月日が経ち、あたしたちの初星学園の卒業式まで、あと一ヶ月を切っていた。廊下の掲示板には卒業アルバムの写真提出締め切りの案内が貼られ、教室の空気にもどこか名残惜しいような、そわそわとした気配が漂い始めていた。進路調査の紙が各教室に配られる時期、そんな中お姉ちゃんに呼び出されたのはレッスンが全部終わった後の、誰もいない自習室でだった。
夕方の自習室は蛍光灯の光だけがやけに白く、窓の外はすでに藍色に沈みかけていた。机の上に置かれた進路希望調査票がその光の下で妙にくっきりと見えた。あたしが扉を開けると、お姉ちゃんはすでに席についてあたしを待っていた。
「佑芽、話があるの」
その声のトーンにあたしはすぐに何かを察した。いつもの、軽い調子の呼び出しとは違う。もっと、覚悟を決めたような響きがあった。あたしは椅子を引いてお姉ちゃんの向かいに座った。テーブルを挟んで向かい合う。お姉ちゃんの手元には進路希望調査票が置かれていた。そこに埋められた文字が蛍光灯の下でやけにはっきり見えた。
「わたし、卒業したらアイドルはやらないことにしたわ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。お姉ちゃんの言葉が頭の中で意味を結ぶまでに時間がかかった。耳では確かに聞こえているのに、脳がその情報を拒んでいるような感覚だった。
「え……」
「トレーナーになろうと思うの。新しいアイドルの育成の方に回ろうかなって」
あっさりとした口調だった。まるで、今日の献立でも決めたみたいに。あたしはその声色と内容のあまりの落差に、しばらく言葉を返せずにいた。窓の外で誰かの部活の掛け声がかすかに聞こえてきた。その日常的な音と、目の前で起きていることの非日常さが、不思議なくらい噛み合わなかった。
「な、なんで……。お姉ちゃん、まだやれるじゃん。この間のH.I.Fだって僅差だったし——」
「だから、よ」
お姉ちゃんはそう言って少しだけ笑った。いつものあの笑顔だった。でも、あたしはもう知っている。その下で何かが軋んでいることを。この笑顔を見るたびにあたしはあの初めてお姉ちゃんに勝ったH.I.Fの夜、自販機の前で見た背中を思い出さずにいられなかった。
「わたし、ずっと考えてたの。アイドルとしてやれることはもう十分やった。悔いはないわ」
「悔いがないって……」
嘘だ。そう思った。思ったのに、口に出せなかった。あたしの中にある確信は証拠のない確信でしかなくて、それを突きつける勇気があたしにはなかった。もし今、「本当は違うんでしょ」と問い詰めたら、お姉ちゃんはどんな顔をするんだろう。その想像をするだけで、あたしは胸が締め付けられるような思いがした。
「トレーナーになれば佑芽のことも近くで見ていられるでしょう? それに、次の世代を育てるのも悪くないと思うの」
お姉ちゃんはまるで自分に言い聞かせるように、一つ一つの言葉を丁寧に紡いでいった。その口調には迷いを見せまいとする意志のようなものが感じられた。
「……そう、なんだ」
それだけしか言えなかった。もっと何か、聞くべきことがあった気がする。でも、その時のあたしにはそれを口にする勇気も、言葉も見つからなかった。
「ちゃんと考えて、決めたの。だから、心配しないで」
お姉ちゃんはそう付け加えて、調査票を丁寧に折りたたんだ。その仕草があまりにも落ち着いていて、あたしはますます、何も言えなくなってしまった。
◇
その日から、あたしの中で何かがずっと引っかかっていた。放課後、廊下を歩くお姉ちゃんの後ろ姿を見るたびに、あの日、あの自習室で聞いた声が耳の奥で反響する。
『トレーナーになろうと思うの』
その一言に至るまでの過程をあたしは知らない。お姉ちゃんが一人で何度も何度も自分に言い聞かせて出した答えなのか。それとも、もっと前から心のどこかで決めていたことだったのか。
どちらにしても、あたしはそこに立ち会えていなかった。お姉ちゃんが一人で悩んで一人で答えを出す間、あたしは何をしていたんだろう。自分のレッスンに夢中になって、自分の未来のことばかり考えて。ずっとお姉ちゃんの隣にいたはずなのに、その心の中で何が起きているのか、まるで分かっていなかった。
ずっと一緒にアイドルをやると思っていた。同じステージに立って、同じ景色を見て、隣にいるのが当たり前だと思っていた。その未来が音もなく消えていくのを、あたしはただ見ていることしかできなかった。
夜、部屋のベッドに横たわりながら、あたしは何度もあの自習室でのやり取りを反芻していた。もっと違う言葉があったんじゃないか。もっと踏み込んで聞くべきだったんじゃないか。そう思うたびに、後悔だけが積み重なっていった。
◇
「佑芽、今日のレッスンはどうだった?」
翌る日の夕食の席でお姉ちゃんが聞いてくる。あたしはトップアイドルとしての道を当然のように歩み続けている。テーブルの向かいでお姉ちゃんが微笑む様子はいつもと変わらない。それが余計にあたしの胸を締め付けた。
「うん、順調だよ」
「そう、良かったわね」
お姉ちゃんは嬉しそうに笑った。心からあたしの成功を願ってくれているのが分かる。それが分かるからこそ、あたしは何も言えなかった。この人は自分のことよりもあたしの未来のことを喜んでくれている。それがどれだけ得難いことか分かっているのに、あたしはその優しさに何も返せずにいた。
この人はきっとこれからもずっとこうやって、あたしのことを喜んでくれる。あたしの後ろで、あたしの前を歩くのをやめて。
その夜、あたしは自分の部屋の窓から外の景色をぼんやりと眺めていた。星の少ない夜空だった。かつて二人で並んで、同じ星を見ながら将来の話をしたことを思い出す。あの頃、二人でアイドルとして活躍する未来を何度も語り合っていた。その未来の片方が今、静かに閉じられようとしている。
◇
卒業式の練習が始まった頃、あたしはお姉ちゃんの部屋に顔を出す回数が減っていることに気づいた。
理由は分かっている。会えば、聞かなきゃいけないことがある気がしたから。でも、聞いたところであたしに何ができるわけでもない。むしろ聞くことで何かが決定的に壊れてしまう気がして、あたしは足を向けられずにいた。
以前は毎日のようにお姉ちゃんの部屋に押しかけていた。他愛のない話をして、一緒にお菓子を食べて、時には並んで宿題をした。その時間がいつの間にか減っていることに、あたし自身も気づいていた。気づいていながら、それを止めることができなかった。
「最近、佑芽と全然話してないわね」
廊下ですれ違ったとき、お姉ちゃんがそう言った。責めるような色はなかった。ただ、少しだけ寂しそうな声だった。その声のトーンに、あたしの胸がぎゅっと締め付けられた。
「そ、そんなことないよ。ただ、レッスンが立て込んでて……」
「そう。忙しいなら、仕方ないわね」
あっさりと引き下がるお姉ちゃんの横顔を見ながら、あたしは自分の胸の中にある小さな棘に気づいていた。
この人はいつも、あたしのわがままを許してくれる。あたしが逃げても、待っていてくれる。それに甘えているのはいつだって——。
廊下を歩き去っていくお姉ちゃんの背中を見送りながら、あたしはその場に立ち尽くしていた。呼び止めたい。でも、呼び止めて何を言えばいいのか、あたしにはまだ分からなかった。トレーナーになるって、本当にそれでいいの? なんて、簡単に聞けることじゃなかった。お姉ちゃんが自分の意志で決めたことに、あたしが口を挟む資格があるのかどうかすら、あたしには分からなかった。
答えの出ない問いを抱えたまま、卒業までの日々は静かに過ぎていった。廊下ですれ違う回数も、言葉を交わす回数も、少しずつ減っていく。それでも、卒業式という日は確実に近づいてきていた。あたしはその日が来るのが、怖くて仕方なかった。
◇
ある日の放課後、あたしは偶然、お姉ちゃんが職員室でトレーナーと話しているのを見かけた。ガラス窓越しに真剣な表情で何かを説明するお姉ちゃんの姿があった。トレーナーは時折頷きながら、手元の書類に何かを書き込んでいる。あたしはその場を通り過ぎることができず、少し離れた廊下の角でしばらく立ち止まっていた。
やがてドアが開いて、お姉ちゃんが出てきた。あたしと目が合う。
「あら、佑芽。見てたの?」
「あ、うん……。トレーナーの相談?」
「そうよ。育成カリキュラムの話。結構本格的なのよ、これが」
お姉ちゃんはまるで新しい玩具の話をするみたいに、少し弾んだ声でそう言った。その明るさがあたしにはどうしても無理をしているようにしか見えなかった。
「大変そうだね」
「大変だけど、楽しいわよ。誰かの成長を、間近で見られるんだもの」
その言葉にあたしは何か引っかかるものを感じた。誰かの成長を見るという言葉の裏に、自分自身の成長を諦めるという意味が透けて見えるような気がして。でも、それを指摘する勇気はその時のあたしにはなかった。
「じゃあね、佑芽。レッスン頑張って」
お姉ちゃんはそう言って、あたしの頭を軽く撫でると足早に去っていった。あたしはその後ろ姿を、しばらく見送っていた。
◇
卒業アルバムの写真撮影があった日、あたしはたまたまお姉ちゃんと同じグループでの撮影になった。カメラマンの指示で肩を並べて笑顔を作る。フラッシュが焚かれるその一瞬、あたしはお姉ちゃんの横顔を盗み見た。
完璧な笑顔だった。プロが見ても何の違和感も覚えないだろう、完璧な角度と表情。でも、あたしにはその完璧さが逆に不安を煽った。
「佑芽さん、こっち向いてー!」
カメラマンの声にあたしは慌てて視線をレンズに戻した。何度もシャッターが切られる。その度にあたしは笑顔を保ちながら、心の中で違うことを考えていた。
この写真が何年後かに見返された時、あたしたちはどんな関係になっているんだろう。アイドルとトレーナー、立場は違えど隣に立っているんだろうか。それとも、全く別々の道を歩いているんだろうか。
撮影が終わって控室に戻る道すがら、お姉ちゃんがぽつりと呟いた。
「佑芽、いい笑顔だったわね」
「お姉ちゃんもだよ」
そう返しながら、あたしの胸には言葉にできない重さが積もっていくばかりだった。
◇
卒業式まで残り二週間となったある夜、あたしは眠れずに共用スペースに水を飲みに行った。すると、そこにお姉ちゃんが一人、テーブルに向かって何かのノートを広げていた。
「お姉ちゃん、まだ起きてたの?」
「あ、佑芽。うん、ちょっとね」
お姉ちゃんは慌てたようにノートを閉じた。その仕草を目にしてあたしは思わず立ち止まった。
「何、見てたの?」
「別に、大したものじゃないわ」
お姉ちゃんはそう言って曖昧に笑った。あたしはそれ以上聞くことができなかった。でも、その慌てた仕草があたしの頭からずっと離れなかった。もしかしたら、そこにはあたしの知らないお姉ちゃんの本音が書き込まれていたのかもしれない。
その可能性を思うだけで、あたしは自分の不甲斐なさに押しつぶされそうになった。聞けなかった。踏み込めなかった。あの日から、あのH.I.Fから、ずっとそうだった。