目を開けると、天井がいつもと違っていた。
見覚えのある木目。子供部屋にしては殺風景な、けれど確かに知っている天井。あたしは飛び起きた。手が、足が、小さい。パジャマの袖がやけにぶかぶかだった。心臓がドクドクと大きな音を立てている。夢を見ているのかと思って頬をつねってみた。痛みがはっきりとあった。
鏡台に駆け寄る。そこに映っていたのは五歳か六歳くらいの、幼いあたしだった。丸みを帯びた頬、まだ乳歯の残った口元、腰まで伸びていない短い髪。記憶の奥底にしまい込んでいたあの頃の自分の顔が鏡の中で瞬きをしていた。
「(本当に、戻ってきたんだ……)」
実感がじわじわと体の内側から染み渡ってくる。指先を握ったり開いたりしながら、あたしはしばらくその感覚を確かめていた。小さな手のひら。短い指。何もかもが記憶と寸分違わなかった。
実感が追いつく前に、部屋のドアが開いた。
「佑芽、起きてる? 朝ごはんできたよ」
その声にあたしは息を呑んだ。
幼いお姉ちゃんがそこに立っていた。
寝間着姿のまま、あくびを一つしながら、あたしの部屋のドアからこちらを覗き込んでいる。あの頃のお姉ちゃんの顔だった。まだ何も背負っていない、ただの子供の顔。あたしはその顔を見た瞬間、涙腺が緩みそうになるのを必死に堪えた。
「う、うん……今起きた」
声が思っていたよりも高くて幼くて、あたしは自分の声にすら戸惑った。
「早く来ないと、卵焼き冷めちゃうよ」
お姉ちゃんはそう言って、パタパタと足音を立てながら廊下の向こうへ駆けていった。あたしはその後ろ姿をしばらく見送っていた。
◇
お姉ちゃんを追いかけて行った先にあったものは、記憶にある通りの光景だった。実家のダイニング、朝の光、味噌汁の匂い。テーブルには両親の姿もあった。お父さんは新聞を広げ、お母さんはキッチンで洗い物をしている。何もかもが記憶の中の風景と寸分違わず重なっていた。
お姉ちゃんはまだ、あの疲れた笑顔を知らない。ただ無邪気にあたしの隣の椅子に座って、ご飯を頬張っていた。口の端にご飯粒をつけたまま機嫌よく足をぶらぶらさせている。あたしはその横顔をまじまじと見つめてしまった。
「佑芽、今日公園行く? 鬼ごっこしましょ!」
「う、うん……」
声が震えた。目の前のお姉ちゃんはあたしが知っている誰よりも屈託がなかった。負けることも、勝つことも、まだ何の意味も持っていなかった頃の顔だった。将来、アイドルになることも、あたしと同じステージで競い合うことも、このお姉ちゃんはまだ何一つ知らない。
あたしは知っている。この先、この笑顔がどう変わっていくかを。何度も何度も、あたしとの勝負に負けたくないと笑顔の下で必死に走り続けることを。夜、誰にも見られていないと思い込んで、一人で庭を走り続けるようになることを。自販機の前で、肩を震わせて立ち尽くすようになることを。
「(……変えたい)」
その一心であたしはここまで来た。テーブルの下で、あたしは自分の小さな手をぎゅっと握りしめた。
朝食が終わって、お母さんが「今日は公園に連れて行ってあげるからね」と声をかけてきた。あたしとお姉ちゃんは揃って「やったー!」と声を上げた。その声すら記憶にあるものと同じ響きで、あたしは目眩にも似た感覚を覚えた。
◇
午後、約束通り公園に行った。同じ年頃の子たちが数人、砂場のあたりに集まっていた。お姉ちゃんが少し離れたところでブランコに乗っている間、あたしはその輪の近くをうろついていた。
あたしの記憶が正しければこの後、あの決定的な瞬間が訪れるはずだった。何年も前の、もう随分と色褪せていたはずの記憶が今この場所で、鮮明な輪郭を持って迫ってくる。
そこで、誰かの声が聞こえた。
「咲季ちゃんってさ、この前の徒競走で転んでたよね。案外大したことないんじゃない?」
誰かが笑いながらそう言うのが聞こえた。悪気なんてたぶんなかったんだと思う。子供同士のただの軽口だ。声の主は砂場で山を作っていた、あたしと同じくらいの背丈の女の子だった。他の子たちも、それに合わせてくすくすと笑っている。
あたしは知っていた。ここであたしがどう答えるはずだったかを。
——あたしのお姉ちゃんは、世界一すごいんだからぁ!
あの日、あたしは胸を張って大声でそう言い返したはずだった。お姉ちゃんはそれを少し離れたところで聞いていて、驚いたような顔をして、それから誇らしそうに笑ったはずだった。あの瞬間の高揚感をあたしは今でも、体のどこかで覚えている気がした。
でも、その笑顔の裏側で何が始まってしまったのかをあたしはもう知っている。
喉元まで、その言葉が上がってきていた。何度も、何度も、あたしはそれを口にしたいという衝動と戦った。体の奥底から、その言葉が湧き上がってくるのを感じた。まるで、体に染み付いた条件反射のように。
言いたい。心から、今でもそう思っている。お姉ちゃんは世界一だと、今この瞬間も、あたしはそう思っている。悔しかった。悪口を言われたお姉ちゃんの代わりに、何か言い返してあげたかった。この子たちに、あたしのお姉ちゃんがどれだけすごいか、思い知らせてやりたかった。
拳を握りしめてあたしは一歩、砂場の子たちの方へ踏み出しかけた。喉から、言葉が飛び出しそうになる。
でも。
あたしはぐっとその言葉を飲み込んだ。歯を食いしばって、湧き上がる衝動を体の奥に押し戻す。何も言わずに、視線だけを砂場の子たちから逸らす。
すると胸の中で何かが軋むような音がした。それはあのH.I.Fの時、お姉ちゃんの中で聞こえたはずの音とよく似ている気がした。
「佑芽、こっちおいでー!」
ブランコの方からお姉ちゃんの呼ぶ声がした。あたしは黙ってその方へ駆け出した。走りながら、視界がぼやけているのに気づいた。
「佑芽、どうしたの? なんか変な顔してる」
「な、なんでもない!」
お姉ちゃんは不思議そうな顔をしながらも、それ以上は聞いてこなかった。ブランコの隣に立って、あたしはお姉ちゃんの押すブランコの揺れをただぼんやりと眺めていた。何も知らないまま。何も、変わらないまま。
あたしは空を見上げた。夕暮れが近づいて、雲の縁がじわりと滲んで見えた。公園の砂場の方からはまだ子供たちの笑い声が聞こえてくる。それがまるであたしとは違う世界の音のように、遠くに感じられた。
「佑芽、代わってあげる。乗る?」
お姉ちゃんがブランコから降りて、あたしにその席を譲ってくれた。あたしは黙って頷いてブランコに座った。お姉ちゃんが背中を押してくれる。ぎこちない力加減で、ブランコがゆっくりと揺れ始めた。
「もっと強く押していい?」
「う、うん」
お姉ちゃんの小さな手があたしの背中を押す。その感触に、あたしは今にも泣き出してしまいそうだった。
これでいいはずだった。この選択がお姉ちゃんを守るはずだった。
でも、胸の奥に残った小さな痛みの正体を、あたしはまだ知らずにいた。ブランコが空を切るたびに、あたしの視界はますます滲んでいった。夕焼けの色が涙の膜を通していつもより鮮やかに、そしてどこか歪んで見えた。
◇
その夜、家に帰ってお風呂に入る頃にはあたしは自分の中に生まれた違和感をなんとか押し込めることに成功していた。子供の体に成熟した心が引きずられるように、あの重苦しい感情もいつの間にか薄れていった。それが、あたしにとって唯一の救いだった。
湯船に浸かりながら、あたしはお姉ちゃんと並んで他愛のない話をしていた。
「佑芽、今日ブランコ楽しかったね」
「うん」
「明日は何して遊ぶ?」
「え〜っと……」
あたしが言葉を探していると、お姉ちゃんは待ちきれないように自分から続けた。
「かくれんぼしよ! 佑芽が鬼ね!」
「なんであたしが鬼なの!」
「だって、佑芽の方が隠れるの下手なんだもん、すぐ見つかっちゃうでしょ?」
お姉ちゃんはそう言って、得意げに笑った。あたしはその笑顔を見て、思わず頬が緩むのを感じた。この笑顔だけは記憶にあるものと変わらない。純粋で、屈託のない、あたしの大好きな笑顔だった。
「そんなこと言って! 負けないもんね!」
「望むところよ!」
そんなことを言い合いお湯をぱしゃぱしゃとかけ合いながら、あたしたちは子供らしい他愛のない喧嘩をした。お母さんに「静かにしなさーい!」と怒られるまで、その時間は続いた。
布団に入ってからもあたしはしばらく眠れずにいた。隣の部屋からお姉ちゃんの寝息が聞こえてくる。あたしはその音に耳を澄ませながら、今日一日の出来事を頭の中で何度も反芻していた。
あの言葉を飲み込んだこと。それが正しい選択だったのか、あたしにはまだ自信が持てなかった。ただ、これから何年もかけてこの選択の意味が明らかになっていくんだろうという、漠然とした予感だけがあった。
目を閉じると、まぶたの裏にあの日のお姉ちゃんの——記憶の中の、疲れ果てた、それでもなんとか笑おうとしていたお姉ちゃんの顔が浮かんだ。あんな顔は二度と見たくない。その一心であたしはこれから、この人生を歩んでいくことになる。
窓の外で虫の声が響いていた。あたしはその音を子守唄代わりに、ゆっくりと眠りに落ちていった。