言い切った横顔には、得体の知れない男への警戒よりも、ファンを待たせている焦りのほうが濃く出ていた。
藤沢が内心で胸を撫で下ろす横で、戒は一枚目の護符を捲り、結衣の顔を映しているトラッカー用の小さなカメラへ向けて、見せつけるようにかざした。
結衣には、変な模様が描かれたカードにしか見えていないはずだ。
けれど藤沢には、札を持つ戒の指先がわずかに強張っているのが分かった。
「……どうですか。画面のトラッカーの動きは、おかしくないですか?」
結衣は確認用のモニターに目をやり、小さく首を傾げる。
「はい。緑色の枠は、普通に私の顔を追ってます。エラーも出てないです」
「なるほど。では、次です」
二枚目は、一般的な神社のお祓いの札だった。カメラにかざしても、画面の中の緑の枠は結衣の顔を追い続けている。変化はない。
三枚目、密教の軽い魔除け。これも反応はなかった。
「あの、まだかかりますか?」
「もう少しです」
結衣が椅子の上で身じろぎする。座り直すたび、ゲーミングチェアが小さく軋んだ。
ここまでは予想どおりだった。
戒の指先が、四枚目の護符を捲る。
『九字護身法』と『急急如律令』が朱墨で記された、本格的な陰陽道の呪符。素人目にもそれと分かるほど厳めしい一枚で、少なくとも見て分かる程度の反応くらいは引き出せるはずだった。
しかし、トラッカーは何事もなく結衣を映し続けている。
壁の影も、ピクリとも動かない。
一歩も退かないどころか、身構えてすらいなかった。
常に無表情だった戒の顔が、ここで初めてわずかに曇る。
藤沢は、自分の手のひらがじっとり汗ばんでいることに気づいた。拭うことすらできなかった。
五枚目。
仏教で最も強い破魔の力を持つとされる、『不動明王の梵字』。
これを突きつけられて平然としていられる怪異など、そうはいない。そのはずだった。
戒が札をかざす。
部屋の空気は、何ひとつ変わらなかった。
札にも、壁の影にも、反応はない。
代わりに、デスクの隅に置かれていたマイクのランプが、一瞬だけ赤く光った。
誰も触れていない。電源すら落としてあるはずのマイクだった。
「今、何か……」
藤沢が呟くと、戒が鋭い視線だけで制した。
「不味いな」
これまで聞いたどの言葉よりも低く、わずかに焦りの混じった声だった。
不動明王の梵字すら効かない。いや、効かないのではない。動じることすらしていないのだ。
葛城の名を聞いても、神仏の札を突きつけても、身じろぎ一つしない。そういうものは、たいていこちらを上から見下ろしている。怖がる必要がないから、怖がらないのだ。
一体どれほどの格の祟り神なのか。今の戒には、そう考えるより他になかった。
結衣が、小さく肩を震わせ始める。
「……寒い」
「結衣ちゃん?」
「いえ、大丈夫です。ちょっと、冷えたみたいで……」
そう言って笑おうとしたが、結衣の目はモニターの一点に吸い寄せられたままだった。
電源の入っていない、ただの黒い画面。
何も映っていないはずのそこを、彼女だけが、瞬きもせずに見つめている。
藤沢もつられて、その画面を覗き込んだ。
黒いガラスに、ブースの中が映り込んでいる。椅子に座る結衣。立ち尽くす自分と戒。
そして、結衣の真後ろに、もう一人。
藤沢は反射的に振り返った。
誰もいない。壁と、あの大きすぎる影があるだけだ。
画面へ視線を戻すと、そこにはもう、自分たち三人しか映っていなかった。
――この子に対する執着が、強すぎる。
戒は奥歯を噛んだ。このまま放っておけば、彼女は遠からず喰われる。
戒は六枚目の護符に指をかけた。
それは、神仏の力に頼る札ではない。葛城の家が外法として使う、怪異の核を無理やり引きずり出すための劇薬だった。
――忌み札『
大きな危険はある。それでも、使うしかない。
その札を引き抜こうとした、まさにその瞬間だった。
「あの……もう、行ってもいいですか?」
結衣が、ひどく申し訳なさそうに言った。
「体調不良でお休みして、たくさんの人に迷惑をかけちゃったから……早く配信して、埋め合わせがしたくて……」
こんなときまで、この子はファンのことを考えている。
藤沢は、胸の奥を締めつけられる思いでその横顔を見つめた。
だが戒だけは、まったく別のものを見ていた。
結衣の背後で、影がゆっくりと膨らみ始めている。
彼女のたった今の言葉を、美味そうに味わっているかのようだった。
バチンッ!
照明が弾けるように明滅した。
「きゃっ……!」
結衣が小さく悲鳴を上げる。
同時に、デスクに並んだモニターが一斉に砂嵐へ変わった。
ジジッ、ジジジジッ……。
スピーカーから、耳の奥をざらつかせるノイズが漏れ出す。その奥に、誰かの笑い声のようなものが混じっていた。
戒の手の中で、忌み札の端が、火も点けていないのに黒く焦げていく。
「……藤沢さん。下がって」
「戒さん、これは……」
「『根』のお出ましです。こいつは――」
戒が言いかけた瞬間、バチン、バチンと、ブースの照明が狂ったように点滅を繰り返した。
肌をじりじりと焼くような、異常なまでの圧。
防音材に囲まれた狭い部屋の空気が、急に水のような重さを持ってのしかかってくる。息を吸っても、肺の半分までしか入ってこない。
あの湿った水の匂いが、一段と濃くなった。
『ただの悪霊じゃない。神仏から見ればただの巨大な呪いだけれど、人間からすればもう神と変わらない――【祟り神】と呼ばれるものね』
戒の頭の中に、姉の声が蘇る。
どこからともなく、クスクスと、少女の笑い声が響いた。
「……そうか。騒がないはずだ」
葛城の名を聞いても騒がない。札を突きつけても逃げない。
それは、こちらを恐れる理由がないからだ。葛城が何をしようと、もう自分の勝ちは決まっている。そう分かっているからだ。
その余裕の意味を悟った瞬間、戒の背筋を冷たい汗が伝った。
直後、分厚い防音扉が勢いよく開いた。
「しゃ、社長……」
飛び込んできたのは、マネージャーの木下だった。タブレットを胸元で握りしめ、血の気の引いた顔で目を見開いている。
「どうした? 呼び出しのランプも点けずに――」
藤沢が咎めるが、木下にはその声が聞こえていないようだった。機材の前に座る結衣と、自分の手元のタブレットを、何度も交互に指差す。
「あ、その、結衣ちゃんのチャンネルで、配信が……」
「配信……?」
「いま、勝手に始まってるんです……」
戒は息を呑んだ。首筋を、冷たいものが撫でていく。
木下が震える指で、タブレットの画面をこちらへ向けた。
そこには確かに、星を散らしたような青い瞳のアバターが映っていた。
宵月ましろ。
結衣が演じているはずの、彼女のもう一つの姿。
けれど結衣本人は、今、戒たちの目の前にいる。
「え……?」
結衣の声が、恐怖で掠れた。
「なん、で? 私、ここにいるのに……?」
アーカイブではない。今、この瞬間に動いているアバターが、画面の向こうの大勢の視聴者に向かって、にっこりと笑いかけた。
直後、スピーカーから愛らしい少女の声が響き渡る。
結衣の喉から出るものと寸分違わない、完璧な『ましろ』の声だった。
『こんましろー! 急に配信お休みしてて、本当にごめんねーっ! 告知もなしにいきなり配信始めちゃってびっくりしたよね? ごめんね!』
画面の中の『ましろ』が、申し訳なさそうに両手を合わせ、大げさに首をすくめてみせる。
『でもね、もう今は元気! あっ、一緒にお休みしてる他の2人……めるちゃんとシオンちゃんのことも、みんな心配だよね。でも大丈夫、すぐによくなる!』
『ましろ』はカメラに向かって元気いっぱいにウインクし、それから、少しだけ声を潜めた。
『てかさー! 休んでる間に、色々怖いことがあってーーーー』
『今日はみんなに聞いてほしいこと、沢山あるんだよねっ』
星を散りばめた青い瞳が、画面越しに何万もの視聴者を――いや、この部屋にいる戒たちを、真っ直ぐに見据えて嗤った気がした。
『だから!』
――――今日もいっぱいお話ししよっ?