中学の卒業式が終わった夜、あたしは進路調査票を前にしばらく動けずにいた。
自分の部屋の机に向かい、蛍光灯の光の下で白紙の調査票をじっと見つめる。ペン立てから鉛筆を一本取り出したものの、なかなか手が動かなかった。
初星学園。アイドル科と普通科。記憶にある人生では、迷わずアイドル科の欄に丸をつけていたはずだった。あの頃のあたしはお姉ちゃんと同じ舞台に立つことを疑いもなく望んでいた。
ペンを持つ手が少しだけ震えた。
あたしには分かっていた。アイドル科に入れば、いずれお姉ちゃんと同じ舞台に立つことになる。競い合うことになる。それはあたしが今、一番避けたいことだった。何年もかけて築いてきたこの穏やかな関係を、一瞬で壊してしまうかもしれない選択。
地元の高校に進学するという選択肢も頭をよぎらなかったわけじゃない。実家の近くにも悪くない進学校はいくつかあった。わざわざ実家から遠く離れた初星学園を選ばなくたって、普通の高校生活は送れたはずだった。
それでも、あたしの中で答えは最初から決まっていた。お姉ちゃんが行く場所にあたしも行きたい。ただそれだけだった。同じ学園の敷地内にいれば、たとえ違う校舎、違う学科でも、お姉ちゃんの近くにいられる。渡り廊下一本の距離にいられる。それだけで、あたしには十分な理由だった。
窓の外を見ると隣の部屋の灯りがついているのが目に入った。お姉ちゃんもまだ起きているのかもしれない。あたしはしばらくその灯りを眺めながら、自分の中にある葛藤と向き合っていた。
本当は、アイドル科に行きたい。心のどこかでそう叫んでいる自分がいることに、あたしは気づかないふりをし続けていた。
そうしてあたしは普通科の欄に丸をつけた。ペン先が紙に触れる瞬間、指先が震えたのをあたしははっきりと覚えている。学校名の欄には迷いなく「初星学園」と書き込んだ。そこだけは一切の迷いがなかった。
◇
その夜、リビングでお姉ちゃんに進路の話をした。テレビがついていて、天気予報が流れていた。お姉ちゃんはソファに座って、あたしが差し出した調査票のコピーをじっと見つめていた。
「佑芽、普通科にするの?」
お姉ちゃんは少し驚いたような顔をした。その表情には意外そうな色だけでなく、何か引っかかるものがあるような、複雑な陰りも見えた。
「うん。あたし、アイドルには向いてないかなって」
「そんなことないと思うけど……」
お姉ちゃんは何か言いたそうにあたしの顔を見つめていた。あたしはその視線から逃げるように、自然に笑ってみせた。
「あたし、お姉ちゃんが初星でアイドルやってるとこ、応援したい。そっちの方が、あたしらしいかなって」
「……そう」
お姉ちゃんはそれ以上は何も聞いてこなかった。ただ、少しだけ寂しそうな顔をしていた気がした。テレビの音だけがリビングに響いていた。あたしはその沈黙が少しだけ気まずかった。
「でも、応援してくれるのは嬉しいわ」
お姉ちゃんは少しして、そう言って笑った。その笑顔にあたしはほっと胸を撫で下ろした。同時に胸の奥で、小さな痛みが走るのを感じた。
またこれだ。そう思いながら。
◇
入学式の日、初星学園の門をくぐった。桜が満開で、新入生たちの華やいだ声が正門前に響いていた。お姉ちゃんはアイドル科の制服に身を包み、あたしはその隣で普通科の制服を着ていた。同じ校章、でも違うデザインの制服が二人の進む道の違いを静かに物語っているようだった。
「同じ学園に入れて良かったわね、佑芽」
お姉ちゃんはそう言って笑った。
あたしも笑い返した。嘘じゃない。本当に嬉しかった。同じ場所にお姉ちゃんといられることが。学科は違えど、またお姉ちゃんと一緒にこの学園に帰ってこられたことが。校門をくぐる瞬間、二人で顔を見合わせて笑い合ったあの瞬間は間違いなく、あたしの記憶に残る幸せな一場面だった。
入寮の手続きの際、あたしはお姉ちゃんと同じ部屋に入れるよう両親に頼み込んでいた。普通科とアイドル科で学科は分かれても、寮の部屋割りは家族単位での申請も認められているという制度を、あたしは事前にしっかり調べていた。二人暮らし用の少し広めの部屋でリビングとキッチンは共有、寝室だけが二つに分かれている造りだった。お姉ちゃんの部屋、あたしの部屋、それぞれの領域はちゃんとあるけれど、扉一枚隔てただけの距離。あたしにとってはそれがちょうどいい近さだった。
でも。
アイドル科の校舎に向かって歩いていくお姉ちゃんの後ろ姿を、あたしは少しだけ長く見送っていた。普通科の校舎とは渡り廊下一本で繋がっているだけの、隣り合った建物。距離としてはそう遠くない。それでも、あたしにはその渡り廊下が途方もなく長いもののように感じられた。
記憶の中のあたしなら、今頃あの制服を着てあの校舎に向かってお姉ちゃんと並んで歩いていたはずだった。同じレッスン室で同じ鏡を見ながら、同じ振り付けを練習していたはずだった。
その光景はもう二度と、あたしのものにはならない。それを実感させられた。
普通科の教室に足を踏み入れると、見知らぬクラスメイトたちがそれぞれに新しい生活への期待を滲ませていた。あたしはその輪の中に混ざりながら、心のどこかでまだアイドル科の方を気にしている自分に気づいていた。
◇
入学から数週間が経ち、あたしは少しずつ普通科での生活に慣れていった。授業はアイドル科とは違って、一般的な学業に重点が置かれている。数学、英語、歴史、物理、古典。どれもあたしにとって新鮮な学びだった。
クラスメイトたちとも、少しずつ打ち解けていった。中でも、隣の席になった女の子とはすぐに仲良くなった。彼女は読書が好きで、休み時間になるとよくあたしにおすすめの本を紹介してくれた。
「花海さんって、お姉さんがアイドル科なんだよね? すごいね」
「まあ、そうだね」
その手の話題が出るたびに、あたしは曖昧な返事でやり過ごすことにしていた。深入りされたくない話題だった。
放課後、あたしは普通科の教室からアイドル科の練習棟を眺めることが多くなった。教室の窓から渡り廊下越しに、練習棟のガラス壁が見える。ガラス越しに、レッスンをするお姉ちゃんの姿が時々見えた。
真剣な表情で振り付けを覚えていくお姉ちゃん。汗を拭いながら、トレーナーの指導に頷くお姉ちゃん。時折、鏡の前で自分の動きを確認しながら、満足そうに頷く姿もあった。
記憶にあるあの疲れた背中とは明らかに違っていた。競い合う相手がいない分、お姉ちゃんは伸び伸びと自分のペースで成長しているように見えた。クラスの子たちとも仲良さそうに笑い合っている姿がガラス越しに見えた。
良かった。心からそう思う。あの疲れ果てた笑顔をあたしはもう見なくて済んでいる。それだけで、あたしの選択は間違っていなかったはずだった。
それなのに、ガラスに映る自分の顔が時々ひどく虚ろに見えることに、あたしは気づかないふりをしていた。
◇
ある日の放課後、たまたま渡り廊下でお姉ちゃんとすれ違った。レッスンを終えたばかりなのか、まだ少し息が上がっていた。
「佑芽、今帰り?」
「うん。お姉ちゃんは?」
「わたしも今から。一緒に帰ろっか」
二人並んで寮までの道を歩いた。お姉ちゃんは今日のレッスンで新しく習った振り付けのことを楽しそうに話していた。
「今日、すっごい難しいターンがあってね。何回も転びそうになったんだけど、最後にはちゃんとできるようになったの」
その話しぶりにあたしは思わず耳を傾けた。お姉ちゃんが困難に立ち向かい、それを乗り越える喜びをこんなにも屈託なく語っている。それは、記憶の中のあの必死な姿とはまるで違う輝きを持っていた。
「すごいね、お姉ちゃん」
「えへへ、佑芽にも見てほしいなあ、今度」
その言葉に、あたしの胸が小さく締め付けられた。見たい。心からそう思う。いや、それだけじゃない。同じ舞台で、同じ動きを一緒にやってみたい。その願望があたしの中で日に日に強くなっていくのを、あたしは感じていた。
でも、それを口にすることはまだできなかった。この穏やかな日々を壊す勇気があたしにはなかったから。
◇
文化祭が近づいたある日、あたしのクラスでも出し物の相談が始まった。カフェをやろうという意見が大半を占める中、誰かが「せっかくだから何か発表もしたいよね」と言い出した。
「花海さん、何か特技とかないの?」
クラス委員の男子生徒に聞かれて、あたしは咄嗟に首を横に振った。
「特にないかな」
「そっか。じゃあ、普通にカフェでいいか」
その会話を横で聞いていた隣の席の女の子が、少しだけ不思議そうな顔をしていた。
「花海さんって、意外と目立つの嫌がるよね。お姉さんはあんなに目立つ場所にいるのに」
「そう、かな……」
あたしは曖昧に笑って、それ以上の会話を避けた。姉と比較されることにあたしはずっと敏感になっていた。
◇
夜、寮の自習室で勉強をしているとふと窓の外に目をやった。アイドル科の練習棟にまだ灯りがついていた。時計を見ると、もう夜の九時を回っている。
あたしは気になってそっと窓に近づいた。ガラス越しに見えたのは、一人で自主練習をしているお姉ちゃんの姿だった。誰に強制されたわけでもなく、自分の意志で遅くまで練習を続けている。
その姿を見て、あたしの胸に複雑な感情が湧き上がった。あの頃のように、追い詰められて練習しているわけじゃない。純粋に、上手くなりたいという気持ちで体を動かしている。その違いははっきりと分かった。
でも同時に、あたしの中で羨望に似た感情が静かに芽生え始めていた。あんな風に、何かに夢中になれる時間があたしにもあったはずなのに。そう思う自分に、あたしは少しだけ戸惑っていた。
自習室に戻って、あたしは教科書に視線を落とした。でも、文字が頭に入ってこなかった。窓の外のガラス越しに見た光景が何度も脳裏に蘇ってくる。
その夜、あたしは久しぶりに自分の部屋で一人、こっそりとステップを踏んでみた。誰もいないことを確認してから、記憶に染み付いた振り付けを体が覚えている通りになぞってみる。
体は覚えていた。何年も遠ざけていたはずなのに、体は驚くほど自然に動いた。その事実にあたしは自分でも驚いていた。
でも、その動きを誰かに見せることはまだできなかった。あたしは静かに、その衝動を胸の奥にしまい込んだ。