それから、何かが少しずつ変わっていった。
最初に気づいたのはあたし自身の変化だった。かけっこであたしはわざと本気を出さなかった。お姉ちゃんに勝てるはずの場面で、少しだけ足を緩めた。ゴールテープを切る直前、あたしは自分の足に小さなブレーキをかけた。
「佑芽、今日はわたしの勝ちね!」
お姉ちゃんは屈託なくそう言って笑った。あの日、あたしを追い詰めていた声色とはまるで違う響きだった。息を弾ませながら両手を大きく上げてはしゃぐお姉ちゃんの姿を、あたしは少し離れたところから見ていた。
良かった。そう思う自分と、胸の奥に小さな違和感を覚える自分が同時にいた。その違和感の正体をその時のあたしはまだ、うまく言葉にできなかった。
◇
それからというもの、あたしは意識的に「できない子」を演じるようになった。転んで泣いてみせたり、鉄棒がうまくできないふりをしたり。お姉ちゃんはそのたびにあたしを助け起こしてくれた。
「もう、佑芽ったら、危なっかしいんだから」
そう言いながら、どこか嬉しそうにあたしの手を引いてくれる。膝についた砂を払ってくれる手つきはいつも優しかった。あたしは変に対抗意識を燃やしたりはせずに、その優しさに少しずつ甘えることを覚えていった。
小学校に上がる頃にはその傾向はさらに強まっていた。運動会のリレーではあたしはわざと転んでみせて、お姉ちゃんに心配してもらった。授業参観の日、逆上がりができないふりをすると、お姉ちゃんが休み時間にこっそり練習に付き合ってくれた。間違ってもお姉ちゃんと競り合おうとはしなかった。
「佑芽、こうやって足を蹴り上げる感じでね」
お姉ちゃんが手取り足取り教えてくれる時間があたしにとって何よりも心地よかった。本当はあたしはとっくに逆上がりなんてできるようになっていたのに。それを隠すことに、あたしは少しの罪悪感とそれを上回るほどの安心感を覚えていた。
あたしは知っていた。お姉ちゃんは誰かに頼られることに安心する人なんだと。世界一であろうとして何かと戦い続けるよりも、隣で誰かを支えることの方がこの人には似合っているのかもしれない。
少なくとも、あの日の記憶にあった、鏡の前で自分を追い込み続ける背中よりは。
◇
半年が経つ頃、あたしたちの関係は記憶にあったものとは明らかに違う形になっていた。
あたしは競い合うことをやめた。お姉ちゃんの後ろを控えめについていく妹になっていた。習い事もお姉ちゃんが選んだものに合わせるようになった。お姉ちゃんがピアノを習い始めれば、あたしも隣の教室でピアノを習う。お姉ちゃんが水泳教室に通い始めれば、あたしも同じプールに通う。でも、それはお姉ちゃんを追いかけるためではない。ただ、お姉ちゃんに着いて行くだけの行為だった。
お姉ちゃんはそのことに気づいていないようだった。むしろ、以前よりも柔らかい表情を見せることが増えていた。誰かと張り合う必要のない、ただ穏やかな日々。学校の成績も、以前のように一喜一憂することがなくなった。テストで少しくらい点数が悪くても、「まあいっか」と笑って流せるようになっていた。
「佑芽、こっちおいで。一緒に本読もう」
夜、お姉ちゃんの部屋に呼ばれる。あたしは迷わずその隣に座った。以前よりも二人でいる時間が増えていた。確実に距離が近くなっていた。
本の読み聞かせはいつも交代制だった。今日はお姉ちゃんが読む番。あたしはその声に耳を傾けながら、少しずつ瞼が重くなっていくのを感じていた。物語の中の登場人物たちが幸せな結末を迎える度に、お姉ちゃんは満足そうに頷いていた。
「ね、佑芽。この王子様みたいに、誰かを守れる人になりたいな、わたし」
ある夜、お姉ちゃんがふとそう呟いた。あたしはその言葉にドキリとした。
「お姉ちゃんは、もう十分守ってくれてるよ」
「そう? えへへ、ならよかった」
お姉ちゃんは嬉しそうに笑った。その笑顔を見ながら、あたしは自分の選択が間違っていないと改めて確信を深めていた。
これでいい。これで、お姉ちゃんは救われる。挫折しなくて済む。夢を諦めなくて済む。
そう自分に言い聞かせながら、あたしはお姉ちゃんの肩に頭を預けた。柔らかい体温と、優しい声。それは、記憶にあるどの瞬間よりも穏やかだった。
なのに。
あたしの中で何かが少しずつ、静かに削られていく感覚があった。それは目に見えるものじゃなくて、日々の小さな選択の積み重ねの中に、静かに沈殿していくものだった。
その正体に、まだあたしは気づいていなかった。
◇
小学校三年生になった頃、あたしのクラスで簡単なダンス発表会が開かれることになった。担任の先生が音楽の授業の一環として企画したものだった。
「佑芽さん、リズム感いいね。運動神経もいいし」
先生にそう褒められた時、あたしは思わず戸惑ってしまった。褒められることに慣れていなかった。いや、正確には褒められることを意図的に避けてきたんだと思う。
発表会の日、あたしは適当に振り付けを間違えて、みんなの後ろに隠れるように踊った。本当はもっとうまく踊れることを、自分自身が一番よく知っていたのに。
発表会が終わった後、迎えに来ていたお姉ちゃんがあたしに駆け寄ってきた。
「佑芽、上手だったわ!」
「そ、そうかな……。あたし、結構間違えちゃった」
「そんなの気にしなくていいの。楽しめたかどうかが、一番大事なんだから」
お姉ちゃんはあたしの頭を優しく撫でながら、そう言ってくれた。その言葉にあたしは少しだけ胸が痛んだ。楽しそうにしていたわけじゃなかった。ただ、目立たないように必死に自分を抑えていただけだった。
それでも、あたしはその痛みに気づかないふりを続けた。
◇
半年が経ち、一年が経ち、季節は何度も巡っていった。あたしたちの日常は穏やかに、そして少しずつ、あたしが望んだ形へと近づいていった。
お姉ちゃんはあたしを守ることに、次第に自信を持つようになっていった。学校で何か困ったことがあると、真っ先にあたしのところに駆けつけてくれる。友達とちょっとした喧嘩をした時も、お姉ちゃんが仲裁に入ってくれた。
「佑芽のことは、わたしが守るんだから!」
その言葉を、お姉ちゃんは誇らしげに口にするようになっていた。あたしはそのたびに安心と、それから小さな痛みを同時に感じていた。
この頃から、あたしは自分の中にある「したいこと」を意識的に見ないようにしていた。ダンスの授業で体が自然と動きたがるのを感じても、あたしはそれを抑え込んだ。歌を口ずさみたくなる瞬間があっても、あたしはその衝動を飲み込んだ。
全部、お姉ちゃんのためだった。少なくとも、あたしはそう自分に言い聞かせ続けていた。
でも、時々、夜眠る前にふと胸の奥がひどく空虚になる瞬間があった。何かを我慢しているという自覚すら、次第に薄れていくくらいあたしはその生活に馴染んでいった。それが、後になってどれほど大きな歪みになっていくのか、その頃のあたしにはまだ想像もつかなかった。
◇
小学四年生の夏休み、家族で海に行った日のことをあたしはよく覚えている。波打ち際であたしとお姉ちゃんは貝殻を拾って競い合っていた。
「わたしの方が、綺麗な貝殻見つけたわよ」
お姉ちゃんが得意げに小さな巻貝を見せてきた。あたしも同じくらい綺麗な貝殻を見つけていたけれど、それを見せることはしなかった。代わりにあたしはわざと不満そうな顔を作って見せた。
「えー、いいなあ。あたし全然見つからない……」
「じゃあ、一緒に探してあげる!」
お姉ちゃんは嬉しそうにそう言って、あたしの手を引いて波打ち際を歩き始めた。その手の温もりを感じながら、あたしは密かに自分のポケットの中に隠した貝殻のことを考えていた。
夕方、砂浜に座って両親が用意してくれたスイカを食べながらお姉ちゃんが言った。
「佑芽って、意外と不器用なところあるわよね。でも、そういうところが可愛いと思う」
その言葉にあたしは曖昧に笑うことしかできなかった。そんなことないよ、なんて言えるわけがない。ただ、あたしは自分の器用さをずっと隠し続けているだけなんだよ、だなんてことも言えるわけがなかった。
◇
小学校を卒業する頃には、あたしの「できない子」を演じる技術はほとんど無意識のレベルにまで染み付いていた。誰かに何かを聞かれても、まず「分からない」と答えることがあたしの反射のようになっていた。
中学に上がってからもその傾向は変わらなかった。体育の授業ではいつも中の下くらいの成績を保つように無意識に力加減を調整していた。目立たず、でも劣等生にもならない絶妙な位置。それが、あたしにとっての「安全地帯」になっていた。
お姉ちゃんは中学でも変わらず、あたしを一番に考えてくれていた。友達関係で悩んだ時も、進路のことで迷った時も、真っ先に相談に乗ってくれるのはお姉ちゃんだった。
「佑芽、困った時はいつでも頼ってね」
その言葉をお姉ちゃんは何度もあたしに向けてくれた。あたしはそのたびに感謝と、それから微かな息苦しさを同時に感じていた。
でも、その息苦しさの正体をあたしはまだ直視することができずにいた。目を逸らし続けることがあたしにとって、唯一の生き延び方だった。この生活がお姉ちゃんを守っているのだと、あたしは何度も何度も自分自身に言い聞かせ続けていた。
◇
得意なことを隠すようになった分、あたしは代わりに以前は苦手だったことに手を伸ばすようになっていた。それは、無意識のうちに始まったことだった。
昔のあたしは、本を読むのが苦手だった。字を追うことよりも体を動かすことの方がずっと好きで、国語の授業もいつも上の空だった。でも、中学に上がった頃から、あたしは図書室に通うようになっていた。少女漫画くらいしか読んでこなかったあたしが、気づけば、分厚い小説を借りて帰るようになっていた。最初はただの暇つぶしだったはずが、いつしか、活字を追うことそのものが心を落ち着かせる時間になっていった。
料理も同じだった。もともと、あたしは台所に立つことすら苦手だった。包丁を握る手つきもぎこちなくて、卵を割れば殻が入るし、火加減もいつも失敗ばかり。お姉ちゃんの方がよっぽど手際が良かった。
きっかけは些細なことだった。中学に上がった頃、お母さんが体調を崩して数日寝込んだことがあった。その間、家事を手伝おうと台所に立ったのが最初だった。それからあたしは少しずつ、キッチンに立つ時間を増やしていった。最初はレシピ本を見ながら簡単な炒め物を作るのがやっとだった。焦がしたり、味付けを間違えたりすることも何度もあった。それでも諦めずに繰り返すうちに、少しずつ様になっていった。
運動やダンスへの情熱を封印した分の何かを、あたしは無意識に別の場所で埋めようとしていたんだと思う。得意だったことを手放して、苦手だったことを少しずつ自分のものにしていく。それはあたしなりの、新しい自分の作り方だったのかもしれない。
誰に頼まれたわけでもないのに、あたしは気づけば料理も読書も、自分の生活の一部として当たり前のように取り入れるようになっていた。