『葛城』をやっています。VTuberってなんですか?   作:とくめい

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2話

今までの不調が嘘のように、今朝の結衣の体調はすごく良かった。

 

マネージャーの木下からは「今日も休むように」と強く止められたが、結衣はどうしてもスタジオへ行くと譲らなかった。

 

体調はもう大丈夫だし、気持ちのほうも切り替えられている。何より、ずっとリスナーを待たせてしまっていた。

 

今日こそ、元気な声で復帰配信をしなければ。

 

家の機材は休む前から、配信のときに限ってトラッカーがあらぬ方向を向いたり、妙なノイズを拾ったりしていた。だから今日は事務所のブースを借りて、スタッフのいるところで配信することにしてある。

 

洗面所の鏡に向かって軽くメイクを済ませ、いつもより少しだけ明るい色の口紅を選んだ。

 

カバンを手に玄関へ向かおうとした結衣は、廊下の途中でふと足を止める。

 

さっきここを通ったときには何ともなかったはずのフローリングに、じっとりと水が広がっていた。靴下の裏が、ひたりと冷たくなる。

 

 

「え……?」

 

 

どこから漏れているのか辿ってみると、キッチンの冷蔵庫の下から染み出しているらしい。

 

継ぎ目のあたりから、ジワジワと、少しずつ広がっていく。

 

 

「うそ、買ったばかりなのに……保証、効くよね。あとで連絡しないと」

 

 

やっと原因不明の体調不良から抜け出せたというのに、今度は家電の故障か。

 

結衣はため息をつくと、シンク下から雑巾を引っ張り出して水を拭き取り、冷え切った指先を洗面所で洗い流した。石鹸の香りが、ようやく普段どおりの朝を思い出させてくれる。

 

そして、気を取り直すようにマンションの玄関扉を開けた。

 

 

「よし。行ってきます」

 

 

パタン、と重い金属扉が閉まる。

 

主のいなくなった部屋に、冷蔵庫の低い唸りだけが残った。

 

 

――ピキッ。

 

 

洗面所の鏡の真ん中に、一本の細いヒビが入った。

 

放射状に広がるでもなく、ただ縦に一本。刃物で引いたように真っ直ぐな線だった。

 

同時に、さっき綺麗に拭き取ったはずの冷蔵庫の下から、再び透明な水がじわじわと溢れ出す。

 

今度は誰にも拭き取られることなく、水はフローリングの木目をゆっくりと辿りながら、玄関のほうへ這っていった。

 

 

◆

 

 

仄暗い和室。線香から立ち昇る煙に、姉が吹かす細い煙草の紫煙が混ざり合う。

 

『戒』と、姉は生徒に呼びかけるように俺の名を呼んだ。

 

『私たちが怪異を祓う時、なぜわざわざ【原因】を探るのか、分かるかしら? 憑りつかれた人間の身体から、怪異を力任せに引き剥がしたほうが手っ取り早いのに』

 

まだ葛城の家にいた頃の記憶だ。

 

縁側に腰を下ろした姉は、庭のほうへ足を投げ出したまま、気怠げに煙をくゆらせ、幼い俺を冷ややかに見下ろしていた。

 

 

『……それだと、また別の人間が狙われるから、ですか』

 

 

蛇に睨まれた蛙の心持ちで、俺は答える。

 

 

『半分正解で、半分間違いね。本当の理由は、「それだと、すぐにまた同じ穴から湧いてくるから」よ』

 

 

姉は細い指先で煙草の灰を落とし、優雅で、どこか酷薄な笑みを浮かべた。

 

 

『例えば、怪異が親しい人間の声や姿を真似る理由。あれはね、相手を油断させるためだけじゃない。相手自身の手で、内側から鍵を開けさせるためよ。……家族の声で「ただいま」と呼ばれたら、人は疑いもせずに鍵を開けて、「おかえり」と招き入れてしまうでしょう?』

 

『自分から……』

 

『ええ。「名を呼んで、返事をさせる」「問いかけて、同意を得る」。怪異は本来、存在しない。存在しないものは、こちら側に手を出せない。でもね、怪異の言葉に返事をして、誘いに【同意】してしまったら話は別。存在しなかったはずのそれらは、あっという間にこちら側へ越えてくる。死と生の境目は破られて、夢の中にいたはずの呪いが溢れ出すの』

 

 

姉はそこで言葉を区切り、ふうっと細い煙を吐いた。

 

白い糸のような煙が、障子から差し込む光の筋に触れて、ゆらりと形を崩す。

 

 

『ただの怨念や浮遊霊には、自我も知恵もないわ。けれど怪異の中には、人の言葉を巧みに操って、罠を張り、自分からこちら側へ手を伸ばしてくるモノたちもいる。そういう存在を何と呼ぶか、分かるかしら?』

 

 

俺が答えられずにいると、姉はそのまま続けた。

 

 

『ただの悪霊じゃない。神仏から見ればただの巨大な呪いだけれど、人間からすればもう神と変わらない――【祟り神】と呼ばれるものね。そんな格のモノをいくら祓ったところで、また別の呪いが湧いて出るだけ。確実に祓いたいなら……』

 

 

今度は俺が、姉の言葉を引き取った。

 

 

『……【根】に辿り着いて、それを絶つ必要がある』

 

 

『その通り』と姉は快活に笑った。『……じゃあ、戒。神にすら届くその【根】の正体は、何だと思う?』

 

 

考えようとした俺を、姉は掌を向けて制した。そして人差し指で天を指し、それをゆっくりと自分の唇の前まで下ろしてくる。

 

 

『どんな怪異も、元を辿れば必ず人間から生まれるの。妬み、嫉み、執着。そういう「底なしの悪意」が呪いの形を作って、やがて怪異になる。……行き着く先は、結局のところ「人間の業」なのよ。――だからこそ、気をつけて』

 

 

射抜くような姉の視線が、俺を捉えた。

 

縁側から這い上がってきた冷気が、部屋の空気をぞわりと冷やす。立ち昇っていた線香の煙までが、その場で動きを止めたように見えた。

 

 

『怪異は、いつだって理不尽よ。戒、たとえあなたが原因を祓ったと思っても……残酷な結末を止められるとは限らない』

 

 

姉は遠くを見るように目を細めた。吐いた煙が、ほどけながら天井へ消えていく。

 

 

『――私でさえもね。本当に、ままならないわ』

 

 

線香と煙草の匂いまで思い出せる記憶の中で、姉は最後にそう付け加えた。

 

 

◆

 

 

駅前の喧騒から逃れるように入った喫茶店は、朝だというのに妙に薄暗かった。

 

天井の照明は半分ほどしか点いておらず、窓際には朝の陽が差しているはずなのに、二人の座る一角だけが、その光から取り残されたように冷え冷えとしている。

 

磨き込まれた木のテーブルの上で、藤沢の頼んだコーヒーだけがゆっくりと湯気を上げていた。

 

葛城戒はスマートフォンを机の端に置き、藤沢の話を黙って聞いている。

 

相槌は少なく、視線は一度も藤沢の顔に向かない。終始、藤沢の肩越しの、何もないはずの空間を見ていた。

 

藤沢はそれとなく、この青年の素性を尋ねてみた。けれど戒は、ひどく面倒くさそうに視線を逸らしたまま答えた。

 

 

「……霊能者とか、そういうのでいいです。シンプルで分かりやすいでしょう?」

 

 

あっさりはぐらかされ、藤沢はそれ以上の追及を諦めた。

 

藤沢が口を噤むと、戒は脱線はここまでだとばかりに、先ほどまで藤沢が必死に説明していた事業内容の話へ戻す。

 

 

「要するに、画面にその『あばたー』という架空の絵を映して、何千人もの人間を相手に喋ったり遊んだりしてみせる。しかし、チケットや物を売るわけじゃない。どこから金が出るんです?」

 

 

藤沢は思わず苦笑しかけて、すぐに笑みを引っ込めた。

 

からかっている様子がまるでない。この青年は本気で、配信というものに一度も触れずに生きてきたのだ。

 

 

「戒さん。ミーチューブくらいは見たことあるでしょう?」

 

「……ありますよ。ヒカ〇ンとか、ですよね?」

 

「ええ、まあ……本当にそれ以外は全くご存じないんですね」

 

 

藤沢はカップの縁を指でなぞりながら、少しだけ熱を込めて言った。

 

 

「基本は、視聴者からの投げ銭……直接の支援金と、広告収入です。ただ、どれだけ技術を使って可愛い絵を用意しても、それだけじゃ誰も見てくれません。『中』にいる生身の人間が、自分の声や感情や時間を注ぎ込んで、ファンと一緒にキャラクターを育てていくんです。彼女たちにとってあれは、ネットの向こう側で生きる、もう一つの大事な『体』なんですよ」

 

 

戒は紅茶に砂糖を落とし、スプーンで混ぜながら低く唸った。かちゃりと、カップの内側で小さな音が鳴る。

 

 

「架空の姿を、もう一つの体にする。そこに生きた感情を注ぎ込んで、見返りを求めない大勢から布施を集める……なるほど。仕組みとしては、神輿(みこし)と信者と同じですね」

 

「神輿……」

 

「藤沢さんのその説明で、一つ腑に落ちたことがあります」

 

 

戒は低い声で、話を本筋へ戻した。

 

 

「藤沢さんが拾ってきた怪異が、なぜあなた自身を『本命』として喰おうとしなかったのか、という疑問です」

 

 

ごくり、と藤沢の喉が鳴った。

 

出勤前らしいスーツ姿の男が二人、窓際でモーニングのトーストをかじっている。カウンターの奥では、店員が洗ったカップを布巾で拭いていた。ラジオからは古い歌謡曲が小さく流れている。

 

そんなありふれた朝の風景の中で、戒と藤沢の座る席だけが、透明な膜で外から隔てられているようだった。

 

 

「人の代わりに呪いや災いを引き受けさせる人形を、形代(かたしろ)と言います。その神輿には、何千何万もの人間の感情が毎日注ぎ込まれている。形代としては、これ以上ないほど上等な器です」

 

「つまり、うちのタレントと視聴者の関係が、怪異に利用されていると?」

 

「おそらくは。ただ、それだけなら、アニメや漫画の人気キャラクターでも同じことが起きるはずです。そうならない理由は一つしかない」

 

 

戒は紅茶のカップを置き、初めて藤沢の目をまっすぐに見た。

 

 

「アニメのキャラクターは、画面の向こうから視聴者の名前を呼んだりしない。コメントに返事もしない。……けれど、あなたの会社のタレントたちは、それをやるんでしょう」

 

「……ええ。そこが売りですから」

 

「名を呼んで、返事をさせる。怪異というのは本来、存在しないものです。存在しないものは、こちら側に手出しができない。ただし、人がその言葉に返事をしてしまえば話は別だ。返事をするということは、相手がそこに居ると認めるということですから」

 

 

戒は指先で、カップの縁をなぞった。

 

 

「認められた瞬間、居なかったはずのものが、居ることになる。怪異はその一瞬をずっと待っている。……何万人もの人間が、毎晩、顔も知らない相手と名前を呼び合っている。奴らからすれば、これ以上都合のいい場所はない」

 

 

藤沢は絶句した。

 

ファンを喜ばせるために、自分たちが手をかけて作り上げてきた居場所。あの温かいやりとりの一つ一つが、怪異をこちら側へ招き入れる扉になっていた。そう突き付けられたのだ。

 

 

「こちら側に出てこられただけでは、奴らは満足しません。怪異にとっていちばんのご馳走は、人間の恐怖や不安です」

 

「じゃあ、トラッカーが誰もいない方向を向くのも、リスナーが見たっていう不気味な影も……!」

 

「事務所そのものに、呪いが一本の木のように根を張っていると思ってください。枝が伸びすぎて、画面の中だけじゃ収まらなくなった。その分が、現実のほうへ漏れ出しているんでしょう。昨日までのあなたに張り付いていたのは、その木から伸びた『枝葉』です」

 

 

戒は冷めた紅茶を一口すすった。

 

 

「昨日、俺がその枝葉を切った。その影響で、事務所中に伸びていた枝も一時的に緩んだ。だから今朝は、タレントたちの体調も少しはマシになっているはずです」

 

「ええ……確かに、今朝の本人はすこぶる元気そうでした。私のほうは、昨日祓っていただいたのに、まだ何か背中にいるというのに」

 

 

戒はその言葉に、わずかに眉をひそめた。

 

 

「そこです。枝葉を切ったとはいえ、怪異に直接狙われている『本命』の彼女が、巻き込まれただけのあなたより軽いというのは妙ですね。……普通なら、逆のはずだが」

 

「戒さん?」

 

 

戒はそこで口を噤んだ。

 

枝葉と、根。事務所に根を張る一本の木。

 

自分の立てた見立てで、事務所に起きていることはひと通り説明がつくはずだった。現にここまでは、藤沢の話とも、症状の重さとも噛み合っている。

 

それなのに、彼女の体調だけが、どうしてもその見立ての中に収まらない。

 

手元に並べた札のどこかに、一枚だけ足りない場所がある。そんな感触だけが残っていた。

 

その一枚が何なのか、いくら考えても掴めないまま、戒は短く首を振った。

 

 

「……まあいい。とにかく、いくら枝葉を切っても、大元の『根』を引きずり出さないことには終わらない。今すぐ、そのタレント本人に会わせてください」

 

 

それまで戒の話に狼狽えるばかりだった藤沢が、その一言を聞いた瞬間、奥歯を強く噛み締めた。

 

戒を疑っているわけではない。けれど、にわかには信じがたいオカルトの話に、会社とタレントの命運をまるごと預けられるほど、完全に信じ切れているわけでもなかった。

 

 

「……本来なら、それは絶対にお断りしているところです。彼女たちの素顔を……『演者』を外部の人間に会わせるなんて、この業界では最大のタブーですから」

 

「……」

 

「もし彼女の情報が漏れて何かあれば、あの子の人生が壊れます。事務所の信用も地に落ちる。身元の保証も、秘密保持の契約もないあなたに会わせるなんて、社長として到底首を縦には……振れません、が……」

 

 

藤沢はそこで、苦しげに言葉を詰まらせた。

 

昨日、自分に憑いていたものを祓ってもらった。この男の力が本物なのは分かっているし、命の恩人だとも思っている。

 

だが、それとこれとは話が別だった。

 

テーブルの下で、藤沢の膝が小刻みに揺れている。コーヒーに一度も口をつけていないことに、本人は気づいてもいなかった。

 

保身ではない。守ると決めた子を、自分の判断で危険に晒すかもしれない。その恐れが、首を縦に振らせずにいた。

 

戒はシガーケースを指先で弄びながら、淡々と言った。

 

 

「怪異がこちら側で肉体を得て――受肉して、充分な力をつけたら、一体何が起こるか。今までのように悪夢にうなされたり、体調を崩したりする程度では済みません。楽に死ねればまだましなほうで、この世には死ぬよりずっと恐ろしいことがいくらでもある。そしてそれは、周りにも広がっていく。……でも、あなたは社員とタレントを守る立派な社長さんだ。俺はただ通りかかっただけの人間です。無理強いするつもりも、その筋合いもありませんよ」

 

 

戒はシガーケースを閉じ、藤沢をまっすぐに見た。

 

 

「だから、藤沢さんが選んでください。秘密を守り通して呪いに怯えて終わるか、昨日会ったばかりの俺を信じて助かるか」

 

 

逃げ場のない二択だった。

 

 

「俺は、家を出た半端者です。それでも、葛城家の人間であることに変わりはない。口の軽さは死を意味します。生きていくための最低限の金は頂きますが、無闇に他人の秘密を暴いたりもしない」

 

「──それもまた、葛城をやるということですので」

 

 

戒はそう告げると、あとはご自由にとでも言うように黙ってしまった。

 

藤沢は、冷めていくコーヒーの表面をじっと見つめた。

 

事務所の信用も、あの子の顔も、社員たちの生活も、どれ一つ手放せないまま、頭の中をぐるぐると回っている。

 

 

「……昨日のことがなければ、絶対に信じませんでした」

 

 

ややあって、藤沢は絞り出すように言った。

 

 

「それでも、今はあなたを頼るしかない。彼女たちを守れる可能性があるなら、私は社長として、その可能性を選びます」

 

 

戒が、頬をすっと緩めた。

 

 

「賢明なご判断だと思います」

 

「ただ、戒さん。彼女には、あなたを霊能者とは伝えられません」

 

 

でしょうね、と戒は頷く。

 

 

「怯えますし、何より説明が難しすぎる。機材トラブルの調査という名目にします。戒さんはその専門家、ということで」

 

「……なるほど」

 

 

戒はにやりと笑った。

 

 

「分かりました。ではそうしましょう。そちらの世界の作法は、藤沢さんに任せますよ」

 

 

◆

 

 

喫茶店を出てから、戒はほとんど口を開かなかった。

 

駅前の人波を抜け、オフィス街へ入る。ちょうど出社の時間帯で、歩道は急ぎ足の会社員たちで埋まっているはずだった。

 

それなのに、事務所の入っている雑居ビルが近づくにつれ、周りの音が一枚ずつ剥がされていくように遠のいていく。

 

車のクラクションも、すれ違う人の話し声も、水の中で聞いているように輪郭がぼやけていた。

 

 

「……ここです」

 

 

藤沢が足を止めたのは、駅から少し離れた一角に建つ、古いオフィスビルの前だった。

 

戒はその外観を下から上まで眺め、目を細める。

 

 

「綺麗ですね」

 

「え?」

 

「いや。汚れていないなと」

 

 

外壁には雨垂れの跡が黒く筋を引き、一階のテナントは半分が空いたままだ。お世辞にも綺麗な建物とは言えない。

 

何を言われているのか分からず、藤沢は返事に詰まった。

 

そのとき、視界の隅で何かが動いた。

 

エントランス脇の植え込みの陰から、黒くて長い脚がゆっくりと伸びてくる。続いて、掌よりも大きな胴体。

 

昨日、居酒屋で藤沢の足元にいたのと同じ、あの蜘蛛だった。

 

 

「……っ、また」

 

 

昨日、戒の煙を吸ってからというもの、見えなかったはずのものが、時々こうして目の端に映るようになっていた。

 

 

「ああ、そいつですか」

 

 

戒は一瞥しただけで、驚いた様子もない。

 

 

「土蜘蛛(つちぐも)です。気にしなくていい」

 

「気にするなと言われても……。何なんですか、それは」

 

「さあ」

 

 

戒は肩をすくめた。

 

 

「昔からうろついてるってだけです。少なくとも、あなたを食う側じゃない」

 

 

説明になっていない。

 

それでも戒がまるで意に介さないので、藤沢も追及を諦めるしかなかった。

 

蜘蛛のほうも二人には目もくれず、植え込みの奥へ音もなく消えていく。

 

戒はそれきり何も言わず、先にビルの中へ入っていった。

 

エレベーターの扉が閉まる直前、藤沢は、背後のガラス扉に何かが映った気がして振り返った。

 

星を散らしたような青い瞳。白い髪。笑っているのか、泣いているのか分からない口元。

 

けれど扉の向こうには、薄暗いアスファルトが続いているだけだった。

 

事務所の扉を開けると、見慣れた空間が広がっていた。

 

壁際に並んだデスク、点けっぱなしのモニター、書類の束が押し込まれた棚、そして奥の収録ブース。何も変わらない。

 

変わらないはずなのに、普段は気にも留めない空調の音だけが、やけに大きく耳についた。

 

 

「藤沢さん。今日来ているそのタレントですが、売れているんですか?」

 

 

戒が歩きながら尋ねる。

 

 

「ええ。一期生としてデビューした三人のうちの一人です。お恥ずかしい話ですが、会社の売り上げのほとんどを、あの子一人が支えています。事実上、うちの稼ぎ頭でして」

 

「なるほど」

 

 

戒はそれだけ言うと、また口を閉ざした。

 

いちばん奥の防音扉の前まで来たところで、戒の足がぴたりと止まる。

 

 

「……どうしました?」

 

「いえ」

 

 

戒は扉そのものではなく、その向こう側を透かし見ているようだった。

 

 

「藤沢さん。開ける前に、一つだけ」

 

 

誰かに聞かれるのを警戒するように、戒は声を落とした。

 

 

「はい」

 

「中で、モニターや機材にあり得ないモノが映っても、普段どおりに接してください。アレに、なるべくこっちの不安を悟らせたくない」

 

 

藤沢は、ごくりと唾を呑んで頷いた。

 

 

◆

 

 

「結衣ちゃん、お疲れ様。今ちょっといいかな」

 

 

ノックをしてから、収録ブースの扉を開ける。

 

分厚い防音扉の内側は、廊下よりもさらに空気が重かった。壁一面の吸音材が音を吸い込んでしまうせいで、自分の声すら他人のもののように聞こえる。

 

それに、妙な匂いがした。

 

雨上がりの排水溝のような、湿った、どこか生臭い水の匂い。空調は動いているのに、それがブースの中にだけ澱んでいる。

 

薄暗く光るモニターの前に座っていた少女が、ゆっくりとこちらを振り返った。

 

大きなゲーミングチェアにすっぽりと収まる小柄な体。大きめのパーカーを着込み、顔の半分を黒いマスクで覆っている。

 

目の下には、何日も眠れていない人間特有の薄い影が落ちていた。

 

だが、藤沢が最初に目を奪われたのは、彼女本人ではなかった。

 

結衣の背後の壁に、影が落ちている。

 

モニターの光を受けてできた、彼女の影だ。それだけのはずだった。

 

けれど、その影は椅子に座った小柄な少女のものにしては、あまりにも大きかった。肩のあたりから上が、天井に届くほど伸び上がっている。

 

そして、結衣が首を動かしていないのに、影の頭だけが、ゆっくりとこちらへ傾いた。

 

藤沢の喉が、ひゅっと鳴った。

 

これが、戒の言っていた『根』なのか。

 

横目で戒をうかがうと、戒もほんの一瞬だけ表情を強張らせ、小さく息を呑んでいた。

 

戒の忠告を思い出し、藤沢は努めて明るく口を開く。

 

 

「こちら、さっきメッセージで伝えた、機材トラブルの専門家の戒さんだ。戒さん、こちらが先ほどお話しした『宵月ましろ』の……結衣ちゃんです」

 

 

少女が、椅子の上から小さく頭を下げる。

 

戒はすぐに表情を取り繕い、軽く会釈を返した。

 

 

「……初めまして。名前は、戒。『葛城』をやっています」

 

 

短い名乗りだった。

 

ただの挨拶ではないことを、藤沢は道中で戒から聞かされていた。『葛城』の名を聞いた怪異がどう反応するかを見る、最初の一手なのだという。

 

少女は「かつらぎ……?」と不思議そうに小首を傾げるだけだった。

 

背後の影も、逃げるどころかピクリとも動かない。

 

戒は静かに息を吐き、懐からシガーケースと革の小袋を取り出した。

 

 

「一応確認しますが、ここは禁煙ですよね?」

 

 

結衣に向けた問いだったが、彼女が答えるより早く藤沢が止めに入った。

 

 

「当たり前ですよ! 吸うなら建物の外へ。火災報知器でも鳴ったら大変です」

 

 

事務所でボヤ騒ぎでも起きれば、所属している子たちの評判にまで傷がつく。この業界では、評判がすべてだ。

 

 

「……ですよね」

 

「火は絶対にNGですからね?」

 

 

必死に両手を振る藤沢を見て、戒は「分かりました」とあっさり引き下がり、シガーケースを上着のポケットにしまった。駄目元で聞いてみただけらしい。

 

藤沢は胃が痛むのを感じながら冷や汗を拭った。何も知らない結衣からすれば、目の前の男はただの不審者でしかない。

 

長袖で刺青こそ隠れているものの、気怠げな目つきも、まとっている空気も、どう見てもカタギのそれではない。そんな男が密室でいきなりタバコらしきものを取り出し、火を使えるかと訊いてきたのだ。

 

結衣は完全に引いてしまい、パーカーの袖口をぎゅっと握り直すと、椅子ごと半歩ぶん戒から距離を取った。

 

 

「……社長。この人、本当に専門家なんですか?」

 

「もちろんだよ結衣ちゃん。ちょっとやり方が古風なだけで、腕は確かだから……」

 

 

藤沢が必死に取り繕う横で、戒は結衣の反応など気にも留めず、革の小袋から手のひらサイズの束を取り出した。

 

神道、仏教、陰陽道と、さまざまな宗派の護符を一枚ずつラミネートし、十枚ひとまとめにリングで綴じたものだ。

 

 

「駄目なら仕方ない。煙を使う手は諦めて、このままトラッカーの異常を調べます。さっき藤沢さんから聞いたんですが、誰もいない方向を向くカメラの誤作動があるとか」

 

 

言いながら、戒はその奇妙な札の束を掲げてみせた。

 

 

「作業道具ですよ。こういう複雑な図形や文字を見せると、機械が人の顔と勘違いして、認識エラーを起こすことがある。……そうですよね、藤沢さん?」

 

 

戒がしれっと横目で合図を送ると、藤沢は一瞬ビクッとしてから、慌てて口裏を合わせた。

 

 

「そうなんだ結衣ちゃん。トラッカーの顔認識ソフトは、特定の複雑な模様を誤認することがあって……これはその、調査用のテストらしいんだ」

 

「……テスト」

 

 

結衣はもう、訝しむ目を隠そうともしなかった。

 

戒の手にある札の束を、じっと睨みつける。

 

 

「それ……どう見ても筆文字が書いてありますけど。お札か何かにしか見えないし……」

 

 

無理もない反応だった。それでもきつい言葉を選ばずにいるのは、社長が同席しているからだろう。

 

 

「それはだな、光学的なエラーを直接引き起こすための、特殊な図形で……」

 

 

当の藤沢がしどろもどろになっているのを見て、結衣は小さく溜息をついた。

 

 

「……大丈夫です」

 

「結衣ちゃん?」

 

「正直、全然納得してませんし、すごく胡散臭いです。でも……社長がそこまで言うなら、今は信じます。せっかく体調も良くなったんです。機材のバグさえ直るなら、もうやり方はなんだっていいんです。早く配信を再開したいので。……テスト、手短にお願いします」

 

 

早口でそう言い切った横顔には、得体の知れない男への警戒よりも、ファンを待たせている焦りのほうが濃く出ていた。

 

藤沢が内心で胸を撫で下ろす横で、戒は一枚目の護符を捲り、結衣の顔を映しているトラッカー用の小さなカメラへ向けて、見せつけるようにかざした。

 

結衣には、変な模様が描かれたカードにしか見えていないはずだ。

 

けれど藤沢には、札を持つ戒の指先がわずかに強張っているのが分かった。

 

 

「……どうですか。画面のトラッカーの動きは、おかしくないですか?」

 

 

結衣は確認用のモニターに目をやり、小さく首を傾げる。

 

 

「はい。緑色の枠は、普通に私の顔を追ってます。エラーも出てないです」

 

「なるほど。では、次です」

 

 

二枚目は、一般的な神社のお祓いの札だった。カメラにかざしても、画面の中の緑の枠は結衣の顔を追い続けている。変化はない。

 

三枚目、密教の軽い魔除け。これも反応はなかった。

 

 

「あの、まだかかりますか?」

 

「もう少しです」

 

 

結衣が椅子の上で身じろぎする。座り直すたび、ゲーミングチェアが小さく軋んだ。

 

ここまでは予想どおりだった。

 

戒の指先が、四枚目の護符を捲る。

 

『九字護身法』と『急急如律令』が朱墨で記された、本格的な陰陽道の呪符。素人目にもそれと分かるほど厳めしい一枚で、少なくとも見て分かる程度の反応くらいは引き出せるはずだった。

 

しかし、トラッカーは何事もなく結衣を映し続けている。

 

壁の影も、ピクリとも動かない。

 

一歩も退かないどころか、身構えてすらいなかった。

 

常に無表情だった戒の顔が、ここで初めてわずかに曇る。

 

藤沢は、自分の手のひらがじっとり汗ばんでいることに気づいた。拭うことすらできなかった。

 

五枚目。

 

仏教で最も強い破魔の力を持つとされる、『不動明王の梵字』。

 

これを突きつけられて平然としていられる怪異など、そうはいない。そのはずだった。

 

戒が札をかざす。

 

部屋の空気は、何ひとつ変わらなかった。

 

札にも、壁の影にも、反応はない。

 

代わりに、デスクの隅に置かれていたマイクのランプが、一瞬だけ赤く光った。

 

誰も触れていない。電源すら落としてあるはずのマイクだった。

 

 

「今、何か……」

 

 

藤沢が呟くと、戒が鋭い視線だけで制した。

 

 

「不味いな」

 

 

これまで聞いたどの言葉よりも低く、わずかに焦りの混じった声だった。

 

不動明王の梵字すら効かない。いや、効かないのではない。動じることすらしていないのだ。

 

葛城の名を聞いても、神仏の札を突きつけても、身じろぎ一つしない。そういうものは、たいていこちらを上から見下ろしている。怖がる必要がないから、怖がらないのだ。

 

一体どれほどの格の祟り神なのか。今の戒には、そう考えるより他になかった。

 

結衣が、小さく肩を震わせ始める。

 

 

「……寒い」

 

「結衣ちゃん?」

 

「いえ、大丈夫です。ちょっと、冷えたみたいで……」

 

 

そう言って笑おうとしたが、結衣の目はモニターの一点に吸い寄せられたままだった。

 

電源の入っていない、ただの黒い画面。

 

何も映っていないはずのそこを、彼女だけが、瞬きもせずに見つめている。

 

藤沢もつられて、その画面を覗き込んだ。

 

黒いガラスに、ブースの中が映り込んでいる。椅子に座る結衣。立ち尽くす自分と戒。

 

そして、結衣の真後ろに、もう一人。

 

藤沢は反射的に振り返った。

 

誰もいない。壁と、あの大きすぎる影があるだけだ。

 

画面へ視線を戻すと、そこにはもう、自分たち三人しか映っていなかった。

 

――この子に対する執着が、強すぎる。

 

戒は奥歯を噛んだ。このまま放っておけば、彼女は遠からず喰われる。

 

戒は六枚目の護符に指をかけた。

 

それは、神仏の力に頼る札ではない。葛城の家が外法として使う、怪異の核を無理やり引きずり出すための劇薬だった。

 

 

――忌み札『離魅振(リビフリ)』

 

 

大きな危険はある。それでも、使うしかない。

 

その札を引き抜こうとした、まさにその瞬間だった。

 

 

「あの……もう、行ってもいいですか?」

 

 

結衣が、ひどく申し訳なさそうに言った。

 

 

「体調不良でお休みして、たくさんの人に迷惑をかけちゃったから……早く配信して、埋め合わせがしたくて……」

 

 

こんなときまで、この子はファンのことを考えている。

 

藤沢は、胸の奥を締めつけられる思いでその横顔を見つめた。

 

だが戒だけは、まったく別のものを見ていた。

 

結衣の背後で、影がゆっくりと膨らみ始めている。

 

彼女のたった今の言葉を、美味そうに味わっているかのようだった。

 

バチンッ!

 

照明が弾けるように明滅した。

 

 

「きゃっ……!」

 

 

結衣が小さく悲鳴を上げる。

 

同時に、デスクに並んだモニターが一斉に砂嵐へ変わった。

 

ジジッ、ジジジジッ……。

 

スピーカーから、耳の奥をざらつかせるノイズが漏れ出す。その奥に、誰かの笑い声のようなものが混じっていた。

 

戒の手の中で、忌み札の端が、火も点けていないのに黒く焦げていく。

 

 

「……藤沢さん。下がって」

 

「戒さん、これは……」

 

「『根』のお出ましです。こいつは――」

 

 

戒が言いかけた瞬間、バチン、バチンと、ブースの照明が狂ったように点滅を繰り返した。

 

肌をじりじりと焼くような、異常なまでの圧。

 

防音材に囲まれた狭い部屋の空気が、急に水のような重さを持ってのしかかってくる。息を吸っても、肺の半分までしか入ってこない。

 

あの湿った水の匂いが、一段と濃くなった。

 

 

『ただの悪霊じゃない。神仏から見ればただの巨大な呪いだけれど、人間からすればもう神と変わらない――【祟り神】と呼ばれるものね』

 

 

戒の頭の中に、姉の声が蘇る。

 

どこからともなく、クスクスと、少女の笑い声が響いた。

 

 

「……そうか。騒がないはずだ」

 

 

葛城の名を聞いても騒がない。札を突きつけても逃げない。

 

それは、こちらを恐れる理由がないからだ。葛城が何をしようと、もう自分の勝ちは決まっている。そう分かっているからだ。

 

その余裕の意味を悟った瞬間、戒の背筋を冷たい汗が伝った。

 

直後、分厚い防音扉が勢いよく開いた。

 

 

「しゃ、社長……」

 

 

飛び込んできたのは、マネージャーの木下だった。タブレットを胸元で握りしめ、血の気の引いた顔で目を見開いている。

 

 

「どうした? 呼び出しのランプも点けずに――」

 

 

藤沢が咎めるが、木下にはその声が聞こえていないようだった。機材の前に座る結衣と、自分の手元のタブレットを、何度も交互に指差す。

 

 

「あ、その、結衣ちゃんのチャンネルで、配信が……」

 

「配信……?」

 

「いま、勝手に始まってるんです……」

 

 

戒は息を呑んだ。首筋を、冷たいものが撫でていく。

 

木下が震える指で、タブレットの画面をこちらへ向けた。

 

そこには確かに、星を散らしたような青い瞳のアバターが映っていた。

 

宵月ましろ。

 

結衣が演じているはずの、彼女のもう一つの姿。

 

けれど結衣本人は、今、戒たちの目の前にいる。

 

 

「え……?」

 

 

結衣の声が、恐怖で掠れた。

 

 

「なん、で? 私、ここにいるのに……?」

 

 

アーカイブではない。今、この瞬間に動いているアバターが、画面の向こうの大勢の視聴者に向かって、にっこりと笑いかけた。

 

直後、スピーカーから愛らしい少女の声が響き渡る。

 

結衣の喉から出るものと寸分違わない、完璧な『ましろ』の声だった。

 

 

『こんましろー! 急に配信お休みしてて、本当にごめんねーっ! 告知もなしにいきなり配信始めちゃってびっくりしたよね? ごめんね!』

 

 

画面の中の『ましろ』が、申し訳なさそうに両手を合わせ、大げさに首をすくめてみせる。

 

 

『でもね、もう今は元気! あっ、一緒にお休みしてる他の2人……めるちゃんとシオンちゃんのことも、みんな心配だよね。でも大丈夫、すぐによくなる!』

 

 

『ましろ』はカメラに向かって元気いっぱいにウインクし、それから、少しだけ声を潜めた。

 

 

『てかさー! 休んでる間に、色々怖いことがあってーーーー』

 

『今日はみんなに聞いてほしいこと、沢山あるんだよねっ』

 

 

星を散りばめた青い瞳が、画面越しに何万もの視聴者を――いや、この部屋にいる戒たちを、真っ直ぐに見据えて嗤った気がした。

 

 

『だから!』

 

 

――――今日もいっぱいお話ししよっ?

 

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