世界一じゃなくても   作:ayano27

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第三章 呪いの言葉

 卒業式を三日後に控えたその日、あたしは学園の中庭で声をかけられた。

 放課後の中庭は桜のつぼみが膨らみ始めていて、まだ肌寒い風が吹いていた。ベンチに座って一人ぼんやりしていたあたしの前に、誰かの影が差した。

 

「佑芽」

 

 振り返ると、そこには燐羽ちゃんが立っていた。あたしは思わず身構えてしまう。この人には苦い記憶がある。いつしかのオーディションで、あたしが真正面から負けた相手だった。あの時の悔しさは今でもはっきり覚えている。会場の空気、審査結果の発表、そして自分の名前が呼ばれなかった瞬間の、あの重い沈黙。もちろんそれから色々あった。レッスンに付き合ってくれたり、応援もしてくれた。でも、どこか初対面の時の苦手意識を引き摺っているのかもしれない。

 

「……燐羽ちゃん。何か用?」

 

 あたしの声は自分でも分かるくらい硬かった。燐羽ちゃんはそれを気にする様子もなく、少し離れたところに立ったまま静かに口を開いた。風が燐羽ちゃんの紫がかった髪をわずかに揺らしていた。

 

「咲季お姉ちゃんの話、少ししてもいい?」

 

 その呼び方にあたしは一瞬言葉を失った。お姉ちゃん。それはあたしだけが使っていいはずの呼び方だった。喉の奥から何か熱いものがせり上がってくるのを感じた。

 

「……まだお姉ちゃんのこと、そうやって呼ぶんだね」

「気になる? まあ、そうでしょうね」

 

 燐羽ちゃんは悪びれる様子もなく淡々とそう返した。その落ち着き払った態度が余計にあたしの神経を逆撫でした。

 

「私にも姉がいたから。似たものをあの人の中に見つけただけよ」

 

 その言い方には説明を求める余地を与えない硬さがあった。あたしは黙って続きを待つしかなかった。燐羽ちゃんの視線はあたしを通り越して、どこか遠くを見ているようだった。

 

「咲季お姉ちゃんね、私に言ったことがあるの。その昔、あなたにこう言われたことがあるって」

 

 燐羽ちゃんの声はいつも通り抑揚が薄かった。それが逆に、次の言葉の重さを際立たせた。

 

「『あたしのお姉ちゃんは、世界一すごいんだから』って」

 

 覚えている。その言葉を確かにあたしは口にしたことがある。何歳の頃だったかも定かじゃない。ただ、心からそう思っていた。お姉ちゃんはあたしにとって、世界で一番のお姉ちゃんだ。それ以外の言葉なんて、思いつかなかった。

 あの頃の記憶は断片的にしか残っていない。誰かにお姉ちゃんのことを馬鹿にされたのが悔しくて、それに反発するように叫んだあの言葉。あの声の感触だけは、なぜか鮮明に覚えている気がした。

 

「別に、あなたを責めるつもりで言ってるわけじゃないわ」

 

 あたしの顔色が変わったのを見て、燐羽ちゃんはそう付け足した。

 

「ただ、私には分かるの。誰かに『世界一』って言われることが、時々ひどく重いものになることが」

 

 燐羽ちゃんは少しだけ視線を落とした。その表情にはあたしに向けたものとは違う、もっと個人的な陰りが見えた。

 

「私の姉もそうだった。妹の期待に応え続けようとして、それに応え続けなきゃいけないと思い込んで。咲季お姉ちゃんも多分同じよ。負けたら、あなたを失望させると思い込んでる」

 

 その言葉の端々に、燐羽ちゃん自身が背負っている何かが滲んでいるのをあたしは感じ取った。この人にもあたしの知らない過去があるんだろう。でも、それを聞く余裕はその時のあたしにはなかった。

 

「『お姉ちゃんは世界一』ね……、まるで呪いの言葉よね」

 

 呪いの言葉。それを耳にした瞬間に胸の奥がきゅっと痛みを覚えた。

 そうか、あれが、あれのせいで……。あたしは自分の中で点と点が線で繋がったような、そんな感覚を得る。

 それでも、それをあたしはすぐに認めることができなくて。

 

「……燐羽ちゃんには、関係ないでしょ」

 

 自分でも驚くくらい刺のある声が出た。燐羽ちゃんはそれを咎めるでもなく、ただ静かにあたしを見た。その視線には怒りも呆れもなく、ただ静かな哀れみのようなものが浮かんでいた。

 

「そうかもね。でも、私はあの人にこれ以上壊れてほしくないと思ってる。それだけよ」

 

 その一言にはあたしへの敵意も、媚びもなかった。ただ、燐羽ちゃんなりの率直な感情だった。

 あたしはその言葉の重さに少したじろいだ。燐羽ちゃんがこんなにも真剣にお姉ちゃんのことを気にかけているなんて、思ってもみなかった。二人の間にあたしの知らない何かがあったのか。それがどんな類のものなのか、想像すると胸の奥がざわついた。

 

「佑芽が嫌いなわけじゃない。ただ、あの人があなたの言葉をどう抱えているか、あなたは知っておくべきだと思っただけ」

 

 燐羽ちゃんはそう言って、それ以上は何も付け足さなかった。そうしていると風が強くなって、木々の枝がざわざわと音を立てた。

 

「……じゃあね」

 

 それだけ言って燐羽ちゃんは去っていった。あたしはその背中をしばらく睨むように見ていた。悔しさと、それだけでは片付けられない何かが胸の中でぐちゃぐちゃに絡み合っていた。

 咲季お姉ちゃん。その呼び方が耳の奥にこびりついて離れなかった。あたしの知らないところで、お姉ちゃんは誰かにそう呼ばれるくらい心を許していたのだ。それが悔しいのか、寂しいのか、それとも別の何かなのか、自分でもよく分からなかった。いや、違う。あたしは分かっている。燐羽ちゃんが見抜いていたものを、あたしは気づくことすらできなかった。その事実が受け入れられないんだ。あたしのお姉ちゃんだなんて言っておいて、こんな体たらく。なんて、不甲斐なくて、情けない。

 燐羽ちゃんの後ろ姿が中庭の向こうに消えていくのをあたしはずっと見送っていた。その姿が見えなくなってからも、あたしはしばらくその場から動くことができなかった。頭の中では燐羽ちゃんの言葉が何度も繰り返されていた。

 呪いの言葉、という単語が。

 

 

 

 

 一人になった中庭で、あたしはベンチに座ったまま膝の上で握った拳を見つめる。指先が少し震えていた。

 きっとお姉ちゃんは、お姉ちゃんでいることに疲れたのだ。そう思った瞬間、視界が滲んだ。

 世界一という、あの言葉がいつからお姉ちゃんの中で重荷になっていたんだろう。子供の頃、無邪気に叫んだあの一言がこんなにも長い年月をかけて、お姉ちゃんを縛りつけていたなんて、考えたこともなかった。

 あれが呪いの言葉だったというのなら。あたしがあの言葉を口にしなければ、お姉ちゃんはこんなにも自分を追い込まずに済んだんじゃないか。世界一であろうとして、勝ち続けようとして、そうしてボロボロになっていくまで走り続けなくてよかったんじゃないか。

 脳裏にあの夜の光景が蘇る。自販機の前で、壁に手をついて肩を震わせていたお姉ちゃんの姿。あれもきっと、この言葉の重さと無関係じゃなかったんだ。

 あたしがお姉ちゃんを走らせた。あたしがお姉ちゃんを疲弊させた。あたしがお姉ちゃんをボロボロにした。

 あたしがあんなことを言わなければ。あたしが、あたしが。

 頭の中で、その言葉だけがぐるぐると回り続けていた。他に何も考えられなかった。周りの音が少しずつ遠くなっていくような感覚があった。

 気づけば中庭から立ち上がっていた。行き場のない足があたしを校門の外へと運んでいく。夕暮れの街をあたしは彷徨うように歩き続けた。目的地なんてなかった。ただ、じっとしていられなかった。

 通りすがりの人があたしのことを不思議そうに見ていた気がする。でも、そんなことすら気にならないくらいあたしの頭の中は一つの後悔でいっぱいだった。信号が赤になっても気づかず、誰かに肩をぶつけられても謝ることすらできなかった。

 どれくらい歩いただろう。気づけば住宅街の外れに、古い神社があることに気がついた。

 朱色の剥げた鳥居。手入れされていない参道。人の気配はまるでなかった。あたしは吸い寄せられるように、その境内へと足を踏み入れた。石畳の隙間から雑草が伸びている。誰にも顧みられなくなって随分経つのだろう。それでも、その場所にはどこか厳かな空気が漂っていた。

 賽銭箱の前に立つ。財布の中身も確かめなかった。

 神様がいるなら。もしも、願いを聞いてくれるなら。

 目を閉じると、まぶたの裏にあの日の記憶が浮かんできた。誰かに悪口を言われて、悔しくて、思わず叫んだあの日。お姉ちゃんが驚いたような顔をして、それから誇らしそうに笑ってくれたあの日。あの瞬間から、全てが始まってしまったのだとしたら。

 あの日に、あの時に、戻してほしい。あの時、あの言葉を、言う前に。

 目を閉じて、そう強く願った瞬間だった。

 足元から、世界が震えた。

 最初は地震かと思った。でも、揺れ方が違った。地面が揺れているというより、世界そのものの輪郭がぐにゃりと歪んでいくような感覚だった。視界が白く滲んで、音が遠くなっていく。あたしは咄嗟に賽銭箱の縁を掴んだ。でも、その手すら、次第に感覚を失っていった。

 最後に聞こえたのは風の音だったのか、それとも自分自身の鼓動だったのか、もう分からなかった。意識が深い水の底へ沈んでいくように、遠のいていった。

 意識が遠のいていく間、あたしの頭の中にはひどく断片的な記憶が次々と浮かんでは消えていった。

 小さい頃、お姉ちゃんと手を繋いで歩いた通学路。お姉ちゃんと初めて追いかけっこをして遊んだ日。二人で夜更かしして、他愛のない話をしながら眠りに落ちた夜。どれもが、あたしにとってかけがえのない記憶だった。

 その記憶の一つ一つがまるで走馬灯のように、あたしの意識の中を流れていく。もし、あの言葉を口にしなかったら、この記憶たちはどう変わってしまうんだろう。それとも、何も変わらないんだろうか。

 分からなかった。分からないまま、あたしの意識はどんどん深いところへと沈んでいった。

 誰かの声が、遠くで聞こえた気がした。それが誰の声だったのか、確かめる間もなく、あたしの意識は完全に途切れた。

 

 

 

 

 後になって思えばあの瞬間、あたしは確かに何かを選び取っていたのだと思う。過去に戻るという、あまりにも現実離れした願いをあたしは本気で望んでいた。それがどんな結果をもたらすのか、その時のあたしにはまるで想像がついていなかった。

 ただ、あの日の絶望と後悔だけがあたしを突き動かしていた。お姉ちゃんをあの重荷から解放したい。その一心だけがあたしの中にあった全てだった。

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