あたしが泣き止むまで、お姉ちゃんは何も言わずにただ隣にいてくれた。時計の秒針が何周も動くくらいの時間が経っていたと思う。それでも、お姉ちゃんはあたしの背中をさすり続けてくれていた。
しばらくして、お姉ちゃんが静かに口を開いた。
「佑芽」
「……うん」
「わたし、正直、まだ全部は信じきれてない。過去に戻ったとか、そんな話」
お姉ちゃんは苦笑するように言った。その笑顔には戸惑いと、それでもあたしを受け止めようとする優しさが同居していた。
「でも、佑芽が何年もわたしのために自分を偽ってきたことだけは、本当だって分かる」
あたしは何も言えずにうつむいた。涙で濡れた頬を袖でそっと拭う。
「ねえ佑芽。もう一回、聞かせて」
お姉ちゃんの声が少しだけ震えていた。
「本当は、何がしたかったの?」
その問いにあたしはようやく、心の底にしまい込んでいたものを取り出した。深呼吸を一つして、あたしはゆっくりと言葉を紡いだ。
「あたし……本当はアイドルになりたかった。お姉ちゃんと同じステージに立って、ちゃんと勝負したかった。ダンスも歌も、本当はずっと好きだった。文化祭で久しぶりに踊って、思い出したの。あたし、これが好きだったんだって」
言葉にするたび、胸の奥が軽くなっていくのを感じた。何年もかけて積み重ねてきた重荷が、少しずつ解けていくようだった。
「でも、それを言ったらお姉ちゃんとまた競い合うことになるでしょ。お姉ちゃんがまた追い詰められるかもしれないって、怖かった」
「馬鹿ね」
お姉ちゃんはそう言って、あたしの頭を軽く小突いた。その仕草にあたしは思わず、小さく笑ってしまった。
「わたしをそんな脆いものだと思わないで」
お姉ちゃんはあたしの目をまっすぐ見つめて、続けた。
「あなたの言う未来のわたしが追い詰められてたのは、きっと事実だと思う。でも、それは佑芽のせいじゃない。わたしが自分で自分を追い詰めてただけ。佑芽が競わなくなったからって、その根っこが消えるわけじゃなかったのよ」
その言葉にあたしはハッとした。あたしはずっと、自分の言葉と行動がお姉ちゃんの全てを決定づけていると思い込んでいた。でも、お姉ちゃんの中にある葛藤はもっと複雑で、もっと根深いものだったのかもしれない。
「わたしね、佑芽が普通科に行くって言った時から、ずっと違和感があったの。でも、それを言葉にできなくて。今、やっと分かった」
お姉ちゃんはあたしの手を、そっと両手で包み込んだ。
「わたしたち、もっと早くちゃんと話し合うべきだったのね」
そうだ。
あたしはお姉ちゃんにきちんと相談すべきだったし、お姉ちゃんもあたしの異変に気づいてたならかける言葉もあったはず。
未来でのあたしもお姉ちゃんにちゃんと気持ちをぶつけるべきだったし、未来のお姉ちゃんもあたしに心の内を話してほしかった。
あたしたちは、こんなにもすれ違ってた。
でも、それが今ようやく繋がった気がしていた。安堵の笑みが溢れ、あたしはまた一筋の涙を流した。
◇
数日後、あたしはアイドル科への転科を申し出た。担任も、家族も、みんな驚いていた。両親は「本当にいいのか」と何度も確認してきたけれど、あたしの決意が固いことを知ると、最終的には応援してくれた。でも、お姉ちゃんだけは最初から知っていたみたいに静かに頷いてくれた。
転科の手続きは思っていたよりもスムーズに進んだ。担当の先生との面談、実技試験、書類の準備。慌ただしい日々の中で、あたしは何度も自分の選択が正しいのか不安になることがあった。
でも、その度にお姉ちゃんが隣で支えてくれた。
「大丈夫よ、佑芽なら」
その一言があたしにとって、何よりの励みだった。
初めてのレッスンの日、あたしは緊張しながら練習室のドアを開けた。心臓が痛いくらいに高鳴っていた。
そこには、お姉ちゃんが立っていた。
「待ってたわよ、佑芽」
いつものあの笑顔だった。でも、あたしが記憶していたどの笑顔とも、少しだけ違って見えた。無理をしていない、ただ純粋に嬉しそうな顔。
「一緒に頑張りましょ」
「うん」
あたしは久しぶりに、心から笑うことができた。練習室の鏡に映る二人並んだ姿を見つめながら、あたしはようやく、本当の意味でこの場所に立てたという実感を噛み締めていた。
◇
それから、あたしたちは何度も競い合った。時にはあたしが勝つこともあった。逆にあたしが負けることもあった。
最初のうちはあたしはまだ、心のどこかで手加減しそうになる自分がいた。でも、お姉ちゃんはそんなあたしをすぐに見抜いた。
「こら佑芽、手抜いてるでしょ」
「え、そんなことは……」
「わたしを本気で越えるつもりで来なさい。じゃないと、わたしも本気になれないじゃない」
その言葉にあたしはようやく、心のブレーキを解除することができた。全力でぶつかることの心地よさを、あたしは改めて実感していった。
お姉ちゃんは負けるたびに悔しそうな顔をした。でも、あの日のように、笑顔の下で何かを隠すことはなくなった。
「くやしい〜! 次は絶対負けないから!」
そう言ってあっけらかんと笑うお姉ちゃんを見るたびに、あたしは安心した。お姉ちゃんはもう「世界一のお姉ちゃん」でい続けることに縛られていない。純粋に、勝負を楽しめる人になっていた。
二人で並んで鏡の前に立ち、同じ振り付けを練習する日々。あたしはその時間の全てが愛おしくてたまらなかった。何年も遠回りした分、この時間の尊さをあたしは誰よりも深く理解していた。
◇
そして年月が経ち、あたしたちが初星学園を卒業する日、あたしとお姉ちゃんは並んで校門を出た。桜が舞い散る中、二人の足取りはどこか軽やかだった。
「佑芽、覚えてる? 昔、公園で誰かがわたしのこと馬鹿にしたことがあったの、知ってた?」
唐突にお姉ちゃんがそう聞いてきた。それを聞いてあたしの心臓が跳ね上がる。
「あの時、佑芽、何も言い返してくれなかったのよね。ちょっとだけ、寂しかった」
あたしは言葉に詰まった。まさか、お姉ちゃんがあの日のことを覚えていたなんて、思ってもみなかった。
「でも今なら分かる。佑芽はきっと、あの時からずっと、わたしのことを守ろうとしてくれてたんでしょう」
お姉ちゃんはあたしの手を握った。その手の温もりに、あたしは胸が熱くなった。
「ありがとう、佑芽。それと、ごめんね。気づくのが遅くなって」
「あたしこそ、ごめん。ずっと、言えなくて」
春の風が二人の間を吹き抜けていく。花びらが二人の周りを舞っていた。
今なら言える。あたしのお姉ちゃんは、世界一じゃなくてもいい。
ただ、これからもずっと隣にいてくれたら。それだけで、あたしはもう十分だった。競い合うことも、時には負けることも、全部含めて、これがあたしたちの関係なんだと今なら心から思える。
「行こっか、お姉ちゃん」
「うん。行きましょう」
二人並んで、あたしたちは歩き出した。同じ景色を見て、同じ未来へ向かって。校門の向こうに広がる空はどこまでも晴れ渡っていた。
今度こそ、本当の意味で。
あたしたちはそれぞれの足で、それぞれの意志で同じ場所に立っている。もう、誰かのために自分を偽る必要はない。それぞれの夢をそれぞれのペースで追いかけながら、それでも隣にいられる。そんな関係を、あたしたちはようやく手に入れたのだと思う。
だから、もう悔やむことはない。だから、あの時こうすればなんて、考える必要もない。
そうして、もう後ろを振り返ることはなく、あたしたちは並んで歩き続けた。