世界一じゃなくても   作:ayano27

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第一章 壊れた音

 花海咲季が最後のフレーズを歌い切った瞬間、会場は光の粒に埋め尽くされた。ペンライトの海が一斉に揺れ、その揺らめきの一つ一つがまるで呼吸をしているみたいだった。

 H.I.F、一番星が決まる場所。アイドルを目指したその瞬間からずっと目指してきた場所に、あたしたち姉妹は揃って立っていた。同じステージ、同じ照明、同じ歓声。それだけで胸がいっぱいだった。お姉ちゃんに勝つことを目標にしてきたあたしだったけど、ここまで来たらもはや勝ち負けなんて二の次でいいなんて、そんなことを思うほどに心が昂っていたと思う。

 楽屋で衣装に袖を通しながら鏡の中のお姉ちゃんと目が合った時、二人で示し合わせたように笑い合った。今日という日を、ただ楽しもうと。開演直前、控室の隅でお姉ちゃんはいつものルーティンをこなしていた。深呼吸を三回、右手で左手首を軽く叩く仕草を二回。子供の頃からずっと変わらない、緊張をほぐすための儀式だった。あたしはその横で、同じように深呼吸をしながらお姉ちゃんの横顔を盗み見ていた。真剣な表情の中に、いつもの余裕があった。あたしたちはずっとこうやって隣同士で向かい合っていた。今日もきっとそうだと思っていた。

 あの、勝負の結果が出るまでは。

 審査発表のアナウンスが鳴った瞬間、会場の空気が変わった。数字が読み上げられる直前のあの独特な静けさ。息を止めて、あたしは自分の心臓の音だけを聞いていた。隣に立つお姉ちゃんの手が少しだけ震えているのが分かった。あたしはその手を見て、大丈夫だよと心の中で呟いた。どっちが勝っても、二人でここまで来られたことが大事なんだって、本気でそう思っていた。

 得点が読み上げられた瞬間、会場がどよめいた。数字があまりにも離れていて、あたしの名前が上に、お姉ちゃんの名前が下に並んでいたから。信じられなかった。何かの間違いだと思った。だっていつだって、花海咲季はあたしの前を走っていた人だったから。物心ついた時から、ずっとそうだった。かけっこでも、鉄棒でも、勉強でも。あたしがどれだけ手を伸ばしても、その背中はいつも少し先にあった。追いつきたくて、追いつきたくて、それだけを思って生きてきた気がする。

 子供の頃、あたしはよくお姉ちゃんの後ろ姿を追いかけて泣いていた。運動会のリレーでお姉ちゃんの走る姿を見て、いつか同じくらい速く走りたいと本気で願っていた。あの憧れがいつしか目標になって、目標がいつしか執着に近いものになっていった。今日という日はその執着の、一つの結末のはずだった。

 歓声が耳を通り抜けていく中、実感だけが遅れてやってきて、ようやく追いついてきたとき真っ先に浮かんだのは勝った喜びじゃなくて、お姉ちゃんの顔だった。振り返るとお姉ちゃんは笑っていた。いつものあの笑顔で、「やったわね、佑芽」って言ってくれるはずの、あの顔で。

 でも、それは違ったのだとあたしは気づいてしまった。その笑顔の下で、何かが軋む音がしたのを。目の奥がほんの一瞬だけ光を失ったように見えた。それはあまりにも一瞬のことで、隣にいたスタッフも、駆け寄ってきたファンも、誰も気づいていないようだった。あたしだけがその揺らぎを見てしまった。まるで、精巧に作られたガラス細工の奥に小さなひびが入った瞬間を目撃してしまったみたいに。

 その光景を、あたしはこの先一生忘れることはないだろう。そう思った。

 

 

 

 

 控室に戻ってからも、お姉ちゃんはずっと笑っていた。花束を抱えて、スタッフに囲まれて、カメラのフラッシュを浴びながら。

 

「はぁ〜、佑芽ってば本当にやるようになったわね。もう、完全に置いていかれちゃったわ」

 

 まるで何も無かったかのようにお姉ちゃんは笑う。そこにいたのはいつものお姉ちゃんだった。 

 

「次はもっと差つけられちゃうかもね」

 

 でも、その瞳は笑っていなくて。少なくとも、あたしにはそう見えていた。

 

「これは負けてられないわね。次は覚悟しなさい」

 

 いつも通りの明るい声、いつも通りの憎まれ口。それがいつも通りすぎることが、かえってあたしの胸をざわつかせた。声のトーンも、笑うタイミングも、全部が完璧に「いつも通り」を演じているみたいで、その完璧さが逆に不自然だった。まるで台本があって、それを寸分違わずなぞっているような。そんな感覚。

 スタッフが行き交い、花束が運ばれ、誰もが今日の結果を祝福していた。今日という日は間違いなく成功で、アイドル花海佑芽にとっての大きな一歩だった。周りの誰もがその言葉を疑っていない。ただ、あたしだけが控室の隅でお姉ちゃんの背中をずっと目で追っていた。

 打ち上げの席でもお姉ちゃんはよく喋り、よく笑った。クラスの子たちに囲まれて、今日のパフォーマンスの反省点を冗談交じりに話していた。「あそこのターン、ちょっと軸ブレてたわね」なんて言いながら、自分で自分の動きを実演してみせて、周りを笑わせている。あたしはその輪の少し外側からその様子を眺めていた。何度見ても、違和感の正体を掴めなかった。それでも、確かに何かが違っていた。

 クラスの一人が、「咲季ちゃん、今日は本当に惜しかったね」と声をかけたとき、お姉ちゃんの表情が一瞬だけ強張った気がした。ほんの一瞬、まばたき一つ分の時間。すぐにいつもの笑顔に戻ったから、誰も気づかなかったと思う。あたしだけがその一瞬を見逃さなかった。

 

 

 

 

 夜、寮の廊下であたしはお姉ちゃんを見た。周りに誰もいないと思ったのだろう、自販機の明かりの下で壁に手をついて俯くお姉ちゃんの肩が小さく上下していた。声は聞こえなかったけれど、それでも分かった。

 自販機の唸る音だけが廊下に響いていた。窓の外はもう真っ暗で、月明かりが廊下の床に長い影を落としていた。あたしはその影の中に立ち尽くしたまま動けなかった。お姉ちゃんの肩は規則正しく上下していて、それはまるで、必死に何かを押し込めようとする呼吸のリズムに見えた。

 声をかけなきゃと思うのに足が動かなくて、あたしはその場から動くことができなかった。「おめでとう」も、「ありがとう」も、「大丈夫?」も、どれも今のお姉ちゃんには届かない気がして、かけるべき言葉が一つも見つからなかった。何を言っても今のお姉ちゃんが必死に保っている何かを、壊してしまう気がしたから。

 どれくらいそうしていただろう。一分か、二分か、それとももっと長かったのか。時間の感覚が曖昧になるくらい、あたしはその場に立ち尽くしていた。やがてお姉ちゃんは大きく息を吐いて、壁から手を離した。背筋を伸ばし、両手で頬を軽く叩いて、いつもの姿勢に戻る。あたしは咄嗟に近くの柱の陰に身を隠した。

 お姉ちゃんが去っていく足音を聞きながら、あたしは自分の心臓がうるさいくらいに鳴っているのに気づいた。

 結局あたしは声をかけられないまま来た廊下を戻り、自分の部屋のドアを閉めて、その場にしゃがみこんだ。ドアに背中を預けたまま、しばらく動けなかった。

 あたしはきっと、何かを壊してしまったんだ。そんな漠然とした確信だけが胸の中で重くなっていく。勝ちたかった。お姉ちゃんに追いつきたかった。ずっと、ずっと、そう思ってきたはずなのに、叶ったはずのそれがどうしてこんなに怖いんだろう。

 部屋の電気もつけないまま、あたしは膝を抱えてしばらくそこに座り込んでいた。窓の外の月がカーテンの隙間からうっすらと差し込んでいた。その光の帯を見つめながら、あたしは何度も今日の得点発表の瞬間を思い返していた。あの数字を見た時のお姉ちゃんの目。あれは、あたしの記憶の中にずっと焼き付いて離れないだろうと、その時なぜか確信していた。

 

 

 

 

 翌朝、食堂でお姉ちゃんと顔を合わせると、昨夜のことなんてなかったみたいに「おはよ、佑芽」といつもの声が飛んできた。

 

「お、おはようお姉ちゃん!」

 

 あたしはそう返しながら、トレイを持っていつもの席にいつも通り座るお姉ちゃんの横顔をそっと盗み見た。その目元に隈はなかった。でも、化粧のせいかもしれない。声もいつも通りだった。張りのある声も、憎まれ口を叩くときの間の取り方も、何もかもがいつも通りで、だから余計に怖かった。人はきっと、本当に壊れる寸前が一番普通に見えるのだとあたしはこの時初めて知った。

 朝食のトレイを挟んで他愛のない会話が続いた。今日の授業のこと、天気のこと、誰かの噂話。お姉ちゃんは相槌を打ちながら、パンを一口ずつ丁寧に食べていた。その仕草の一つ一つに、あたしはずっと目を凝らしていた。何か違和感の欠片が見つかるんじゃないかと思って。でも、何も見つからなかった。それが一番不気味だった。

 

「佑芽、今日のレッスン何時から?」

「あ、十三時からだよ」

「そう。頑張ってね」

 

 その一言にあたしは何も返せなかった。頑張ってね、なんて、いつも通りの励ましのはずなのに、その言葉の裏に何が隠れているのか、あたしにはもう分からなくなっていた。

 その日のレッスンでも、お姉ちゃんはいつも以上に厳しく自分を追い込んでいた。もう十分覚えているはずの振り付けを鏡の前で何度も何度も確かめ続けている。あたしはレッスン室の入り口から少しの間その様子を見ていた。

 

「お姉ちゃん、休憩しないの?」

「もうちょっとだけ、ね」

 

 そう言ってまた同じ動きを繰り返す。汗が床にぽたぽたと落ち、息が上がっているのに止まらないその背中をあたしは少し離れたところから見ていた。

 お姉ちゃんは昔からそうだった。誰かに負けたときほど、走る速度を上げる人だった。あたしは一度だって勝ったことはなかったけれど、お姉ちゃんは何もずっと一番でいたというわけではない。子供の頃、誰かにかけっこで負けた日は、いつも夕食の後にこっそり庭を走っていた。あたしはそれを知っていたけれど、知らないふりをしていた。カーテンの隙間から暗闇の中を一人で走るお姉ちゃんの姿を、何度も見たことがある。

 だから、あたしはその背中に何も言えなかった。今声をかけたら、お姉ちゃんが必死に抑え込んでいる何かが決壊してしまう、そんな気がしたから。トレーナーが心配そうな顔で声をかけても、お姉ちゃんは「大丈夫です」と笑って、また鏡に向き直った。その笑顔があたしにはどうしても、悲鳴のように見えてしまった。

 鏡越しにお姉ちゃんと目が合う瞬間があった。あたしは思わず息を止めた。でも、お姉ちゃんは何事もなかったかのように視線を戻し、また振り付けの確認に集中し始めた。まるで、あたしがそこにいることにすら気づいていないみたいに。

 

 

 

 

 その夜もあたしは眠れなかった。天井を見つめながら、鏡の中の自分を睨みつけるように見つめていた汗だくのお姉ちゃんの背中を思い出す。何度も、何度も、その光景が頭の中で再生された。

 きっと、あたしがあの背中を追い詰めた。分かっている、分かっているつもりだった。勝つということは誰かを追い越すということで、追い越された人がどんな気持ちになるか、あたしはずっと自分がその立場だったらという想像上でしか考えたことがなかった。挑戦者でしかなかったあたしは、負けても何も失わなかったから。悔しくて拳を握って、また立ち上がるだけでよかったから。次はきっと勝てると信じて、前を向いていられた。

 あたしにとって「負ける」ということは、いつも次への燃料だった。悔しさをバネにして、また練習に打ち込む。単純で、健全な循環だった。でも、お姉ちゃんにとっての「負ける」はきっとそうじゃない。あたしはその違いに、今更ながら気づき始めていた。

 お姉ちゃんにとってあたしに負けるということは、単なる一つの試合結果じゃない。もっと大きな何か——たとえば、お姉ちゃんである資格みたいなものに直結しているんじゃないか。そんな考えが頭の中でぐるぐると回り始めていた。

 でも、その先をあたしは考えることができなかった。考えることが、怖かったから。

 布団の中で丸くなりながらあたしは自分の手を見つめた。今日、この手で摑んだ勝利がどれだけの重さを持っていたのか、あたしはまだ正確には分かっていなかった。ただ、これから起きることの予感だけが胸の奥で冷たく渦を巻いていた。

 窓の外で風が木の葉を揺らす音がした。それだけのなんでもない夜の音のはずなのに、あたしにはそれが何かの予兆のように聞こえてならなかった。

 目を閉じても、まぶたの裏に浮かぶのはあの日の得点発表の瞬間だった。数字が読み上げられて、会場がどよめいて、そしてお姉ちゃんの目から光が消えた、あの一瞬。

 あたしはきっと、あの瞬間をこれから何度も思い出すことになるだろう。そんな予感だけが確信めいて、胸の中に居座り続けていた。

 そこからというもの、あたしはついにお姉ちゃんに負けることは無くなってしまった。

 あれほど追いつきたいと思った背中を、あたしは完全に抜き去ってしまったのだった。

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